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映画: レイティング & レビュー

2024年4月

2024年2月

2022年2月

 

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戦 争

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい

★★かなりオススメ

沖縄戦を扱った最初期の映画で、同じ年の『沖縄健児隊』に続くものだ。スタッフやキャストに沖縄出身者がいないとか、考証不足は見られるが、当時の沖縄は米軍統治下にあったからやむをえないだろう。本土復帰後、証言が集められ、沖縄戦の実態が研究されたことにより、今井正は1982年、同じ水木洋子の脚本でリメイクした。より史実に近くはなったが、本作はモノクロ映像ならではの緊張感に満ちている。「ひめゆり」は沖縄戦を語るのに欠かせないテーマとなり、この後も幾度となく映画化されていくのだが、そのきっかけとなった重要な作品だと思う。

★ 参考に見てほしい

本土の日本舞踊「さくらさくら」に沖縄舞踊。なんともノホホンとした始まり方である。戦争を科学的にとらえることができない日本軍もだが、この映画自体もツッコミどころ満載だ。戦闘シーンはあっても緊張感が足りないし、どちらかといえば能天気なストーリー展開が続く。「大勢の兵隊さんたちと一緒に、死んでお国を守りましょう」というエンディング・シーンはいったいなんだ。「祖国防衛」という言葉が何度も使われるが、その祖国に沖縄は含まれていない。最後に語られる「牛島将軍の率いる精兵及び沖縄島民の愛国精神は全世界戦史上に燦として輝き」のナレーションを聴くと、胸くそが悪くなる。1962年という時代の限界だとしても、今井正の『ひめゆりの塔』から9年も経って作られた作品とは思えない出来だ。学ぶことの多い駄作というべきか。

★★★ 絶対オススメ

「国家に尽くした日本国民は 加害者であって 被害者であったのです」で始まるドラマ。さんざんな目に遭った開拓団や義勇軍には厳しい言葉だ。だが、父祖伝来の土地を奪われた現地の人にとっては、その通りでしかない。後半で語られる「騙す者と騙される者が揃わなかったら戦争は起きなかった」の台詞。騙す者が悪いのは当然として、騙された者にも騙された責任というものがある。いや、国家の嘘に嬉々として、進んで便乗した者もいたはずだ。歴史を学ぶのは、そうしたことを繰りかえさないためであるのに、年号と出来事、地名や人名を暗記することに終始する今の教育を思うと、暗い気持ちになる。

★★ かなりオススメ

1937年11月から12月頃、南京に在住していた宣教師や企業人など欧米人十数人が組織し運営した南京安全区国際委員会の長に就いたドイツ・ジーメンス社南京支社長、ジョン・ラーベの奮闘を描く。 安全区には20万人といわれる住民が逃げ込み、命を救われた。 ラーベは第一に自社工場で働く工員を見殺しにできなかったのだ。彼はナチス党員であり、 この頃にはヒトラーの人道的措置に望みを抱き、手紙を書きもした。

この種の物語や映像作品にはあちらこちらからの批判が常に集まる。「良きドイツ人」はナショナリズムを喚起するといわれたりする。けれども、この映画には「優しさ」が漂い、鑑賞の後味は良い。ただし、残虐行為はおりおりにあり、見たくない人もいるかもしれない。

この映画は南京虐殺のイメージをわたしたちに与える。日本で上映されたのは制作年2009年の5年後であった。

個人的な話だけど、発電装置や電話交換機を商売として1800年代末よりアジア進出を図ってきたジーメンス社の話は見聞きしていたため、興味深く見た。

★★ かなりオススメ

音楽家になりたかった者、画家になりたかった者、スポーツ選手になりたかった者、ひとりひとりが未来に夢を持っていたはず。それを奪ったのは何なのか。戦争?いや、違うだろう。戦争を起こした者、戦争を望んだ者がいたからだ。「愛する者を守るため…」などと言うのは、そうした責任を曖昧にするだけの戯れ言に過ぎない。「生きたかったよ。死にたくはなかったよ」。元特攻隊員がリサ・モリモトのドキュメンタリー『TOKKO -特攻-』の中で証言する。しばらく足を運んでいない信州の無言館を訪ねてみたくなった。

評価(外)

レイティングでなく、映画にまつわる話し。1958年、幾つかの部門でアカデミー賞を獲得した「戦場にかける橋」であるが、制作時、プロデューサーのサム・シュピーゲルが英陸軍省 (当時)に制作許可を得るために手紙を書いたという、その手紙を英国ナショナル・アーカイブが公開しているという記事(2020.8.11)を目にした。

英陸軍省は映画のプロットに難色を示し、Far East Prisoners of War(極東戦争捕虜の会)のメンバーは「ニコルソン大佐のように行動した英国将校がいたとは思えない。英国人は映画に好感を抱かないだろう。」と怒りを表明したと。

結局、許可はしぶしぶ出され、陸軍省は映画の始めとと終わりに詳細な「但し書き」を入れるように要望し、シュピーゲル側は拒否したものの、ロンドン上映版だけには簡単な但し書きを入れたとか。

★★★ 絶対オススメ

わたしには背負えない。あまりにも重い。永瀬隆は2011年に亡くなった、エリック・ローマクスも2012年に亡くなった。戦争を生き延びた人の多くがすでにいない。数多のわたしすら、いなくなったあとにはだれがいるのだろう。

「戦争の悲劇があったのではない。戦争犯罪があった。」ローマクスは言う。

戦争犯罪はここカンチャナブリだけじゃなくてそこここの話。みんなに見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

日本の泰緬鉄道建設で多くの連合国軍捕虜とアジア人労務者の命が失われた。それに対して、戦後日本は何もしてこなかった。インパール作戦の失敗で、ビルマからタイへと続く密林は日本兵の白骨街道と化したが、その遺骨収集すらやらない国だから、さもありなん。戦争中の1944年、豪州カウラ捕虜収容所の日本兵1100人が暴動を起こし、234人が命を落とした。彼らは現地で手厚く葬られ、毎年、慰霊祭がおこなわれているというのに。戦争が終わり、1946年、敗れて帰国する12万もの日本兵に対し、タイ政府は飯盒一杯の米と中蓋一杯のザラメ砂糖を支給、何年にもわたって自国を占領同然にしてきた日本軍に対してである。この違いは何なのだ!「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓が死を美化し、それが捕虜虐待につながったのだろうか。負けたことから来る被害者意識が、謝罪も補償も拒んできた理由なのだろうか。

絶対に忘れない、絶対に許さないという、生き残った元捕虜たち。補償と謝罪を求める彼らは、日本政府は「遺憾」という言葉を使うだけで、一度たりとも謝罪したことがなく、私たちがこの世を去るのを待っているだけだという。彼らには「水に流す」という思想はないし、そもそも加害者側が水に流してどうなる。被害者側が納得するか、考えずともわかることだ。慰安婦や徴用工の問題にも同じことがいえよう。被害者がすべてこの世からいなくなれば終わりになるわけではない。「ついに日本は最後まで謝罪と補償をしなかった」という歴史的事実が残され、未来永劫、負の遺産を背負っていくことになるのだ。日の丸振って浮かれている場合じゃない。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★絶対オススメ

くやしい、くやしい、くやしい。
「日本政府は戦後何もしなかった」、「ただ放っておいた。」永瀬隆のことば。「わたしたちのような人間はもうすぐいなくなる。誰も何も言わなくなる。時間は日本政府にとって都合が良い。」イギリス人元捕虜のことば。日本軍上層部がしたことはここカンチャナブリだけの話じゃない。連合国捕虜、日本軍兵士、広大なアジアから太平洋の島々まで、民間人、開拓移民のいのちを奪った。

元日本兵の個人による謝罪の行為はもしかしたら、間違っているのかもしれないと思ってきた。本人の気が済むだけなんじゃないかと。許されることではないから。言いたいのは、謝罪が「間違っている」ということではなく、慰霊と謝罪をすることによって政府の肩代わりをしてしまったという状況を作り出したことが間違っていたのではないかと。

一方、このドキュメンタリーフィルムでは元捕虜たちは永瀬隆と出会ったことで、自分も癒された部分があるという。そうなのかもしれない。 けれども、もう一度いう、けれども・・・日本政府がこの75年間素知らぬ顔をしてきたことは看過できない。そんな政府を今も続けさせている。くやしい。

★★ かなりオススメ

1942年4月18日のドーリットル空襲を題材にした戦争ヒーロー映画の一つである。7番機を指揮したテッド・ローソン中尉と報道記者の手記を元に、脚本が鬼才ダルトン・トランボというのだから、見る前からワクワク。戦勝国だからなのだけど、映画が作られた1957年にはB25爆撃機も空母も撮影に事欠かないくらい残っていたのだなぁ。なんでまた、こんな基礎体力が違いすぎる国と戦争してしまったのだろう…。

それよりも印象的なのは、作戦の口外は厳禁だが、作戦への参加は志願だったこと。疑問がある者、妻子や心配事がある者は辞退して良い。目標は軍事施設だが、働いている一般市民を殺すことも避けられない。道徳的観念で自分を責めるようなら行くな。こんな台詞、旧日本軍ならありっこないな。現在の自衛隊はどうだろうか。もう一点は、基地に妻や婚約者、恋人が訪ねてくるシーン。戦争のさなかに精神が甘っちょろいとか浮ついていると受けとる人は、きっと“あの時代”と同じメンタリティの持ち主だ。そんな甘っちょろい国に、神の国の大和魂や武士道精神はコテンパンにやられてしまった。

東京、横浜、横須賀、名古屋、大坂、神戸に向かうことになっていた16機は、艦隊が日本の哨戒艦に発見されたことにより、予定外の地点で発進せざるを得なくなった。ほとんどの機が中国本土の基地までたどり着けず、不時着や機を放棄しての空中脱出。ドーリットル空襲は、日本国民に衝撃を与え、米国民の士気を高めるという戦略的成功はあったが、戦術的には失敗だったと言えるだろう。さらに、中国で捕虜になった搭乗員が、上海市で開廷された軍事裁判において、都市の無差別爆撃と非戦闘員に対する機銃掃射を戦時国際法に違反するとして、死刑が言い渡されるという、何とも後味の悪い、禍根を残すものとなった。この裁判を描いたのが、映画『パープル・ハート』である。そちらも、ぜひ。

★★ かなりオススメ

都市爆撃は非戦闘員の虐殺なのか、戦争犯罪に該当するのか。歪んだ形の裁判ではあるが、そのことへの問いかけである。ゲルニカ、ロンドン空襲、ドレスデン空襲、東京大空襲、そして広島・長崎への原爆投下。枢軸国側も連合国側もおこなった。ファシストたちだけの蛮行ではなかったのである。しかし、都市爆撃の先鞭をつけたのは日本であった。南京・重慶への渡洋爆撃。第二次大戦後も、ベトナム戦争の北爆、近年のアフガニスタンやイラクへの空爆、シリアやコソボ…。一般市民にとって、空からの恐怖はとどまることを知らない。

本作を見る日本人は、日本人役の稚拙な日本語、いかにも外国人(中国訛り)の日本語ゆえに、現実感が乏しく感じるだろう。そこが残念なところだが、この映画が作られた年代を考えれば、致し方ないことだと思う。今であれば、日本人俳優を使うこともできるであろうし、より精密な時代考証、歴史考証により、リアリティさを増した、より人の心に訴求する作品に仕上げることも可能に違いない。誰かリメイクしないだろうか。

パープル・ハートとは、元々はアメリカ独立戦争で、ジョージ・ワシントン将軍(後の初代大統領)が目覚ましい活躍をした軍人に与えた勲章なのだが、第二次大戦中に米軍の戦傷者に授与するようになった勲功章である。別のドキュメンタリーで、イラク戦争で脚をなくした帰還兵が言っていた。「こんなモノ、欲しくなかった」と。しょせん、勲章などは馬を走らせるニンジンにすぎない。
関連映画 『東京上空三十秒』

★★★ 絶対オススメ

ある資料に目を通していたら、戦争末期にフィリピンで戦死している者が多いことに気づいた。米英を敵に回した太平洋戦争に突入したのが1941年12月8日。緒戦は日本軍の快進撃…ということになっているが、それはいつ頃までだったのか。ミッドウェー海戦で日本は主力空母4隻を失い、戦局が一転したことは多くの人が知ることだろう。42年6月6日のことである。つまり、日本軍が優勢だったのは、わずか半年だけ。ガダルカナルの消耗戦から撤退し、レイテ沖海戦で、航空援護のない日本海軍は壊滅。丸裸の軍隊は海と空からの攻撃に晒された。そんなフィリピンに兵力を漸次投入するなど、愚策以外の何ものでもあるまい。沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わったのが6月23日。それ以降、なおも戦い続ける意味は何なのか。なにか目的があっての戦闘行為ではなく、もはや戦闘それ自体が自己目的と化していた。「戦陣訓」はその象徴である。あの馬鹿げた戦争を正面から問いかける、原作者の大岡昇平、脚本を書いた和田夏十、そして市川崑監督に拍手!

★★★ 絶対オススメ

子どものときに見た。小学校で上映されたのかもしれない。子ども時代のわたしに反戦の意を刻印したいくつかのもののひとつ。60年は過ぎていないけれど、この長い年月を経た今なお、あの水島上等兵の表情が目に浮かぶ。この映画を作ってくれた人たち、見る機会を与えてくれた人たちに感謝。

★★★ 絶対オススメ

1956年版の「みました!」があるので、1985年版を。29年の歳月をはさんでリメイクされた作品だが、ストーリーも展開もほとんど変わらない。竹山道雄の原作を元にしているのはもちろん、和田夏十の脚本は変わらず、そして同じく市川崑がメガホンを握っているのだから。前作の三国連太郎(井上隊長)と安井昌二(水島上等兵)が、本作では石坂浩二と中井貴一のコンビになった。どちらも良い演技、良い表現だったと思う。物売りの婆さんは北林谷栄。両方の作品に同じ役で出演していることに驚かされてしまうのは私だけ?

英軍に包囲された場面で歌う「埴生の宿」などは、戦争でなければ人は互いに理解し合える、感じあえる、そんな人間を戦争が引き裂くことを教えてくれる。カラー作品を見慣れた世代なら本作だろうが、三國連太郎ファンなら前作も捨てがたい。戦争の空虚さをしみじみ伝える名画。いちどは見ておきたい作品だと思う。

★★ かなりオススメ

こんな人がいたんだ!驚き。心の奥の悲しみを破天荒な実行力で乗り越えて行く。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★かなりオススメ

教え子を戦場に送った教師、事実を隠蔽・歪曲し虚偽を報道した記者、そういう人は戦争中、たくさんいた。ある者は愛国心に駆られ、大真面目に、またある者は保身のために。戦後、様々な思いで生きた人たち。この映画の主人公のように、贖罪の意識を行動で示さんとした人がいる。皆が悔やんだわけではないようだ。ひたすら沈黙を貫いた者、知らんぷりの人、いろいろである。五族協和・王道楽土の建設と言って満州移民を推進し、鬼畜米英を叫んで特攻隊を送り出しておきながら、戦後、帰還者らを見捨て、自分はアメリカ礼讃者に早変わりして首相にまでなった人物さえいる。そんなお祖父ちゃんを尊敬してやまない人間が首相であることは別にして…。

★ 参考に見てほしい

特攻モノとしては凡作だが、それでも何か得られるものがあるかもしれない。とりあえずは見てから考えてみよう。

★ 参考に見てほしい

2005年の映画。同じ年、ドイツで作られたのが『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』だ。このギャップは何だろう。「私は7,000人の命を預かっている。ただの一人の兵も無駄に死なせるわけにはいかん」「母親と妹は守ってやりたい、なんとしても」。ツッコミを入れたくなる台詞のオンパレードだ。無駄でない死とは何だ?母親と妹の命を奪う戦争をしたがる者をどうにかしなければダメだろう。当時は今と違う…。本当にそうか?ウォルフガング・ペーターゼンの『U・ボート』は1981年に作られている。この映画が、2005年にもなってこの程度の内容にとどまっていることを問い直さなければならないと思う。

★ 参考に見てほしい

愚作ではあるが、どこが、どのように駄目なのかを確認することは勉強になるから、それなりに意味があるというものだ。

★ 参考に見てほしい

原作は過去の歴戦のパイロットによる空戦記録の焼き直し(パクリとまでは言わないでおこう)だが、活字を読むのが面倒な人はこの映画ですましてしまえば良い。カットされた場面が多いが、それを惜しむのは戦争マニアかミリオタくらいだから、まあ良しとしよう。ただし、映画としても駄作の域を出ない。

★ 参考に見てほしい

まだほんの少年だったのに。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★かなりオススメ

なぜ人々は満洲に渡ったのか。誰がどうやって少年たちを青少年義勇隊に仕立てあげたのか。開拓団と現地の人の関係はどんなだったのか。悲惨な逃避行だけでなく、満蒙開拓をミクロとマクロの両面から描いた、わかりやすい作品になっている。

★ 参考に見てほしい

この映画の主題は何だろう。主人公清太の行動もよくわからない。戦争中の世相を垣間見ることはできるが。「せつこのドロップ」という印象だけが残る。

★★かなりオススメ

貧すれば鈍する。戦争の悲惨さもだが、敗戦前後の欠乏期に、持てる者と持たざる者の格差が広がっていく様子、人の心がギスギスしていく状況がわかる。今の日本社会を思うと、たとえ戦争をしていなくても、似たようなことが起こりうるということだ。戦争は平和を壊す大きな要因だが、戦争がなければ平和であるとは言えないことがわかる。

★★ かなりオススメ

戦争の悲しみを伝えるアニメとして、良くできた作品だと思う。本当の戦争はもっと悲惨だ、描写にリアルさが足りないという声もあるだろう。けれども、どんなに手を尽くそうと、視聴者が実際に体験した者と同じレベルには至ることは不可能なことだ。私はそう思っている。そのギャップを埋めるのが想像力だろう。願わくは、このアニメを見た人に想像力が残されていることを。

ひとつの映画やアニメを見ただけで、一冊の本を読んだだけで理解しようなんて、どだい無理な話である。何かをきっかけに、関連した情報を自分で探し、その真偽を確かめ、思考し、頭と心の中で醸成させる。そうした手間のかかる作業を経たものしか、自分の内部に残らないものだ。それこそが教養というものなのだろう。

本作は、VHSビデオ版は発売されたのだが、どうやらDVD化はされていないようである。ぜひDVD化して、多くの人に視聴の機会を与えてほしいものだ。もっとも、特高警察あがりが内閣官房副長官のポストに収まるようなご時世では、難しいかもしれないが、それを乗り越える勇気を持たなければ、また「いつか来た道」を歩むことになる。この作品の趣旨を考えてほしい。

★★★ 絶対オススメ

慰安婦問題が良くわかる映画。何も知らずに、あーだ、こーだ言うのはやめよう。筋道立てて、論理的に。それが大人というものである。感情的に「だってー」、それはオコチャマだ。議員サンにこの手が多いのは、チト困ったこと。小泉チルドレンに小沢ガールズ。安倍ベイビーズが出てきやしないかヒヤヒヤしている。低年齢化は芸能人だけにしてくれー。

閑話休題。この映画を見れば、櫻井よしこやケント・ギルバートの主張がバッチリわかる。当人らが本の内容どおりに話しているのだから当然だろう。忙しくて、彼ら・彼女らの著作を読む時間がない人にとってはありがたいはずだ。みんなが私みたいなヒマ人であるはずがないから。ヒマをもてあましている私でさえ、読了後に無駄な時間を使ってしまったと後悔したくらいである。この映画、もっと早く作ってくれていたならと、ちょっぴり恨めしく思ったり…。で、この論争の面白いところは、問題のアプローチが正反対という点だ。一方は、まず事実を積み上げる。結果がどうなるかはわからない。積み上げた事実から結論を導き出すというスタイルである。対するもう一方は、先に結論を設定する。そして、それにつながる事実だけ取捨選択しながらストーリーを構成する。意図的な冤罪事件にも通じる手法。前者は学者のやり方。後者は…、うーん何と言ったら良いか思いつかないけど、とにかく百聞は一見にしかず。一日も早くストリーミング配信するなり、DVD販売するなりしてほしいものです。

★★★ 絶対オススメ

戦後15年のドイツ、ナチスに加担した政治家が政権中枢にいて保身を図る。首相から国民までもがナチスは過ぎ去った過去として、ごまかし葬りたがっていた。日本と同じ。彼我の区別なし。

★★ かなりオススメ

「朗読者」を映画化したもの。タイタニックのケイト・ウィンスレットが堂々登場。若者が年上(かなり)の女に恋をし、本の朗読を毎回せがまれる。

後に法廷でナチス裁判の被告として彼女を見つけ… 若者は大人になってからはイングリッシュ・ペイシェントで見事だったレイフ・ファインズが演じる。

裁判長に「あなたならどうしますか」と問う彼女。
自らのコンプレックスの大きさは罪を一人でかぶるほどのものなのか、以前 本を読んだときは、どうしてこれが世界的なベストセラーなのかよくわからなかったが、わかってきたのが嬉しい。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★かなりオススメ

法廷に座るハンナのために声を上げることを、なぜマイケルはしなかったのか。秘密を暴露しないことが彼女への愛だったのか。それとも保身ゆえか。自分だったらどうしただろうか。なにが最善だったのか。見終わった後、いつまでも自分に問い続けることになる。

★★★ 絶対オススメ

イタリア移民、67歳のファブリツィオ・コリーニがドイツのとあるホテルの最上階の部屋で実業家ハンス・マイヤーの頭にワルサーP38を突きつけ、3発を撃ち込んだ。コリーニはなぜ彼を殺したのか。

弁護士になってまだ2カ月でしかない新米弁護士のカスパー・ライネンはコリーニの国選弁護人となるが、コリーニは黙して語らない。ライネンはほどなく、被害者はライネンが少年時代から第二の父とも仰ぎ、尊敬してきた人だと知る。だが、新米弁護士が国選弁護人を断るわけにはいかない。ライネンは医者が患者を断れないのと同じともいう。弁護の材料のない八方ふさがりの中、法廷は開かれ、ライネンは圧倒的に形勢不利だった。

ワルサーP38は現在ではほとんど見られなくなった拳銃だ。38という数字は1938年に完成し、ナチ政権下のドイツ国防軍が正式採用したことに由来している。ここからライネンに疑念が湧いてくる。コリーニの過去に何か被害者との接点があるはず。調査には時間が必要だが、休廷の日数は短い。チームを組んで調査を始める。ドイツ南部の町、ルートヴィクスブルクにあるナチスの犯罪文書館の膨大な資料にあたる。コリーニの故郷、イタリアの小さな町に赴いてコリーニの過去を知る人を尋ね歩く。映画は、場面転換が非常に速く、見て分かるような事柄に説明の時間を割くようなことはしない。それが物語の緊張感を盛り立てている。

ドイツにて2019年に公開されたこの映画は、ナチス時代にヒットラーユーゲントの指導者だったバルドゥール・フォン・シーラッハの孫であり、自身、弁護士であったフェルディナント・フォン・シーラッハが2011年に著した法廷サスペンス小説が元になっている。

ナチス時代に検事総長代理の職にあったエデュアルト・ドレーアーは戦後まもなく復職し、戦後の法曹界に絶大なる影響を及ぼした。ドレーアーは「秩序違反法施行法」EGOWiGを議会にて通し、この法律は1968年10月1日に効力を持った。謀殺による犯罪者か、故殺による犯罪者かで、その時点より年月を遡って大幅に減刑されることとなった法律である。ひっそりと議会を通過したこの法律は数十年の間、ドイツ社会で問題視されることはなかった。が、シーラッハの小説がきっかけで「時効のスキャンダル」と見られるようになった。

さて、このこととコリーニの犯罪とがどのような関係にあるのか。映画を見てください。

評価(外)

このアメリカ制作の「アンネの日記」The Diary of Anne Frank のアンネ役のオファーは当初、オードリー・ヘプバーンになされたという。アンネより一か月ほど先の同年(1929年)に生まれたヘプバーンはアンネと同じ時代に同じオランダでナチスの弾圧に抵抗した。ヘプバーンは「戦時中の記憶に戻るのが辛すぎる」、「アンネの一生と死を出演料や名誉で自分の利益とするために利用する気になれない」と、アンネ役を断ったという。

★★ かなりオススメ

子ども兵が問題になっている。アフリカの話だと思ってはいけない。年端のいかぬ子どもたちが、既にこの時代に、しかもドイツという先進国で戦争に動員されていたとは。どうやら戦争は文明というバロメーターからは逸脱した行為であるらしい。

★★★ 絶対オススメ

のっけからだけど、ラストシーンの話しをしてしまう。… … 極寒のロシアの雪原。吹雪の中、力尽きてうずくまるふたり。「寒いってのはいいなあ、何も感じないから。砂漠に行ったことがあるかい? じりじりと陽が照りつけて猛烈に暑くてやってらんないんだよな。」

吹雪があたりを真っ白にしていく。

言い知れぬ怒りが湧いた!! 誰が好き好んでこんな人生を送る!? 誰が好き好んで戦争をしに来た?! こんなことがなければ、「普通に」仕立て屋だったかもしれない。「普通に」牛を飼ってたかもしれない。「普通に」教師だったかもしれない。普通に…。普通に…。

なぜ、こんなことになる?! 世界中の幾千万人が「普通の」人生を送れたはずだった。戦争をしたい人はなぜそのことに考えが及ばない?! 人は駒ではないのに。

映画は俳優が演じている。撮影が終われば役から自分に戻る。だからと言って、演じられたその人が存在しなかったわけじゃない。その人たちは現実だった。幾千万人。幾千万人。

怒りは広くあちこちにぶつけるしかない。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★ 絶対オススメ

作品もすばらしいが、ドミニク・ホルヴィッツとトーマス・クレッチマンのコンビがまたいい。最後のシーンは息が詰まりそうで苦しいが、ドイツの作る重厚な戦争映画を見てしまうと、ハリウッドものがおちゃらけにしか思えなくなってくる。

本作の成功によるのか、クレッチマンが演ずる役はドイツ軍将校とかUボート艦長が多い。思いつくものだけでも、『U-571』『戦場のピアニスト』『Uボート 最後の決断』『ヒトラー ~最期の12日間~』『ナチスの墓標 レニングラード捕虜収容所』『ヒトラーの審判 アイヒマン、最期の告白』『ワルキューレ』などがあるが、『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』のドイツ人記者ピーターが彼であることにお気づきだろうか。派手さはないが、良い味を出す名優だと思う。

★★★ 絶対オススメ

夏休み、テレビ番組には戦争関連のドキュメンタリーや映画、アニメ作品がラインアップされる。その多くは、原爆など、日本関するものが多い。ところが、今日のNHK BSブレミアムは、なんと『ヒトラー ~最期の12日間~』。せっかくなので、あらためて見た。

戦局の悪化は、すべて自分の指令通りに役目をこなさない無能な将軍と役立たずの兵士らのせい。ヒトラーの狂気である。戦略の誤りを戦術で取り戻すことはできない。これは戦争の鉄則である。まして精神力で補うことなど、妄想に過ぎない。そんなヒトラーを利用しよう、おこぼれに預かろう、権力への足がかりにしようとする、寄生虫、野心家、思考停止の取り巻き連中の、これまた狂気。そして集団ヒステリーに陥った(ナチズム支持がまさにそれである)ドイツ国民の狂気が、これでもかというくらい迫ってくる。

街中は死屍累々、断末魔に喘ぐドイツ。武器もない市民が戦っても無駄死に過ぎないという進言に、「同情など感じない。彼らが選んだ運命だ。彼らが我々に委ねたのだ。自業自得さ」とうそぶくゲッベルス。国民の自己責任というわけだ。あの時代だけの、ドイツだけの、歴史上の悲劇でしかないのか。

沖縄戦、満洲からの逃避行、東京大空襲、原爆投下…、あのような政府しか持ち得なかったことによる自業自得だったのか。そして現代の原発事故も…。自己責任論がまかり通る今の日本だからこそ、この映画が選ばれたのだろうか。それにしても、こうした映画を作ることのできるドイツに、わが国は完全に置き去りにされた感じがする。映画人だけの責任ではない。そのレベルの文化しか持ち得ない私たちの限界だとしたら、先は暗い。

★ 参考に見てほしい

ドイツ占領下のフランスの田舎町、ほとんど知らない。フランス人もゲシュタポで働いていた。

★★★ 絶対オススメ

1944年、カトリックの寄宿学校で学ぶ男の子たち、制服のシャツの襟の上に重ねてリングで留めるスカーフ、無造作にかむるベレー帽、校外外出時のケープ風コート、可愛らしくて粋で何とも言えずいい! ← - - え、そこ?!

ルイ・マル監督自身の体験が元になっているという。数十年の間、心の奥にしまっていた感情を表す時が来たと感じたのだろう。彼はこの映画を作った7年ののち、癌で逝った。

Au revoir, les enfants ! オ るヴォワ~ レ ザンファン! さよなら、子どもたち! ラストシーン、ナチスに連行され行く校長と三人のユダヤ人生徒を他の生徒たちが校庭に集まって見送る。その生徒たちに校長がかける最後のことば。二度と会うことはなかった。

★★★ 絶対オススメ

この夏のNHK BSブレミアム、ウクライナ戦争のせいだろうが、ヴィットリオ・デ・シーカの名作『ひまわり』が放映された。

ナポリの女性ジョヴァンナが対ソ戦に送られたまま帰還しない夫アントニオをウクライナまで探しに行く。見つけたアントニオは、瀕死の彼を救ってくれた女性マーシャと暮らしていた。逃げるように立ち去ったジョヴァンナをミラノに訪ねたアントニオ。再会したものの、寂しく列車で帰るアントニオ、去りゆく列車に号泣するジョヴァンナ。

なぜこんな悲劇が…。アントニオの選択が誤りなのか…。いったい誰に非があったというのか…。誰のせいでもないとしたら、これは天から降ってきた災厄なのか…。過去を「水に流す」という思想は、あらゆる悲劇を避け得ない天災ととらえる無責任体質につながる。だからくり返す…。

★★ かなりオススメ

クリミア半島の要衝での攻防戦。原題は「セバストポリの戦い」だが、やはり狙撃兵を主人公に据えたクリント・イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』にあやかろうとした邦題であろうか。どちらも祖国を守りたいという共通点があるが、侵攻してきたドイツ軍が相手のこちらと、わざわざイラクまで出かけていったあちらとでは、背景事情が違いすぎる。ネイビー・シールズのクリス・カイルが殺害したイラク軍およびアルカイダの戦闘員の数160人(非公式255人)に対し、309人のドイツ兵を倒したリュドミラ・パブリチェンコ。どちらが優れた狙撃手かなどとは言うまい。狙撃手に必要なのは、復讐心や義侠心でも、まして愛国心などではない。冷血で殺人に強い興味のある者こそが良い狙撃手なのだ。二つの映画を見比べれば、狙撃手としての適性はカイルの方が上のように思う。

狙撃兵であることが彼女の本質でなかったとしても、女性が最前線に立たざるを得なかったソ連やフランスでは、そうした選択肢しかなかった者がいたということだ。自国が戦場にならなかった日本(沖縄を除き)では、女性は「銃後の守り」と称して、相互監視と密告だけしていればすんだ。後に竹槍でB29に立ち向かったりはしたのだが、これもまた問い直す必要があるのかもしれない。

★★★ 絶対オススメ

第二次世界大戦後の荒廃したレニングラードが舞台。前戦で戦闘に参加してきた二人の女性をメインに戦争が終わってもいつまでも続く戦争体験のトラウマ、戦傷に襲われながら日々を過ごす人々。

マーシャが戦場で産んだ子どもを託され育てながら、戦傷兵が多く収容される病院で看護師として働くイーヤは、発作が出ると意識を失い、そんな中子供を死なせてしまう。復員してきたマーシャはイーヤを責め、イーヤに子供を生むようにと責め、画策するマーシャは、戦傷で子どもを産めない体になっている。そして、彼女も時々発作をおこし意識をなくして倒れる。

いつまでも続く戦争トラウマに翻弄されながら感情を取り戻し新しく生きようとする二人。時に反発し、そして最後はお互いを受け止めしっかり抱き合う二人。

イーヤの横顔が、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』を思わせ、美しい。戦争を体験したすべての人の、簡単に癒えない心の傷は、どこまでもつきまとう事を様々な場面で訴える。

この映画の、共に若き監督とプロデューサーは、ロシアのウクライナ侵略を、「これは『戦争と女の顔』で描かれている事と一緒だ」「また繰り返すのか」「この戦争は普通に人生を送りたい何万人と言う人々にとっての悲劇だ」「戦争より悪は存在しない」とメッセージを発している。

私が子どもの頃、父親が夕方になると窓辺に一人座りボンヤリしていたことがいつまでも記憶に残っており、この映画に重なる。戦争は、考えられないほど大きな傷を、かかわったすべての人々に、そしてそれに続く人々にまで残し続けることに改めて考えさせる映画です。

★★★ 絶対オススメ

小説も映画もその存在を大昔から知ってはいたけれど、これほどリアルに描かれているものとは今に知る。軍隊にはいるということはどういうことか、戦場に赴くとはどういうことかを主人公のポールとともに経験していくことになる。ポールは大学に進むために高校に通っていた19歳の青年。教師の「祖国のために戦え!」に鼓舞され、数人のクラスメイトとともに軍隊志願する。 第一次世界大戦ではソンムの戦いに象徴される塹壕戦に多くの兵士が死に、そして、苦しんだ。新型機関銃や戦車が投入されたのはこの大戦からという。大勢の兵士が手足を失い、酷い火傷をし、精神を病んで帰還し、戦後つらい人生を送った。

新参兵で右も左も分からなかった青年たちのひとり、ポールが、級友が砲撃で死に、重傷を負って病院で死ぬ、そんな数年間の経験を経て、自分たちが今戦争をしている意味も、これから先の人生を生きていく意味もわからなくなってくる。虚しさがあるばかり。 前線での戦いがリアルに描かれる。戦争とはいかに愚かなことかと今一度知る。 映画はアメリカ制作だが、原作はドイツ人作家、 エーリヒ・マリア・レマルクが1929年に書いたもの。小説も読んでみたくなった。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★ 絶対オススメ

第一次大戦末期の1917年に西部戦線に配属されたエーリヒ・マリア・レマルク。左足、右腕、首に重傷を負い、傷痍軍人として帰還した戦争体験を元に書いたのが『西部戦線異状なし』。戦争終結から11年のことだった。大ベストセラーとなり、翌年、巨匠ルイス・マイルストンが映画化。モノクロだし、画質も良いとは言いがたいが、紛れもなく戦争映画の傑作、不朽の名作だろう。現在のハリウッドが制作したいかなる戦争映画よりも気高いものになっている。本作がつくられて90年、米国は何を学んだのだろうか、これを見てきた米国民はいったい…。世界中で武力行使を続ける現状を思うと空しくなる。蝶に手を伸ばすラストシーンのように…。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

評価(外)

レマルクがどのように綴っているのかと、本を読んでみた。

二週間の休暇から前線近くの連隊に戻った主人公パウル(ポール)は戦友たちに合流する。カイザーの戦線検閲の訪問のあと、仲間どうし数人で語らう。

曰く、そもそも戦争ってものは、どういうわけで起こるんだと。「…ある国民がよその国民を侮辱した場合だ…」「そんならおれたちはここで何にも用がねえじゃねえか」「おれはちっとも侮辱されたような気がしてねえものな」・・・「何言ってやがるんだ。国民といったって、全体だよ。つまり国家ってやつだよ…」「何が国家だい。憲兵のよ、警察のよ、税金のよ、それが貴様たちのいう国家だ。」・・・「…おれたちはみんな貧乏人ばかりだ。それからフランスだって、たいがいの人間は労働者や職人や、さもなけりゃ下っ端の勤人だ。どうしてフランスの錠前屋や靴屋がおれたちに向かって手向かいしてくると思うかい。そいつはみんな政府のやることだ…(略)何が何だかさっぱり知りゃしねえんだ。要するに無我夢中で戦争に引っ張り出されたのよ」・・・「だから戦争の裏にゃあ、確かに戦争で得をしようと思ってる奴が隠れてるんだ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「こいつは凄いぞ。とてもひどく打ち込んだもんだなあ」「地雷だよ」・・・上を見ると、樹の枝に死人が引っ懸かっている。真っ裸の兵士が一人木の股の上に胡坐をかいている。頭の上には鉄兜をのっけているが、そのほかは真っ裸である。胡坐をかいているように見えるのは、実は躰の半分だけが上にのっかっているのである。それは足のない上体であった。

以上引用(秦豊吉訳 新潮文庫 1956年初版)

パウルと語らっていた戦友は全員死んだ。パウルも死んだ。

レマルクがこの小説を書いてから90年以上が過ぎた。こんなことは今や世界中の誰もが知っている。知っているはずなのに今また戦争が起こるのはなぜだ。

★★★ 絶対オススメ

アメリカがベトナムから撤退する1973年1月以前のこと。ピッツバーグ郊外のクレアトンという町の若者たちが描かれる。ピッツバーグの製鉄所で働く彼らの内、主人公を含め3人が出征する数日前から物語が始まる。ひとりは結婚後すぐに出征、ひとりは女友達にプロポーズをしたのちに出征。

3人はベトナムで悲惨な目に会いながらも何とか生還するが、ひとりはPTSDに苛まれ、ベトナムの街で行方不明に、ひとりは病院で車いす生活を送り、故郷には帰りたくないという。主人公のマイケルひとりが帰郷するが、戦争を経験し、親友たちを見失った彼にはもはや以前と同じ感覚の人生を送るのは難しい。

彼らはロシア移民だ。第一次世界大戦の頃からピッツバーグにはUSスチール(2020年現在名はUSX)、アルコア、ウェスティングハウスが本社や工場を置き、多くの移民が流入し、栄えた。けれども、この映画の頃は製鉄業に斜陽が忍び寄ってきている。ピッツバーグやクレアトンにロシア移民が特に多く住んでいたという事実はないとのことだが、映画の中ではロシア文化の端々を見る。街の真ん中にそびえるロシア正教の教会の塔、教会での儀式、パーティではロシア民謡が演奏され、ロシア風ダンスが踊られる。彼ら若者の乾杯のことばも「ザ・ズダローヴィエ」。ロシア移民はアメリカで、この映画に見られるようなプアホワイトの社会を形成してきたという。アメリカという国、移民、産業の衰退、ベトナム戦争、若者を取り巻く社会状況、これらの渦の中をのぞき込んでいるようだ。改めて、だれが、何のために戦争をするのだろうと思う。

「ディア・ハンター」という題名は、彼ら若者が出征前に数人でワイワイと山へ鹿狩りに出かけ、マイケルが帰郷したのちに、今度はひとりで鹿狩りに出かけるところに由来している。マイケルは一回目の鹿狩りでは一発で見事に仕留めたが、二回目は角もりっぱな大鹿がこちらを見ている際に撃ちそびれた。 マイケルの心境の変化だ。 大鹿はゆっくりと歩み去る。雪渓がそこここに見られる高山の澄んだ空気に雲が流れる。その冷たい空気が美しい。

見終わった時には ”何という映画だ!”と感嘆しはしたけれど、ロバート・デ・ニーロ扮する主人公マイケルのスーパーヒーローぶり(100%ポジティブなヒーローの対極にあるにしても)と、戦争の不条理がロシアン・ルーレットの残酷さに取って替わられているようなのがいくらか気になり、評価は星ふたつかな~と迷う。

★★★ 絶対オススメ

頭の片隅に常駐してはいたものの、ベトナム戦争映画群に足を踏み入れるのはあまり気が進まなかった。けれど、そろそろその時かなと、まずは名高いオリバー・ストーン監督の「プラトーン」から入ってみた。 描くのは1967年。制作は19年後の1986年。

第二次世界大戦まではまだ生まれる前のできごと、でも、ベトナム戦争以降は違う。同時代を生きていた。わたしがあれやこれやと平和な生活を送っていた同じ時に、日本の近くでこんな戦争が起きていたとは心に浸透しにくい。もちろん、当時も知ってはいた。当然。悲惨な状況も見聞きしていた。でも、でも、米兵だけでなく、登場人物ひとりひとりの設定を知れば、犠牲者や負傷者は無名の人のかたまりでないことがわかる。彼らが映画の登場人物にとどまらないこともわかる。

人は愚かだ! アメリカは愚かだ! と言い捨てるだけなら簡単だけど、それで終わる話じゃない。映画のシーンに出てくる死体の山を見て、ひとりひとりの失われた人生が想われる。これは映画のシーンに過ぎないけれど、現実だった。あの戦争が終わってから45年ほどが過ぎたか。20歳で死んだ人は65歳にはなっているはずだった。

ベトナム戦争を続けて見るのは頭こわれそうだから、時間をかけて見て行こうと思う。

★★★ 絶対オススメ

自分が人を殺したことがあると知っていることほど辛いことはあるだろうか。その死に行く人の眼を見たことのある人の気持ちはいかほどか。戦場に赴く前に自分が人を殺すことはあるかもしれないと漠然と思ってはいても実際に殺さなければならないという、そのどうしようもない状況に置かれた人の気持ちは想像するのも難しい。帰還兵の証言からなるこの映画は1974年に撮影された。証言者たちの記憶はまだ昨日のことだ。ただ、この証言者たちが帰還兵の多数を代表していることはないのだろう。

今、アメリカが1973年にベトナムの戦場から撤退して47年が過ぎた。元兵士はその間自分の人生を生きた。さまざまな人生のできごとに戦争の記憶は薄れはしたかもしれないが、痕跡が消えることはないだろう。自死を選んだ人も数限りない。そして、殺された人の人生は完全に失われた。

ウィンター・ソルジャー ベトナム帰還兵の告白 1972年・米 95分

冬の兵士 良心の告発 2008年 81分 (イラク帰還兵の証言)

シャーデイが歌う「タトゥーのように」を聞いてみて!

Sade “Like a Tatto”    https://youtu.be/b0KOAeHpH80
14年間、苦しんで来た
僕の銃口の先に倒れている男
目に浮かぶ、その男の手が
周りの山々の形が
その男の眼が光っていた
“生“への絶望だった

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

評価(外)

下記サイトより引用
https://asiandocs.co.jp/set/220/con/216?from_category_id=1

”アメリカの戦争責任を真っ向から問う:
この作品は、アメリカの戦争責任を真っ向から問うものとして世界に衝撃を与えました。本作は1974年のカンヌ国際映画祭批評家週間でワールドプレミアが行われ大絶賛されたものの、政治的報復を恐れた配給会社が降りてしまいます。そして、ようやくワーナー・ブラザースによる配給が決まり、12月20日にロサンゼルス、ウエストウッドのUAシネマで特別上映。しかし、その後、ジョンソン元大統領の政策補佐官ウォルト・ロストウが自分の出演シーンの削除と、上映差し止め要求を裁判所に提出するなど、上映を妨害する行為が相次ぎました。製作サイドは再編集を拒否して裁判が行われ、翌年1月22日に最高裁が一般公開を認め、1月30日に一般公開が開始されました。1975年4月5日、アカデミー賞授賞式では、プロデューサーのバート・シュナイダーが受賞のあいさつでベトナム戦争とアメリカの良心について語り始めた時、司会を務めていたハリウッド最右翼のタカ派フランク・シナトラが「アカデミー賞に政治を持ち込むな」と抗議しますが、それに対してシャーリー・マクレーンが「映画は真実を見つめて平和に貢献しなければならない」と反論し、満場の喝采を浴びました。”

★ 参考に見てほしい

何人もの仲間の命を救った英雄。だが、彼と彼の仲間はどこで何をしていたのか。イラクの女性や子どもまでが米軍に立ち向かうのはなぜなのか。子ども時代、父親から、人間には羊、狼、番犬の3種類あると教わった主人公だが、アメリカこそが狼だと思うことはなかったのだろうか。侵攻してきたドイツ軍から祖国を守ろうと、やむなく立ち上がった『ロシアン・スナイパー』とは全く違う。ファルージャを扱ったドキュメンタリー(『ファルージャ 2004年4月』や『十字砲火の中で』等)を見ると、イーストウッドでさえ自己中アメリカの一部でしかなかったのかと残念な気持ちになる。

★★ かなりオススメ

虚しい。人類はアフリカから出発したルーシーから始まったとも言われるのに、なぜ他民族を支配下に置こうとするのか……わからない。

★★ かなりオススメ

子どもの生きる権利を大人が奪うなんて!戦争は誰が始めた? 子どもではないはず。

★★★ 絶対オススメ

「あの」バルカン半島を幻のフィルムを追いながらの旅…見ながら、次々にズシンと重く胸に拡がり続けるものが。心に残る光景がとても多いです。

最初の船の青い帆、分割されたレーニン像とドナウを遡る途中、岸の人々が(十字をきってるような人たちも)見送る場面。 戦禍で破壊されたサラエボ、濃霧のサラエボ…

アンゲロプロス、他のも見てみたくなりました。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★絶対オススメ

星三つを与えはしたけれども、詩を好まない方は注意を。この映画は3時間に及ぶ映像でうたう詩だから。ギリシャ出身のアメリカ人映画監督Aは、バルカン半島で初めてマナキス兄弟が撮ったという幻の映像フィルムを求める旅に出る。ギリシャの故郷から出発し、アルバニア、プロブディフ、ブクレシュティ、ベオグラードを経て戦火のサラエボへと至る。タクシーで、列車で、時には運搬船で先へと進む。旅はユリシーズ(=オデュッセウス)を語る叙事詩になぞらえる。

初めから最後までアンゲロプーロス全開! そぼ降る雨、侘しい雪原、そこにうごめく人影、不毛な大地、重苦しい空、立ち込める霧、砲撃の末の瓦礫の街、それらは悲しく、美しくさえある。そして、死。

幻の映像フィルムに関わった人たちは、それが映し出すはずものを「失われたまなざし」Lost gazesと言い表す。それは主人公Aの今のまなざしでもあると思う。

オデュッセウスがトロイ戦争からの帰途に出会ったギリシャ神話の女たち、ペネロペ、カリプソ、キルケー、ナウシカと同じく、Aの旅も彼女たちと交差する。4人と言っても、演じているのはルーマニア人のマイヤ・モルゲンステルンただひとりというところが面白い。

川は監視の目のゆるい国境越えの手段。 ドナウ川にたゆとう運搬船の舳先に立ち尽くすA。アンゲロプーロスはきっと船の動く速度とその速度に合わせて見える景色がとても好きだったんだと思う。亡くなったというニュースを聞いたのはそんなに昔のことでもないと思っていたのに、すでに何年も経ったという。
https://youtu.be/oq9lEc6SuCo

★★ かなりオススメ

主人公ルナは魅力的だ。葛藤だらけの中をもがきながら生きている。両親を目の前で殺され、長く住んだ家を追われた過去は重い。彼女の恋人は兵士だった戦争を引きずっている。けれども、彼は自己中心的過ぎないか、冷たい言いようだけど。ルナと彼の違いはどこから来るのだろう。この手の物語はあまり好まないかな。

★★★ 絶対オススメ

佳作揃いだが、中でもケン・ローチの映像がイチオシ。過去に(現在もだが)アメリカという国が何をやって来たか、“もうひとつの911”が教えてくれる。要するに、米国企業の利益のために、親米国家に対しては、その国の政府を、そうでない国に対しては、反政府組織の側を支援するということだ。支援とは、金、武器の供与、さらには米軍の派遣である。日米関係を思うとき、悪事に手を染めようとするのを諫めてこそ友人というものだ。見て見ぬふりをするとか、一緒になって悪事を働くことが友情ではあるはずがない。

★★ かなりオススメ

2001年9月11日、あの日、米国に滞在していたオサマ・ビン・ラディンをブッシュ大統領は早々に国外へ脱出させたとか。ラムズフェルド国防長官とサダム・フセインは密な関係だったとか。マスコミとジャーナリストは一斉に右へならえをしたとか。「テロとの戦争」を強調した政権の支持率が上昇、皮肉なことに。

★★★ 絶対オススメ

「対テロ戦争」「反テロ戦争」という呼び名は911事件を契機に使われるようになった。テロという邪悪な行為は決して許されるものではない、だからテロに屈してはならない、テロと戦い、これに勝つことが必要だ、その行為は正義である…、というわけだ。「テロ」と呼びさえすれば、それに対して何をしても許される、何でもありという風潮が醸し出されていった。何がテロなのかという定義もなしに…。チェチェンで、ウクライナで、アルメニアやアゼルバイジャンで、チベットや新疆ウィグル自治区で、テロとの戦いの名の下に、大国はやりたい放題である。 その発火点であった911は検証されたのか。オサマ・ビン=ラディン率いるアルカイダが起こしたとされるこの事件。当時のブッシュ政権の国家安全保障担当大統領補佐官コンドリーザ・ライスは「証拠がある」と述べたが、未だにその開示はない。事件から一ヶ月後にはアフガン侵攻が始まった。まるで「この人が犯人です。今は未だお見せできませんが、証拠もあります。陪審員と判事のみなさんは、私たちを信じて、どうか死刑判決を下してください」といっているようなものだ。

米国防総省に突入したのは本当にアメリカン航空のボーイング757だったのか?世界貿易センターに激突したのはアメリカン航空11便とユナイテッド航空175便だったの?。米国政府の発表は事実なのか?おかしいことだらけである。

★★★ 絶対オススメ

ペンタゴンに激突したアメリカン航空77便が消滅した?映画『ユナイテッド93』で描かれたように、高空を飛ぶ旅客機から携帯電話がつながるのか?シャンクスビルに墜落したとされる機体はどうなった?世界貿易センタービルは爆破解体ではないのか?なぜ第7ビルが倒壊したのか?このドキュメンタリーを制作した大学生たちは、メディアが報じた映像をもとに、理論的・科学的に分析すればするほど、政府発表の矛盾が深まるさまを見せてくれる。

911はアメリカ政府の自作自演?そうは言っていない。しかし、1962年のノースウッド作戦は、そういうことをやりかねない国であることを示唆しているように思える。年配者ならトンキン湾事件を知っているだろう。アメリカ史に関心がある人なら、米西戦争の発火点となったメイン号の事件を思い浮かべるかもしれない。

アメリカとはどんな国なのか?『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』を読むと良いだろう。ハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』を、子どもにもわかるよう、レベッカ・ステフォフがリライトしたものだ。

★★ かなりオススメ

消防の通信会話を聞くと、世界貿易センターの火災は地獄の業火などではなかったことがわかる。それなのにビルを支える鉄鋼栂溶解して崩壊した?政府の公式説明が矛盾だらけであることを、物理の法則を使って説明してくれる。

SF作家の山本弘が『ニセ科学を10倍楽しむ本』の中で911事件を取りあげている。ちょっとだけ紹介すると、世界貿易センタービルを爆破解体するためには何千もの箇所に爆薬を仕掛け、何十キロもの導線が必要になる。誰にも気付かれずにそんなことができるはずがない。爆破解体ではあり得ない…という書き方をしているのだが、だから物理の法則と矛盾することが起きたとすれば、それは奇跡ということなのか?著者は歴史修正主義に反対する論客だから、私は一定の評価をしているのだが、こと911については、見事に丸め込まれてしまっているのが残念だ。

★★★ 絶対オススメ

世界貿易センタービルが飛行機の激突で崩壊したというのはウソである。物理の法則と合わない。あれは爆破解体だったのだ。建築や土木の専門家がそう断言する。米国政府も、そろそろ認めた方が良いだろう。

では、いったい誰が爆薬を設置したのか?爆破解体の専門家チームが建物の構造を分析し、入念な計画を立て、爆薬をセットし、導線を張り巡らせ、爆破した…。それがアルカイダだということか?もしそうなら、アルカイダとはなんと恐るべき組織なのだろう。専門の技術屋集団を抱え、しかも隠密裏にやってのけるとは、何百人、何千人ものメンバーがいるのに違いない。しかもビル管理者や政府高官にも顔がきくのだろう。もしかしたら、政権中枢にアルカイダが紛れていたのでは?国防長官や補佐官、副大統領では?あるいは大統領?911のような大事件を未然に防ぐことができなかったのに、誰ひとりとして責任を問われ、罷免も処罰も受けなかったことから、そう思ってしまうのである。


暴 力

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

ポーランド人 ソフィーが収容所で生きながらえたのは、ドイツ語に堪能で、秘書になれる教養があったこと、何より色白のアーリア系美人だったこと。メリルストゥリープが表情の変化ゆたかに謎多き女性を演じています。

苛酷な選択は、収容所だけでなく、満州からの引き揚げとか、きっと生死を分かつ場で実際にあちこちであったことだろうと思うとたまらない気持ちになります。

ソフィーが、父親はユダヤ人たちを救おうとした人格者と嘘をついたのは、そうであってくれてたならどんなにありがたかったかという願望か…

ソフィーをひとときでも幸せな気分にできたユダヤ人ネイサンという人物の内面をさらに知りたかったです。

★★ かなりオススメ

ハンナ・アーレントは彼を「思考停止した凡庸な小役人」「巨悪を構成する小さな歯車」と評した。しかし彼は与えられた任務を積極的に、むしろ嬉々として遂行した確信犯ではないのか。彼だけではない。彼のような人物がドイツには大勢いた。日本も同じである。無知ゆえに騙されて、あるいは嫌々ながら鬼畜米英を叫んだのか。非国民狩りをし、戦争に反対する者に石を投げつけたのは誰だったのか。今日、同じことが繰り返されていないと言い切れるだろうか。

★★★ 絶対オススメ

ハイデッガーの愛弟子だったドイツ系ユダヤ人のハンナ・アーレント(収容所経験も持つ)はアイヒマン裁判傍聴の記録を発表する。

「アイヒマンは極悪人ではなく、凡庸な、命令に忠実なだけの小役人」、おまけに「ユダヤ人指導者がナチスに協力していた」と指摘し 強烈なバッシングを受ける。

最後の8分間の講義場面は圧巻、孤独な思索を何よりも重要なものと考えるハンナに、強さと同時に傲慢さを感じてしまったのはなぜなのか、また考えていきたい。タバコ吸いすぎ…

★★ かなりオススメ

ホロコースト否定論を掲げたイギリス人歴史家デービッド・アービングを 自分の著書の中で批判したアメリカ人研究者デボラ・E・リップシュタットはイギリスの出版社ともどもアービングに名誉棄損で訴えられ、イギリスでの法廷闘争に挑むことになる。そのリップシュタットと弁護人チームの物語。事実を元にしている。法廷ドラマが圧巻。イギリスの事務弁護士と法廷弁護士がチームを組む実際が理解できた。

法廷弁護人を演じるトム・ウィルキンソン(割りの良い役どころ)、敵を演じるティモシー・スポールがここでも映画をぐんと後押ししている。主役はレイチェル・ワイズ以外のキャストで見てみたい。

★★ かなりオススメ

1972年のミュンヘン・オリンピックは、陸上競技をやっていたこともあり、最も強く印象にあり、忘れがたいものだ。ミュンヘン市長による開会宣言も、内容はおぼえていないが、女性だったことと、素晴らしいものだったことだけは記憶の片隅に残っている。そしてテロ。あのような犠牲者を出したにもかかわらず、大会はそのまま続けられた。人権意識の高いIOC会長だったなら、中止されたのではなかろうか。

当時のオリンピックは、今ほど商業主義ではなく、アマチュアリズム全盛の時代だった。ミュンヘン大会の半年前、札幌で冬季オリンピックが開かれたのだが、そこでオーストリアのアルペン競技選手、男子滑降の優勝候補だったカール・シュランツの出場資格が剥奪されたのである。「シュランツはクナイスルで勝つ」というクナイスル社のスキーの宣伝がアマチュア規定に反するという理由だった。シュランツの大会追放を主導したのは、当時のIOC会長、エイヴリー・ブランデージ(1887~1975年)。その親ナチス的態度、反ユダヤ的言動で、しばしば物議を醸した人物である。

なぜミュンヘン大会は中止にならなかったのか。商業主義ではなく、ブランデージの反ユダヤ思想が根底にあったのだろう。つまり、イスラエル選手団の犠牲など、彼には取るに足らないことだったのだ。そのことがイスラエル政府を報復に走らせることになり、際限のない憎悪の連鎖を招くことにつながった。

IOCはこれまで、一度としてミュンヘンの悲劇について言及してこなかった。それがTOKYO 2020の開会式で、突如として黙祷を捧げるという、驚くべき態度を見せたのである。開会式・閉会式の演出を務める小林賢太郎が、かつてホロコーストを笑いのネタにしており、アメリカのユダヤ人権団体から非難されたことがきっかけで解任された、その失点を挽回しようという意図だったのだろうか。

半世紀後の2021年ではなく、ミュンヘン大会のその場で別の対応を取っていたなら、世界は変わっていたかもしれない。反ユダヤ主義と商業主義の違いはあれど、現IOC会長のトーマス・バッハも、どうもそれが理解できていないようだ。

★★ かなりオススメ

自分が生きていた時代なのに殆ど関心なく過ごしてきたことに何とも情けない。

★★ かなりオススメ

アンジェリーナ・ジョリーが初めて監督したこの映画は原題を「In the Land of Blood and Honey」という。良質な蜂蜜を産するボスニアを題名に用いている。平和であれば、「蜂蜜の地」でいられたものを。ムスリムのボシュニャク人、カトリックのクロアチア人、そして、東方教会のセルビア人が勢力争いをするボスニア紛争は複雑過ぎてわたしには理解不能だった。遠い地のあまりよく知らない人たちの領土争いの内紛という頭があった。でも、それは間違いだった。世界市民のひとりとして少なくとも理解しようとしなければならなかった。戦争の情勢ではなく、街の風景はどんなで、どんな人たちがどんな食べ物を食べ、どんな暮らしをし、何を考えているのかを知るべきだった。この映画を見て、「戦争手段に用いられたレイプ」とはどういうものかを知る。

★★★ 絶対オススメ

このドキュメンタリーフィルムに★による評価はふさわしくない。できるだけ多くの人に見てほしい。旧ユーゴスラビアが崩壊したのちの内紛での「民族浄化」は戦争手段だ。その手段は、虐殺、強制移住、そして、レイプ。数年後、これらは戦争犯罪として国際法廷において訴追されることになるが、レイプ被害者として証言する人はごくごくわずか。レイプされたムスリムにとって被害者として名乗り出ることは家族から親戚から社会から抹殺されるに等しいからだ。他民族の子どもも育てなければならない。敵国の目的はそういった、社会の崩壊にある。このフィルムはわずかの、世の中に訴え出る女性たちを讃える。

ハーグの国際法廷は重要な役割を果たしたが、外国の法廷に過ぎない。紛争地の社会が結末を与えたわけではない。法廷では被告たちは「上からの命令だった。」と繰り返すのみだった。産まれた子どもは数限りない。事実はなかったことにできない。女性たち、生まれた子どもたちの人生はこれからも続く。

レイプという「民族浄化」は男たちの戦う意欲を喪失させる手段とも聞いた。「自国の女を守れなかった」という自信喪失。でも、それは男の論理。女にとっては加害者が自国の男であろうが他国の男であろうが関係ない。戦時でなければ起きなかったであろう悲惨さではあるが、ひとりの女にとっては戦時であろうが戦時でなかろうが、背負って生きて行かなければならない事実は同じ。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ政府は国際社会においてセルビア人の残酷さを強調するために広告会社+マス・メディアを使って「民族浄化」という言葉を多用し始めたとwikiにはある。それがほんとうかどうかは知らないけれど、戦争好きのどこもの国の政府がやりそうなことではある。女はここでも利用されている。 この「民族浄化」についてはアンジェリーナ・ジョリー監督作品の「最愛の大地」に描かれる。

★★★ 絶対オススメ

カルラ・デル・ポンテ、格好いい…などと言っている場合ではない!ヨーロッパは決して未開の地ではないのに、今この時代にこのようなことが行われているなんて…。戦争なら許されるのか?戦争の背景にあるのは、民族や宗教対立と言うより、人間の中に潜む差別感情であり、不公正や不平等、格差に対する怒りが歪められた形で憎悪へと変換されたからだ。自らの利権のために、そのような“しかけ”をした人間にこそ責任がある。もちろん、それに盲従した人々にも。『コーリング・ザ・ゴースト ~沈黙を破ったボスニア女性たち』『戦場のレイプ』、そして『サラエボの花』を併せて見てほしい。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★絶対オススメ

最大の尊敬をカルラ・デル・ポンテに! 旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)検察官。

★★ かなりオススメ

ヒンドゥー教とイスラム教。多神教と一神教だから、相容れないのはわかる。だが、それだけで対立するものなのか。血を流すようなことにまで発展するものなのか。そうではあるまい。政治的利権が対立を煽っているのだ。宗教とか信仰には論理的な説明が不要だから、ただ単に「違う」とだけ声高に主張すればすむ。インドやパキスタン、パレスチナ、北アイルランドで起きていることは、宗教戦争などではない。一方だけが利益を享受し、抑圧されている側が異議申し立てをしているのだ。そういった社会の背景や歴史を知らない日本人は、宗教対立とか言われると、「そうなんだー」「イスラムって怖いねー」となってしまう。お勉強が足りないと言うことこそが怖い。

現代インドが抱える問題に正面から切り込んだこの作品は、ユニークではあるが、現実はまだエンディングのような解決には至っていない。一口にインドと言うが、それはヨーロッパと言うのと似ている。なにしろ民族も宗教も様々であり、言語に至っては、方言を含めれば1000以上(公用語が18)もある。混乱と苦難はまだしばらく続くに違いない。こうしたシリアスな内容でありながらも、インド映画らしく、歌と踊りがゴージャスだ。画質と音質があまり良くないのが残念だが、秋元康がプロデュースする少女集団のそれとはレベルの違う群舞を楽しませてくれる。ストーリーの進行上、なくてもかまわないし、昨今求められるたたみかけるようなスピーディーな展開に逆行する作品作りだが、これが好きか嫌いかでインド映画の評価は大きく変わってくるだろう。

★ 参考に見てほしい

アフガン、”天上の足音”はまだ美しい自然がそのままのアフガンです。ですが、女性が写っていないのが気になりました。

★★ かなりオススメ

革命記念日の行列、皆さん銃口に薔薇の花々を入れて。びっくりしましたよ。

★★★ 絶対オススメ

今まで見たことのなかった仏像の数々(表情の気だかさ)に心打たれました。西からの文化と混ざりあい、さらにさらに深いものに。それらが壊され、あるいは雲散霧消してしまった無念さを思います。

★★★ 絶対オススメ

学ぶ楽しさをどの子供にも与えてあげたい。 数を示すのに鎌やナイフが描いてあり、難儀な暮らしを思いました。

後藤健二さん、ありがとうございました…。

★★★ 絶対オススメ

彼女たちは今20~25歳くらいになっているだろう。カブールにある児童施設で生活する40名ほどの少女たち。けんかや泣き声は絶えないけれど、朗読し、歌い、踊る彼女たちの笑顔ははじける。両親が戦争で殺された子どもたち、貧困ゆえに母親と一緒には暮らせない子どもたちが施設の壁に囲まれて成長する。壁の中は安全ではあるが、「自由」にはほど遠い。ここを出たら、どんな人生を送るのか案じられたが、2021年9月の今、それを思えば気持ちはさらに暗くなる。

何になりたいかと訊かれ、幾人かの少女が「お医者さんになりたい」「ジャーナリストになりたい」「人の役に立つことがしたい」と答える。ほんとうにそうなってもらいたい。

★★★ 絶対オススメ

割礼という言葉はたびたび聖書に出てくるけれど実際に何を指すのか大人になるまで知らないままだった。

男児も痛さがかなり続くだろう。

女子割礼…と書くと恐ろしさがあまり伝わらない。女性器切除と言い換えられると、そのむごさがわかってくる。

こんなことが現在も行われているなんて許せない。
全世界で禁止にして!

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★絶対オススメ

「女性器切除」ということばを聞いたことがありますか。

「女子割礼」とも言われたりしたこのことばは「悪しき風習から女性と子どもの健康を守るためのアフリカの国々の共同会議」 Inter-African Committee(略称IAC)によって1991年に英語でFemale Genital Mutilation(FGM)と定められ、日本語では「女性器切除」とされている。

女性器切除はアフリカの赤道周辺の国々、殊にソマリア、エチオピア、ケニア、エジプトなどで行われている風習。幼い女の子に施術され、陰核と小陰唇を切除し、一部を切除した外陰唇を縫合して、尿道と生理のために小さな開口部だけ残すやり方だ。麻酔なしの激痛に加え、出血多量、感染症で亡くなる子どもはあとを絶たない。成長後も痛みに苦しみ、難産などで死亡するケースが多いという。FGM廃絶活動家のワリス・ディリーが1999年に発表したデータによると、当時も年間200万人もの施術例があったという。施術を受けない女は娼婦と同じとみなされ、社会から排斥される。FGMは、それが虐待であるとは施術された女性ですら疑問に思わず、娘へと受け継いでいく慣習であるという。

ワリス・ディリーは1965年、ソマリアの遊牧民の家庭に生まれ、のちに世界的に有名なモデルになった。3歳のときに女性器切除を施こされた。乾燥地帯の岩だらけの場所、泣けど叫べど、 母親と施術者に押さえつけられ、剃刀を使って性器を切除される。 傷が癒えるのに一カ月はかかったという。13歳で結婚させられそうになり、ひとりで砂漠を歩いて逃げた。外交官家庭のメイドとしてロンドンへ渡る。その体験を「デザート・フラワー」砂漠の花という自伝に表した。ワリスという名前は砂漠の花という意味だという。ワリスはスーパーモデルとして成功するという何千万人にひとりの幸運を手に入れたが、女性器切除がために苦しみ、恐怖した過去は消えない。塗炭の苦しみを味わう少女や女性は今もってなくならない。ワリスは32歳のときに「マリー・クレール」という雑誌の記者にFGMの体験を始めて語り、のちに国連大使になるなど、FGM廃絶のための活動を始めた。 2009年に制作された 映画「デザート・フラワー」はこの、ワリスの自伝をもとに作られている。

「女性器切除」、想像するだにおぞましい。女性は「奴隷」扱いされている。国際社会では1970年代から女性虐待であるとの声があがり、遅々とした歩みではあるものの、虐待であるという認識が共有されるようになって来た。法律で禁止する国も増えつつある。けれども、男性優位の社会で悪しき慣習は今も続く。都市では医療機関が施術する。民間施術者にせよ医療機関にせよ、格好の金もうけであろう。

国連は2030年までに世界中から撲滅する目標を掲げているが、道は遠い。

ソマリアは何十年もの間、政情が安定することなく、イギリスとイタリアによって分割された植民地支配された歴史をもつ。植民地時代後も異なる集団間の紛争が続く。国が統一されないため、社会基盤、経済基盤は整えられない。教育も整備されない。国民は耐え忍んで、耐え忍んで生きて行かざるを得ない。

映画で演じるリヤ・ケベデ(エチオピア出身のモデル)が可愛らしく美しい。ワリスを陰に日向に支えるマリリンはサリー・ホーキンスが演じる。コメディタッチの彼女の演技が映画を優れたものにしている。皆きっとマリリンが好きになるだろう。

最後に、シャーデイ Sadeの歌を贈りたい。
「パール」 “Pearls”   https://youtu.be/eDMg8M4HmnQ

道端で米粒を搔き集める、ソマリアの女
もがきながら生きる
ずっとそうやって生きて来た
なんという力だろうか
どこからそんな力が湧いてくるのだろう
そんな人生を選んだわけじゃない
おろしたての靴のようにひりひりと

★★★ 絶対オススメ

性的虐待、DV、幼児虐待…、どれも強者が弱者に対しておこなう犯罪である。彼ら・彼女らは異常者なのだろうか。もしかしたら、多少の差こそあれ、誰もが有する支配欲の発露なのかもしれない。だとすれば、それを抑え込むことができる人とできない人がいるということなのだろう。その差は何か。どうしたら自己抑制できる人間になることができるのか。できなかったのは、なぜか。罰することはたやすい。しかし、それで終わってはダメだ。メカニズムを解明してこそ、次の事件、犯罪を防ぎ、被害者を生み出さないことにつながる。それは十分になされているのだろうか。

社会的地位も富もあり、「良いこともした」と評価される加害者だが、札びらで頬をはたくかのように、金銭で解決を図ろうとする。しかも被害者である子どもたちへの直接の謝罪や償いではなく、本人以外への懐柔策。経済的に困窮しているなど、社会的弱者の足もとを見るやり口…。

あれれ、子どもたちを慰安婦や徴用工に、加害者を日本に置き換えてみれば、慰安婦・徴用工問題にそっくり当てはまらないか?1965年の「日韓基本条約」には慰安婦・徴用工に関する記述はないし、そもそも当事者の参画もなしに結ばれた頭ごなしの条約である。この映画で「お祖母ちゃんにお金を渡したから、ハイ、おしまい」と同じ構図である。教育の普及など、日本の統治には良いこともあったなどとうそぶく人もいるが、教育目的で朝鮮半島を支配したわけではあるまい。問題の本質に気づかないのは、加害者が加害者たるゆえんである。本作を見た日本人は、何を思うだろうか。


抵 抗

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

トーマス・エドワード・ロレンス、デヴィッド・リーン監督1962年公開の映画『アラビアのロレンス』の主人公で実在の人物だ。1888年生まれ、英国陸軍や空軍を除隊したのち、1935年、46歳、イギリスにてオートバイ事故死。考古学、遺跡、地理に興味があり、語学力に秀でた人物だったという。少年の頃から自転車、徒歩で、のちにはオートバイで旅行するのが趣味だったともいう。

『アラビアのロレンス』(オリジナルの題名もほぼ同じ)は第一次世界大戦中のロレンスの体験を自ら著した『智恵の七柱』(1926年出版)という本を元に作られた。

以上、ロレンスの情報をネットで集めてみたものの、わたしの興味の最大のポイントはそこじゃない。『アラビアのロレンス』は子どもの頃に観た記憶があるけれど、あれはいつのことだったか。207分もの大作を映画館で見たんだなあという感慨。

映画のストーリー展開は理解できたものの、さっぱりわからなかった。何がわからなかったかというと、金髪碧眼の白人男性が砂漠でラクダに乗って旅をする。それはわかる、あの時代にアラブ地域に出かけたヨーロッパ人は数多いるから。ただ、映画に登場する人物は彼以外ほぼアラブ人だ。彼はなぜそこにいるのだろう。何をしているのだろう。なぜそんな状況なのだろう。

その疑問はず~っと引きずったままだった。英国の植民地政策のこと、オスマン帝国との戦争、エジプト、現在のサウジアラビア、シリア、イラク、パレスチナとの関係、知らないことばかりだった。今、半世紀が過ぎてようやく理解し始めた。

ロレンスは第一次世界大戦が始まった1914年、12月に英国陸軍情報部の情報将校としてカイロに赴任した。1916年に外務省アラブ局に転属となり、英国のオスマン帝国との戦争を有利に計るべく、アラブ人にオスマン帝国に対して反乱を起こさせるための工作任務が与えられた。マッカのシャリーフであるファイサル1世に接触するため、砂漠を旅することとなった。(マッカとはかつて西洋人からメッカと呼ばれていた街の名前を1980年代に自国語に改めたものである。)

ロレンスがファイサル1世に提案した戦略は、ダマスカスからメディナに通じ、さらにマッカまでの延長を図るオスマン帝国の鉄道線路を爆破することによってオスマン軍のマッカへの侵攻を食い止めるというものであった。1917年、まずはオスマン帝国軍の拠点のひとつである紅海沿岸の街、アル・ワジュの攻略に成功した。そののち、そこからさらにオスマン帝国軍の重要拠点である港湾都市アカバに攻め入ることにした。アカバを大砲が向けられている正面の海から攻撃するのではなく、背後の内陸から隙を突くという作戦だ。

アル・ワジュを出発し、アカバを内陸から攻撃するにはネフド砂漠を渡らなければならない。アラブ人でさえ無謀な旅だという。どんなところだろう、地図で測ってみた。約700キロだ! 700キロは東京から広島あたりまでの距離。食料も乏しく、まずは水がない! 水を得ることができるのは時々のオアシスか井戸くらいのものだろう。日陰もなく、陽に照らされ続け、ラクダに揺られて進む。何日も何日も。

そんな死と隣り合わせの過酷な旅ではあったものの、彼らはアカバ攻略にも成功する。その後、ロレンスはアカバ陥落と今後の鉄道襲撃計画を英軍司令部に報告すべくカイロへ赴く。カイロへはシナイ砂漠を渡らなければならない。今度は400キロほどの再び危険な砂漠の旅だった。英国軍の意図は、スエズ運河の攻撃を目論むオスマン帝国軍の兵力を鉄道防衛に向かわせ、その隙を突いてシリア、パレスチナに侵攻するというものだった。アラブ軍は貨物列車襲撃にて輸送中の家畜や資材を得ることはできたものの、結局、英軍を有利に導くための駒にされたということだ。

1918年10月、ロレンスはアラブ軍を率いて英国陸軍部隊より一足早くダマスカスをオスマン帝国軍から解放することに成功する。しかし、だ、しかし… つづきは映画をごらんいただきたい。

アラブのオスマン帝国からの独立を理想としていたロレンスは主が英国やフランスに変わっただけと知り、失意の中、故国へ帰国し、陸軍や空軍の国内任務に就いた。冒頭のオートバイ事故による死亡は数年のちの除隊後すぐのできごとだった。

おー、これでわたしも少しはロレンスを取り巻いていた時代の状況を理解できただろうか。イギリスがアラブ地域に対して取ってきた態度、現在のシリア、パレスチナの惨状はそこにも要因があるということだ。

(イギリスは1915年のフサインーマクマホン協定により、アラブ地域の独立とパレスチナでのアラブ人の居住を支援すると約束した。1916年5月にはフランス、イギリス、ロシア帝国との間で締結された秘密協定、サイクスーピコ協定により、イギリスはシリア南部とイラクの大半を取った。さらに1917年11月のバルフォア宣言によりイギリスはパレスチナにおけるユダヤ国家建設を支援することを宣言した。)

それにしても、壮大な映画シーンの数々だった。砂漠に太陽が沈む、蜃気楼、砂嵐、流砂、紅海の砂浜の波打ち際、情景は美しい。デヴィッド・リーン監督の映し出す壮大な情景だ。今と違って地球上にある数多の絶景を手軽には目にすることのできなかった1960年代にこの情景は映画を見る人に感動を与えたことだろう。確かに美しい、確かに美しいが、わたしには少し違った風にも見える。

アラブ人部隊を率いて敵に攻撃をかける、馬を駆って砂を蹴散らし、雄叫びを発する。攻撃だー! オーッ! 美しい数々の情景と相まって、そこに当時のヨーロッパ人男性のロマンが表れているように見える。そこが今ひとつ。ロレンスに異を唱えたいのではなく、リーン監督の描く壮大さがわたしに合わないというだけのこと。

★★★ 絶対オススメ

フランスに植民地支配されていたアルジェリア。解放戦線は警官を殺害し、カフェテリア、ダンスホール、空港といった場所に、バスケットに仕込んだ時限爆弾を置いた。無差別テロである。「女性に爆弾を運ばせ、罪もない市民を殺すのは卑怯だ」と詰め寄るフランスのメディアに対し、「ナパーム弾で何千倍もの村民を殺す方が卑怯だ。我々に爆撃機をくれるなら、こちらの爆弾を差し出そう」と答える。もちろん、インドシナ戦争のことだ。

アルジェリアは、フランスにとって自国領だったわけだが、そこに住む人々を自国民だとは思っていなかった。フランス空挺部隊がカスバに踏み込み、一般家庭のドアを蹴破り、容赦なく住民を引き出す様子は、まるでイラク戦争のアメリカ海兵隊を見るようだ。ストを打つ商店の窓ガラスを割り、シャッターを破り、商品を散乱させるところなど、ユダヤ人商店を襲撃するナチスの突撃隊を彷彿させる。そして情報を取るための拷問。なんのことはない、掲げる旗が三色旗であれ、星条旗であれ、はたまた鈎十字であれ、洋の東西を問わず、また時代が変われど、軍隊や国家権力の本質は変わらないということだ。「表面上は人道的に…」などという台詞からは、フランスの人道主義もまだまだ発展途上であったことがわかる。軍隊や警察だけでなく、そこに住むフランス人のアラブ系住民を見る目、意地悪な態度、さらには殴る蹴るの暴行を思えば、彼ら・彼女らを罪のない市民と呼ぶのが正しいのかとさえ思えてくる。そして、私たちもまた同じことをしていないと言い切れるだろうかという自問自答。

★★★ 絶対オススメ

フランスから連れてこられた女囚たちが「ラ・マルセイエーズ」を歌う場面がある。この映画を初めて見たとき、国歌はこういう状況でこそ歌われるのだと、目から鱗が落ちる思いがした。同じ状況で、私たちは「君が代」を歌うだろうか。歌えまい。民衆の歌ではないからだ。悲しいかな、私たちは民衆の歌を持っていない。

★ 参考に見てほしい

アメリカ人でナチス抵抗運動に加わった人がいるとは。魅力的な女優。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★絶対オススメ

ジュリア役のヴァネッサ・レッドグレーヴが素敵で他の作品も見てみたい。

★ 参考に見てほしい

夫や恋人を取り戻す女たち。ナチス、ナチス、ナチス、何という汚点か。

★★★ 絶対オススメ

ミュンヘン大学の床に白バラのプレートがある。その場まで案内してくれた女子学生の「私たちには恥ずべき歴史があります」という言葉が忘れられない。近年、新しい記念碑ができたということなので、訪ねてみたい。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★かなりオススメ

なんと言ったら良いか。ゾフィーは二十歳だった。墓に花を捧げに行きたい。

★★★ 絶対オススメ

何度見ても新しい発見が常にある。名作というのはそういうものなのだ。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★絶対オススメ

チャーリー・チャップリン監督、脚本、制作、出演のこの映画は1940年に公開されたという。ロンドン出身で25歳頃にハリウッド映画に移ったチャップリン。アメリカで活躍していたと言えども、ナチス政権下にこの痛烈な批判のオンパレードは驚き。

主人公のユダヤ人チャーリーは床屋。 客の髭剃りをするシーンは「ハンガリア舞曲」に合わせ、ヒンケルが執務室で風船の地球儀と戯れるシーンはローエングリンの前奏曲がバックに奏でられる。それぞれあまりに有名なシーンだ。音楽が効果的に名場面を創り上げている。

ヒンケル(疑似ヒトラー)と間違われた床屋のチャーリー(主人公:チャップリンはひとり二役 )が名演説をするシーンがクライマックス。世界の理想を語る。圧巻。その演説を支えるがごとくバックに流れる音楽はやはりローエングリンの前奏曲。ラストシーンのポーレット・ゴダードの無言の表情も実にいい。

登場するイタリアの首相、ペパローニ、じゃなくて何だっけ、が、ヒンケルを訪問し、しきりに「ヒンキー、ヒンキー」と呼びかけるのがおかしくて笑った。笑うところはほかにも満載だけど。

★★ かなりオススメ

ドイツの子どもたちが、ナチス政権とは何だったのかとともに、学校で必ず学ぶテーマに「抵抗の諸段階」というのがある。ヒトラー暗殺は、最後の、そして最もリスクの高い抵抗の形態だ。ここまで至らないうちに何をすべきなのか、そうした教育こそが大切であるという社会認識と、そうやって育成された現代ドイツ人、今の日本とどう違うのかを教えてくれる。

評価(外)

わたしはこの映画、まだ見ていないけれど、良かったと話してくれた人がいる。アメリカの、悲しくもあるコメディ映画。主人公のいじめられっ子の10歳のドイツ人少年、彼の空想上のヒーローは何と、アドルフ・ヒトラー。けれど、ある日、母親が屋根裏にかくまっていたユダヤ人少女を見つけ、親しくなるうちに彼の考えが…。

タイカ・ワイティティ監督が自らヒトラーを演じる。母親役はスカーレット・ヨハンソン。ユダヤ人少女役の演技は高く評価されているようだ。つづきはぜひ書いてくださいね。レイティングもね。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★かなりオススメ

2019年、アメリカのFOXサーチライト・ピクチャーズから上映されました。監督はニュージーランド出身、マオリ系ユダヤ人のタイカ・ワイティティ。

ヒットラーユーゲントで張り切っている(でも命令なのにウサギを殺すことができな い)10歳のジョジョが成長していく物語です。なぜかアドルフ・ヒットラーという空想上の大人の友人(監督が演じる)がいて…

反ナチス運動をしている母ロージー(スカーレット・ヨハンソン)、ジョジョの家の 壁の向こうに匿われていたユダヤの少女エルサがとても魅力的。エルサとの出会いでユダヤ人についての誤解を少しずつ解き目覚めていくジョジョ、淡い恋心も抱き始めて…

ビートルズやデビットボウイの曲がドイツ語バージョンで流れたりして、深刻なテー マにユーモアを沢山ちりばめ、最後近く、とても悲惨なことがあるけれど、ジョジョは きっと力強く歩んでいけると思える作品でした。

チェコの街で撮影したそうで古い街並みが美しく、ほかの俳優もそれぞれ個性的でなかなかよかったです。

ジョジョが母(戦時中だからこそおしゃれをする、美しい靴も履く)と広場に来ると、みせしめで絞首刑にされた市民のなきがらがぶらさがり、「あの人たちは何をしたの?」と尋ねるジョジョに、「できることをしただけよ」と答えるロージー。そしてやがて…

戦争が終わって外に出られたら何をしたい?と尋ねるジョジョにエルサは「ダンスがしたい!」と答え、戦禍の残る街を二人で踊るラストシーン(ラストだと思いました、もう定かでなくて…)。また見てみたいです。

★★★ 絶対オススメ

第二次大戦はドイツのポーランド侵攻から始まった。首都ワルシャワは二度、ドイツ軍に対して蜂起する。一度目は1943年4月、ユダヤ系によるワルシャワ・ゲットー蜂起。これは悲劇的な最期を遂げた。二度目は1944年6月。ソビエト赤軍のバグラチオン作戦でドイツ軍の主力が撃破され、これに呼応する形でポーランド・レジスタントが蜂起した。本作の舞台はこちらである。対岸のヴィスワ川まで進行したソ連軍はそこで止まってしまう。結果的に、ワルシャワの抵抗者たちは鎮圧され、壊滅。なぜ優勢なソ連軍はワルシャワ入城を果たさなかったのか。戦争終結後、自分たち(ソ連)の思うがままに新しいポーランドを建設できるよう、現地勢力がドイツ軍の手によって根こそぎにされるのを待ったのだろう。なんとも酷い話だが、それが国家というものの姿であり、政治とはそういう側面を持っていることを如実に物語っている。沖縄を捨て石にしたかつての(そして今の)日本と同じように…。

★ 参考に見てほしい

ワルシャワ蜂起についてよく知っていないと主人公の行動に理解が追い付かない映画と思いました。

一緒に戦うはずが、いっこうに立ち上がらないソ連軍、ナチスドイツの猛攻撃、親ソと偽りながら復活を試みる主人公、ドイツ軍に破壊されつくされるワルシャワ…

ワイダ前二作をまだ見ていない(悲惨な内容情報に恐ろしくて見られない)のですが、これは品格のある作品でした。

★★ かなりオススメ

2度挫折しましたが、やっときょう初めから最後まで見ることができました。よほど心身に余裕がないと見終わらない映画と思いましたが。

抵抗運動(パルチザン)の末、共産主義のロシア(ソ連)に亡命したものの、ソ連にも気持ちの居場所がなくなったのか 32年後に祖国ギリシアに帰ったけれど 昔と変わらぬ意地を通し追放状態となってしまうスピロ。

山の上の墓地で友人とともに、亡くなった知り合いの名前をひとつひとつ呼ぶシーン、心に響きます。鳥の声を発して気持ちを伝えることができるみたいで不思議。

32年間待ち疲れ、初めは受け入れないかに見えた妻は、共に行くと言いはじめ、二人は桟橋のもやい綱をはずし霧の海へ漂い出る。「愛の島へ」どころか、どこに行き着くのか…行き着くところはあるのだろうか。

映像は美しく音楽もいいです。物語も、「旅芸人の記録」と比べたらよほどわかるものでした。息子との関係とか ?の部分もありましたが。

私の気持ちでは★★★だけど、眠くなるので★★かな。

★★ かなりオススメ

ニュースの字面の裏にこんなひとりひとりの闘いがあった。

★★★ 絶対オススメ

世界で初めて選挙で成立した社会主義はチリのアジェンデ政権だった。チリ国内の富裕層と結託したアメリカ資本に搾取され放題だった国を立て直そうと、アジェンデ大統領は労働者たちに支持を求めた。労働者たちもそれに応えた。というより、労働者たちがアジェンデの人民連合を担いだと言うべきか。

1973年の議会選挙。富裕層や右派は勝利を確信していたのか、自由と民主主義をまもるために大統領を弾劾するのだと息巻いていた。ところが、議席を増やしたのは人民連合の方だった。アメリカはCIAを送り込み、鉱山ストを煽動してチリ経済を麻痺させようと企んだが、それも失敗。最終的には9月11日にアメリカに後押しされた軍事クーデターという暴力によって政権は転覆させられた。

右派を支持した人たちが叫んだ自由と民主主義はもたらされたのだろうか。その後のチリがどのような状況だったかは、グスマン監督の『光のノスタルジア』と『真珠のボタン』を見ればわかる。リーダーを選びそこなうと、自分たちの未来がどうなってしまうのか。歴史を学ぶ意味は、まさにそこにあるのだろう。

NEW★★ かなりオススメ

チリ、2編は、ちょうど星のこと、今、木星と土星が良く見えるので望遠鏡が欲しいなあなどと思っていたところに、世界一の天文台がでてくるドキュメンタリでびっくり。天文台は、サイドストリーで、チリの歴史、ピノチェトに殺害された人たちの残された人たちの声、砂漠に埋められた人を探す家族。収容所で生き残った人が、星のおかげて生き延びられたと言ったのは印象的。遠い南アメリカの地のこれまた、あまりの美しさに、ひとは何をしているのかなあと呆然としてしまいます。

★★ かなりオススメ

アタカマ砂漠は地球上で一番乾燥している土地ゆえにさまざまな国の天体観測所が作られ、研究者が集まる。天文学は過去に向き会う。発せられた光は過去のものだからだ。考古学者、地質学者、歴史学者と同じと。同じ砂漠で、女たちはピノチェトに虐殺され遺棄された夫や息子の遺骨を何十年も探し続ける。誰しもが過去に向き合う。

★★ かなりオススメ

本作からは、無神論者マルクス、唯物論のマルクス、必然的進歩史観のマルクス像は、あまり見えてこない。しかし、彼が何に疑問を感じ、怒りを抱き、行動するようになったのかがわかる。政治学者や経済学者ではなく、政治や経済の問題を包括した思想を生み出した、行動する哲学者だったのだと思う。

マルクスの考えたコミュニズム(共産主義)とは、生産から流通、消費までをコモン(社会全体)すなわち「みんなで」管理するというものだった。共産主義というと、われわれ旧世代の中には旧ソ連邦を思い浮かべてしまう人が多いかもしれないが、あれは国家統制のもとの資本主義であって、マルクスの目指した共産主義とはほど遠いものだった。今になって、それが良くわかる。現在の中国を共産主義だと思う人がいないのと同じように…。

晩年のマルクスは唯物論や進歩史観から遠ざかっていく。無神論者マルクスはどうなった? パリにいたこともあるマルクスが、1862年に出版されたヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読み、なんらかの影響を受けた可能性は十分にありそうだ。そうしたことは、現在進行中のMEGAなる国際プロジェクトで明らかになっていくだろう。なんと、100巻にもなる全集の刊行が予定されているというのだが、私が生きているうちに完結するだろうか。仮に完結したとして、それを読む力が私に残っているかどうかは、はなはだ疑問である。そもそも、全巻の日本語訳など、ありえないだろう。趣味で読む酔狂な人など、まずいないだろうし、読む必要のあるごく一部の研究者には英語版があれば十分だろうから、わざわざ翻訳する人などいるはずがない。一部の図書館にしか置かれない、一部の研究者しか購入しない、したがって(マルクスの理想が実現されていない現時点では)利益の見込めない書籍が出版されるとも思えない。ま、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』を読めば、とりあえずは十分だろう。

それにしても、この邦題はいったいどうしたことだ?これでは、マルクス・エンゲルスなる人物の伝記映画だと誤解を招きかねない。原題の「若き日のマルクス」で良いではないか。フリードリヒ・エンゲルスとの友情、ともにした奮闘を重視するなら、せめて「マルクスとエンゲルス」だろう。もう少し考えて欲しいと思うのは私だけではあるまい。

★★★ 絶対オススメ

第二次大戦後の英国は、敗戦国である日本とさほど変わらない状況だった。「変革しなければならない、自分たちがやろう」と立ち上がった人々と社会福祉の政策が戦後復興を成し遂げたのに、サッチャー政権で急旋回。民営化と規制緩和の結果、失業増大、鉄道惨事、コストアップに苦しむ医療機関等々。今ではサッチャー改革が失敗だったことが証明されている。これまた今の日本を見ているようだ。当時の労働党内閣が掲げた「教育の最大の目的は自分で考える能力の育成」、過去と現在の日本にあるだろうか。

★★ かなりオススメ

スト規制を進めたサッチャー政権とそれに続くメージャー首相の下の1995年、不当解雇された仲間と自分たちのために2年以上に及ぶストライキに打って出たリバプール港湾労働者を支援するドキュメンタリー。あてにできない全国組織の労組を越えて、国際連帯に舵を切る。世界のたくさんの国の港湾労働者組織が支援に回った。ひとりひとりのインタビューを通して彼らの気概が伝わってくる。

★★★ 絶対オススメ

なんだかやたらと楽しい映画だった。最初にほころんだ口元が最後までほぼそのまま。

ロンドンに住むゲイのマイクがある朝ラジオから流れて来るニュースに気を留めたことから始まる。炭鉱労働組合の必死の抵抗にサッチャーは強硬策を打ち出すという世の中の動き。

マイクは思いついた。世間や政府からいじめ抜かれている自分たちと炭鉱労働組合員は同じ立場だ、支援に立ち上がろうと。仲間に呼びかけ、LGSM(炭鉱夫支援同性愛者の会)を結成し、支援金を集め始める。炭鉱労働組合員の中にはゲイを忌避する人がいるものの、徐々に交流を深めて行き、資金援助は成功する。

乗り越えなければならないあれこれの難題はあれど、ドラマティックなストーリー展開はない。登場人物が多くてひとりひとりを覚えられないほど。こういうの好まない人もいそうだけど、わたしにとっては全くの、全くの楽しい映画だった。

今となっては古臭くなってしまった感のあるかつてのポップヒット曲の数々が華を添えている。

いいなあ〜と思える映画だった。オススメ。


★★★ 絶対オススメ

 なぜか見たくなった。で、再び見たわけだが、やっぱり感動的。前の人の感想と重複するところが多いので、一点だけ。ゲイ&レズビアンと炭鉱労働者。社会から疎まれる者たちと政治的な理由で追い詰められる者たち。社会から疎外されている、あるいは疎外されようとする存在同士が手を取り合う。人はみなひとりひとり違うものだが、違うもの同士が共通点を求め、認め合うことで連帯し、大きな力となり、社会をより良い方向へ変えていく、新たな歴史を作っていく。

 ふと自分の国を思う。ここでは、粗捜しをするかのように些細な違いをあげつらい、分裂していく。変革を望まない立場、権力側の誘導もあるのだろうが、自分たちの自由、尊厳、生活を守るために、何と闘わなければならないのかを見失っていないだろうか。自分が大切にする人を守るためには、自分の大切な人を死に追いやろうとするモノと闘わなければならなかったはず。それが「あの戦争」ではなかったろうか。闘う相手を間違った悲劇を忘れたくない。今はどうだろうか。いつか来た道を歩んでいないと、確証をもっていえるだろうか。

 映画の中で女性たちが歌う“Bread and Roses”に涙があふれる。次はケン・ローチの『ブレッド&ローズ』を見ることにするか。

★★★ 絶対オススメ

同性愛に否定的な人に聞きたい。キミは同性愛者から何か嫌なことをされたのかと。そうだとしても、キミが嫌がることをしたのは同性愛者だけではなく、そうでない場合の方が多いはずだ。同性愛を嫌悪する人に言いたい。誰もキミに同性愛者になれなどと言っていない。同性愛者は見るだけで不快だというキミ、ハゲ頭や茶髪を見たくないという人だっているぞ。容姿を言うのはハラスメントだ。そうじゃない、同性愛という価値観、行動が問題なんだ。そう言いたいのか。それならオレはパチンコやゴルフが嫌いだし、それをするヤツを不快に感じる…。そう、万人に好まれることなんて、そうあるものじゃない。全能の神が、そんな偏狭でケツの穴が小さいはずないだろ。自分を守るもの、それは相互の寛容さではないのか。

★★ かなりオススメ

アメリカにはない優れたシステムを奪って来ようとヨーロッパ各国を訪れる。イタリアの長期有給休暇、フランスのフルコースの学校給食、フィンランドの小学校の勉強の進め方、大学授業料が無料のスロベニア(アメリカでの奨学金の返済を続けるアメリカ人留学生も登場する)、ドイツの短時間労働や歴史の汚点を学ぶ高校生、ポルトガル、チュニジア、ノルウェー、アイスランドと、理想的な側面に視点を定め、理想を目指そうじゃないかと。面白おかしく描くのはマイケル・ムーアの得意とするところ。笑い転げっぱなし。

★★ かなりオススメ

ドナルド・トランプが当選勝利宣言をしたのが2016年11月9日。この映画とは別の話しだけど、黒人女性有権者の95%ほどがヒラリー・クリントンを支持し、白人女性有権者の約50%がトランプだったと聞く。

★★★ 絶対オススメ

こんな風にISと闘う人たちがいるとは想像していなかった。衝撃的だ。「何かしなければならない。このままでは自分もほかの人たちも破滅だ」ということなのだろう。だが、立ち向かうということは何と恐ろしいことか。名指しで殺されると知った人は外国へ逃れる。たとえば、彼らはドイツのどこかに暮らし、ラッカにいる仲間からスマホに映像を送ってもらい、世界へ発信する。どこに潜んでいるかを知られてはならない。煙草を指にはさんだ手が震える。むごい人生だ。「ラッカは静かに虐殺されている」とは闘うグループの名称。このドキュメンタリーフィルムを撮った人たちも命がけの仕事である。

★★★ 絶対オススメ

理不尽な運命に屈しはしない。女たちは闘う。バハールたちと行動を共にするジャーナリストはほんとうのことを世界に伝えることに命をかける。

★★ かなりオススメ

ゴラン高原に住む人が花嫁となって二度と戻っては来られない境界線を越える。背景に無知なわたしには理解が難しい。

★★★ 絶対オススメ

自爆攻撃要員に選ばれた二人の男。実行すれば英雄になれる。その代わり、家族や友人、恋人とは二度と会えない。誰しも命は惜しい。命が大切なのは、自爆の巻き添えを食う人たちも同じだ。しかし、他に方法があるか?その揺れ動く心を、私たちは想像したことがあるだろうか。善悪の二元論なんてクソ食らえだ!相手は戦車やミサイルを積んだヘリで殺戮をおこなっている。テロはどっちだ?ブラック・ライヴズ・マターになぞらえてみよう。イスラエル政府が膝で制圧し、パレスチナ人はいまにも窒息しそうな状態に置かれている。やむなく殴る、蹴るという抵抗をせざるを得ない。それに対して発砲するイスラエル。「どっちもどっち」…などでは断じてない。宗教戦争でもない。これは人権侵害であり、生存権の剥奪であり、政治の問題なのだ。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★絶対オススメ

多くの映画にレイティングの星を付けて来たけれど、パレスチナの若者の話にほんとうは星を付けたくはない。映画の出来がどうとかはどうでもいい。ヨルダン川西岸地区の街、ナバルスに住む若者たち、かれらには人生の選択肢がない、展望がない。かれらの根底では占領者イスラエルへの憎しみが抵抗する気力を支え、自爆テロの任務が割り当てられれば、遂行するのが当然と考える。けれども、笑い、怒り、愛し、生きて充実した人生を送りたいのはどこの国の若者も同じはず。サイードとハーレドの二人組もそんな若者だが、イスラエル側テル・アビブでの自爆テロの任務が与えられた。紐を引けば、胴回りに巻かれた爆破装置が作動する。自分ではずすことはできない。

西岸地区にはイスラエル軍による100ヵ所もの検問所がある。イスラエルの入国許可証を持つ者は通過できる。仕事、商売とさまざまな用事で毎日何万人と言う人が通過する。けれど、検問は厳しく、何時間も列にならばなければならなかったり、遅いと騒げば銃で威嚇されたりする。時には殺される。急病人や妊婦が待たされて死亡する例はあとを絶たない。付き添いの医療従事者が殺されたりもする。こうして西岸地区の住民は押し込められている。移動の自由がない。つまり、人権がない。2020年12月の今もイスラエル兵に殺されている人がいる。

封じ込めに起因する経済の停滞、貧困は深刻だ。 若者たちの閉そく感、絶望は増していくばかり。遠く離れたこの地、日本では想像すらしにくいのものの、人権を無視されている彼らの生活は「戦争」よりもリアルに感じられる。なぜ、こうなったのだろう、イスラエル政府と国民はどうするのだろう。

評価(外)

監督ジュリアノ・メール・ハーミスは2011年4月4日、ジェニン難民キャンプで暗殺された。 彼は1958年にユダヤ人の平和活動家の母とパレスチナ人の父の元に生まれた。母アルナ・メールはパレスチナ難民の子どもたちの支援活動にスウェーデン議会から「もうひとつのノーベル平和賞」を与えられた。この賞金を元に2006年、ジェニン難民キャンプに「自由劇場」を設立し、 子どもたちの心の支えとなっていた。

https://bessho9.info/wp/gaza-rap#juliano

★★★ 絶対オススメ

音楽がメッセージであることを再認識させてくれる作品。ロック、レゲエ、ブルース、みんなそうだった。海外のミュージシャンは積極的に政治にコミットするが、日本では「政治と音楽は別」とでも言いたげで、政治的発言をする者は稀だ。音楽だけではない。絵画、映画、写真、文学、芝居、どれも何らかのメッセージを含んでいる。本作を見た若いラッパーが口にした「この国のヒップホップは形だけなんだよね」が忘れられない。

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★★★絶対オススメ

人には幸せに暮らす権利があるのに、この若者たちにはそれがないがしろにされている。街は砲撃で荒れ、住宅も被害を受けた。子どもが遊ぶ公園もない。人々は失業し、貧困に陥っている。電気も一日に数時間しか通じず、水にも不足する。 医療機関も整っていない。が、少なくとも彼らにはラップがある。ラップで自分たちを表現し、抵抗の意を示す。ガザ地区のさまざまな街でDAM、PRといったラップ・グループがライブやラジオ出演を行う。女性のアビールもいる。DAMやPRやほかのラッパーが親の声援を受けているのに対して、彼女は両親や親せきに反対されているため、内緒でライブに出演する。 ガザ地区内には検問所がいくつもあり、自由に行き来できない。彼らが集ってライブを行うのは不可能に近いが、彼らは何とか実現させようとする。 彼らは精一杯生きている。ライブでガザの子どもたちに力を与える。彼らには幸せになってもらいたい。

ドキュメンタリーフィルム
「自由と壁とヒップホップ」 ガザのラッパーたち

★ 参考に見てほしい

この豚がレーニン、これがスターリン、これはトロツキーと楽しいけれど、そんなに単純なものなのだろうか?

1952〜7まで CIAはこの小説のコピーを付けた何百万もの風船を ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアに送っていたとか…えーっ?

★★★ 絶対オススメ

核巡航ミサイルを止めたイギリスの女たち。日本とは違うなー、なんて言うまい。あらためて思い出すのが、大正時代に富山で起きたコメ騒動。米価の暴騰、投機目的の売り惜しみや買い占め、背景にあったシベリア出兵…。政治の貧困と、欲の皮の突っ張った一部の人間が引き起こした社会不安に対し、女たちが立ちあがったのだ。直接行動が社会を動かし、政治を変えた。ビリケン寺内が退陣し、原敬の政党内閣政治が始まった。内灘闘争、風成の女たち、そして#MeToo…。

男だって歴史を変えてきた、そう言う人もいるだろう。しかし、男による変革は、権力、暴力、武力、軍事力、金の力と、いつだって相手が持っていない力を背景にしたものだったのではないのか?それに対し、女の戦いは、弱さを武器に、理性、共感、共苦、コンパッションを基調としたマスの力の結集である。もう男は表舞台から引っ込め、そう言われる前に、身の振り方を考えた方がいいんじゃね?

★★★ 絶対オススメ

1967年に弁天橋で亡くなった山﨑博昭さんは私より1才年上の計算になります。右往左往していた自分を思い出し、痛い思いで長いドキュメンタリーを見ました。14人のかたがたどなたも、彼と自らについて語る真摯さが伝わってきます。

同志だった女性が歌う「学生の歌声に…」はドスがきいていて、過ぎた年季のなせるわざか、今でも情熱は変わらず衰えていないのかと驚きました。


差 別

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★ かなりオススメ

1800年頃のイギリスの政治については知識がない。ウィリアム・ピット首相の名前はかすかに記憶にあれど、何をした人でどんな影響力を持った人か知らない。彼の仲間の国会議員ウィリアム・ウィルバーフォースについてもこの映画を見て、なるほど~と思ったくらい。1800年前後と言ってすぐに思い浮かぶのがジェイン・オースティンの小説群。彼女の物語は主人公の上流階級の私的な範囲のみに留まり、当時の政治や社会がどうであったかということには触れない。そのあたりを見ている限りでは奴隷貿易を含む搾取貿易で富を得ていたイギリス上流階級の背景は見えない。

この映画は1800年頃のトーリー党国会議員ウィリアム・ウィルバーフォースの物語。彼はイギリスの奴隷廃止の法案を数年にわたり何度も議会に掛け、敗北しては味方の議員を増やそうと努力し、他方、世論を巻き起こそうと社会に働きかけ、遂には賛成多数の議決に持ち込んだ。「アメイジング・グレイス」の歌詞は、奴隷貿易に長年携わったのちに牧師となりウィルバーフォースの良き師であったジョン・ニュートンの手になる。オリジナルの歌詞はそのことを表しているという。

演じているのはヨアン・グリフィス、ベネディクト・カンバーバッチ、ロモラ・ガライ、マイケル・ガンボン…。皆とても良い。

★★ かなりオススメ

ことばを失うあまりの人権侵害、女性差別。遠い過去の話しじゃないところがうすら寒い。

★★ かなりオススメ

見ました。「未来を花束にして」。1912年~1913年のイギリス、参政権を得ようと行動した女性たちの話です。

エメリン・パンクハーストが女性政治社会連合 (Women’s Social and PoliticalUnion、 WSPU)を1903年に結成したことからイギリスの女性参政権獲得の闘いは始まりました。パンクハーストは爆弾や放火という過激な行動も必要という立ち位置で、「ことばではなく、行動を!」をスローガンとしていました。(けれども、のちの歴史家の間ではこの運動が参政権獲得につながったのか評価は定まっていないようです。)

でも、この映画はパンクハーストの物語ではなく、モードと言う名前のロンドンの洗濯工場で働く最下層の労働者の話しです。彼女は自分の人生はしかたのないものとして受け入れて来ました。けれども、ある日、女性投票権を声高に叫び、ショーウィンドウに投石をする同僚に遭遇し、驚き、そして、戸惑います。

たまたま巻き添えを食らって警察にしょっ引かれた時には、自分は関係ない、活動家ではないと証言していました。でもその後、自分を取り巻く女性たちに対す るさまざまな理不尽なできごとを目の当たりにする中、少しずつ、少しずつ、気 持ちが変わっていきます。

映画には史実を忠実に描いている部分があります。爆弾、放火がWSPUの常套手段で、彼女たちはそれを実行して行きます。「ボディガード」と称してWSPUの著名な活動家を警察などの暴力から守るための柔術の練習をする場面が出て来たりします。1000人もの女性がこの運動に参加したそうです。

また、刑務所に収監された彼女たちの抵抗はハンガーストライキでしたが、強制摂食と言うむごい措置が彼女たちに施されました。それも描写されます。

わたしはこの手の映画を見た感想を訊かれるのが苦手です。「面白かった」、「すごい人たちだと思った」、「頭が下がった」と言えない複雑な心持ちになるからです。

「あんただったら、どうした?」

映画に出て来る女性たちはわたしの祖母より少し年上の人たちです。あれから100年以上が過ぎ、今の女性を取り巻く社会状況は大きく変わりましたが、変わっていない部分も大きいなと思います。殊に日本では相変わらずの相変わらずです。

映画の最後の部分、1913年に悲しい事件が起きます。実際に起こった事件を描いています。この事件が、女性投票権獲得の運動が世間に注目されるようになる後押しとなります。

けれども、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、パンクハーストは方針を変え、戦争協力態勢にはいりました。

結局、イギリスではこの映画の5年のちに条件付きではありましたが、30才以上の女性が投票権を獲得し、それからさらに10年後に21才以上のすべての女性に拡大されました 。

さて、話変わりますが、この映画の俳優たちが好きです。主人公のモードを演じたキャリー・マリガンは2005年の映画ジェーン・オースティンの「プライドと偏見」に出て来る5人姉妹のひとりを演じた人です。脇を固めているのが、ヘレナ・ボナム=カーター、そして、ロモラ・ ガライです。いずれもすばらしい俳優。端役だけど重要人物エメリン・パンクハ ーストを演じているのはメリル・ストリープです。皆、いいな~。

★★★ 絶対オススメ

アントニアの凛々しさ(チケット持たないのに最前列に椅子を持ってくるのはダメですよ〜せめていちばん後ろで立って聞いて。指揮を学ぶためだから後ろは嫌でしょうが)はもちろん素敵だけど、ロビンの生き方に心打たれました。

指揮者もだけど、すべての分野で、女性だから困難なことを無くしていきたい。

★★ かなりオススメ

ルース・ベイダー・ギンズバーグ、 今、アメリカ連邦最高裁に3人いる女性判事の一人、差別と闘う。

性差別の是正を促すために、まずは、母親を介護する男性の「介護に関する所得控除」を可能にするための男性差別の訴訟に挑戦することにした。これを女性差別に関して争われる裁判に勝つための糸口と見たためだ。困難な裁判の過程の中、ルースの奮闘が続く。最終弁論のための膨大な書類の中に頻繁にあらわれる「セックス」ということばを「ジェンダー」に変更したらどうかというアシスタントのことばにルースは一瞬考えたのち、「ええ。手間がかかって申し訳ない。」「いえ、それがわたしの仕事ですから。」とアシスタントが答える場面が印象に残った。(一瞬で語句置換ができる現代と違って、当時の仕事量としては半端ではなかったはず。)

★★★ 絶対オススメ

RBGが口頭弁論を行なう際、セアラ・ムーア・グリムケ(1792‐1873 アメリカの奴隷解放運動家、女性参政権運動家)のことばを引用する。「わたしたち女性が男性に望むことはこれだけ、ちょっと足をどかしてもらえませんか。」男女平等の権利を得るために弁護士として判事として闘ってきた人生。

彼女はわたしたちからは遠く離れた社会も制度も異なる国の人だけれど、細い糸はつながっていると思う。遠くの国のどの時代の人も、この国のどの時代の人も皆つながっていると感じる。彼女らがいるからわたしたちひとりひとりは守られている、わたしたちひとりひとりが彼女らを支える。とても抽象的な言い様だけど、そう思う。

【蛇足】「ビリーブ 未来への大逆転」という映画で RBGを演じるフェリシティ・ジョーンズを見たとき、ちょっとミスキャストではないかと思ってしまった。ジョーンズは”お茶目な少女”という印象を持っていたから。でも、RBGの若い頃の写真を見て、小柄な人というだけでなく、顔も似ていることに気がついた。それに、RBGはお茶目な人かもしれない。アメリカの人気ショー番組「サタデーナイトライブ」でRBGを大袈裟に模倣するコメディアンをテレビで見て愉快そうにクックッと笑うシーンがあった。似てますか?と問われて「全然似てないわ。」とさらに笑う。

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評価(外)

2020.9.

早々にバーニー・サンダースが哀悼を述べた。「RBGは現代アメリカ史における偉大な判事のひとりだった。彼女の死はわが国にとって大きな損失だ。 正義と権利の平等のためにたたかった闘士として特別に人々の記憶に残るだろう。」

これまで保守派5:リベラル派4でやってきた米最高裁がこのあと、保守派6:リベラル派3となることあらば、情勢は大きく変わる。トランプの指名はいかに?

★★ かなりオススメ

泣く子も黙る(?)トム・ハンクスとデンゼル・ワシントンが主演。ゲイとAIDSへの偏見が最強だった1980年代、それが理由で大手の法律事務所を解雇された弁護士の抵抗の物語に正面から向き合う映画。

2020年の今では、同性愛への世間の理解もいくらかは進み、テレビ界ではゲイタレントは殊更もてはやされたりもする。また、AIDSは完治する方法は未だに見つけられていないものの、必ずしも死に至る病ではなくなり、患者のそばに座っただけで感染するものではないと今では多くの人が知る。

けれども、世間のゲイとAIDSへの偏見が小さくなったわけではない。同性カップルを保護する立法への政治家の抵抗は根強い。

映画評としては、トム・ハンクスとデンゼル・ワシントンの演技がうま過ぎると思う。目だけで心情を物語るなど、尋常じゃない。「うまいなあ~!!」と思ってしまうのが、映画が伝えたいことを阻んでしまっているような気がする。

★★ かなりオススメ

練習は辛いながらもバレリーナになるために日々鍛錬にいそしむララ。ただそれだけなのに、ただそれだけなのに、なぜこんなに苦しまなければならないのか。差別と偏見は人間社会が作り出すもの。それならば撲滅することもできるはず。なのになぜ?


貧 困 ・ 格 差

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

長年噂に聞いていた『トレインスポッティング』を見た。冒頭シーン、主人公マーク・レントンが街中を全力疾走してくる。逃げているのだ。彼のモノローグが走るリズムに乗って唱えられる。「○○を選べ!」「○○を選べ!」「○○を選べ!」「○○を!」「○○を!」「○○を!」

ここはエディンバラ、レントンたち若者5人は幼い時からつるんで来た仲間だ。現在23歳。職業なし、ヘロイン漬け、喧嘩、暴力、万引き、セックスとハチャメチャな日々を送っている。5人はそれぞれ個性があり、ビミョーに仲がいい。そして、全員どことなく幼いと思えてしまう。

トレインスポッティングとは文字通り「鉄道オタク」のこと。でも、エディンバラの旧鉄道操車場はヤクの取引場所として名高かったのだとか? 映画に鉄道は全く映し出されない。が、レントンたちはかつての鉄道少年だったと推測される。列車が通過するときの音、列車が通過するときの車両間の切れ切れの光と影、レントンの部屋の壁紙の模様。サッカーと鉄道、典型的な少年たちだったのだろう。

1996年制作『トレインスポッティング』の20年のちに再び彼らを描いたのが『T2 トレインスポッティング』2017年制作だ。同じダニエル・ボイルの監督、同じキャスト。彼らは45歳近くになっている。皆、相変わらずのヤク漬け。おまけに、売春、ゆすり、強盗、服役となんでもありの彼ら。20年が過ぎても大人になれていない。時代の反映だろうか。「○○を選べ!」と唱えつつも、選べていない。

描かれる人生は悲惨だ。悲しい事件も起きる。けれど、シアリアス100%の映画ではない。ビミョーにおっかしなエピソードがある。見ていて、ところどころに噴き出してしまう。そして、解説文にも書かれているように映像センスが秀逸。天井の高さからのカメラ目線、床から見上げる目線、横向き、斜め向きと面白い。まだある。中から外を見る、外から中を覗き込む。幻想の世界に入り込む。

どちらの映画でもレントンはいつも街を走る、走る、逃げる、逃げる、彼の人生の要素なのだろうか。

ヤク中毒の映画を見たいかと問われれば、「いいえ」と答える。でも、どうしようもない彼らにはなぜか愛着がわく。ダニエル・ボイルは当時の若者とその後の中年の彼らをどうしても描きたかったのだと思う。2作に★三つを与えたい。

★★★ 絶対オススメ

ウーバーなど、近年ギグエコノミーと呼ばれる労働形態が出現してきた。この映画の主人公リッキーは四人家族の夫、父親であり、マイホームを手に入れようと、個人事業主として荷物の配送の仕事を始める。文字どおり1分の余裕もない過酷な仕事だ。ギグエコノミーの労働者は収入が安定せず、社会保障を受けられず、労働者として保護されない。この映画のように過酷な仕事で人間の尊厳すら守られない場合もある。ギグエコノミーという労働形態自体が悪いのかどうかわからないけれど、現状悪を改善する方法はあるはず。どこか仕組みが悪いのだろう。簡単ではないのだろうけれど、手始めは法律の整備か。ウーバーイーツの事業者たちが労働組合を結成したというニュースも見た。声を上げなければならないのだろうけれど、1分の余裕もないリッキーような人たちに何ができるのだろうか。この映画に関連して家族と社会について書かれた興味深い記事を読んだので、紹介したい。

河野真太郎氏が2019年12月に講談社現代新書のサイトに書いた記事
家族が「贅沢品」になる時代……誰が“個人”を守るのか?
『家族を想うとき』が描く非情な現実

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69207

★★★ 絶対オススメ

ため息をつくしかない。ヴィクトル・ユーゴーが1862年に発表した小説「レ・ミゼラブル」で、少女コゼットが虐待する養父母に預けられていた町、モンフェルメイユでの現在の物語。モンフェルメイユはパリから25㎞の距離にあり、車で30分のパリ郊外の町だ。もともと工業の盛んな町で、第二次世界大戦後にアフリカの旧植民地から大量の移民が移って来て暮らし始めた。市街地の整備に資金は投入されず、荒れ果てた集合住宅に住む人々。犯罪発生率が高く、アフリカ系住民のゲットーのひとつとみなされて来た。彼らは二等のフランス人というわけだ。映画では警官は住民を犯罪予備軍のように扱う。

安定した収入、搾取されない労働、教育、十分な生活インフラ、手厚い行政の支援、これらが実現されれば状況は変わる可能性はあろう。実際、この映画が高く評されたのち、モンフェルメイユの街の整備に資金が入り、改善が見られ始めているという。住民も町に誇りを持つようになったと、マリからの移民家庭に生まれ育ち、今もモンフェルメイユに住むラジ・リ監督は話す。

だが、もっとも大事なことは「人として尊重されること」ではないだろうか。映画の中では住民は「クズ」のように扱われている。中でも、子どもの扱いがひどい。こんな風に扱われて育つ子どもは社会不信をいだく大人になるだろう。

ヴィクトル・ユーゴーが1885年に83歳で死去してから135年ほどが経つ。彼の望んだであろう社会は今もって遠い。

※3人の警官を演じた俳優たちの素晴らしい演技に称賛を贈る。

★★ かなりオススメ

テーマは不当な扱いを受ける移民なのか、ファーストフード大企業の闇をあばくのか、若い人のささやかな抵抗を描くのか、それらがミックスしている。

★★★ 絶対オススメ

商品の値段には理由がある。わかりやすい例は100円ショップで売られている物だ。100円という金額には原材料費、流通コスト(梱包、運送、倉庫、etc.)、店のテナント料はもちろん、100円ショップを運営する会社の利益が含まれている。企画担当の社員、経理や営業マン、バイヤー、人事やウェブサイトの管理者、店頭のバイトといった人件費や出張等の手当、そして経営者に支払われる報酬も、その100円の中にある。では、その商品を作った人の賃金はどうなのだろうか。一つ当たり、100円を超えるはずがない。中国でジーンズを作る少女たちの労働時間と賃金は適正なのだろうか。職を求めるあなた、彼女らより低い賃金でなければ雇用されませんよ。そういうことになってしまう。安いといって喜んでいてはダメだ。値下げ競争は自分を安売りする逆オークションにつながりかねない。公正な価格、フェア・トレードが求められる理由である。

★★★ 絶対オススメ

スタバに足を運ばなくなって10年以上になるだろうか。同様に、マックにもケンタにも行かないのだが…。コーヒーは換金作物である。そのままでは衣食住の食にならない。作って、売って、そこで初めて衣食住へとつながる。本来であれば、生きていくために必要な食物、穀類だとか野菜を作った方が良いはずだが、先進諸国がコーヒーとかカカオ豆を作らせている。買ってもらえなければ困る農家の弱みにつけ込み、徹底的に安く買いたたく。その一方で、彼らは穀物や野菜、肉類を農家に高値で売りつける。二度おいしい搾取のシステムなのだ。ダーティー・ビジネスの片棒を担ぎたくなかったら、あなたも考え直した方が良い。

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★★★絶対オススメ

フェアトレードで輸入される東ティモール産のコーヒー豆を買っている。ラオス産のこともある。ただ、買い忘れていたり、深煎りが飲みたかったりするときはカルディで買ったりする。900円/200gほどの値段の内、いくらが生産農家の取り分になるのかな~と疑問に思いながら。その答えがこのドキュメンタリーフィルムにあった。

世界70か国ほどで生産されたコーヒー豆は主にニューヨークとロンドンの先物取引所で売買され、6つもの中間業者を経て、生産者からわたしたちの手元に届くという。世界の4大バイヤーはクラフトフーズ、ネスレ、P&G、サラ・リー。先物取引以外は、スペシャルティ・コーヒーと呼ばれる高級品市場向けとフェアトレードで輸出される分だ。

標高2000m前後の高地で栽培されるエチオピアのコーヒーは味に定評がある。エチオピアのオロミオ州では74,000余りの生産農家がそれぞれ地域の農業協同組合に加盟して出荷しているが、コーヒー相場は浮き沈みが激しく、生活が安定しない。生産者は十分な衣食住をまかなえず、子どもが通う学校もない状態に追いやられている。

このドキュメンタリーは、これらの小さい農協を束ねたコーヒー農協連合会の代表であり、生産者が生活するに十分な対価を得られるようにと世界中を飛び回って公正な取引ができる相手を開拓しているタデッセ氏を中心に問題点をあぶり出していく。

タデッセ氏がロンドンにある取引先のテイラーズ社を訪問した後、スーパーマーケットのコーヒー売り場の棚を見に行く。数多あるコーヒーの中にエチオピア産が見当たらない。テイラーズ社が扱っている商品はここにはないのだ。かろうじてシダマ地方のコーヒーを見つけはしたが。日本でのコーヒーのフェアトレードでのシェアはわずか0.12% (2009年)、アメリカでは2% (2004年)という。

さて、冒頭の疑問、「900円/200gとしたときの生産農家の取り分」はいくらか。2006年制作のこの映画 では生産農家はキロ当たり2ブル得ると言っている。1袋200gでは0.4ブル。2008年時点の為替レートは1ブル=10.55円、つまり、コーヒー1袋あたりの取り分は0.4ブル=4.22円という計算になる。信じられない割合だ。この計算でほんとうに合っているのだろうか。しかも、現在2020年の為替レートは1ブル=3円である。 コーヒーの国際価格は近年暴落している。2019年時点で、2014年の半分にまで落ちているという。この国際価格の変動による生産農家の収入減は補填されない。為替レートの変動による損失は調整されるのだろうか。

5日ほど前、偶然にも、芦花公園の焙煎屋で買ったというエチオピア・イルガチェフェ地域(シダマ地方)のコーヒーをもらった。この映画の中にもイルガチェフェの農家が出てくる。それを見ながら、このコーヒーを飲むのは感慨深い。穀物っぽい風味がして、わずかに甘い香りが心地よい。おいしい。もちろん焙煎方法によっても風味は違ってくるとは思うものの、おすすめしたい。

追加でひとつ書いておきたいことがある。フェアトレードへの批判もこれまで聞いてきた。悪名高いODAほどの話ではないだろうけれど、フェアトレードもその国の発展を害すると。確かに、スターバックスやネスレ、カルディがフェアトレード認証商品を扱っているのは単なるエクスキューズのようにも思えるし、「かわいそうな」アフリカの生産農家を「救っているわたしたち」に酔っている組織があるのかもしれない。それは批判されることだろう。

でも、システム自体も良くないのだろうか。タデッセ氏のやり方が生産農家の利益にかなっていないのだろうか。わからない。いずれにせよ、わたしたちは彼らが生産したコーヒーを口にすることになる。より良い方法が知りたいものだ。

★★★ 絶対オススメ

ナイキの創業者、ビル・ナイツが登場する。今や厚底シューズで話題独占のメーカーだが、その歴史は比較的浅い方だ。アスリートだけでなく、カジュアルシューズとして履く人も多い。授業で「ナイキを履いている人は、どこ製か確かめてみよう」と問いかけたことがある。Made in USAとあったら、それは正真正銘のニセ物だ。過去も現在も、ナイキは米本国に工場を持っていない。かつてはインドネシアで生産していた。それが中国に移った。中国がWTOに加盟し、メリットが薄れたため、今はベトナム製だ。次はバングラデシュやインドだろうか。やがてルワンダとかソマリア、エリトリアになるのだろうか。いずれにせよ、ナイキに雇用され、給料をもらっているアメリカ人はほとんどいないということなのだ。

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★★かなりオススメ

資本主義社会の終焉とか言いながら、資本主義経済について分かっていないんだなと、今さら思い知らされる私です。イヤイヤおはずかしいことで~。さてさて、残された人生何ができるのかですね。

★★★ 絶対オススメ

街を行く人のどれくらいが、今自分の着ている服がどこで作られて、作っている人の労働環境はどのようなもので、どれくらいの賃金を得ているのか、思い巡らしたことがあるだろうか。今、衣類は安く手に入る。安いのは助かるということも確かだ。けれども、ここまで安いのはなんか変だ。40年ほど前は衣類はこんなに低価格のものではなかった。今は、安いからたくさん買ってしばらく着たら捨てるというライフスタイルがあたりまえになった。それが、世界のどこかの国の人が人権を無視されているような働き方の上になりたっていることをじっくり考えたい。 捨てた衣類は外国に輸出されるという。そこではそれらはいったいどうなっているのだろう。

★★★ 絶対オススメ

「押しつけ」の援助がいかに当事者、当事国に害を及ぼしていることか。干ばつや災害時の緊急援助はもちろん良い。けれども、自立が実現しないところに未来はない。

★★ かなりオススメ

コロンバイン高校銃乱射事件で、生徒、先生、市民にインタビューするマイケル・ムーアの視線がどこまでも暖かい。全米ライフル協会会長(当時)のチャールトン・ヘストンの逃げ腰が描かれる。

★★★ 絶対オススメ

政府は国民の健康を守る気はない。マイケル・ムーア監督は闘う。少し泣いてしまう。

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★★ かなりオススメ

アメリカの医療問題、そのうち日本にもと思ってるうちに外資系の保険会社がどっと増えた。

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★★★絶対オススメ

コロナ禍最大の国が米国である理由が、この映画を見た人には即納得できます。

★★ かなりオススメ

アメリカの金融システムと住宅ローン政策の欠陥が元で、多くの人がやっと手に入れた家を差し押さえられ、追われた。2008年にあらわになったサブプライムローン問題。マイケル・ムーアは、なぜこんなことになった、と問いかける。

★★★ 絶対オススメ

「独裁」は誰もが否定するだろうけど、連帯、帰属、団結、チームワーク、熱狂、「絆」、「助け合い」に気持ち悪さを感じる人は多くはないかもしれない。わたしたちは陥りやすいということを常に意識していなければ。ある高校での実験を描く。

高校生の同級生仲間が「ぼくらドイツ人は」と発言した時に、「ぼくはトルコ人だけど」と言っていたのが興味深かったです。この映画のテーマは人はなぜ独裁を許してしまうのかです。それを学ぶために始めた高校の授業と生徒たちの反応が描かれる物語です。

人々の憎悪は新たな難民にだけでなく、これまで社会に深く根を下ろしてきたトルコ人社会にも向けられてきているようです。それが、上に書きました映画「女は二度決断する」の背景です。

ただ、コロナ禍の中、人々の目は現政権のリーダーシップに向けられ、AfDなどの極右勢力は力を失いつつあるというニュースを見ました。良い兆候です。メルケルなくしてこの状況が生まれたかどうかは定かではありませんが。


人 生

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

若いときも老いてからも人を惹き付ける姉妹の美しさ(精神性)。ひどい気候、貧しく小さい村で老いていく人々。

バベットは やっと自分を思いきり表現できて本当によかった…そう、料理は芸術だ!

ウズラが形をとどめて料理として出て来て、私だったらやっぱり怯むかなあ。

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★★★絶対オススメ

1871年、ユトランドの浜辺の寒村のシーンから始まる。嵐に荒れ狂う海、吹きすさぶ風、紐に吊るされた白いカレイが並ぶ。この映画は主人公の姉妹ふたりがまだ若い頃、牧師の父も存命だった30年ほど前に遡って語られる。そして、30年ほどが過ぎ、バベットがパリから亡命して来て一緒に暮らし始める。後半はそれからさらに14年後の物語が繰り広げられる。

50年近くが過ぎてもその漁村のありようは以前と同じように見えるのが驚きだ! 粗末な造りの白壁の小さな家々。ぬかるんだ道。相変わらず荒れ狂う海。ここヨーロッパの北の国では太陽光線は届かないのかと思うほど。躍動はなく、食べ物は粗末、村人は幸せな神の国を夢見て厳しい現世を信心深く静かに送る。

バベットが注文した晩餐会の料理の材料の生きたウミガメ、生きたウズラ、豚の頭などが次々と運び込まれるのを見て、「悪魔の宴」が始まると恐れるのも無理はない。ところが、いよいよ晩餐会の日、いざ食事が始まると皆の顔が一変する。食事の味には一切触れないでおこうという村人の合意の元、誰も「おいしい!」ということばを発しない。けれども、顔は違う。食べたことのない飲んだことのない美味、美味、美味。映画を見ているだけのこちらにも伝わってくる。(おお、でも、ほんとに食べたい!!)

彼ら俳優は何を感じて演じているのだろう。これほどの美味を実際に味わったことがある上での表情なのか、それとも、想像上の味なのか。観客として妙なことが気になった。

北欧は、村の佇まいも、畑も、海も空も、風景は澄んでいて美しい。はでさのないその風景に人々の生活が溶け込んでいるのが想像される。そんな一地方の一時代の人々の営みを見た。

バベットは料理は芸術だと認識している。料理はおなかを満足させるだけのものでなく、精神に到達し至福をもたらす。生きるということはそういうことだと原作者は感じていたのではないだろうか。

★★★ 絶対オススメ

最後のフランキーの手紙で涙が出て来た。 ほんとの父にも2日間だけの父にも(これからは大切な友だ)タツノオトシゴがフランキーからのプレゼント…

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★★★ 絶対オススメ

主題は母と子の信頼の絆なのだが、背景にあるのはDVからの逃避。それは“何か”を生み出すためのポジティブな行為ではなく、ひたすらマイナスにならないための、本来ならする必要のないことである。家族を取り囲む人々は様々。見知らぬ人の中にある優しさ、ごく近くにいる人の冷たさ。誰かに頼ること、助けを求めること、それは恥ずかしいことではないし、手を差しのべることも美徳ではなく、ごく当たり前のことにすぎない。人はひとりでは生きていけないのだから。舞台は、おそらくグラスゴーから30kmちょっとのところにある小さな港町、グリーノック。グラスゴー出身のジェラルド・バトラーが良い味を出している。

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★★★絶対オススメ

監督、プロデューサー、脚本、撮影、音楽、俳優、その他さまざまな役割で映画を作った人が訴えたいことを共有しているとこんなにも良い映画ができるのだとしみじみ思った。登場人物のみならず、誰もが暖かいまなざしを持つ。フランキー少年を含むキャストがみな素晴らしい。彼ら全員に乾杯!! (海岸と港が出てくるよ。)

★★★ 絶対オススメ

小粋なこんな作品を見たかった! ロンドン市内北部のカムデン区の賑わいをはずれた周辺の落ち着いた住宅街に住む老女。彼女の家は、劇作家ベネット氏の玄関先のスペースに置かせてもらった、動かなくなったヴァン。人はそれぞれ違う。住む家のない人を「ホームレス」と一括りにするのは大雑把過ぎ。尊重されるべきそれぞれの個性がある。 英国をよく知らないわたしが言うのは妙だけど、この映画はすごく英国の雰囲気に満ちている。街も住民も、彼らの言動も。老女と劇作家は言うに及ばず、登場する人のセリフがそれぞれ面白い。

この映画は主人公のマギー・スミスなくしては成り立たなかっただろうと思うほど。もう一人の主人公、劇作家役のアレックス・ジェニングスもはまっている。数カットのみ登場する人物がたいそう多い不思議なドラマでもある。コメディアンのジェームズ・コーデンを見つけた。八百屋で果物を売るワンカットのみ。おや~。

★★★ 絶対オススメ

人知れずキラッと光るのがこの作品。時代は1959年、イギリスの海岸縁の町で、亡き夫との念願だった書店を開業するひとりの女性。町の人々の偏見と有力家の妨害に立ち向かうものの…。海岸を散歩していたある時、何十年も街はずれの屋敷に引きこもり、偏屈扱いされている初老の男性を見かける。読書好きという共通点を媒介に友情と愛情をつむいで行くわけだが…。「ものの…」や「わけだが…」という言葉が続いてしまう。映画はハッピーエンドじゃなきゃという方にはおすすめしない。全くの不幸な物語では決してないのだが。

イギリスにはこのような小さな美しい宝石のような作品が多くあると思う…思う。海辺の砂地、草が生えてるだけの殺風景な中を散歩するシーン。こういうシーンがとても好き!

主人公はエミリー・モーティマーが演じる。友人の老人はビル・ナイが。どちらも大~好きな俳優たち。ご満足のわたしである。

★★★ 絶対オススメ

物語の舞台は1931年のベルリン。小説家志望の主人公は、今はタバコ会社のコピーライターをしている32歳のファビアン。これって、1899年生まれの原作者ケストナーか?友人とクレー射撃に興じるシーンで、銃声のたびに耳を押さえるファビアン。戦争のトラウマか…。そういえば、ケストナーは第一次大戦に17歳で従軍し、砲兵部隊に配属されていたのだっけ。混乱した中にありながら文化爛熟のドイツ。友人と怪しげな酒場を徘徊するファビアン。そこで出会った女性、コルネリア。

敗戦から立ち直りかけたのに、世界恐慌で失業者は増え、ファビアンも会社を解雇されてしまう。それにもかかわらず、退職金でコルネリアにドレスを買い、無心する男にカネを渡し、田舎から出てきた母親の土産に20マルク札があるのを気づき、別れ際にハンドバッグに20マルクを忍ばせる。ファビアンは“ふつうの人”ではあるが、貧しても鈍しない、モラリストだった。その彼が、友人を失い、恋人を失い…。単なるラブストーリーや友情の物語とは一線を画する作品。

街にナチスの標語が増えていく。現代に生きる私たちは、ドイツがその後どうなったかを知っている。だが、一部の人を除き、ナチス支持がもたらすものが何であるか、当時の人は気づかなかった。袋小路がある。行き止まりであることは、壁に突き当たったときには誰にでもわかる。将棋などでは「詰み」と言う。壁に突き当たったときが詰みなのではない。進路を袋小路にとった時点で決まってしまっているのだ。今の日本と、なにか似ていないか?

解決策?鳥の目を持つことだ。上空から眺めれば、他の道を選ぶべきであることがわかる。正しい情報、幅広い知識、考えることだけが鳥の目を与えてくれる。原作は焚書の対象になった。鳥の目が、誰にとって必要なことで、誰にとって邪魔な存在であるかがわかる。

3時間の長編なのに、そうと感じさせない映画です。

★★★ 絶対オススメ

第二次大戦後、連合国側に占領されたドイツは1949年に西ドイツと東ドイツとの分断国家となった。そして、40余年のちの1990年に再統一された。再統一は双方の国の国民にさまざまな面で影響を及ぼした。殊に、社会主義国家であった旧東ドイツの国民にとっては社会制度の変革にともなう生活への影響は小さくはなかったと想像される。

この映画の主人公クリスティアンは27歳、旧東ドイツでの生活は知らない。ドラッグで前科はついたものの、昔の不良仲間とも別れ、今は真面目にメガマーケットの飲料売り場で働き始めた若者である。一方、クリスティアンを励ましながら、面倒を見てくれる飲料売り場の主任は長距離トラック運転手だった旧東ドイツ時代の自分を懐かしむ。あの時代への愛着だ。

物語に大きな起伏はない。あるのはどこか「優しい雰囲気」。人生の楽しさと哀しさ。徐々に覚えていくメガマーケットでの仕事、フォークリフトの運転に習熟し、職場での仲間にも馴染んでいく。夫のDVに苦悩する菓子売り場責任者の女性とのロマンス。シーンはほとんどメガマーケット内。

旧西ドイツに吸収された形の旧東ドイツの国民。以前の東ドイツと統一ドイツの双方を知る人々には大きな戸惑いがあったことと思う。以前のほうが良かったと思うこともあるだろう。統一ドイツしか知らない若い人にも前の世代が感じている違和感からの影響はじわじわとあることだろう。旧西ドイツの人々との経済格差など、不満が大きくなっていることでもあるし。

ただ、メルケル首相が2020年のコロナ禍でロックダウン政策を国民に告知するときに強調していた。「自由が尊いことは旧東ドイツ国民であった自分が一番よく知っていること、それでも今は皆に不自由を耐えてもらわなければならない。」 かつて東側で世界一の経済力を誇った旧東ドイツではあったが、国民の自由は大きく制限されていた。多くの人が自由を手にした事実は大きいと思う。

登場人物は皆、魅力的だ。演じる俳優たちがすばらしい。作品は2018年に開催された第68回ベルリン国際映画祭にてふたつの賞を受賞している。

★★★ 絶対オススメ

カフェの息子がピアノで弾く(壁にバッハの姿が貼られて…好きなんだな)バッハ、後にグノーがアヴェマリアとして追加作曲するもの。 目を閉じて聞き入るヤスミンはマリアそのものだ。カフェにとっても、集まる客たちにとっても、ヤスミンはマリアなんだなと感じいった。 ヤスミンも変身していくし、ブレンダの変わりようが素敵! 後味最高!の映画です。

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★★★絶対オススメ

この物語は詳細ないきさつが語られないまま、全体に紗がかかっているような不思議さがある。とても心あたたまる話だ。登場人物はだれもがたいそう魅力的で、互いに関係を編んでいく。その中で中心となるのは主人公二人、ドイツ人旅行者のヤスミンとカフェの主人ブレンダ。初めは疑いの目でヤスミンを見ていたブレンダも物語が進むうちに二人は理解し合う。

ジェヴェッタ・スティールが歌う「コーリング・ユー」は一度は耳にした人が多いと思う。一度聞いたら忘れられないメロディーだ。1989年に日本でも大ヒットした。映画全編を彩っている。もうひとつ印象的なのはカフェの息子が弾く美しいメロディ。(バッハのアヴェ・マリアだった?思い出せない。)自分のピアノを誰も理解してくれない中、ヤスミンだけがその曲の美しさをわかってくれる。ヤスミンはブレンダの高校生くらいの活発な娘の理解者にもなる。

アメリカ南西部の乾燥しきった土地、国道沿いのカフェの周辺には砂漠があるのみ。典型的なアメリカ西部の景色を背景に繰り広げられる物語ではあるものの、アメリカ人には作れそうにない。ほんとうに不思議な映画だ。

★★ かなりオススメ

キング牧師が活動していた頃のアメリカ南部アトランタが舞台。車の運転が怪しくなった母親Missデイジーの為に、息子が黒人の運転手ホークを雇う。初めは彼の運転する車に乗ろうとしない気難しいデイジーも、誠実で優しいホークに少しずつ打ち解けてゆく。

映画の最後は認知症が進んで老人ホームに入れられたデイジーを、感謝祭の日にホークが訪ねてゆく場面。喜んだデイジーとホークの会話、「元気なの?」「何とかやってます。」「私もよ。」「何とかやっていくのが人生ですな。」が印象的。ホークがパンプキンパイを少しずつデイジーの口に運ぶシーンが涙を誘う。

30年ほど前、アメリカからの帰りの飛行機の中で観たのが最初。観なおしてみて、やはりしみじみとした良い映画だった。デイジーとホークを演じる俳優の味わい深い演技が光っている。

★★★ 絶対オススメ

エヴリン(キャシー・ベイツ)とニニー(ジェシカ・タンディ)が特に素晴らしい。エヴリンが最後にはものすごく深みのある女性になって。

イジーが蜂の巣に手を突っ込むところ、ド迫力でした。エンドロールに流れる曲、最後に微かに聴こえる汽車の音、とても良かった。

これから何かのときに「トゥワンダ!」と叫ぼう。

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★★★ 絶対オススメ

1930年頃の二人の女性、イジーとルースの物語、そして、現代に生きるイヴリンとニニーの物語が交互に語られる。昔を語るのは老人介護施設に住むニニー。イヴリンは夫とともに気難しい伯母をその老人介護施設に訪問しようとして道に迷い、今は廃線となった鉄道駅に差しかかる。駅前にあるすでに荒れ果てた食堂の建物のドアにかろうじて読み取れる食事メニューの文字を見つめるイブリン。「フライド・グリーン・トマト」 熟す前の緑色のトマトの輪切りに衣をつけて揚げた料理のことだ。

イヴリンは老人介護施設にてニニーと知り合い、彼女が語るイジーとルースの物語に魅せられる。ニニーの話には、女性差別、人種差別、DVに立ち向かい、二人で駅前食堂を開き、ホームレスにも食事をふるまったイジーとルースの様子が生き生きと表される。映画では触れないが、原作ではレスビアンの関係も示唆されているという。イヴリンはイジーとルースの生き方に感動を覚え、自分も積極的に生きていこうと、実行し始める。

ニニーは、往年の女優、ロンドン生まれ、82歳のジェシカ・タンディが魅力的に演ずる。彼女は1994年に85歳で亡くなったが、その1994年にも映画出演を果たしていた。

★★★ 絶対オススメ

ハナ、パーシー、シェルビー(彼女の変化がすごい)の会話が次第に生き生きしてくるのが楽しい。パーシーが、樹々に癒されているのがとても嬉しい。ハナの息子 イーライが森に籠ってしまったのは、ベトナム戦争での心の傷が ひどすぎたからではと思いました。

前科者への偏見が招く悲しい結果は消えません。でもハナは息子を取り戻し、新しく店を始めにやってきた親子は爽やかです! 活気づいた村の人々も。 題名もみごとです。

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★★★絶対オススメ

主人公のパーシーが木々と森が好きなところがとてもいい。森の空気、森の香り。彼女の過去はあまりにもつらいが、その過去を置いて先に進む可能性がかすかに感じとれる。風景もパーシーも瑞々しい。ここはメイン州の山地なので、インディアナ州の湿地の森とはありようが異なるものの、「そばかす」や「リンバロストの乙女」で描かれる雄大な森を思い出した。そばかすもエルノーラも瑞々しい主人公たちだった。

かつては木材産業で栄えたであろう村に新しい木材利用による産業が芽生えるだろうという示唆があるところもいい。カフェの新しい担い手の若い母親と赤ちゃんとともにコミュニティの希望も見える。心に傷を負ったベトナム帰りのイーライとその母親の希望も見える。悲しいだけではない、救われる映画だった。

映画の原題は「スピットファイア・グリル The Spitfire Grill」という。カフェの主、ハナの亡き夫が戦闘機のスピットファイアーが好きだったという理由からカフェの名前になったもの。原題のままが良かったような気がするなあ。

★★★ 絶対オススメ

ブラジルという国を知りましたね。知らなかったです。手紙の代書屋さん。読み書きができない人が多いということに驚き。あとから世界地図を見ました。9歳の男の子は文字を知らなくても、人の心は読める、そして人を動かすこともできる、ほんとにかわいいなあ...代書屋さんの女性が翻意したのが、あとからじわじわわかってきました。

★★★ 絶対オススメ

イギリスとインド、どちらも自分にとって思い入れのある国が舞台とあって、初めからコーフンしっぱなし。キャストも超豪華!ジュディ・デンチとマギー・スミスは、映画の中の台詞にも出てくる「生まれが19日違い」。それにペネロープ・ウィルトンを加えた3人のデイムの存在感たるや。トシをとるのは決して悪いことじゃない。この作品を見ると、それが良くわかる。当たり前のことなんだけどね。年寄りがいけないわけじゃない。いけないのは年寄り臭いことだよ。若いのに、妙な悟りを開いたのか知らんが、わかったような口を利き、行動を起こさない。それがシラケってものだろう。本作の7人の好奇心、バイタリティ、そして人生経験に裏打ちされた配慮。せめてあのカケラくらいは持ち続けたいものだね。そうそう、ソニー役のデヴ・パテルは『ホテル・ムンバイ』で主役を張っているから、そちらも見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』の4年後に制作された続編です。笑いに笑いに笑った! 冴えたセリフが続々と。

前作から数カ月後のマリーゴールド・ホテル。ミュリエル・ドネリーは今やソニーが信頼する共同経営者。大いに繁盛した現ホテルが手狭になり、第二のマリーゴールド・ホテルを開業する資金を得ようと、カリフォルニアはサンディエゴの投資会社を二人で訪問する場面から映画は始まる。投資会社の会議室にてまずはお茶が供される。開口一番、ミュリエルの言はこうだ。「紅茶はお茶の葉を乾燥させたもの。お茶を飲むときにはその葉に熱湯を注ぐの。煮立っ~たお湯なの。この国と来たら(注:アメリカ)、カップに生ぬるいお湯を注ぎ、その横にティーバッグを置いてある。おしっこみたいに生ぬるいお湯にティーバッグを漬けてお湯の色がちょっぴり変わるのを待つ。年を取るとそれを待ってる時間はないの。」

長期滞在客のひとり、イブリンは前作で紅茶の淹れ方について同じことをジョブ・インタビューに行った会社で主張していた。イギリス人にとっては譲れないことのひとつなんだろう。イギリス人じゃないけど、完璧に同意!!! ポットに熱いお湯を注いだら5分は待たなきゃね。それを待つ時間はあるってこと!

共同経営者ソニーの投資会社へのアピールがつづく。「マリーゴールド・ホテルは人気が高く、満室の日が続いています。長期滞在の高齢のお客様にはたいへんご満足いただいています。それで部屋が空くことがないのです。なにしろお客様は天国に呼ばれるまで出ていらっしゃいません。それで、ぜひとも新しいホテルを開業する必要があります。」

そんなこんなで、投資を受けることにまずは成功。ソニーたちにとって、あとは投資会社が送り込んでくる覆面鑑定人から高評価をもらうことが最重要事項となる。

ホテルの受付に新規の客が到着、サービスを説明している。
支配人ソニー:「当ホテルの特別なサービスとして毎朝点呼をいたします。」
客:「点呼?」
支配人ソニー:「はい、夜中に逝かれた方がいないか点呼して確認します。」

最後のシーン、ミュリエルはソニーの結婚式会場の第二マリーゴールド・ホテルから自分のホテルの部屋に戻り、ソニー夫婦にお祝いの手紙を書く。「わたしは人生の40年を床磨きで過ごしました。人生の最後の歳月はホテルの共同経営者でした。それも、自分の国とは地球の裏側で。あなたがたには将来はまだ見えませんね。運命を支配しようとせず、身を委ねるのよ。人生を楽しめます。昔こう言った人がいました。『今こそが人生の最高の時』と。」

★★ かなりオススメ

初めの頃の展開には、これがコメディなのかな?とびっくりしましたが。

スポーツ大会に自分たちが勝つために汚ない手ばかり使っていたので、それはないでしょうと思ってたら、最後のチェス、リレー、バスケットボール(同時進行でドキドキさせられる)は正々堂々と戦って本当によかった。

へべれけが圧倒的でした。

監督にしたてられた食堂の調理おじさん、迫力でした。

最後の踊りが楽しかった。インド映画ならではでしょうか。

主人公を演じたスシャント、映画完成後に自死したと知り、人生とは…

映画のようには行かないのですね。

★★★ 絶対オススメ

とても良い映画でした。私には、後からじんわりときて、涙がでて。津軽弁は9割がた、わからなかったのですが…。でも、「かっちゃは、しんだ、それからなみださでなくなった。」 いとがメイドカフェのお姉さんと海辺で話す場面です、わかりました。津軽三味線もよかったし、山、雄大な山は八幡平でしょうか。いとが、涙をためていた場面では、わたしもじわり...。

★★★ 絶対オススメ

「か!」→ どうぞ(これ、持って行きな! あげるよ)
「け!」→ お食べ!
「め!」→ うまい! おいしい!

津軽弁や南部弁(八戸を含む)で上記のように言うと、最近、八戸出身の近所友だちに教えてもらいました。

弘前近郊に住む高校生のいとは思ったことを祖母や父、同級生にスムーズにことばで伝えることのできない自分にもどかしさを感じていたりします。祖母と亡き母から伝わる津軽三味線の名手であるにもかかわらず、最近は触れることもなく、三味線はケースの中で長く眠っています。

ある日ひょんなことから、メイド・カフェでバイトをすることになり、青森市まで電車で通い始めます。そして、いとなりに職場に溶け込んでいきます。そうこうする内、店は窮状に陥り、いとは三味線のミニコンサートを開催して客足を盛り返そうと思いつきます。そんな風に家族や周囲の人たちと心を通わせ、自分を確立していく、いとです。

いとが外出しようと、家の玄関で靴を履いている時に祖母が見送りに来て、そばに積んであった紐に吊るした四角い形の食べ物を渡してくれます。その時におばあさんがいとにいう言葉がこれ、「か!」。それだけ。

その食べ物は何? と、件の近所友に質問したら、干し餅だよ、薄い塩味で、硬めではあるけど、サクッと感動的とのこと。ほ~ッ!

★ 参考に見てほしい

1980年5月光州事件で兵士として鎮圧側となり、心に深く傷を負った青年がその傷にガーゼを当てて順風満帆に見える人生を送る。20年ののち、ガーゼは完全に破れる。表現はとてもよいのだけれど、全体にゴテゴテ感が否めないので、敢えて★ひとつ。

★★★ 絶対オススメ

渡世人という言葉、久しぶりで聞きました。渡世人は、日本でいえば用心棒か、ヤクザ?渡世人を自任する男女、主人公の女性がとてもよかった、彼女の物語後半はなんだかドキュメンタリーを見ている気分になりました。主人公の女性はとても美人だし素敵。......そういえばこのところいろいろあって、すっかり疎遠になってしまっている義姉、彼女に似てるなあと思ったり.....なんだか、もう一度みたくなっています。あの広い河は黄河でしょうか。

★★ かなりオススメ

穏やかな風景の中で、静かに吹いてくる幾ばくかの風に身を傾けてふっと乗ってみたら、とても自由な気持ちになった。

そんな映画だった。

懸命に羽ばたくのでなく、流れ来る空気に片足を掛けてみたら「乗れた!」という感じ。

行く先々で出会った人たち、顔たちの写真を撮っては、広々とした平面に貼り付けていく。平面は家々の煉瓦壁、巨大納屋の木造壁、化学工場の通路壁、港湾に積み上げられたコンテナー、砂浜に打ち捨てられた旧ドイツ軍のトーチカ残骸、丸いタンク列車のタンク側面だ。

まもなく88才になるアニエス・ヴァルダ、33才のJR、他のチームメンバー、そして、出会う村人たち、街の人たち。皆で作り合う芸術。壁に貼られた自分の巨大写真を見た人は、今まで生きてきた時間の中に何かしら新たな発見をしたという気持ちになる。

長い人生ののちのヴァルダのひと目盛りがまた刻まれた。


憲 法

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★ かなりオススメ

11人へのインタビューからなるドキュメンタリー。光る、そして、心に染み入ることばの数々。


メディア

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★ 参考に見てほしい

第一印象、古いッ! 40年前のドラマかと思うほど。政府の闇に立ち向かう構図はいい。いいに決まってる。でも、その構図を表現するのにこの筋立てと登場人物の設定しかないのだろうか。フレッシュな作品の登場を切望する。違う感想も聞いてみたい。

★★ かなりオススメ

ニクソン政権下の1971年、ベトナム戦争に関する最高機密文書を新聞が暴露した実話を描く。スピールバーグらしい爽快感、クライマックスへの持って行き方はとても良い。トム・ハンクス、メリル・ストリープを始めとする俳優陣も実にうまい。けれど、実話を元にしているにもかかわらず、リアル感が感じられないのはなぜだろうか。俳優がうま過ぎるのだろうか。正体不明の不満足が残る。

この物語のかなめとなるペンタゴン・ペーパーズを入手した新聞記者のモデル、ニール・シーハンが2021年1月7日、84歳で死去した。ニューヨークタイムズの特派員としてベトナム戦争を取材した。著したノンフィクション「輝ける嘘」1988年ではピュリツァー賞と全米図書賞を受賞した。

★ 参考に見てほしい

星ひとつをつけるほど駄作じゃない。むしろ良い映画。ただ、主人公がステレオタイプなのがちょっと気にかかる。実在の人物たちを元にした物語だという。リアルに近いはずなのにどことなく作り物っぽい気がするのは何が原因だろうか。クメール・ルージュが拠点を置くアンコールワットに魅せられ、ピュリツァー賞を目指し、カンボジア紛争を報道するカメラマンの話。

★★ かなりオススメ

核戦争のリスクに対する「誤解」「デタラメ情報」だけでなく、意図的な「ウソ」がまかり通っていた冷戦期のアメリカ。敵による核攻撃に遭ったらどうする?「ピカッと来たら、さっと隠れる!」だってさ。広島と長崎を経験した日本とは違うのだからしかたないでしょ。そう言って笑えるか?Jアラートのとき、頭を手でおさえて畑でしゃがみ込む人がいた。それが現代日本なんだけど…。学習能力って、やっぱり大切だよね。

★★★ 絶対オススメ

「マニュファクチャリング・コンセント」とは合意の捏造、メディアによって国民の意識が操作されてしまうことを指しています。チョムスキーの分析に驚嘆です。とてもおすすめします。見てください。


環 境

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★ かなりオススメ

何といっても、彼女の実行力に目をみはる! 表現方法が独特、フランス流?

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★★かなりオススメ

苔のアイスランドを知りました、ウクライナ民族発声の合唱もなかなか効果的。

★★ かなりオススメ

アメリカの農業と大資本食産業の歪みはこれまでも何度となく耳にしてきたことだけど、ドキュメンタリーの映像でまざまざと見せつけられるのはほんとうにつらい。特にコーン生産の実態には目をおおう。コーンは畜産牛の餌になる。牛は本来、草食で、コーン餌は病気の元となり、抗生物質が多量に投与されることとなると説明される。ヴィーガンでない限り、食肉産業と縁を切ることは不可能だけれど、それでも、吐き気がしてくる。 2008年頃のニュースで盛んにとりざたされていた、病気の牛をフォークリフトで虐待する隠し撮りのシーンを再び目にすることになった。顔をそむけてしまう。

食肉産業に従事する作業員はほとんどが、不法滞在を含む移民だ。不当な労働条件下で働かざるを得なく、不法滞在で検挙されることもある。会社は労働者を守ろうとしない。

で、注目すべきは虐待行為そのものではなく、モンサントやその他大資本が行っていることにある。アメリカの農業を破滅させている。日本の食生活はアメリカとはほとんど関係がないなどと思ったら大間違い。多国籍化学メーカーは日本を含む世界中の国に多大な負の影響を及ぼしている。 (モンサントはアメリカ・ミズーリ州発祥の化学メーカーで、ベトナム戦争で使われた枯葉剤、農薬のラウンドアップ、ターミネーター遺伝子組換え作物の種子の不当契約販売で悪名高い。2018年にドイツ・バイエル社に吸収合併された。)

このドキュメンタリーから12年が過ぎた。事態が少しでも良い方向に向かった兆候など微塵もない。

★★★ 絶対オススメ

最終戦争と環境破壊で人類の多くが滅び去った世界。どちらも物質文明の飽くなき追求の結果だったという設定。腐海は浄化装置だが、腐海が生まれた原因も人類であることを思えば、自滅への道をひたすら走り続けたのが人類だったことになる。私たちは、このアニメから何か学ぶのだろうか。それとも何も学ばないのだろうか。

ヘンデルのサラバンド(を彷彿させるメロディ)をバックにナウシカが蘇る場面。この原作とは異なる、一種ナウシカの神格化を、おそらく宮崎駿自身が納得していないに違いない。彼が描こうとしたのは、救世主待望などではなかったはずだから。それでもテレビ放映していると、つい見てしまうこの作品。自然と共生しようとするナウシカと風の谷の人々にエールを送りたくなるからなのか…。


核 ・ 原 発

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★ かなりオススメ

熱血漢の艦長を演ずるジーン・ハックマンと、新任ではあるが理性的な副長のデンゼル・ワシントン。二人の性格と言葉遣い、表情、行動の違いが対比がポイントだ。核ミサイルの発射ボダンを押すか、押さないか、命令に従うだけで良いのか、再確認すべきなのか。スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』と併せて見ることで、核戦争がいとも簡単に始まってしまうかがわかる。世界の平和と言うより、人類の存亡が、かくも脆弱なシステムとバランスの上に委ねられていることの恐ろしさ。現在、核ミサイルの発射ボタンは、原潜の艦長ではなく大統領に移管された。しかし、それで本当に安全が確保されたと言えるのか。トランプみたいな人物に預けて良いのか。プーチンや習近平は大丈夫と言えるのか。金正恩はどうか。それにしても、魚雷戦で戦略原潜に撃沈されてしまう叛乱ロシア軍の攻撃型原潜というのもなんだかなぁ…。アメリカ映画の第二次大戦モノだと、ドイツ兵や日本兵は概ねバカで念入りにやられてくれるが、あれと似ているかも。

原潜アラバマが雨の中を出航する。母港、ワシントン州のバンガーという設定なのだろうか。バンガーについては、ドキュメンタリー『シスターと神父と爆弾』を見て欲しい。

★★ かなりオススメ

メリル・ストリープが前年の『ソフィーの選択』につづいて主演を張った作品。この頃から迫力が増してきた。しかし主人公のカレンを殺した者は何の裁きも受けていない。それで良いのか、アメリカ。

★★ かなりオススメ

原発事故が起きたらどうなるか。1988年の原作の背景にあるのは、間違いなくチェルノブイリ原発事故である。それでもドイツは原発から脱却できなかった。メルケル政権でさえ、廃炉を先延ばしにしたほどである。それが福島原発事故で一転、脱原発に舵を切った。地震の多発地帯でもなく、津波の来るところに原発が置かれているわけでもないのに。原発事故の当事国である日本はどうなったか。10年も経たないうちに忘却のかなたに消え去ったかのようである。日独の差は、政府の違いというより両国民の違いのように思えるのだが…。

★★ かなりオススメ

再生可能エネルギーを作り出す技術と製品、設備投資と償却、資金源と機器の設置、稼働と収益、それらはすでに目の前に並んでいて、今はその方向に舵を切るだけ。それができない日本。ヨーロッパでも原子力、石炭、天然ガス、石油による発電に固執する勢力は巨大だった。この映画でも、一人延々と「なぜ再生可能エネルギーは大幅に導入できないのか」を語るIEA(国際エネルギー機関)の役人が登場する。けれども、世の中は疾うに走り出している。そんな勢力は置いてけぼりだ。世界10ヵ国を取材して再生可能エネルギーへの取り組みを聞いてまわる。殊に、マリ共和国の未来に希望が見える。2010年の映画公開からすでに10年が過ぎた。今2020年の再生可能エネルギーの勢いはとどまるところを知らない。(ただし、日本以外で。)

ごにょごにょしている間に日本は石の塊になってしまう。今からでも始められるよ!

それはそうと、この映画に、テスラ社の電気スポーツカーに乗るドイツの企業家が出てくるんだけど、そのオレンジ色の車のドアに「100%」というロゴが貼ってあるのはうなづけるとして、彼のオレンジ色のネクタイに白字で大きく「100%」とプリントされているのには笑った。(100%はもちろん、再生可能エネルギーで電力をすべて賄うってことね。)

★★★ 絶対オススメ

シェーナウの町と住民たちに拍手! 原発が事故を「起こすかもしれない」というのはリスク、「起こした」というのはデンジャー。リスクを避けるにはどうしたらよいのか。安全を優先する。たったそれだけのこと。しかし、それには膨大な手間と金、それに勇気がいる。それにあえて挑戦し、勝利したシェーナウの町と住民たちに拍手! 町おこしにもつながったのだから、文句のつけようがないではないか。一方、日本はどうだ? 原発はそのままだし、事故で汚染された地域はデンジャーが放置されている。風評被害? そりゃ空間線量は減少したよ。でも、山林に落ちた放射性物質はそのまま残っている。落ち葉なんかといっしょに。やがて地中に浸透していくのだろう。風評というのは「現実から目をそらせ」というのに限りなく近い。あゝ、日本人にもシェーナウの住民のような勇気があったらなぁ…。

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★★★絶対オススメ

シェーナウはドイツ南西部の端、スイスやフランス国境に近く、標高500mを越える地に2.500人ほどが住む町である。この町が属する地域はシュヴァルツヴァルト(黒い森)地方と呼ばれ、モミノキなどの針葉樹林が豊かな自然環境をはぐくみ、農業・林業が盛んだ。1986年のチェルノブイリ原発事故の際、2,000km離れたこの地にも放射能が降り注いだ。子どもたちを外で遊ばせられない、何を食べさせたら良いのだろうかと悩んだ女性たちから活動が始まる。電気使用量を減らそう!から始まり、原子力に頼らない電気を使おう!自然エネルギーから作り出される電気を使おう!に至った。

活動グループは自然エネルギー協同組合を設立し、着々と準備を進める。太陽光発電パネルを設置した個人や事業者から電気を買い取る。既存電力会社から配電網を買い取り、各戸へ配電する。既存電力会社は従来方法の発電に加えて原子力発電の電気を売っていたからだ。プロである彼らを相手にするのは並大抵の苦労ではなかった。市は既存電力会社と長期契約を結びたい。電力会社は儲けを手放したくない。ドイツ全土から注目された2回に渡る住民投票の結果、僅差で勝つことができた。配電網を買い取るための提示金額は5億円にも上った。だが、援助の手はドイツ全土から届き、買い取りに成功した。

このドキュメンタリーフィルムは活動を支えてきたメンバーのインタビューからなっている。これまでの経緯、苦労をを語っている。街の中心にある教会の大きな屋根にも太陽光パネルがびっしりと並べられている。本来、教会の屋根に設置するのは禁止されていたのが、牧師のイニシアティブで実現したという。住民の強い意志があってこその成果だった。

ドイツで1996年に始まった電力自由化と同時にこの新しい電力会社は電気を供給し始めた。スタート時は1.700戸への供給だった。この新しい会社は正式名称をElektrizitätswerke Schönauといい、通常EWSと呼ばれている。EWSを選択している電力消費者は2018年には契約者数18万以上、年間供給電力実績は800万GWh(ギガワット時)以上に上っている。従業員数53名、関連会社を含めて153名。(EWS年次報告書2018年より) 今ではEWSの電力の大半はノルウェーの水力発電から得ているという。今、EWSは軌道に乗っているが、彼らの活動はここで終着というわけではない。

シェーナウの成功は何がもたらしたのだろう。ちょっと考えてみるが、はっきりした答えは見当たらない。原子力に頼らない安全な未来にしたいという信念があったのは当然だが、シェーナウ固有の要因はなんだったのだろう。 最初に有能なメンバーが集まったことか、彼らが小さな共同体に属していたことか、豊かな自然を無にしたくないという信念か、エネルギー転換の社会の趨勢だったのか。メンバーが粘り強く活動をつづけた成果であることは確かだろう。みんなの意見を聞きたいと思う。

追加事項としてひとつ情報、わたし自身、ここしばらく忘れていたこと。知名度は低いと思うが、八王子にも市民発電所がある。八王子共同エネルギー(通称「8エネ」)という。現在3か所で太陽光発電を行っている。元八王子にある「結いの会」、山田駅近くにある磯沼ミルクファームの牛舎の屋根、堀之内にあるユギムラ牧場のたい肥小屋の屋根。全部合わせてもごくわずかな発電量でしかないが、「8エネ」のビジョンは大きい。ここの電気を買いたい人は世田谷区に本社のある「みんな電力」と契約することになる。

日本の一般家庭の電力自由化は2016年に始まった。今やガス会社も選べる。テレビコマーシャルなどで有名な電力供給会社以外にも選べる会社はどっさりある。選ばなければもったいない。

八王子共同エネルギー  https://8ene.org/


冤 罪 ・ 死 刑

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

この事件は大地時大戦終結と大恐慌の間で起きた。労働運動の隆盛、ロシア革命の伝播を恐れた司法長官ミッチェル・パーマーによる「赤狩り」が背景にある。

サッコとヴァンゼッティはイタリア系移民(非アングロサクソン系)で第一次大戦では徴兵拒否の前歴があった。そりゃそうだ。従軍すれば、敵側陣営に属する家族や親戚、友人と殺し合わなければならない。家族のつながりを大切にするカトリック教徒なら当たり前だろう。そして労働者階級の無政府主義者。つまり、メインストリームのアングロサクソン&プロテスタント&知識階級、今ならWASPというのだろうが、そうでなかったということだ。

予断と偏見にもとづく裁判の結果、二人は電気椅子で死刑。人種や民族による排除、宗教による排除、思想による排除が公然と行われた、アメリカの黒歴史である。取り調べと裁判の不当性を認められたのは50年後。名誉は回復されたが、二人が生き返ることはない。差別が存在する社会での死刑制度は危険だ。

音楽は、2020年7月に亡くなったエンニオ・モリコーネ。ジョーン・バエズが歌う主題歌“Here’s To You”は「命への讃歌」と「権力への怒り」である。

★★★ 絶対オススメ

なんと悲しいミュージカルなのだろう。移民、シングル・マザーを理解する人もいれば、社会主義の擁護者だと決めつける者もいるし、相手の目が見えないのをいいことに盗みを働く輩もいる。人は様々だ。主人公を取り巻く闇は、彼女の目が見えないこと以上に、人の心の闇であり、それを黙認してきた社会の闇なのだ。今、その闇は取り払われたのだろうか…。


移 民 ・ 難 民

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

この作品は、NBCが制作したTVドラマを、米国日系人博物館(Japanese American National Museum: JANM)が権利を買い取ってDVD化したものだという。第二次大戦中、米国市民であるはずの日系人は、敵性外国人として砂漠の中の強制収容所に送られた。理由は?その答えは、建て前と本音では異なるに違いない。なにしろアメリカは自由と平等を叫び、公正をモットーとする民主主義の国ということになっているから。問うとすれば、それは相手とがっぷり四つに組み、白黒決着をつける覚悟ができたときだ。なにしろ、日系人が強制収容されたことを、われわれ日本人の多くが知らない。歴史の教科書にも記載されていない。その理由も、現在の両国の関係ゆえなのだろう。弁護するならば、米国政府はこの事実を認め、日系人個人に対して謝罪し、金銭による補償をしたということである。私がコメントするのはここまでだ。この先は、ひとりひとりが考えることだから。

★★ かなりオススメ

ファティ・アキン監督の映画を見たのはこれが二作目。これは2007年の制作だから、先に見た、2017年制作の「女は二度決断する」より10年前の作品となる。最初の感想は、「彼の映画は少々変わっている」。「変わっている」だけではあまりに稚拙な言いようだけれど、他にどう言い表せば良いのか分からない。

強いて言えば、登場人物の行動の予測がつかない、ストーリー展開が意表をつくということか。そのひとつは、登場人物があっけなく死んでしまったりすることにある。誰かの「死」があとに残された人にどのような影響を及ぼすかということがテーマのひとつであるらしい。

ハンブルク生まれのトルコ系ドイツ人のアキン監督は自分と同じルーツを持つ人々がドイツ社会で何を考え、どのように生きているかに焦点を当てる。

国家や民族で人々が区分けされるこの世界は「移民的背景を持つ人々」と「そうでない人々」に互いにどのような関係を編んでいくべきか、考え行動することを迫る。互いに無関係に生きて行くというわけには行かない。

この映画では「移民的背景を持つ人」と「そうでない人」のそれぞれの家族間、互いの友人間の心の交流が描かれる。主人公(と思われる登場人物)の感情表現が抑えられているところが良い。

登場人物の話す言語はドイツ語、トルコ語、英語。ドイツ語の原題は「向こう側で」という意味。「生」の向こう側だ。邦題の「そして、私たちは愛に帰る」は映画の主題を的確に表しているのか疑問に思う。

絶〜対、見てね!とまでは言わないけれど、見る価値ありあり。

★★ かなりオススメ

ネオナチにトルコ系移民の夫と小さい息子を殺されたドイツ人女性。テロリストは警察につかまったものの、法廷は有罪にしなかった。司法に絶望した主人公は独自の行動に出る。

トルコ系の夫と小さい息子を若いネオナチ夫婦に爆弾テロで殺されたドイツ人女性が法廷で戦うドラマです。題名の「二度決断する」の意味はよくわかりません。主人公は司法はあてにならないと絶望し、自分で動き始めます。一度目は実行を躊躇し、二度目に成就するところから付けられている題名かと想像しますが、この映画の主題はそこじゃありません。

ドイツ語の原題 Aus dem Nichts は「何もないところから」、「いわれなく」です。「(殺される)理由は何もないのに」という意味だと思います。 ルーツが違うだけ。

ドイツのトルコ人移民は1961年に政府が労働力不足を補うためにトルコなど近隣諸国からの移民を奨励したことから始まりました。今や300万人が暮らしていると言われます。4世が誕生していることでしょう。トルコ人は、今や、ドイツ人がいやがった職業に就労しているだけでなく、他のさまざまな職業に従事しています。移民統合政策に舵を取って来た政府の功かもしれません。日本に住む人が想像することができないほど、トルコ人はドイツ社会に深く根を下ろしています。

けれども、2015年から始まったシリア難民の大量受け入れを機にドイツ社会で外国人排斥が表面化して来ました。昨秋(2019年)の各州議会選挙で極右政党のひとつAfD (ドイツのための選択肢) が議席を増やしたのはまだ記憶に新しいことです。

当のドイツにおけるトルコ人社会も排斥を目の当たりにして、エルドアン政権に拠り所を求めたりするようになっているようです。もともと、ドイツでのトルコ人社会の結束は強いものであり、若い人ですら、自分の祖国はどちらであるのか模索している人が多いと聞きます。

★★★ 絶対オススメ

南フランスの移民が多く住み底辺の暮らしをする男四兄弟の末っ子の中学生が主人公。父親は居ない、そして意識も無く寝たきりの母親を自宅で世話し続ける4人。主人公ヌールは、帰宅すると必ず母が好きだったオペラ「人知れぬ涙」をパソコンからスピーカーに繋いで、部屋の前にセットする。夏休み中に、音楽教師との出会いで、歌うことに目覚める。

個性的で、ハチャメチャな兄達の中で、その兄たちに見守られながら自分を見つめてゆくひと夏の物語り。ヤングケアラーも一つのテーマになって…。流れる曲が、素晴らしい!

紹介なので評価なし

-再生の物語として-
フィリップ・ファラルドー監督の『グッド・ライ いちばん優しい嘘』を見た。スーダン内戦(1983)で故郷を追われ、両親と死別したり一家離散した10万人以上の子どもたちが、その10年後、アメリカとスーダンが協力した計画により、全米各地に移住した。この映画は、「ロストボーイ」と呼ばれた彼らの物語だ。

映画評では、ヒューマンストーリーだとか、アメリカの偽善であるとか、その見方は様々だった。しかし、共通して指摘されているのは、難民の目線で見たときの、いわゆる先進国といわれる国々の矛盾である。しかし、この映画は、そんな定番のメッセージを送るために作られたのだろうか。少なくとも私の目には、これは「再生の物語」だと映った。

主な登場人物は、難民一家の ・テオ(兄)・アビタル(妹)・マメール(弟)

別の難民一家の ・ジェレマイア(兄)・ポール(弟) の兄弟姉妹たち。

この物語では、スーダンのある村で暮らす家族が襲撃を受けて、両親は殺され、残された子どもたちも避難する中で一人ひとり事切れていく。長男テオは、弟妹を連れて安全だと言われていたエチオピアにたどり着こうとするが、そのエチオピアから戻ってきた難民たちからエチオピアも安全ではないことを知り、その中にいた兄弟(ジェレマイアとポール)と一緒に、行き先を変えてケニアへと向かう。しかし、その道程でテオも捕らえられてしまい、残された妹のアビタルと弟のマメールが、ジェレマイアとポールとともに、命からがらケニアの難民キャンプにたどり着く。1256キロの道のりだった。このとき、過酷な経験を共にしてきた彼らは、すでに強いつながりを持つ「家族」となっていた。

その後、彼らはキャンプの中から選抜されてアメリカ移住のキップを手にするが、アビタルだけは異なる地域に引き取られることになり、彼らはまた離散する。たどり着いた米国での生活は、生まれて初めて見るものばかりで、電話やベッドの使い方もわからず、彼らは周囲を苛つかせながらなんとか異文化を身に着けていく。

出演していたのは難民当事者であり、だから彼らの演技には、まさに当事者ならではの戸惑いが映し出されていた。例えば、スーパーに職を得たジェレマイアは、まだ十分食べられるものを廃棄するルールに戸惑い、同時に、ゴミ箱(廃棄BOX)をあさるホームレスの姿を目の当たりにする。そして、「与えないのは罪です」と、店の責任者に逆らって廃棄食材を野宿者の女性に与える。アメリカ社会(商業主義)のひずみを映し出していると評されるシーンだが、私はそこにスーダンの人々の精神世界を見た。

ジェレマイアを演じたゲール・ドゥエイニーは、世界的なトップモデルでもある。1978年、スーダン南部(現在の南スーダン)で生まれ、内戦で一家離散し、強制的に少年兵として徴兵された経験を持つ。14歳でエチオピアの難民キャンプへと逃れ、その後、第三国定住政策で米国に移住。2010年、祖国南スーダンに戻り、ようやく母親や兄弟と再会を果たした。

米国に着いた途端離れ離れになったアビタルとの再会がかなったときのジェレマイアたちの喜びようの裏に、スーダン内戦によって過酷な時間を共に過ごしてきた彼らの姿が垣間見える。

その後、物語では、ケニアの難民キャンプでマメールやアビタルを探している男がいるという知らせを聞いて、兄のテオではないかと思い、代表してマメールがケニアに向かう。兄との再会は喜びだったが、結局兄に出国許可は下りなかった。そこでパスポートの偽装をし、自身のパスポートを兄のものとして兄テオを米国に向けて出国させ、マメールは難民キャンプに残って医療活動を続けるというところで終わる。

タイトルはまさに、「嘘」は誰のためにつくのかという問いを私たちに投げかけるのだが、一方で、難民キャンプに残ったマメールの姿は、スーダン再生の最初の一歩のようだった。離散した家族が、新しい家族を得、離合集散を繰り返しながら、難民キャンプに戻る。マメールはここで新しい家族・地域を作るのだろう。それこそが南スーダンの文化だからだ。家族や地域のために生きる文化。

映し出される子どもたちには生きる力が、ある。南スーダンの人々の、逆境に向き合うんだという、人間としての強さがみなぎっている。

2011年に南スーダンが建国されたが、今も課題が残っている。アフリカの傷は深い。帝国による植民地化と殺戮の歴史は、今でもアルコール依存症、レイプ、難民施設での自殺者の増加など、様々な困難をこの地域に残している。スーダンからの難民・避難民は2019年時点で7千万人を超えている。第三国が受け入れた再定住者は7%にも満たない。その歴史を踏まえてこの映画見ると、単なるヒューマンストーリーではない何かを私たちに気づかせてくれる。

追記:ユニセフのインタビューでの、ゲール・ドゥエイニーのコメント。

――はじめてアメリカに着いたとき、あなたはどう感じましたか?

「今までの自分の暮らし方や文化を失ってしまうのではないか、と心配になった。確かにアメリカに行ったら、まず始めにアメリカでのやり方を身に着ける必要がある。だけどアメリカに行ってから、母国の文化はより大切なものになったんだ。僕はそれを大事にしようと思った。だから南スーダンに戻った時、僕が持っている母国の文化に照らし合わせながら新しい事を身につけようと思ったんだ。それは僕にとってとても興味深く大切なことなんだ。それによって僕は僕のままでいられるからね。」

――あなたにとって母国の文化の重要性はアメリカに行ってから大きくなっていったのですね。

「ああ。僕はそれを失いたくなかった。と同時にアメリカで経験することを怠りたくもなかった。両方を僕の中でひとつにしたかったんだ。」

★★ かなりオススメ

アンゲロプーロス、ふは〜、疲れた! 125分はこの監督の作品としては決して長くはないと思うのだが。十八番の長尺のカメラワークが産む緊張感が視る者を疲れさせるのか。

写真画廊に行って、その天井高く広いスペースに展示された同じ写真家の作品を幾枚も延々と眺めて回ったような気がした。その写真の中に立つ人が時折ことばを発し、幾ばくか動く。駅のアナウンス、列車の音、ヘリコプターの音、バイクが発する爆音。そして、それら全ての音を覆うように哀愁たっぷりの、それでいてどこかしら非情なメロディーが流れる。

太陽はどこにあるのかと思うほど、陰鬱な風景の繰り返し。降りしきる雨、ロープに吊るされた旅芸人の衣装をはためかせる強い風、どこもぬかるんだ地面、そして、定番の立ち込める霧。陽の光が降り注ぐ白いギリシャの印象とは正反対だ。

アンゲロプーロスの頭の中にはまず情景があり、幾つもの情景を繋ぎ合わせて物語が編まれて行くかのようだ。12歳の少女と5歳の弟が父親を探し求めてギリシャから国際列車に乗る。無賃乗車が発覚しては逃走し、あくまでもドイツを目指して続ける二人の旅。「どこへ行くのか。」と問われるたびに、「もっと先へ。」と答える。二人にとっては現実にある過酷な旅も視る者には抽象的に映る。

闇に乗じて、国境である川を小舟で渡ったものの、ギリシャの自分の家に連れ戻されるであろう姉弟はその後は以前の生活に戻るのだろうか。少女は何を思うのだろうか。


楽しいもの

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★ かなりオススメ

ホーリー・グレイルHoly Grailとは、アーサー王と円卓の騎士伝説に登場する聖杯のこと。伝説は神の命により聖杯探求に出かける物語。

モンティ・パイソンのメンバーは、この、英米の少年少女たちばかりか大人にも絶大な人気を誇る騎士たちをイジってみたくなったようだ。日本において、義経とか戦国武将のドラマや映画が繰り返し登場するのにうんざりするのと似ているかな。(殊更きらいというわけじゃあないけどね。)ゆかりの地に出かけて、〇〇饅頭とか、○○せんべいとかに遭遇するとダーッとなるのと同じか。実際、ホーリーグレイル・チョコレートというのが存在するらしい。

でも、Z世代と呼ばれる若い人たちも英雄たちの物語、知ってるのかなあ。ゲームの世界では英雄や武将たち、百花繚乱みたいだから、存外知られているのかも。

この映画は徹頭徹尾、可笑しい、頭狂ってるかもしれない(賛辞)。可笑しいを通り越してあきれてしまう場面と、その一歩手前、大笑いする場面とが折り重なっている。ワハハと笑うしかない!

笑うと同時に、設定されている時代、紀元千年頃の背景を知るのも面白い。(おっかしな)封建制度批判、(おっかしな)魔女裁判、 黒騎士とか(おっかしな)相手との闘い、(おっかしな)姫君救済(実は息子)、(なぜかブリテンの城砦を守る)罵詈雑言を浴びせてくるフランス兵、リヤカーで死体を回収して回る(しかもまだ生きてるというのに)疫病、 およそ考えうるものすべてあり。 まだまだある、140人の美女の住む謎の城で誘惑されそうになったり、「トロイのうさぎ」作戦で敵の城を攻めたり。時代は批判され、おちょくられている。一方、英雄たちは愛されている。

1)アーサーたちの行く手を阻む「ニッ!」の騎士たちが「植え込み shrubbery」を見つけて買って来いと命令するのはどういう意味を持つのだろう。庭いじりをこよなく愛するイギリス人気質を揶揄っているのか。では、彼らが「それ it」ということばを恐れるのはなぜか。

2)ココナッツの殻を打ち合わせると馬が走る蹄鉄の音に聞こえるってほんと? パッカパッカパッカと。 なるほど。でも、中世ブリテンにココナッツ?

★★ かなりオススメ

元英国諜報機関MI7のエージェント、今はハリー・ポッターにでも出てきそうな学校で地理を教えているジョニー。さて、現役エージェントの情報が流出という、こちらもありそうな事件。で、急遽招集されたのが、ジョニーを含む引退した元エージェントたち。チョイ役にもかかわらず、エドワード・フォックス、マイケル・ガンボン、チャールズ・ダンスら往年の名優を起用するなど、かなり贅沢なキャスティング。英国首相には、これまたハリー・ポッターに登場したエマ・トンプソンと、心憎い配役だ。

英国映画を見ていて、いつも思うのだが、演出の小道具としての車の使い方が実に巧みだ。この映画では、官給品としてズラッと並んだ韓国製ハイブリッド車(ヒュンダイ)には目もくれず、ジョニーが選ぶのは、旧式だが貴族的趣味プンプンのアストンマーティン。部長のペガサスが「燃費が悪く、オイルは漏れ、安全装置もない過去の遺物」と悪口をつくが、デジタルを駆使する敵に対抗するアナログの武器だと言ってゆずらない。実はこの車、ジョニー役のローワン・アトキンソンの私物なのだ。南仏の山道で、敵か味方かわからない妖しげな美女とカーチェイスをくり広げるが、彼女の車は電気自動車のBMW。悪役は、英国ブランドだが今やインドのTATA傘下になったレンジローバー。それに追いかけ回される教習車は自動車界の新参者ヒュンダイ。登場人物の役柄と車をうまく結びつけている。そういえば、招集に応じたジョニーがMI7に乗り付けたのは、くたびれたトライアンフ(自動車製造から撤退)だった。

この映画は、ITに依存しすぎた社会のリスクを、面白おかしく警告しているわけで、ただ笑って見ているだけで良いのかとも思うのだが、あとは見てのお楽しみ。


音 楽

評価:  ★★★ 絶対オススメ  ★★ かなりオススメ   ★ 参考に見てほしい。

★★★ 絶対オススメ

まず演奏場所にびっくり仰天! ボルドーの潜水艦基地とは。クリムトやクレーの(本物ではないけれど)作品で幻想的な空間を作ったりもするらしい。巨大なコンクリートの洞窟、海面(河面)が揺れ…そこでジャズピアノが流れる。

端整な演奏と思いました。

ミラバッシには宮崎アニメをもとにした演奏もあるとか、聴いてみたいです。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

音楽好きの人には 評価★★★。ジャズピアノ好きの人には★★★★。星4つのレイティングはこのブログにはないんだけど敢えて。ピアノを奏でるのはジョバンニ・ミラバッシ、パリで活躍のイタリア人ジャズピアニスト。 感受性がとても豊かでキータッチにそれが表れる。古今の抵抗の歌をピアノで歌い上げるソロ演奏のAVANTI!は殊に素晴らしい。メロディーを聞けば、ああ、あの曲とわかるものも多い。このアルバムはジャズとか何とか、ジャンルじゃない!

このライブ映像はボルドーにある、旧Uボート基地をイベント会場に改装した場所で収録したもの。 このUボート基地は戦時中に大西洋岸に築かれた5つの潜水艦基地のひとつで、分厚いコンクリートで構築されている。ステージの背景に波のゆらめきが見られる幻想的な場所。水を背にした場所でのインタビューも見ごたえあり。

★★★ 絶対オススメ

ワーグナーの歌劇は少々「胃もたれする」という印象があって敬遠してきた。あのノイシュバンシュタイン城で有名なバイエルン王ルートヴィヒ二世やヒトラーが狂信的に愛したというエピソードにも辟易するところがあって、余計に気が進まなかったわけだけど、今回、印象は印象にすぎなかったということがわかった。食わず嫌いは良くないね、ということ。

この映画は1982年開催のバイロイト音楽祭の演目。ワーグナー歌劇は音楽だけ聴いていてはダメ。舞台を見なきゃ、です。このローエングリンは何と言っても舞台美術がすばらしい。シンプル過ぎるとの感想を持つ人もいるかもしれないけれど。

一幕目。鎧を着けた大勢の兵士が数段のひな壇に3mほどもあろうかという槍(錫杖?)を立てて直立不動で立っている。彼らは合唱団でもある。その合唱がこれまたすばらしい。反対側のひな壇には貴族諸侯など大勢が位置し、その両側のひな壇の谷間で各演者が歌う。

のちの幕では、飛び込み台の板のように張り出した台の上で歌う人あり。その張り出した台の脇、下手からドイツ王、エルザ姫、ときにはローエングリンが階段を下りて登場する。派手に登場するわけでもなく、人知れず登場するわけでもないその絶妙な舞台の使い方に参った。

って、歌劇なのになんで歌手や歌を評価しないんだ? いやいや、どの歌い手もすばらしい。殊にオルトルート(魔女:メゾソプラノ)の声が美しいと思った。艶消しの声の美しさ。毒のある歌詞が見せ場になっている。

ヒトラーは自分がローエングリンになったつもりだったのだろうか。「彼(ローエングリン)は神に遣わされた。ブラバントの栄光を継承するために。」「 ドイツのためにドイツの剣をとれ」という歌のことばに酔っていたと想像する。自分がローエングリンのごとく、正義を象徴していると考えていたとしたら、勘違いが甚だしい。

ということで、ワーグナーさんのご多分に漏れず、演目時間は長いのだけど、一度ご照覧あれ。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

★★★絶対オススメ

ストレートなレビューが既に出ているので、こちらは変化球…というより遊び球で。

ペーター・ホフマンのローエングリン、やっぱりカッコいい!当時、38歳。後に「ロックを歌って発声が崩れた」とか言う評論家もいたが、まぁ人間というのは理解できないモノ(者・物)に対しては否定的になりがちだし、ときには攻撃したりする生き物だからね。自分ができなければ、そねみ、ねたみ、やっかみの感情が生まれるのもわかるけれど、それを抑え込むのが大人というもの。クラッシック音楽=上等というヘンな優越感を抱くスノッブな人間が多すぎるのがイヤになるね。

エルザ役のカラン・アームストロング。“歌う女優”と呼ばれるほどの美貌のソプラノ。ま、オペラ歌手に美男美女は多いけど…。いやいや、オペラ歌手に限らず音楽界、世界中にいくらでもいるよな。そうでないのも負けず劣らず多いだけで…。おっと、話題がそれた。カラン・アームストロング、当時、41歳。いいね~。なにが?力唱するときのオデコのシワがステキ!ものごとをネガティブにしか捉えられない人にはわからないだろうけれど…。

ヒトラーが、わが身をローエングリンになぞらえたかったことは確かだろう。男の子って言うのは、強い、カッコいいヒーローに憧れるものだ。たとえしかるべき地位につけなくても、ポストが与えられなくても、それは相手の裏切りや無理解によるものであって、自分の落ち度ではない。非難せず、ことさら嘆くわけでもなく、ただ黙って立ち去る。その潔さ。ドイツの男の子たちに“ローエングリンごっこ”のチャンスを与えてやれば、必ずや乗ってくるに違いない。ゲッベルスの考えそうなことだ。それがまんまと成功したということだろう。為政者というのは、確かに(悪・ズル)賢い。だからこそ、やつらの企みにハメられないよう、国民も同じくらい賢くならなければならない。洋の東西を問わず、時代が変わっても…。

★★ かなりオススメ

このオペレッタの場所の設定はブダペストとウィーン。 戦争(第一次世界大戦)が忍び寄るハプスブルク帝国の社交界。初演は1915年のウィーンにて。

華やかな歌と踊りを交えながら、歌姫と貴族の恋物語が進む。登場人物のどたばたぶり(失礼!)にあきれるやら、面白がるやら。

★★★ 絶対オススメ

プラハにはチェコの大作曲家、スメタナとドヴォルザークの名を冠した素晴らしいホールがあるのだが、この日の会場はスメタナ・ホール。そりゃそうだ。ボヘミアの民族的独立を強く願い、チェコ音楽の父とも言えるスメタナの、しかも第二の国歌みたいな『わが祖国』で始まる音楽祭なのだから。そのスメタナ作曲によるファンファーレ、そしてハヴェル大統領夫妻の入場。ヴァーツラフ・ハヴェルの経歴やおこなってきたことをくどくど書くようなことはしないが、劇作家であり詩人が国家元首に選ばれる国を心底うらやましく思う。聴衆全員が起立して国歌「わが家はいずこなり」の演奏。王様バンザイではない民衆のための国歌。これまたうらやましい。

『わが祖国』の冒頭のハープを弾く二人のお姉さんが実にカッコいい。おや、ふつうは後ろの方に置かれるハープがこの位置にあるのか。その音色に心が震える。あまり詳しく書くと、聴いたときの感動が薄れてしまうかもしれないから、ほどほどにしておくが…。あれれ、スメタナ・ホールって、ステージがやけに小さいな。なんだか窮屈そうだ。コロナ禍で演奏者同士の間隔を広くとる現在ならどうするのだろう。と思っていたら、演奏者がやたらに多いのに気づいた。トランペットが4本、トロンボーンが6本と、通常の倍の人数。最初にファンファーレがあったからだな。おや、フルート4、オーボエ4、クラリネット4、ファゴット4、ホルン8、これも倍である。「出演したい人は手をあげて!」で、みんな手をあげたということ?いや、チェコ・フィルとはいえ、こんなに多くの木管・金管奏者を抱えているはずがない。とすれば、団員以外も加わっているということだろうか。クーベリックのもとで演奏したい人、全員集合!こりゃ“クーベリック・キネン・オーケストラ”だな。

1948年2月のチェコスロバキア政変でソ連の傀儡国家化するのに反対し、英国に亡命したラファエル・クーベリック。民主化なったチェコのハヴェル大統領の強い要請で帰国し、奇跡の復活である。待ち望んでいたかのような、チェコ・フィルの楽員の静かな熱気が伝わってくる素晴らしい演奏、そして大歓迎の聴衆、会場全体がひとつとなって織りなす心温まるこの日の演奏会は、音楽の持つ最も素晴らしい結晶ではなかろうか。聴いて涙する演奏なんて、そうそうあるものではない。

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