ブリテン 戦争レクイエム

平和主義者ブリテンのメッセージ

 英国のベンジャミン・ブリテン(1913~1976年)が1961年に作曲した、管弦楽付きの合唱曲である。レクイエムの原義は、ラテン語で「安息を」という意味で、死者の安息を神に願うカトリックのミサ、死者のためのミサとなり、そこから派生して、ミサに供せられる聖歌となり、現在ではキリスト教の典礼から離れた一般的な「死を悼む曲」や葬送曲まで含むものまでへと広がりを見せている。モーツァルト、ヴェルディ、フォーレのレクイエムが特に有名だが、ベルリオーズ、ブラームス、ドヴォルザークなど、数多くの作曲家が手がけているのも、追悼と癒しをもたらす宗教と、そのための場としての教会、そこに求められたのが音楽だったということなのかもしれない。

 数あるレクイエムの中で、とりわけこの曲がユニークなのは、単に死者の安息を祈るのではなく、明確に第二次大戦による全ての国の犠牲者を追悼する曲だという点だ。フル・オーケストラと室内管弦楽団の二つを背景に、ソプラノ、テノール、バリトンの三人の独唱者、混声八部合唱および児童合唱という大規模な編成を必要とする壮大な作品で、歌詞は、ラテン語のカトリック典礼文のほか、第一次大戦に従軍し、25歳で戦死した英国の詩人ウィルフレッド・オーウェン(1893~1918年)による英語の詩が使われている。そう、この大曲は、戦争の不条理を告発し、恒久の世界平和を願う、ブリテンの魂の叫びなのだ。

 空襲で破壊されたコヴェントリーの聖マイケル大聖堂。1958年、その再建を祝う献堂式に供される楽曲を委嘱されたブリテンは、戦争で対峙し、甚大な被害をこうむった双方の交戦国の歌手を独唱者とすることを、当初から念頭においていた。それがソ連のソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(1926~2012年)、英国のテノール、ピーター・ピアーズ(1910~86年)、ドイツのバリトン、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(1925~2012年)である。三人は快諾したが、当時は米ソを盟主とする東西冷戦体制下、1962年のメレディス・デイヴィスが指揮するバーミンガム市交響楽団による初演に、ヴィシネフスカヤだけは参加することができず、英国のヘザー・ハーパーがソプラノをつとめた。

 初演に先立つ四ヶ月も前のこと、当時のデッカ・レコードのプロデューサーだったジョン・カルショー(1924~80年)は、スコアから作品のすばらしさを一目で見抜き、録音を決意。翌1963年のレコーディングにはヴィシネフスカヤも加わることができた。半世紀以上も前の録音であるが、今なお当演奏の代表盤とされる、それがこのCDである。

 戦争を題材にした小説、詩、絵画、写真、芝居、映画、そして音楽…。そういうものは、確かにある。しかし、銃弾の飛び交う中や空襲のもとで、それを描くことは無理だ。文学も芸術も、平和だからこそ可能なのである。アーティストやミュージシャンが平和のために闘う理由は、まさにそこにあるのだろう。

指揮:ベンジャミン・ブリテン
演奏:ロンドン交響楽団

独唱:ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(ソプラノ)
   ピーター・ピアーズ(テノール)
   ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
合唱:ロンドン交響楽団合唱団、ハイゲート学校合唱団
録音:1963年

(しみずたけと) 2021.8.17


9j音楽ライブラリーに跳ぶ
リンク先は別所憲法9条の会ホームページ

ジャーナリストの死 James Foley

戦場ジャーナリスト:
ジェームズ・フォーリー

2016年公開のドキュメンタリーフィルムより、挿入歌

If I should close my eyes, that my soul can see
And there’s a place at the table that you saved for me
So many thousand miles over land and sea
I hope to dare, that you hear my prayer
And somehow I’ll be there

It’s but a concrete floor where my head will lay
And though the walls of this prison are as cold as clay
But there’s a shaft of light where I count my days
So don’t despair of the empty chair
And somehow I’ll be there

目を閉じれば心に浮かぶ
あなたが僕に取っておいてくれる、そのテーブルの一角
幾千マイルも越えた遥か遠くの地で
ぼくの願いが聞こえればと強く思う
何とか帰り着くから

ただのコンクリートの床に僕は頭を横たえる
この監獄の壁は冷たいけど
それでも細く差し込む光に日々を指折り数える
だれも座っていない椅子を見て悲しまないで
ぼくはどうにか帰り着くから

気を強く持てる日もあれば、弱気になったり
口もきけないほど打ちひしがれる日もある
でも、思いをはせる場所がある
どうにか帰り着く家

木々が葉を落とす冬が来たら
あなたは窓の外の暗やみに目を凝らす
ぼくはいつも食事に遅れてたから怒ってたね
ぼくの場所と空いた椅子はそのまま取っておいて
何とか帰るから
何とか帰るから


ジェームズ・フォーリーはアメリカの従軍記者としてシリア内戦を取材していた2012年11月にシリア北西部で誘拐され、2年間行方不明となった。2014年8月、オバマ大統領が命令したイラクにおけるアメリカ軍の空爆が始まり、その報復としてISISによって斬首される様子が動画に出た。40歳だった。

このドキュメンタリーは、ジェームズ・フォーリーの幼友達だったブライアン・オークスが彼の家族、友人、ジャーナリスト仲間、拘束時に共に暮らした仲間にインタビューし、彼の性格や仕事に対する姿勢を浮き彫りにしたものである。

以上、wikiからあれこれを拾ってモディファイしてみた。


” 「国境なき記者団」の発表によると、世界中で殺害されるジャーナリストの数は2012年以降、年間100名を超えていたが、2016年度は80人、2017年度は74人と大幅に減少した。ただし、2018年度は11月時点ですでに78人。 ”

上記は、ビッグイシュー日本2018年12月5日号に掲載されたイタリアのストリート誌『スカルプ・デ・テニス』 の記事より
http://bigissue-online.jp/archives/1073207916.html

この記事によれば、近年、殺害されるジャーナリストが減少傾向にあるのは喜ばしいことだが、その背景にはジャーナリストたちがもっとも危険な地域を避ける傾向が要因となっているという。 それ故、現地で活動するジャーナリストの数が減った国として、 イラク、イエメン、リビアが挙げられている。殊に、戦争事情が複雑なシリアはジャーナリストにとって最悪な場所と認識されている。

上記の記事内、「国境なき記者団」の報告書によれば、2017年度12月1日時点、世界中で326人のジャーナリストが投獄されおり、その内、本業のジャーナリストがもっとも多く、ブロガーがその半分くらい、他は、少数だが、メディアの人間であり、投獄されるジャーナリストが最も多いのは中国(52人)、次いで、トルコ(43人)、シリア(24人)、イラン(23人)、ベトナム(19人)とのこと。


ドキュメンタリーフィルム「JIM:ジェームズ・フォーリー」に使われている歌は、J.ラルフとイギリス人歌手のスティングが作曲し、スティングが歌ったもの。

どんなに危険な地域でも誰かがそこへ赴いて取材しなければ、その地域で行われている戦争の現状を世界中の人が知ることはない。世界中の人が知らなければ、その戦争の悲惨さはエスカレートする。

ジャーナリストには名を残す仕事がしたいという欲求があるだろう。確かに無謀な人はジャーナリズムの世界にもいることだろう。彼らは命と引き換えの「名」を求めているのか。 ただ、それだけが戦場に赴く理由とは思えない。

わたしが何の意味もなく理不尽に戦争に巻き込まれたなら、人に知ってもらいたいと思うだろうことは容易に想像できる。

わたしの大好きなスティングの歌を聞きながら、そんなあれこれを考える。


  

「バハールの涙」という映画にも、バハールと行動を共にするジャーナリストが出てくる。見てもらいたいすぐれた作品。
https://bessho9.info/mov/teiko.html#bahar


  

ドキュメンタリーフィルム 1997年制作
「SAWADA 青森からベトナムへ ピュリツァー賞カメラマン沢田教一の生と死」

沢田教一はフォトジャーナリストでベトナム戦争を取材した。上のDVDのタイトル画像となった写真は「安全への逃避」と題され、1966年にピュリツァ-賞を獲得した。1970年、プノンペン近郊にて何者かに襲われ、死亡。34歳。


  

映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」  1999年制作

一ノ瀬泰三はフリーランスのフォトジャーナリストとしてカンボジア内戦を取材していた1973年にクメール・ルージュに殺害されたとみられる。26歳だった。


Ak,  3. Sep. 2020