4.戦車道路 1.山王塚の高射砲陣地
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4.戦車道路
町田市との境にある《尾根緑道》は、かつて戦車道路と呼ばれていました。相模陸軍造兵廠で作られた戦車や装甲車の走行試験をするためのテストコースだったのです。
この道路は、朝鮮半島から連れてこられた人たちを使役して建設されました。約8キロですが、当初は、もっと長いものになるはずでした。戦争が終わったため、未完成のままになり、実際にテスト走行がおこなわれることもなかったようです。
1960年代の終わり頃まで、町田街道に《防衛庁特殊車両試験道路》の看板が設置されていました。特殊車両(略して特車)とは、戦車のことです。日本国憲法9条で、日本は武器をもたないことになっているため、戦争の道具である戦車という呼称は使えず、特車と呼んでいたのです。今日では、政府も堂々と戦車と呼んでいます。
1.山王塚の高射砲陣地
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長池公園から尾根幹線を渡った側に「よこやまの道」の名で親しまれている散策路があります。その西端、多摩市と町田市が接するあたりの小高いところが山王塚です。標高は165メートルほど。
戦争末期、ここに高射砲陣地が置かれました。相模湾から造兵廠を攻撃に来る、あるいは横田基地方向に向かう敵機に備えたものです。現在は藪におおわれています。
2.由木のゼロ戦墜落現場
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2.由木のゼロ戦墜落現場
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戦争末期になると、日本近海に進出した米海軍の空母艦載機が、この周辺にまでやって来るようになります。
1945年2月17日、グラマンF6Fの編隊が飛来し、これを迎撃しようと、厚木飛行場から発進した第302海軍航空隊のゼロ戦との間で空中戦になりました。墜落したゼロ戦の阪一等飛行兵曹が戦死。由木西小学校の近くに朽ちかけた木製の墓標があります。
3.堀之内沖ノ谷戸公園の防空壕
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3.堀之内沖ノ谷戸公園の防空壕
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公園の南側、標高の低い方の入口近くに横穴があります。1944年頃に作られたと思われる、自家用防空壕の跡です。
5.相模陸軍造兵廠
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5.相模陸軍造兵廠
相模原市にある、通称「補給廠」は、1938年に開設された相模兵器製造所が、2年後の1940年に拡大され、相模陸軍造兵廠という兵器工場になったものです。ここで戦車などが作られていました。
敷地内には、当時「省線」と呼ばれていた横浜線からの引き込み線があり、車窓からプラットホームの跡を見ることができます。
戦後、連合国軍に接収され、《相模総合補給廠》という名で、今でも在日米陸軍の補給施設となっています。ベトナム戦争では、米軍の戦車や装甲車の修理がおこなわれていました。
火災や武器解体中の爆発事故、不発弾の発見のほか、境川へのカドミウム垂れ流し、他の米軍基地から出た有害物質PCBの保管が問題になったこともあります。
6.横田基地
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6.横田基地
ここ長池公園の上空を飛ぶ飛行機は、福生市、瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市にまたがる広大な横田飛行場を離発着しています。
横田飛行場は、1940年、大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として作られ、戦争末期には、首都圏防衛の戦闘機基地として使われました。
戦後、連合国軍に接収され、東アジアにおける米軍の主要基地として、在日米空軍司令部が置かれています。
横田飛行場は、首都圏を飛ぶ民間機、軍用機すべてに対し、飛行ルートや高度を指示する権限(横田進入管制区)をもっています。羽田空港を離発着する旅客機や調布飛行場を利用する小型機も、これに従わなければなりません。《横田空域》とか《横田ラプコン》と呼ばれますが、東京の空が日本のものでないことを示しています。
7.多摩火薬製造所
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7.多摩火薬製造所
1938年、現在の多摩市連光寺と稲城市大丸・坂浜にまたがるところに、大日本帝国陸軍の造兵廠火工廠板橋製造所多摩分工場が作られました。火薬、弾薬の工場です。隣接する稲城市の城山公園との境には、「陸軍用地」と彫られた石柱が残っています。
戦後、米軍に接収され、空軍の弾薬庫として使われていましたが、福岡県北九州市にある山田弾薬庫から横田基地に直接搬入するようになってからは、あまり使われなくなりました。しかし、ベトナム戦争では、ここで作られた火薬も使われています。
ゴルフ場などがあるここは、今なお《多摩サービス補助施設》という名の、米軍のレクリエーション施設です。