満蒙開拓団
拓魂公苑
3月の例会では多摩市にある拓魂公苑を訪問し、満蒙開拓団で亡くなった人々、殊に満蒙開拓青少年義勇軍の少年たちに思いを馳せるとともに、拓魂公苑が存在する意味を考えました。
拓魂公苑は、1963年、社団法人全国拓友協会が満蒙開拓団の8万人の死者を祀るためにこの地に土地を取得し、「満蒙開拓殉難者之碑」を建立した場所です。2001年、東京都に移管されました。
毎年4月第2日曜日に慰霊祭が開催されています。
2020年現在、手入れは東京都公園事務所等の好意により行われているものの、全国拓友協会の解散以降は管理責任者不在となっています。このことについて、満蒙開拓平和記念館館長の寺沢氏がブログ ”テラサワ日誌” に書いていらっしゃいます。下のリンク先の項目8番目です。
「満蒙開拓慰霊碑」の保存を (「星火方正」2020/12/22よりの転載)
http://manmoukinenkan.blog.fc2.com/blog-entry-139.html
『8.多摩「拓魂公苑」の維持問題』
別所9条の会で2020年3月に拓魂公苑を訪れました。下に関連事項としてブログ記事を掲載しています。ごらんいただけますなら幸いです。
ここをクリックすると、下の三つのブログ記事が連続してお読みいただけます。
2020.3.23 例会報告:拓魂公苑を訪れました
2020.3.23 拓魂公苑を訪れて
2020.4.12 訪う人も少なかった:拓魂祭の日
満蒙開拓、背中あわせの被害と加害
満洲に渡った開拓民
農業移民(約27万人) 開拓団数(約800)
- 満蒙開拓青少年義勇軍(約8万6千人)
- 試験移民(武装移民、1932年~)…農業経験のある在郷軍人。
- 分村・分郷移民(1937年~)…農村からの集団移民。
- 満蒙開拓青少年義勇軍(1938年~)…15~18歳の青少年。
- 自由移民…国や県、市町村募集以外。
- 勤労奉仕隊…農閑期の春から秋の数ヶ月に派遣。
- 帰農開拓団…農業以外の職種から満洲に移民し、農業に転業。
- 土地収用に抵抗する地元農民を強制的に囲い込み、彼らの農地を「無人地帯」に指定、約2000万ヘクタールを安価に買い上げ、入植地とした。
- 満洲国は日本の外地(本土の延長)ではなく、日本政府が承認した外国であったが、移民たちは日本国籍のまま日本人社会の中で生活していたため、日本人という意識が強く、現地住民と交流する事はあっても同化はしなかった。
- 満蒙開拓青少年義勇軍は「兵士予備軍」という位置づけで、農業実習とともに軍事教練を課され、軍事的観点から、主にソ連国境に近い満州北部に入植させられた。42年以降、戦局の悪化に伴う兵力動員で成人男性の入植が困難となり、青少年義勇軍が移民の主軸となった。
満洲帝国崩壊時の軍と政府の動き
1944年
7月 9日 | サイパン陥落 |
9月18日 | 大本営、関東軍主力を通化省に移動 ソ連軍侵攻想定した作戦命令 |
1945年
3月 3日 | マニラ陥落 |
4月 5日 | ソ連、日ソ中立条約不延長を通達 |
5月 7日 | ドイツ降伏 |
5月30日 | 満鮮方面対ソ作戦計画要領(内線作戦) 大連―新京―図們を最終防衛線 → 満洲の4分の3を放棄 |
7月 1日 | 参謀本部第二部、ソ連軍の武力発動を8月頃と予想分析 |
7月10日 | 在満邦人18歳以上45歳以下の男性を「根こそぎ招集」 |
8月 2日 | 関東軍報道部長がラジオ放送「関東軍は盤石。国境開拓団諸君は安んじて生業に励むがよろしい」 |
8月 9日 | 大本営「戦後将来の帝国の復興再建を考慮し、なるべく多くの日本人を大陸の一角に残置」 |
8月10日 | 大本営、関東軍に「満洲全土放棄も可」 |
8月14日 | 外務省「三カ国宣言受諾ニ関スル在外現地機関ニ対スル訓令」 居留民の現地土着方針 |
8月26日 | 大本営・朝枝繁春参謀、在満日本人の「現地土着方針」報告 |
8月29日 | 大本営総参謀長、朝枝報告に同意 |
8月30日 | 駐満大使、在満日本人の内地送還を政府に電報で懇願 |
8月31日 | 日本政府、終戦処理会議で改めて「現地土着方針」を指示 |
1946年
3月16日 | GHQ「引揚に関する基本指令」軍人引揚を優先 |
満蒙開拓がもたらしたもの
現地住民の犠牲…
多数が土地を追われ、生活を奪われ、亡くなった。
土龍山事件(依蘭事変)…1934年3月9日、土地収用に対して起きた現地住民による武装蜂起。5月20日、関東軍が鎮圧。
開拓民の犠牲(約8万人)…
栄養失調、発疹チフス等の伝染病、ソ連軍による虐殺、現地民による襲撃、沖縄戦より多い集団死
1945年
8月12日 | ソ連軍と現地民に追い詰められた哈達河開拓団の421人が麻山で自決 |
8月14日 | 興安街でソ連軍戦車部隊が1000人以上を虐殺 |
8月17日 | 暴民に襲われた高橋開拓団の約300人が呼蘭河に投身自殺 |
8月24日 | ソ連軍と暴民に追いつめられた鳳凰開拓団216人が自決し、全滅 |
8月27日 | 佐渡開拓団跡地にたどり着いた避難民が、ソ連軍の偵察機を焼き、トラックに対する射撃の報復として1400人以上が殺害される |
8月27日 | 暴民に襲われた亜州白山郷開拓団の365人が自決 |
8月27日 | ソ連軍によって集団レイプされ続けていた日満パルプ敦化工場の女性社員や家族30余人が青酸カリで集団自決 |
9月17日 | 瑞穂開拓団の495人が服毒自殺 |
黒川開拓団は保護と引き替えにソ連軍将校に未婚女性による「性接待」を提供 (西隣の来民開拓団270人は集団自決) |
- シベリア抑留(約57万5千人、うち約5万8千人が死亡)
- 残留婦人、残留孤児 永住帰国者、2万余人…いまだに祖国に帰れぬ残留者たち、終わらぬ肉親さがし
- 帰還者たちに対する「満州帰り」「満州乞食」という侮蔑 → 再び国内の開拓地へ
- 拒まれる遺骨収集、慰霊
植民の歌
戦時中、開拓団の間で歌われた「植民の歌」を紹介します。歌詞から読み取れますとおり、天皇制、挙国一致、アジアの覇権、犠牲的精神を高揚させ、煽動するものです。
植民の歌
1.萬世一系比(たぐ)ひなき
すめらみことを仰ぎつゝ
天涯萬里野に山に
荒地開きて敷島の
大和魂(やまとごころ)を植(うう)るこそ
日本男児(やまとおのこ)の誉(ほまれ)なれ
2.北海の果て樺太に
斧鉞(ふえつ)入らざる森深く
北斗輝く蝦夷の地に
金波なびかぬ野は広し
金剛聳(そび)ゆる鶏林に
未墾の沃野(よくや)吾を持つ
3.峻嶺雲衝く新高の
芭蕉の葉影草茂る
広漠千里満洲の
地平の果てに夕陽は赤く
興安嶺の森暗し
いざ立て健児いざ行かん
4.高鳴る胸の血潮もて
紅(くれな)ひそめし日章旗
高き理想と信仰の
御旗かざして吾行かむ
東亜の天地黎明(れいめい)の
晨(あした)を告ぐる鐘ぞ鳴る
三角矢印をクリックしてください。「植民の歌」のピアノメロディが聴けます。パソコンのOSやブラウザーの種類、そのバージョンによっては聴けないことがあります。申し訳ありません。
また、もしご自分で歌ってみたい方がいらっしゃいましたら、歌詞つきの楽譜があります。音符マークをクリックしてください。PDFファイルが別ウィンドウで開きます。
資料
拓魂公苑と満蒙開拓に関連した資料を置きました。参考になさってください。以下のそれぞれの表題をクリックしてください。別ウィンドウでPDFファイルが開きます。
2ページ(PDFファイル 400KB)内容は以下の三つです。
1.拓魂公苑(多摩市)は慰霊の場なのか
2.慰霊と顕彰・・・慰霊塔と忠霊塔の違いから考える
3.靖国神社から考える忠霊と顕彰
3/2の例会にて示されたプレゼンテーションのスライド29枚からなっています。
下の文書版の内容と多くは同じですが、写真や地図があります。閲覧するのに向いています。(スライド形式 1.2MB)
こちらは6ページのドキュメントです。印刷して読みたいときに向いています。(文書形式 600KB)
「満洲の記憶」研究会のニューズレター:体験記、インタビュー記録を含む
DVDの紹介
山本慈昭 望郷の鐘
満豪開拓団の落日
監督:山田火砂子
2014年・現代ぷろだくしょん(102分)
背中合わせの被害と加害
戦前戦中、27万人、800もの開拓団が満州へと渡った。特に多いのが長野県の飯田・下伊那地方の農村だった。阿智村の長岳寺住職・山本慈昭も、村長の強い要請により、阿智郷開拓団の現地教師として渡満。
つづく
アニメ:蒼い記憶
満蒙開拓と少年たち
監督:出崎哲
1993年・共同映画全国系列会議(90分)
満州に渡った少年たちの悲劇
満蒙開拓団や青少年義勇軍を送り出すようになった農村の社会的背景、現地住民との関係、誤った国策と誰も責任を取らない体質、そのしわ寄せが弱者にのしかかる逃避行。
つづく
嗚呼 満蒙開拓団
監督:羽田澄子
2008年・自由工房(120分)
あなたは満蒙開拓団の悲劇を知っていますか
日本政府の国策によって中国東北部、いわゆる旧満州に送りこまれた満蒙開拓団。約27万人の移住者のうち、約8万人が亡くなり、生き長らえたものの、帰還できずに残留孤児や残留婦人になった者も多い。
つづく
神田さち子語り芝居
帰ってきたおばあさん
制作:
樋口正太(博品館劇場)
杉田篤史(ニッポン放送)
朝倉正一(サクカクカンパニー)
2005年9月・銀座博品館劇場収録(108分)
「おや・こ・まご」につなげる戦争の真実
五族協和、王道楽土を信じ、満州に渡った人たち。しかしそのスローガンは、武力で奪い取った土地を開拓民という名の守備隊で維持しようという、嘘で塗り固めた国策の宣伝文句でしかなかった。
つづく
葫蘆島大遣返
~日本人難民105万引揚げの記録~
監督:国弘威雄 松井稔
1997年・葫蘆島を記録する会(102分)
帰ることができた人もいたが…
日本の敗戦時、中国・旧満州に置き去りにされ難民化した一般邦人約160万人。そのうち約105万人が飢えと恐怖に喘ぎながら引揚げ港の葫蘆島に辿り着いた。そこで力尽き無念にも近くの茨山に葬られた人も少なくない。
つづく