なぜ戦争は起こった
日清戦争から太平洋戦争までをたどる(パネル 27枚)

日清戦争  日露戦争

1)日清戦争

~朝鮮半島の権益をかけた清との争い~

朝鮮で、重税に苦しむ民衆が蜂起し、大規模な農民反乱(甲午農民戦争)が起きました。自力鎮圧が不可能と判断した李朝政府は、宗主国の清に派兵を依頼。朝鮮半島の支配を狙う日本は、要請もないのに勝手に派兵し、日清戦争に突入します。

戦争に勝利した日本は、朝鮮半島における清の影響力を排除し、《下関条約》によって台湾を割譲させ、莫大な賠償金を得ました。九州の八幡製鉄所(国営)は、その賠償金によって建設されたものです。

2)

台湾の植民地化

1895年、台湾では台湾民主国の建国が宣言され、日本の支配に対して激しい抵抗が展開されました。これに対し、日本は2個師団を投入して武力で制圧。台湾の兵士と住民14,000人が死傷しました。アジア太平洋戦争が終わる1945年まで植民地支配しました。

閔妃殺害事件

李氏朝鮮第26代国王(高宗)の王妃で、日本の朝鮮半島支配に反対の立場をとる閔妃(ミンピ)は、ロシアへの接近を図ります。これを阻止するため、1895年、日本公使館の主導で公使館守備隊その他が王宮に乱入、閔妃を殺害しました。

3)日露戦争

 

~朝鮮半島の権益をかけたロシアとの争い~

日本は朝鮮半島の支配権を確かなものとするため、1904年、宣戦布告なしで旅順のロシア艦隊に攻撃を加え、日露戦争が勃発。ロシアでは首都サンクトペテルブルクで《血の日曜日事件》が発生し、国内が混乱。日本も、日本海海戦の勝利とロシアの拠点である旅順を攻略したものの、激しく消耗した日本に戦争継続の力は残っていませんでした。

米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって《ポーツマス条約》が結ばれ、日本は樺太(現サハリン)の南半分を領有することで戦争が終結しました。

4)朝鮮併合

 

~朝鮮半島の植民地支配はじまる~

1875年9月20日、日本海軍が江華島近海でおこなった軍事演習を契機として発生した《江華島事件》を契機に、不平等条約(日朝修好条規)を押しつけ、1894年の日清戦争で清の影響力を排除、1904年の日露戦争で大韓帝国と名を変えた朝鮮との間に《第一次日韓協約》を結び、財政と外交への介入を認めさせ、1905年の《第二次日韓協約》によって外交権を奪い、1910年の《日韓併合条約》で国を消滅させました。これらはみな、武力による威嚇のもとでおこなわれたのです。

日朝修好条規以降、民衆の生活が苦しくなり、そこで起きたのが《甲午農民戦争》です。送り込まれた日本軍は、圧倒的な武力で農民軍を壊滅させました。その死者は数万と言われます。

5)民族自決の弾圧

 

併合から9年後の1919年3月1日、第一次大戦の中で高まった民族自決運動は、朝鮮半島の都市から農村へ、市民、学生、労働者、農民を含む参加者2百万人と言われる大規模な民衆運動へと広がりました。この《三・一独立運動》も、日本は武力を使って各地で虐殺をおこない、鎮圧したのです。

 

日本風の名前にする《創氏改名》や日本語教育を押しつけ、天皇崇拝を進め、民族の尊厳を奪っていきました。日本のおかげで教育が普及した、植民地支配には良いこともあったと主張する人がいますが、教育普及を目的に朝鮮を支配したのではありません。

関東大震災  満州事変

6)関東大震災

 

~自分たちの影におびえた日本人~

1923年9月1日11時58分、大きな地震が関東地方を襲いました。死者・行方不明者は約10万5,000人と言われます。

この災害の中で、朝鮮人暴動の流言が流れ、メディアや警察もそれを後押し、数千人もの朝鮮人が虐殺されました。その中には、朝鮮人に間違われた中国人や日本人もいます。

なぜこのようなことが起きたのでしょうか。なぜ朝鮮人暴動を信じたのでしょうか。朝鮮人に対する差別意識だけでなく、日本が朝鮮半島でおこなってきた悪行から、朝鮮人がこの機に乗じて反撃してくるに違いないと思い込んだのです。日本人は、自分たちの過去の行為、自分たちの影におびえたのです。

7)満洲事変・国際連盟脱退

 

1931年9月18日、南満洲鉄道の線路が爆破されました(柳条湖事件)。日本の関東軍による自作自演でしたが、これを契機に、日本は中国東北部に軍事侵攻して全域を占領、1932年に満洲国を成立させます。

満州国は、新京(現長春)を首都とし、日本、漢、朝鮮、満洲、蒙古の五民族が協調して暮らす(五族協和)、徳によって統治される理想国家(王道楽土)を謳い文句にしていましたが、実際は日本人が他の民族を支配する植民地にすぎませんでした。国家元首の愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝)は、日本の操り人形だったのです。

国際社会は満洲国を独立国と認めず、1933年、日本は国際連盟を脱退しました。その後、日本は世界から孤立していきます。

8)満洲移民

 

日本国内の困窮した農村を救うという謳い文句でしたが、農業移民が始まる1939年頃までは、予備役軍人で構成される武装移民が中心でした。抵抗する現地農民を鎮圧し、土地を奪うという、侵略そのものだったのです。

ソ連(現ロシア)との国境に近いところには、軍事訓練を受けた16~19才の満蒙開拓青少年義勇軍と呼ばれる青少年たちが配置されました。近い将来に起こるソ連との戦争を想定していたのです。

満洲国に満洲国民はいませんでした。満洲に渡った日本人は、満洲国民とはならず、みな日本人のままだったのです。国民のいない国家、満洲国はまさに虚像でした。

 

日中全面戦争

 

9)日中全面戦争

 

1932年1月、日本軍の謀略により、第一次上海事変が起こされました。1937年7月7日には北京の盧溝橋で日中の軍事衝突が勃発。さらに同年8月には上海で日中両軍が交戦開始(第二次上海事変)。ここから日本と中国は全面戦争へと突入します。

日本軍は中国本土への爆撃をおこなうようになりました。軍事施設ではない、戦争を有利に進めるためにおこなわれる戦略爆撃と呼ばれるものです。ロンドン、ドレスデン、東京、広島、長崎と、その後の都市への無差別爆撃の始まりでした。

ピカソの絵で有名な、1937年のナチス・ドイツによるゲルニカ爆撃の死者数は約1,600人と言われます。1938年の日本の重慶爆撃による死者は1.1~1.8万人、負傷者も4万人にのぼり、国際連盟は無差別爆撃であると非難しました。

10)

南京虐殺

 

1937年12月、日本軍は南京を攻撃。周辺住民が、城壁に囲まれた街の中に逃げ込んだため、城内の人口はふだんよりもはるかに多かったと考えられます。

占領後の2ヶ月にわたり、捕虜、敗残兵、一般市民ら約20万人が犠牲になったと言われます。

万人坑(まんにんこう)

中国各地の鉱山や工事現場で、多数の中国人労働者の遺骸が捨てられ、ときには生きたまま埋められたりしました。

11) 731部隊

 

日本軍は、石井四郎中将のもと、国際法で禁じられている毒ガスなどの化学兵器、細菌などの生物兵器の開発をしていました。実用性や効果を確かめるために、中国人やロシア人の捕虜や民間人を使って人体実験を繰り返したあと、実戦でも使われ、多数の人間が犠牲になりました。

遺棄された毒ガスによって、中国では今なお被害が発生しています。

敗戦直前、部隊は証拠隠滅のために、建物や装置を破壊、資料を焼却処分しました。このことを知った米国は、戦後、研究成果を受け取る見返りに、関係者の責任追及をしませんでした。関係者たちは、その後、東大や京大の教授、のちに薬害エイズ事件を起こすミドリ十字の経営者などになりました。

12) 慰安婦と徴用工

 

日本軍は、将兵の性的欲求をみたすために、初めは日本人女性を、戦域が拡大するにつれ、朝鮮、中国、フィリピン、マレーシア、占領地の女性を、強制的に、あるいは「良い仕事がある」とだまして、性奴隷として奉仕させました。

また、成年男子の多くが兵役に就いたため、国内外の労働に従事する人員が不足するようになりました。朝鮮人や占領地の人たちを、半ば強制的に連れてきて、過酷な労働を強いたのです。

戦後、沈黙をまもってきた高齢の元慰安婦たち、徴用工たちが声をあげ、日本政府に対して謝罪と補償を求めていますが、1965年の《日韓条約》によって解決ずみと、日本政府は取りあおうとしません。

 

日米開戦

13) 日米開戦

 

アジアへの軍事的進出をつづける日本に対し、米国(America)、英国(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)は、1930年代後半から石油やくず鉄などの戦略物資の禁輸を始めます。四ヶ国の頭文字から《ABCD包囲網》と呼ばれました。

国内に資源を持たない日本は、石油資源を求め、南方への進出を図ります。

官僚や軍の上層部は、圧倒的な工業力をもつ米国との戦争については消極的だったにもかかわらず、目に見えない「空気」に流されたのか、1941年12月8日、海軍による真珠湾攻撃に踏み切りました。

同じ日、陸軍がマレー半島に上陸。海軍航空隊はフィリピンにある米軍基地を攻撃し、戦場が太平洋へと広がっていきました。

14)

ミッドウェー海戦

真珠湾攻撃からわずか半年後の1942年6月5日、日米両海軍の主力がミッドウェーで衝突。主力の航空母艦4隻、300機近い航空機と多数の熟練操縦士など、約3,000人を失った日本海軍は、その後も劣勢から立ち直ることなく、勢いをなくしていきました。

インパール作戦

1944年3月、陸軍は、ビルマ(現ミャンマー)の石油資源を確保すること、インドの独立運動を誘発して、英国の植民地支配体制に打撃を与えること、抵抗する中国への補給路を遮断することを目的に、英領インドの北東部インパールを目指してジャングルの中を進撃開始。しかし、補給路をもたない日本軍は、戦闘だけでなく、飢餓やマラリアなどにより、3万以上の死者、行方不明者を出し、この無謀な作戦は失敗しました。

15) 玉砕と自決

 

1942年6月、アリューシャン列島のアッツ島に1,150人の日本軍が上陸、島を占領しました。米国の領土が、外国の軍隊によって上陸、占領された初めてのことでした。

翌年5月、島を奪還するために15,000人の米軍が上陸。17日間にわたる激しい戦闘を繰りひろげ、日本の守備隊は全滅。このことを、日本の大本営は「玉砕」と、さも美しい、勇ましい最後であったかのように発表しました。

軍人としてとるべき規範の《戦陣訓》に、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節があります。捕虜になってまで生きのびるのではなく、潔く死ぬことこそが軍人としての名誉であるという思想ですが、これが広まり、戦争末期には、サイパンや沖縄、満洲などで、民間人までもが自ら命を絶つようになりました。

16)

ガダルカナルの消耗戦

 

日本軍は、米国とオーストラリアを分断するため、ソロモン諸島に進出します。最大に広がった版図の、ほぼ最南端にある島、それがガダルカナルです。 1942年8月から約半年間、米軍との間に激しい戦闘が展開されました。日本本土から遠く、弾薬や食料の補給は困難をきわめ、マラリアなどにも苦しんだあげく、2万人もの死者を出して敗北しました。

レイテ沖海戦

1944年10月、フィリピン沖の広大な海域で、日米両海軍の艦隊同士が衝突。多くの艦艇を失った日本海軍の連合艦隊は、ほぼ壊滅しました。

17) 本土爆撃

 

1944年8月、米軍はマリアナ諸島のテニアン島を占領。ここからB-29による日本本土への爆撃が可能になりました。

11月24日、111機のB-29が北多摩郡武蔵野町(現武蔵野市)の中島飛行機武蔵製作所などを爆撃。以来、日本に向かうB-29が連日のように飛び立つようになります。

翌年3月10日の《東京大空襲》で、東京は火の海となり、10万人の死者、100万人の負傷者を出しました。つづいて13日には大阪が、その他多くの都市が爆撃の目標とされました。ここ八王子も、8月1日の空襲によって死者445人、負傷者2千人以上、焼失家屋1万4千戸、罹災者7万7千人の被害がありました。

一般市民に対する無差別爆撃は国際法違反として非難されるべきものですが、これを始めたのは日本だったのです。

18) 沖縄戦

 

1945年3月、沖縄は50万のアメリカ軍に包囲されました。海から艦砲射撃、空から爆撃、そのすさまじさを、沖縄の人は鉄の暴風と呼びました。

4月1日に読谷村の海岸に上陸した米海兵隊は、5月末に首里城の地下に置かれた守備隊本部を制圧。日本軍は住民を巻き込みながら南方に撤退し、戦闘をつづけました。

6月23日、司令官の牛島満中将が自決し、日本軍による組織的抵抗は終わりました。しかし「各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ(中略)生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」、階級が上の者に従って最後まで戦え、捕虜になってまで生きのびるなという命令のため、戦闘は8月15日以降もつづくことになったのです。

19) 沖縄の犠牲

 

沖縄戦の犠牲者は、一般住民9万4千を含む12万2千人以上、実に県民の4人に1人が亡くなりました。戦争の悲惨さをいちばん良く知っているのが沖縄の人たちなのです。

沖縄戦の被害が大きかったのは、初めから「本土防衛のための時間稼ぎ」と位置づけられていたからです。

日本軍は、沖縄方言を使った者をスパイとみなしました。住民をマラリアのまん延する山中に追いやり、作戦が漏れることを防ぐために、投降を禁じ、自決を強要しました。軍人と民間人が同じガマ(洞窟)に隠れ、泣き声で敵に見つかるのを恐れ、母親に赤ん坊を殺させたりもしました。

本土防衛のためなら沖縄を犠牲にするのはやむをえない。それしかない。そこにあるのは、沖縄と沖縄に住む人々に対する差別感情です。はたして今日、それはなくなったのでしょうか。

20) ヒロシマ・ナガサキ

 

1945年8月6日、テニアン島から飛来したB-29エノラ・ゲイによって広島に、つづいて9日にはB-29ボックスカーによって長崎に、原爆が投下されました。

広島は、ウラン235を使ったリトルボーイ、長崎はプルトニウム239のファットマンという、異なるタイプのものでした。両者の比較という意味合いがあったはずです。

放射線が人体にどのような影響を与えるのか、日米が調査・記録していますが、旧731部隊の関係者がこれに協力しました。原爆投下が人体実験という側面も否定できません。

21) 原爆投下の背景

 

米国は「早期に戦争終結するため」と説明しますが、原爆を使用しなくても、日本の降伏は時間の問題でした。原爆は、将来の仮想敵であるソ連に対して、原爆の威力を見せつけることと、そのような兵器を保有していることを誇示することで、国際政治上の主導権を握ろうとしたのです。

その後、ソ連(現ロシア)、英国、フランス、中国が原爆の開発に成功し、今日ではインド、パキスタン、イスラエル、朝鮮の、あわせて9ヶ国が核兵器を保有しています。

かつて原爆は、科学の最先端技術でしたが、今や作り方は文献やインターネットでも得られるようになりました。やる気とお金さえあれば、どの国でも核保有国になれるのです。そしてどの国も「防衛のために必要」と主張しています。

22) ソ連参戦

 

米大統領フランクリン・ルーズベルトは、日本の降伏にはソ連の参戦が不可欠と考え、英、米、ソによる2月の《ヤルタ会談で》対日参戦を促しました。

日本側は、それを9月以降だと予測し、5月には満洲の4分の3を放棄し、大連、新京、図們を結ぶ最終防衛線を策定、南満洲での持久戦を決めていました。また、そのことを開拓団には知らせていませんでした。

1945年8月7日、ソ連は《日ソ中立条約》を破棄して満洲に攻め込んできます。頼りの関東軍はすでになく、軍や満鉄の関係者、行政官、その家族たちは、いち早く鉄道で逃げることができましたが、最終防衛線の外に置き去りにされた開拓民たちは、自力で逃げるよりほかありませんでした。

23) 集団死

 

日本の民間人犠牲の特徴に、母親が子どもを、兄弟姉妹で、刀や鎌、手榴弾を使い、集団で死を選ぶということがありました。

米兵が上陸してきたら、男はみな戦車でひき殺され、女はみな暴行される。人々はそう思っていたのです。まさに日本軍が、中国で、アジアの戦場でおこなってきたことでした。敵もきっと同じことをするに違いない。ここでも日本人は、自分たちの過去の行為、自分たちの影におびえたのです。

自決とは「自分で決める」ことのはずですが、死ぬこと以外の選択を軍は許しませんでした。また、赤ん坊が「自分で死のう」と決めるはずがありません。言葉の正しい使い方として、最近は集団自決ではなく、《集団死》と呼ぶようになりつつあります。

 

敗戦

24) 8月15日

 

1945年7月26日のポツダム宣言を受け入れ、日本は無条件降伏しました。戦争に負けたのです。

それ以前、2月14日に近衛文麿は昭和天皇に対して「早期終戦」を上奏しましたが、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」と、天皇はこれを受け入れませんでした。このときに戦争が終わっていれば、東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎の原爆など、何十万人もの死者を出さずにすんだかもしれません。アジアや米兵の犠牲も減ったはずです。

戦争に負けたのだから、「敗戦」なのですが、なぜか「終戦」と呼ばれたりします。戦争が終わったのは確かですが、なにか誤魔化しているようでスッキリしない言葉です。占領軍でなく進駐軍、撤退でなく転進、全滅でなく玉砕。いろいろな問題から私たちの目をそらすために日本語の曖昧さが利用されていないでしょうか。

25) シベリア抑留

 

満洲にいた男性は、年齢に関係なく軍に動員されたため、ソ連軍によって捕虜となり、シベリアに連れていかれました。その数、約57万5千人といわれます。

極寒の中、満足な食事も休養も与えられず、厳しい労働を強いられ、約5万8千人が亡くなりました。(もっと多いという研究報告もあります。)

ソ連軍の民間人に対する攻撃、女性への暴行、シベリアへの連行と抑留は、人道から見ても非難されるべきことです。しかし日本軍も、1941年6月にドイツとソ連の間に戦争が始まると、ドイツが優位になったら《日ソ中立条約》を反故にし、東西からソ連を挟み撃ちにすることを決めていました。翌7月には、そのための軍事演習を満洲北部で実施しています。

26) 引き揚げ

 

戦争が終わり、中国大陸に暮らしていた人たち100万人以上が日本に帰ることになります。

ソ連軍だけではなく、土地を奪われた現地の住民、飢え、寒さ、病気に襲われ、絶望の中で集団死するなど、逃避行の中で8万人の人が命を落としました。

泣く泣く子どもを中国人家庭に預けた親、中国人の妻になった人もいました。いまだに帰ることのできない残留者、終わらない肉親さがし。戦争の傷痕は今なお残っているのです。

命からがら戻ることができたものの、元の土地を処分して満洲に渡った人たちには、住む家も土地も、働く場もありませんでした。故郷でも「満洲帰り」と後ろ指をさされ、再び国内の荒れ地の開拓に向かうよりほかなかったのです。

27) 加害と被害は背中合わせ

 

父が戦死した。夫が帰ってこなかった。空襲で家族が死んだ、家を焼かれた。食べ物がなかった。仕事がなくて苦労した。体験をともなった被害は目に見えます。わかりやすいのです。

しかし、父や夫も、海の向こうで同じことをしていたかもしれません。誰かの命を奪い、現地の人の生活を破壊していたかもしれません。ただ、それは日本にいる私たちには見えません。加害を知るためには、想像力が不可欠です。

戦争をなくすためには、被害だけではなく、加害の面から考えていく必要があります。加害者がいないのに、被害者だけがいるということはありえません。加害がなくなれば、被害もなくなるはずです。加害者にならないことが、唯一の解決策なのです。

今の日本国憲法は、加害者にならないための方法を示しているのではないでしょうか。

 

浅川地下壕(中島飛行機疎開工場)
パネル3枚

浅川地下壕(1)

浅川地下壕(2)

浅川地下壕(3)

湯の花トンネル列車銃撃(パネル3枚)

湯の花トンネル列車銃撃(1)

湯の花トンネル列車銃撃(2)

湯の花トンネル列車銃撃(3)

由木地域の戦跡
リンク先にて地図とパネル7枚

八王子空襲

八王子空襲の空襲パネル写真

パネル制作:斉藤勉氏グループ

憲法コーナー

 

子どもにわかることばで憲法前文を!

日本(にほん)国(こく)憲法(けんぽう)のためのまえがき


私たちはもう戦争をしません。日本の主人公は、私たちです。私たちみんなで日本の舵取り(かじとり)をします。日本の行き先を決めるのは、私たち自身であり、この憲法(けんぽう)を作りました。

でも、私たちが国のことを直接決めるのは難しいので、まず選挙をします。選挙はもちろん正しく行われます。その選挙で選ばれた代表が、国会で話し合って、日本のことを決めます。そうして、私たちのために、私たちの子どもや孫のために、しっかり考えて国の様々な決まりの大元である「憲法」を決めました。

私たちは、いろいろな国と仲良くします。協力し合います。みんなで自由に楽しく暮らすことを目指します。戦争はしません。戦争のためにひどいことが起きてしまうことがないように努力すると、固く心に誓い(ちかい)ます。

日本のことを決めて実行する人たちがいますが、この仕事は、私たちみんなから信頼され頼まれた仕事です。日本のことを決めたり実行したりする人が偉い(えらい)のではなくて、私たちみんなが国のことを決める権利(けんり)を持っているのです。その私たちの代表が、国の仕事を行います。そして私たちみんなの生活が、もっと良くなるようにします。

今まで書いたことは、憲法を決める前からある、人間みんなにとっての自然のルール、おきてです。このルールは、いつでもどこでも、ゆらぎません。憲法は、この自然のルールにもとづいて作られました。私たちは、この憲法に反するようなどんな決まりもルールも命令も、決して作りません。

日本の私たちは、平和がずっと続くことを心から願っています。みんなで理想をしっかり持つことは、とても大切です。どの国の人だって、平和が好きなはずです。正しいことをしようと思っているはずです。世界中の人が、本当は仲良くなりたいと願っていることを、私たちは信じます。私たちは、世界の人を信じることを通して、日本のみんなの安全と生活と命を守っていこうと、心に決めました。

私たちは、平和を守り続けます。だれかがいばって、だれかを支配することはだめです。だれかを抑え(おさえ)つけたり、自分だけの狭い(せまい)考え方にとらわれるのはだめです。世界のみんなも、そんなだめで悪いことをなくそうとがんばっています。そのがんばっている世界の人々から、日本も認めてもらえる国になりたいと思っています。

世界中の人たちが、恐怖にふるえることがないように、食べ物や家がなくて困ることがないように、平和で安全な生活が送れるようにしたいと思います。世界のみんなは、そんな生活をする権利を持っています。たしかに、持っています。

どの国も、自分の国のことだけを考えてはだめです。他の国のことを考えないなんてだめです。今まで書いてきたような国の基本的な決まりやルールは、本当はどの国でも同じはずです。どの国の人も、自分たちも立派(りっぱ)な一つの国だと言うなら、みんなでこの同じ思いを持つべきでしょう。

日本の私たちは、日本の名にかけて、全力をあげ、この理想を進めていくと、誓います。


碓井真史(社会心理学者) 2014.5.3
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/aebfa5c6cc27a98b532e740ea58fb615e7bd5b14

憲法九条をお国ことばで!

憲法九条を各地の方言で紹介している本があります

『おくにことばで憲法を』 大原穣子/監修・著(朗読CD付き)
絵:いわさきちひろ  新日本出版社 1.980円

  • アンヅマシグ暮らすにいい世の中ごとつくりてど(青森県津軽地方)
  • まんつハァ、絶対に武器は持だねえごどにしたのだ(岩手県水沢地方)
  • これがだゃあ九条の、戦争の放棄いうことだわ(愛知県名古屋市)
  • 誓(ちこ)うたからには、それを守らなあきまへん(大阪市)
  • 軍備を持っとらにゃー戦争はできんのじゃけー(広島県備後地方)
  • ほんなこつ馬鹿らしか戦争ば永久にしぇんで(福岡県筑豊地方)
  •  
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