行ってみました!

平和ミュージアム訪問記

北海道・東北

 
私が訪れたのは、まだ栃木県塩谷郡塩谷町にあった頃で、「心に刻むアウシュ ヴィッツ平和博物館」という名称だったように記憶している。館長だった青木 進々さん(故人)を中心におこなわれていた《心に刻むアウシュヴィッツ展》という巡回展示+講演の活動が設立の背景だったのだろう、一般市民の手だけで建てられた博物館である。そこには収容所のバラック棟が再現されており、ポーランド以外でアウシュヴィッツの犠牲者の遺品が展示されているのは、米国ワシントンにあるホロコースト・ミュージアムとこの博物館だけということだった。イベント用スペースがあり、アウシュヴィッツで撮りためた写真を使って写真展ができないかを相談しようと思っていたら、今の福島県白河市へと移転。近々再訪したいと思っている。(T.S.)

白河市に友人を訪ねて行ったのは1987年頃だったから、2003年に開館したというこの博物館は当然なかったわけだけど、あれば行けたのになあ。(Ak.)

【映画紹介】
このリンク先の一覧の『SHOAH ショア』から『異端の鳥』までの15ほどの作品はすべてホロコースを描いています。
さらに、『アンネの日記』4作品 『さよなら子供たち』『アウシュビッツの女囚』『ローゼンシュトラッセ』『ライフ・イズ・ビューティフル』『黄色い星の子供たち』

関東(東京を除く)

 
30年ほど前に娘と行きました。そのときは暗い館内(展示室だけでなく)にびっくりしましたが、絵の保存は勿論、電気を無駄に使わないポリシー?と思いました。最近特に作品の劣化が進んだようですが、いつまでも残したい美術館です。(H.S)
 
明治大学生田キャンパスが立つのは、元陸軍登戸研究所の跡地である。風船爆 弾、贋札、殺人光線、化学兵器、細菌兵器などの研究開発が秘密裏になされていた。動物実験もおこなわれていたので、その慰霊碑もある。T.S.

【映画紹介】『登戸研究所』

東京都

 
まだ行ってないのですが、今年こそは行きたいと思っております。(私の家は3月10日の2か月後の5月に全焼しました。)Y.S.

【映画紹介】
『火垂るの墓』 『うしろの正面だあれ』 『凧になったお母さん』 『ぼくの防空壕』 『焼跡の、お菓子の木』 『ふたつの胡桃』

 
入口に書かれた各国語による「平和」。平和とは何か。戦争がなければ平和なのか。平和の対義語を、戦争だけではなく、peacelessness=「平和がない状態」と定義する。貧困や飢餓、差別、抑圧、教育や医療を受けられないなど、自己の能力を開花させることのできない状態、それは平和な状態ではない。ノルウェーの社会学者ヨハン・ガルトゥング(1930年~)が唱えた《構造的暴力》の概念を念頭に置いた、最新の平和学にもとづくものである。

年表や写真とともに、寄贈された戦時中に使われた靴、兵士の軍服、鉄兜、水筒、飯盒などが展示されているが、画期的なのは、戦争の被害だけでなく、加害の側面にも触れていることだ。教科書の記載が変遷していく過程は、南京事件や慰安婦記述が歪曲・抹消しようという動きが活発化する昨今、とりわけ重要な資料となるだろう。入館無料だから、ぜひ訪れてほしい。
かなり前、多摩市に住んでいたときに行きました。地味ですが、地元の自由民権運動も知ることができて良かったと思ったのを覚えています。(H.S)

中部

 
 
”心の底の思い”
15年くらい前に観てきました。 ひとことで言って、全体にとても悲しく、重苦しい印象でした。 どの作品も、デッサンは青年らしい若々しさを感じるのに、 色調が暗いのです。 おそらく、これらを描いた青年たちの心の底には、反戦の思いが強くあったに違いない、自分が生きて帰ることはあり得ないと固く信じていて、たとえ表向き、お国のために喜んで戦地に向かうと口にしても、最後の絵には、心の底の思いが色彩に現れてしまったのだろうと想像し、息がつけなかったことを思い出します。 シベリヤ抑留時を描いた香月泰男画伯の、濃い茶系統の色調と思い合わせ、 彼らの未経験の痛ましさを一層感じます。Y・S

”無言館、再訪”
入口の扉を開けて入ると、そこは十字架の形をしたフロア。まるで教会のような空間である。すぐ右側の壁に、その絵はあった。日高安典作、「裸婦」。

この絵を見ようと、お盆あけの八月の一日(ひとひ)、無言館を訪ねた。戦没画学生の遺作を所蔵・展示する、長野県にある美術館。前に来たとき、まだ第二展示館(2008年開館)はなかった。十年以上も足が遠のいていたのか…。

「生きて帰ってきたら、絵の続きを描くから」と言い残して出征した日高は、1945年4月19日、フィリピンのルソン島で戦死した。1918年生まれだから、享年27才。左側にある絵は「ホロンバイル高原」と題する内蒙古の風景。ああ、関東軍に配属されたのか。 続きはこちらへ

【映画紹介】
『無言館の扉 語り続ける戦没画学生』

 
日本でいちばん多くの開拓団を送り出した長野県、その中でも特に多かったここ下伊那の地にこの記念館が建てられました。開拓団を送り出した背景、どの地区から満蒙のどこに入植したのかがわかる地図、現地家屋の模型、苦難の末帰還した開拓民の証言ビデオが展示されています。それだけでなく、開拓団が送り込まれた現地の人たちとの関係、ありていに言えば、元からそこに住んでいた人たちの土地を奪うことになった加害性にも触れ、満蒙開拓の本質に迫るものになっています。新しく研修室が建てられ、各種イベントも催されていますから、ウェブでチェックしてください。南アルプスと中央アルプスに囲まれた風光明媚な土地、近くには温泉もあります。中央道をドライブするなら、ぜひ立ち寄ってみてください。T.S.

【映画紹介】
『山本慈昭 望郷の鐘』 『葫蘆島大遣返 ~ 日本人難民105万引揚げの記録 ~』 『蒼い記憶』 『キクちゃんとオオカミ』

 
B29は浜松市上空から日本領域にはいり、帰りも同じ空路をとり、名古屋市やその他の多くの都市の空爆の帰路に、残りの爆弾を浜松に落としていったと本で読んだことがあります。地方中都市で最大の犠牲があったことがうなづけます。Ak.

近畿



中国・四国

 
 
周囲4kmほどのこの島は全島域が1963年より国民休暇村となり、今や人気のリゾート地です。島内には原則、車ははいれず、「うさぎの島」とアピールされるように、900羽生息しているといわれるウサギがそこここで遊んでいます。わたしは2000年頃に遊びに行きました。海水浴、サイクリングと遊ぶにはこと欠かず、夜にはウミホタルの海の見学会が催されたりしていました。島には毒ガス貯蔵庫などが見られますが、当時5.000人ともいわれた工員や勤労学徒が従事していた悲惨な作業が観光客に意識されていたでしょうか。うさぎは毒ガスの実験に使われたとのこと。未だに奇形のうさぎが見られるとの話でした。Ak.

けれども、別の記事によれば、毒ガス開発時に実験に使われたうさぎは敗戦時に処分されたという。『毒ガスの島』という不吉な名前を払拭するがためにのちに放たれたうさぎは以前のとは種類も異なるとのこと。Ak.

大久野島での毒ガス開発に関する紀行文風の記事がある。ジャーナリストの安田浩一らが書いている。戦時中に学徒動員で毒ガス製造に従事した人たちの被害、戦後の毒ガス処理時の被害、そして、ここで製造された毒ガスが使われた中国の北坦村の虐殺、日本軍が遺棄していった毒ガスが後々に至るまで数千人に被害を及ぼしたことに触れている。『広島/大久野島篇1:「うさぎの島」の毒ガス工場跡』。つづいて、続編『広島/大久野島篇2:加害の歴史と戦後の二次被害』も掲載されているので、読んでみてください。Ak.

【映画紹介】 『ひとりひとりの戦場』

 
高校生のときに訪れて「人影の石」を見た。恐怖に凍り付いた! この人はどうなっただろうと。Ak.

2017年に上記の「被爆再現人形」が撤去された。広島市は撤去理由について、『・・・しかし、一方で被爆者の方は、無残な遺体がたくさんあり、男女の区別さえつかず、親子でさえ見分けることができない情景を体験されています。そうした状況からは、被爆再現人形に対して「原爆被害の凄惨な情景はこんなものではなかった。もっと悲惨だった」といったご意見もあります。展示をご覧になられる方の見方によっては、原爆被害の実態を実際よりも軽く受け止められかねません。』と表明しているという。どう思いますか。Ak.

【映画紹介】
『ひろしま』 『原爆の子』 『さくら隊散る』 『白い町 ヒロシマ』 『いしぶみ』 『はだしのゲン』 『はだしのゲン2』

 
 
2020年、被爆した16人のイエズス会外国人神父・修道士の名前と遺影が登録された。

75年も過ぎてやっとだ! 2020.8.2

【映画紹介】 『広島・昭和20年8月6日』 『夕凪の街 桜の国』

 

九州

 
 
高校生だった時、ある婦人雑誌にて知覧の特攻出撃基地のことを知った。小説仕立てだったように思う。題名は忘れてしまった。特攻兵だった人の娘が知覧を訪れる話だったかどうか。特攻兵とたいして年も違わないわたしには衝撃だった。いつか知覧を訪れたいと思いはしたものの、鹿児島は遠い。あれから数十年が経つ。Ak.

【映画紹介】 『ひとりひとりの戦場』 『TOKKO ―特攻―』

 

沖縄

 
 
佐喜真美術館には、開館記念でしたか、日本ではじめてケーテ・コルヴィッツ展が開かれたときに行きました。Y.S.
 
 
「ひめゆりの塔」で有名になった女子学徒隊。彼女らが負傷兵の看護に当たった病院壕(ガマ)現場の発掘調査の中心になったのが南風原文化センターである。 近くの黄金森(くがねむい)にあった陸軍病院跡の史跡保存や史料の編纂、戦跡シンポジウム開催などにも関わっている。那覇からひめゆり平和祈念資料館や摩文仁の丘に行く途中だから、時間があれば寄ってみてほしい。T.S.

【映画紹介】『ひめゆりの塔』1953年『ひめゆりの塔』1995年

 
 
 
沖縄戦の悲劇を伝えるとともに、将来の平和を願い、沖縄が県をあげて建設したミュージアム。展示方法で物議を醸したこともある。戦争責任を否定し、戦争の 悲劇を忘却に彼方へ押しやろうとする勢力にとって、こうしたミュージアムが目の上のたんこぶだからなのだろう。そうなってくると、情報を受けとる側の感性を研ぎ澄まし、現実社会の背景を読み解く力を高めるよりほかない。空気を読んでばかりではダメなことがわかる。リゾートするのもいいが、せっかく沖縄に来たのなら、ふだん使わずに錆びたままにしている脳ミソを活性化させたらどうだろう。T.S.

【映画紹介】
『沖縄健児隊』『ひめゆりの塔』1953年『ひめゆりの塔』1995年『ウミガメと少年』

 
修学旅行生が必ず訪れるここは、第三外科壕があったところだ。立派な資料館ができたのは良いが、壕(ガマ)に入ることができなくなった。資料館では、当時の学徒隊だった人たちが語り部として、直接体験を語ってくれる。それを聴くことができるのも、そう長くないだろう。だから今のうちに、沖縄に足を運んだら立ち寄っておくべきだ。何度でも。将来、語り部がいなくなった後も、やはり訪ねよう。たとえ間接的であっても、継承することが歴史なのだから。壕の中がどんなだったのか、徒歩で5、6分のところに第一外科壕があるから、ぜひ行ってみてほしい。戦争というものは、思っているほど勇ましいものでも、ましてカッコいいものでもないことがわかる。T.S.
 
 
「戦争マラリア」のいきさつはドキュメンタリーフィルム「沖縄スパイ戦史」(2018年公開、三上智恵 x 大矢英代監督)に描かれる。この映画は、少年兵による「護郷隊」が沖縄戦終結後も沖縄本島北部でゲリラ戦を継続したこと、地上戦のなかった八重山列島で住民が山間部への疎開を命じられ3,000人以上がマラリアに罹患し死亡したこと、これらを指揮したのは陸軍中野学校出身の青年将校であったことを資料や証言から明らかにする。Ak.

【映画紹介】『沖縄スパイ戦史』

 
 

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