「武器こそ抑止力」のもたらすもの


先月24日、米国テキサス州の小学校で銃乱射事件が起きた。この事件で犠牲になったのは、児童19人を含む21人。その3日後、同じテキサス州で開かれた全米ライフル協会の年次総会で、トランプ前大統領は、教員に銃を持たせることで学校が安全になると主張した。「武器こそ抑止力」「力には力を」ということらしい。

今月1日、今度はオクラホマ州の病院で銃撃事件が起き、4人が死亡した。トランプ前大統領は、医師と看護師にも銃を所持させろとでもいうのだろうか。「武器こそ抑止力」が正しければ、そういうことになるのかもしれない。全米ライフル協会の名言に「銃を持った悪い人間を止めるには、良い人間が銃を持つしかない」というのがあるらしい。

2003年4月、ハイジャック防止を目的に、米民間航空機パイロットの銃武装が可能になった。銃を手にしたパイロットが操縦室を出て客席へ、ということなのだろうか。それなら、いっそのこと乗客全員が銃を所持したらどうだ。一人くらいはいるに違いない良い乗客が、悪いハイジャック犯を止めてくれるだろうから。

米国における銃犯罪は深刻だ。毎日316人が撃たれ、106人が殺されている勘定だという。それにくらべ、日本は圧倒的に平和だといえるだろう。この違いはどこから来るのか。日本では銃の所持が禁じられている。これが功を奏しているのは間違いあるまい。自分の身を守るためには銃が必要だという思想を、日本国民は持たなかったのである。

暴力団など、日本国内にも銃を持った“ならず者”はいる。それらは正義の銃などではないから恐ろしい。しかし私たちは、銃を持たない方が結果的に安全なのだという、米国民とは異なるメンタリティを持っている。「武器では身を守れない」「武器で平和をつくれない」という日本国憲法の精神を、日本国民は良く理解し、体現しているのではなかろうか。

世界に目を向ければ、銃より大きく、はるかに強力な武器があふれている。“ならず者”のような国家もある。しかし「武器こそ抑止力」は、世界中を米国のようにすることだ。米国とは異なる道を選んだ私たち日本国民が、いつまでも米政府の追従をしていてはいけない。「平和への道はない。平和が道なのだ」というガンジーの言葉を思い返した方が良さそうだ。


(しみずたけと) 2022.6.4

別所憲法9条の会ホームページへ跳ぶ

抑止力と日本国憲法


行政が住宅街に設置したスピーカーから、なにやら音声が流れてきた。反響がひどく、実に聞きづらい。どうやらJアラートの試験放送のようだ。「だから何?」「どうしろ?」というのか。

北朝鮮から弾道ミサイルが日本めがけて飛んできたとして、私たちは何をすべきか、何ができるのか。わが家には核シェルターも地下室もない。わが家だけではない。ほとんどの家がそうだろう。避難しろ?いったいどこへ?頭を抱えてしゃがみ込むくらいなものだ。まったくバカバカしい。

このバカバカしさにつき合って、ついでに少し考えてみることにした。たとえば、日本は海に囲まれており、その海に面して原子力発電所およびそれに類する施設がずらり、18箇所に57基。この中には停止中、あるいは廃止措置中の発電所や炉もあるが、内部に核燃料を抱えたままである。他に、やはり廃止される高速増殖原型炉と新型転換炉原型炉があるが、建設中の3基、六ヶ所村の再処理施設ともども、この数には含めていない。

海から丸見えのこれらの施設に攻撃が加えられたら、たとえ通常兵器によるものであっても、核攻撃と同じ結果になる。いや、貯蔵されている核燃料の量を考えると、核ミサイルよりもはるかに甚大な被害をもたらすに違いない。冷却水の取水口を破壊されただけで、冷却機能を失った炉は暴走、メルトダウンするだろう。内部に爆弾を抱えているのも同然だ。

国家間紛争の解決手段として、わが国は戦争という手段を、そもそも想定していないのである。憲法9条の問題ではない。日本の社会、経済や産業構造自体が、“戦争がない”ことを前提にしているのだ。政府は軍事力による国防を推進したいようだが、そうであれば一刻も早く脱原発を実現しなければならない。原発の再稼働だけでは飽き足らず、さらに新規建設など、二兎を追う矛盾にみちた政策に、みな気がつかないのだろうか。

抑止力という言葉がある。飛来するミサイルを撃ち落とすとか、そういうイメージを抱く人が多いかもしれない。最近では“敵基地攻撃能力”とか言いだした。発射されたミサイルを確実に迎撃できるか不安だから、発射される前に、発射されそうになったら、その兆候があれば…、こちらが先に攻撃してしまおう、「攻撃は最大の防御なり」というわけだ。

これはもう、防衛などではない。先制攻撃そのものである。あまりに露骨であることに気づいたのか、あわてて“反撃能力”と言い換えたりしている。しかし、変わったのは言葉だけらしい。攻撃もされていないうちに攻撃するのを反撃とは呼ばない。

抑止力、英語ではdeterrenceという。deter、「…するのを思いとどまらせる」という動詞から来ている言葉である。つまり、攻撃することを思いとどまらせる、攻撃させないというのが本来の意味であって、攻めてきた敵に対処するとか迎え撃つということではない。攻めさせない、それこそが抑止力である。

北朝鮮との関係を考えてみよう。あの国と日本の間に領土問題は存在しない。互いの国土に対して領有権を主張しているのでもない。北朝鮮には日本を攻撃する、これといった理由がないのである。それとも、北朝鮮が日本の全土あるいは一部を支配しようと企んでいるとでも思っているのだろうか。

次に何のためのミサイル発射なのかを考えてみる。挑発行為と捉えられているが、日韓や米国を挑発し、軍備増強の必要性を実感させることが目的ではないだろう。国家予算が有り余っていて、それを軍事費につぎ込むことで消化しているのでないことも、いまさら言うまでもない。北朝鮮にとって、核開発やミサイル発射実験は、まさに抑止力なのだ。攻めてきたら反撃するぞ、こちらには核もあるぞ、そちらもただではすまないぞ、だから攻めてくるなよというメッセージである。

北朝鮮の抑止力に対して、なぜ私たちは恐れるのだろうか。もしかしたら先制攻撃してくるのではないかという不安感があるからだと思う。先に攻撃しない、専守防衛に徹することを国是とする国であれば、このような恐怖心を抱かずにすむはずだ。つまり、北朝鮮には憲法9条がないからである。

相手に攻撃させない、正しい意味での抑止力を発揮するために必要なことは何か。今年の憲法大集会で、中野晃一さんは、reassurance、“安心供与”という言葉を使っていた。「安心させる、再保証する」という動詞reassureを、さらに分解してみよう。「保証する、請け合う、確信させる」を表すassureに、「再び」の意味を持つ接頭辞のreを付け加えた言葉であることがわかる。

先制攻撃したりしない、先に手出ししない国であることを、他国に「あらためて確信してもらう」。軍事力行使より前の段階でこそ必要なこと、これこそが抑止力なのである。今の時代、どの国も領土拡張や他国の支配を掲げて戦争を始めたりしない。いつだって自国民保護、領土保全、自国の安全保障のためであり、防衛のためにやむなく…という理由で戦争を始めている。

日本は「戦争しない」ことを世界に向けて宣言した国である。9条だけでなく、憲法の前文でそれを謳っている。これこそが、世界で五本の指に入る軍事力を保有しながら、他国に対するreassurance、信頼の担保になっているのである。自分たちが戦争を始めないというだけでなく、相手に戦争の口実を与えない、最大の抑止力であることに気づくだろう。実に賢い手段だと言えないだろうか。

これまで「こちらから先に手出しすることはありませんよ」という看板を掲げていた日本が、憲法改定によって、その看板を下ろしてしまったらどうなるか。周辺国は戦々恐々だろう。なにしろ、心にもない大東亜共栄とかを標榜し、軍事力で朝鮮を併合し、中国に攻め込み、アジア中を戦場にした過去を持つ国である。私たち日本国民が思っていなくても、「いよいよ戦争を仕掛けるつもりになったのか」と受けとられかねない。

世の中に“ならず者”がいるように、世界には“ならず者国家”が存在する。彼らには理性や道徳的観念などなく、こちらの論理は通じない。戦争の口実は、見つけるものではなく、こしらえるものである。そうした国に対処するには軍事力しかない。そう考える人もいるだろう。しかし、それは現実的だろうか。

飛来したミサイルを空中で撃ち落とす。相手は当然、撃ち落とされないミサイルを開発することになる。こちらは、それをまた撃ち落とすシステムを作るしかない。すると相手は…。莫大な費用を投じて開発した兵器も、すぐに旧式化、陳腐化してお払い箱になる。双方が終わりのない軍拡競争を続けることになるのだが、その財源はどうするのか。

国家に打ち出の小槌、ドラえもんの四次元ポケットがあるわけでなし、軍事への支出を増やせば、他を削るよりほかはない。消費税のアップ、福祉の切り捨て、年金の減額ないし支給対象者の絞り込み、医療費の負担増、教育は無償化どころか、むしろ義務教育の有償化も検討事項になるかもしれない。いつ攻めてくるか、攻めてくるかどうかもわからない敵に備え、国民は窮乏生活を耐え忍ぶことになる。軍事大国の国民は苦しい生活を強いられるのが常だが、そんな日常を選択してまで、軍事力にすがりたいものだろうか。

私たちが“ならず者国家”だと考える国は、たいていは民主主義が実現されていないか、低レベルに留まっている国だろう。民主主義と呼ばれる国であっても、国民の声がすべて政府に届くわけではないが、権力政治が行われる国ではなおさらだ。しかし、軍事政権や独裁政権の国であっても、すべての国民がそれに共感しているわけではない。理不尽な国家権力を打ち倒そうとする勇気ある人々と手を取り合うことが求められているのである。

軍事力は、金ばかりかかって、本当に役に立つかどうかもわからないし、そもそも本質的な問題解決を目指していない。世界に不安と脅威を振りまく権力政治を民主主義へと転換させることは、それらの国の人々を恐怖と欠乏から解放し、自由をもたらすとともに、“ならず者国家”をなくし、結果的に私たちの安全につながるだろう。平和で争いのない“もうひとつの世界”の構築は、実は日本国憲法の理念そのものである。その憲法を、日本が捨て去ることは、世界の良心を裏切り、未来への希望を遠ざける行為になる、私にはそう思えてならないのである。


(しみずたけと) 2022.5.27

【わたしのひとこと】投稿コーナー

この投稿欄には、ご意見、お考え、ニュースなどを自由に書き込んでいただけます。

書き込んで送信していただいた文章は即時に掲載され、ネット上で公開となります。

下のコメント欄に入力なさり、「コメントを送信」ボタンを押してください。送信する前には画像文字認識の欄も入力してください。

コメント入力欄に移動する

プーチンのロシアか、ロシアのプーチンか

ロシア軍がウクライナに侵攻して半月になる。21世紀にもなって、侵略戦争がこうもあからさまな姿で現れるとは、まさに驚天動地、そう感ずる人が多いだろう。しかし、20世紀以後、戦争が侵略の名でおこなわれることはなかった。いつも「自衛」を唱えて始められたのである。大量破壊兵器がある、差し迫った危険がある。米国によるイラク戦争も、まさにそういう文脈だった。

戦争をしかけた側が、「これは戦争ではない」と言い張ることも、いつものことだ。1931年の柳条湖事件(日本軍による自作自演)に端を発する中国大陸侵攻は、戦争ではなく満州事変と呼ばれた。盧溝橋事件から始まった日中全面戦争は、宣戦布告もなく、日本側は日華事変とか支那事変と称した。軍事行動であっても戦争ではないというわけである。

ウクライナがNATO(北大西洋条約機構)という西側軍事同盟に加わろうとしている。それは、自国の目鼻の先に敵の軍事拠点が置かれることにほかならない。だから我々は、自衛のために、戦争ではなく軍事行動を起こした。かつての日本と、いかに類似していることか。そして国際的に孤立していく過程も。

ウクライナにも問題はあるが…

ウクライナ国内に問題がまったくないわけではない。同国の中にも、ロシア系住民が暮らしている。ウクライナ語とロシア語、9割方通じるということだが、ロシア語の話者が、ウクライナ語の話者にくらべて良い職に就きにくいとかいう話になると、反感を招くのは当然であろうし、第二公用語として認めるなどの対応も求められるところである。数の力を頼みにして少数派の声を封じるというのは、民主主義のあるべき姿ではない。多数派が少数派に対してどれだけ譲歩できるか、それが民主主義の度合いを測るバロメーターである。

また、西側諸国が、ロシアに対する軍事的圧力を強めるためのNATO拡大や、そのためにウクライナを利用してきたことも考え直した方が良いだろう。オリヴァー・ストーンのドキュメンタリー『ウクライナ・オン・ファイヤー』が、これまであまり伝えられることのなかった西側諸国とウクライナの関係を、白日の下に暴き出している。ぜひ見てほしい映像だ。

同時に、なぜロシア系住民がウクライナ国内に居住しているのかも知っておくべきだろう。旧ソ連は複数の共和国の連邦ではあったが、あくまでも中心はロシアである。モスクワの政権は、各共和国に対する影響力を強めるため、ロシアから送り出した人材を行政の要職に就かせた。さらに、技術者や教師など、各分野のリーダー的存在になる人物を派遣することで、ロシアへの依存度と忠誠心を高めてきた。各地のロシア系住民の多くは、ソ連邦時代に“回されてきた”人たちということになる。インドネシアでおこなわれているトランスミグラシと似ていないだろうか。

国際秩序を破壊する行為

さて、ウクライナにも問題があることはわかってもらえたと思うが、軍事力によって解決することを、国際社会は良しとしていない。国家間の問題だけではない。力の行使による解決を認めれば、労使間の紛争、DV、児童虐待、性暴力、民族や 宗教的対立、あらゆる暴力と差別の許容にもつながりかねないからである。今回のロシアによる侵攻は、明確な国際法違反に当たる。主権国家に対するミサイルや砲爆撃による攻撃。これを戦争ではないと主張しても、世界はそう受けとらない。クラスター爆弾や燃料気化爆弾の使用は戦争犯罪といって良い。広範囲かつ殺傷性が高く、一般市民をも含んだ無差別攻撃になるからだ。学校など、軍とは無関係のところも攻撃されている。病院や宗教施設、原子力発電所などに対する攻撃は、国際法で禁じられており、ICC(国際刑事裁判所)が捜査に乗り出したようだ。

戦闘が終結したら、ICCによるウクライナ戦争戦犯法廷なるものの開設を望みたい。そうなれば、国際法で禁じられた攻撃、武器を使用した個人が責任を問われ、罰せられることになる。「上からの命令」は免責理由にならない。法に反する命令に従うこと自体が犯罪を構成するからである。もちろん、命じた者も捜査対象になる。法廷の設置を、世界市民として呼びかけようではないか。

大ロシア主義の幻影

ウクライナがNATOに加盟、すなわち西側の一員になることをロシアが恐れた。それは間違いない。しかし、ロシアとウクライナの関係は、もっと別のところにあるように思う。それはロシア帝国、ソ連邦時代から変わらない、大ロシア主義が根底にあるのだろう。強いロシア、豊かなロシア、それはロシア一国では成り立たない。ロシアの“草刈り場”が、昔も今も不可欠なのだ。それが穀倉地帯であり、豊かな地下資源を持つウクライナだった。映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』にも、ロシアにとってウクライナがどういう意味を持つ土地であったかが描かれている。

バルト三国やベラルーシ、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンなども、ここから収奪することで、ロシアの繁栄が築かれてきたのである。そしてさらに周辺の地域、たとえばトルクメニスタンやカザフスタンから石油や天然ガスを奪い、核実験の場とし、核廃棄物の処分場を押しつけてきた。なにもかも「ロシアのため」であった。

ソ連邦の外側には、ワルシャワ条約機構と称する軍事同盟下にある衛星国家が配置された。ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアである。主権国家ではあったが、モスクワの顔色をうかがうことで、かろうじて存続が許された国々。西側NATO諸国との緩衝地帯であり、いざ戦争になったときの戦場として、戦火がロシアにまで及ばないための空間、そういう位置づけだったのである。だからこそ、唇をかみしめて忍従を強いられた人たちは、ビロード革命に際し、雪崩をうつように民主化へ走ることになった。東欧の民主化は、大ロシア主義に対する植民地独立運動、民族自決、従属からの脱却だったといえよう。

1970年代の終わり、モスクワの政権は、今度はアフガニスタンを衛星国化せんと、ここに傀儡政権をたてようと目論んだ。英米の影響下にあるパキスタンとの間に緩衝地帯を設けるという意味もあったろう。また、かつてこの地域の支配権をめぐり、グレート・ゲームと呼ばれる英国との綱引きに敗れたことへのリベンジの思いも、少しはあったかもしれない。さらに、アフガニスタンを掌中に収めれば、反米国家イランと連携し、インド洋へのアクセスが可能になると考えたことだろう。

しかし、この野望はムジャヒディンの強烈な抵抗を招く。これを利用した米国による「アフガニスタンをソ連のベトナムに」という策略に、ソ連はものの見事にはまり、泥沼に沈むことになる。10年にわたる軍事行動によって自国の経済が疲弊し、最終的にはソ連邦自体が瓦解するという結果を招くことになった。

要するに、大ロシア主義というのは、ロシアが支配する、ロシアを取り囲む二重、三重の支配構造であり、ロシアの繁栄を支える収奪の仕組みである。ロシアに住む人々にとっては、決して悪い話ではない。心の片隅で、多少の後ろめたさを感じたとしても、そのおかげで恩恵を得られるのだから。東京の繁栄が、沖縄や福島の犠牲の上に築かれているのと同じである。ロシア国内で、一定層がプーチン大統領を支持するのは、そうした理由があるからだ。まさにそれが、ロシアと踏み台とされた他の地域との間に分断と対立を招き、紛争の要因となっている。

独裁者プーチン

さて、ウラジーミル・プーチン(1952年~)とは、いったいどんな人物なのか。政治家になる前の彼は、KGB(秘密警察)の諜報員、すなわちスパイであった。東独の秘密警察(シュタージ)とも協力関係にあり、情報の重要性、有用性については、痛いほど熟知していたに違いない。

東欧が民主化運動に揺れ動いた1989年、彼は東独のドレスデンにいた。KGBドレスデン支部にデモ隊が迫ってくる。プーチンは、「この敷地はソ連領だ。武装兵士がおり、発砲する権限も有している!」とハッタリをかますのだが、デモ隊はひるまない。どうにもならないと悟り、膨大な書類を薪ストーブにくべて燃やしたという。最後は、自らハンドルを握った車でドレスデンを逃げ出すよりほかなかった。

100万人がデモを起こしたら、軍隊でも止められない。だから、そうならないよう、情報を操作し、都合の悪い事実は矮小化・隠蔽・抹消する、嘘で塗り固めた情報を流布し、誇張・歪曲することが不可欠だ。そして、民衆のデモを許してはならない。民主化運動を肌で経験したことが、現在のプーチンの基本的なスタンスにつながっているのだろう。

政治家に転身した後も、KGB出身であるから、政敵やライバルの人脈、資金源、スキャンダルなどの情報を手にする方法も有していた。それらが、リーダーシップ争いにどれほど有利かは、誰にでもわかるだろう。KGB長官だったユーリ・アンドロポフ(1914~84年)が、1982年から2年間、ソ連邦の書記長として政治のトップを務めたのも、同じ理由である。

プーチンは大ロシア主義者である。決して口にはしないが、彼の政策からは、それが透けて見える。ロシア帝国を復活させ、ツァーリ(皇帝)として君臨したいのか、それともソ連邦を再現し、スターリンになりたいのか。スターリンの再来とは呼ばれたくはないであろうが、スターリンのような独裁的な地位を望んでいるように思えるのだ。現在、政権内では、プーチンと意見が合わない者が更迭され、粛正の対象となっているという情報が流れている。政府の意に沿わない情報を伝えようとするメディア関係者は、もっと以前から“外国の使用人”と呼ばれ、職を追われたり、発行や放送自体が封じられてきた。

一般市民も、ウクライナ侵攻に反対するデモの参加者は拘束され、「民間人を攻撃するな」という者は、軍事の虚偽情報を流した廉で、最大15年の刑が科せられることになった。このような法案が、議会でまともな審議を経ることなく成立するということからも、ロシアが民主主義国家などではなく、独裁国家であることがわかる。「軍は民間人を攻撃していない」という政府発表だけが正しいとは、かつての日本の大本営発表みたいではないか。さて、独裁国家であれば、当然のことながら独裁者がいるわけで、それが誰なのかと問われれば、プーチン大統領であると答えるしかなかろう。

憲法改正で、大統領の任期は1期6年、2期までとなった。しかし、この規定は現職大統領には適用されない。つまり、現在の大統領職の任期が2024年に満了し、次の大統領選に立つところからカウントされるわけだから、プーチンは2036年まで大統領職にとどまることが可能になった。“終身大統領”と、ほとんど同義語である。

そうしたわけだから、ウクライナ問題解決のための外相会談に進展がなくても、それは当然である。ロシア外相ラブロフには、プーチンの言葉を伝えるだけしか権限がないだろうし、ウクライナのクレバ外相の言葉を持ち帰って、プーチンに報告するだけだ。プーチンの考えに沿わない発言でもしようものなら、政治家生命にとどまらず、命の危険にもつながりかねないであろうから。

自分に楯突く者は消す。これがプーチン流である。KGBを改組したFSB(ロシア連邦保安庁)の元スパイで、英国に亡命したリトビネンコは、2006年11月、プーチンを批判したために、放射性物質のポロニウム210によって毒殺された。2013年3月には、反プーチンだったロシアの富豪ベレゾフスキーが、ロンドンの自宅で首を吊って亡くなっているのが見つかった。暗殺された可能性が高いと見られている。最近の話では、2018年3月、ロシアの元GRU(軍参謀本部情報総局)大佐のスクリパリとその娘が、ロシア軍が開発したノビチョクという神経剤をかけられ、意識不明の重体となった。こうした事例は、枚挙にいとまがない。プーチンは、実に恐ろしい人物である。

思考停止が生み出す独裁者

しかし、知ってか知らずか、そのような恐ろしい人物を国のリーダーに選んだのが、ほかならぬロシア国民ということになる。プーチン支持層が一定数いることは既に述べた。東西冷戦時の“強いソ連”を懐かしみ、“世界の半分を支配した力”を美化する高齢者が中心となっているのだろう。その実態は、恐怖政治でしかなかったが、実害を被っていない大方の人々は、「あの頃は良かった」という思い出に浸るからである。実害のあった人は、既にこの世にいない。

全体主義の理想を刷り込まれ、個人の権利など存在しなかった時代を生きてきた人々は、誰かに頼ることでしか生きていけなくなってしまう。だからこそ、現在のロシアに不満があっても、大祖国戦争を戦い、2000万人の血で購った国土に憧憬を抱き、「ウクライナは我々のもの」という思想に行き着く。思考停止状態にある人々は、たとえ独裁者であろうと、自分たちに“指示をしてくれる”リーダーを求めるものだ。

ロシアで反戦を訴えているのは、主に若者である。ペレストロイカ以後の教育を受け、民主主義の片鱗を肌で感じ取っているからであろう。彼らが天秤にかけたのは、社会主義か資本主義かではなく、西側の人のように、マクドナルドのハンバーガーやケンタッキーフライドチキン(私はご免だが)を食べたい、ソニーのウォークマンが欲しい、少なくとも、上からの押しつけではない、そうした選択の自由が欲しいということだったのである。

ロシア国民が、実は自分らが独裁権力に絡め取られた操り人形、ないし奴隷に過ぎないことに気づくことができるか否か、それだけが、ウクライナにおける戦闘を終結させ、ロシアの経済と国際社会における信頼、世界秩序を回復させることにつながるのだと思う。奴隷とは、鎖につながれ、鉄球を引きずらされる、そうした身体的、肉体的拘束状態だけを指すのではない。正しいと思うことを口に出せない、嫌々でも従ってしまう、そうした精神的自由を奪われ、魂が拘束されているのも奴隷状態である。

SNS を手にした若者たちが、世代間の軋轢を乗り越え、彼らがメインストリームを形成していくことだけが、よりよき未来への一縷の希望だ、また、世界市民が手を取り合うことで、米国がこれまでおこなってきた暴虐の数々を追求する新たな起点にもなろう。暴力による支配という野蛮からの脱却こそが、文明社会の目指すべき地平であることを、誰も否定できないのだから。


(しみずたけと)

別所憲法9条の会ホームページへ跳ぶ

考えることしかできない、でも、それは必要、それは意味がある

う~ん、う~ん、頭の中をぐるぐると歩き回ってばかりいる。もう何日も。ロシアーウクライナ戦争、なぜこうなった? どうしたら終結する? ロシアが侵攻したのはダメ、絶対ダメ! でも、それ以上は何をどう考えたら良いのか、乏しい情報源から得たいくばくかの情報をかき集めてはまたもや、う~ん、う~ん、うなる。

あまりにたくさんの切れ切れのニュースや論考が行き交い、頭の周りを飛び回っているから、どこから考え始めたらよいものやら、それすらわからない。けれども、たくさんの切れ端をつなげながら、整理して行くしかない。

ウクライナのゼレンスキー大統領は今、徹底抗戦のために西側諸国に戦争への協力を求めている。各国からの義勇兵も募集している。(これは国連憲章違反だと。)デンマークは送り出しを認めるとの声明。けれど、義勇兵が死のうと各国政府に責任はない、義勇だからと。アメリカとヨーロッパの国々はウクライナの運命が自国に及ぶのを恐れて、ミサイル、戦車、弾薬、お金を送る。大規模の経済制裁に乗り出す。NATOに加盟せず中立国であるスウェーデン、フィンランド、スイスまでもがそれぞれの協力をし始める。ドイツは大幅な協力へと方針を変えた。国連ではロシアは国連憲章違反とロシア非難決議を141ヵ国の賛成で採択した。反対と棄権の国は少数。日本の国会でも、れいわ新選組のわずかな反対を物ともせず、ロシア非難決議が行われた。

ちょっと待てよ、わたしにはここが気持ち悪い。世界の紛争を調停する国連が国連憲章違反だと非難決議を行ったのはわかるし、日本の衆参両院の国会が国としての態度を決めようというのも理解できる。でも、それでいいのか。ロシアが悪い、プーチンが悪いと叫んでいれば戦争を終わらせることができる? たとえ、終わらせることができたとしても、その後の互いの関係は最大限のギクシャク、互いの信頼構築はほぼ永遠に不可能となるだろう。わたしたちが「戦争反対!ロシアの侵攻反対!」と、ウクライナの人、ロシアの人、世界各国の人と連帯するのはとても大事だと思う。けれども、政府レベルでファナティックに叫ぶのは恐ろしい。(国会決議のあとに、「れいわ」が主張するように具体策が続けばそれも意味があるけれど、議員にドヤ顔をさせるだけではどうしようもない。)

ウクライナの情勢には歴史がある。親西欧派の大統領が選ばれ、親露派の大統領が選ばれ追放され、ロシア語母語住民の多い南東部のドネツク州/ルハンシク州とEU各国寄りの西部に位置する地域との対立(これは、2014年、ウクライナ政府と西欧が不承不承ながらもミンスク合意で一応の決着を見た)、アゾフ連隊に見られるような好戦的なネオナチ一派が中央政府の支持を得て勢力を拡大したり(この主張は陰謀論という声も聞く)、アメリカが自国有利のためにあれこれと手を伸ばし、ロシアが介入したり、この緩衝地帯の役割を果たしてきた国は常に振り回されてきた。

事情はある、事情は理解できる。しかしだ、「ウクライナに栄えあれ!」「祖国を守れ!」という叫びは人々を死に追いやり、傷つける。ナイフを振りかざして向かってくる者があれば、抵抗する、銃口を向けてくる者があって自分が銃を持っていれば撃つ、そういうことにはなる。けれども、政府が人々を鼓舞して戦わせるのはそれとはわけが違う。国民を戦わせて死んでしまったら、誰がそののちの国を立て直せるのか。武器やお金を送ることは死ぬ人を増やすこと。日本は防弾チョッキくらいなら良いだろうと送る。それとて、立派な軍事装備品だ。誰もそれについて吟味しない。

ソ連が崩壊したのち、ロシアとかつての連邦国は国を保っていくのに困難を抱えて来た。経済状態は良くなかったにもかかわらず、米西欧はロシアを敵国視してきただけだった。追い詰められた独裁者は作るべきではなかった。

中国、ロシアと隣り合っている日本、その日本はアメリカの同盟国で、米軍基地を数多く有している。このままアメリカの掌で踊らされている限りはわたしたちの未来は明るくない。日本は覇権国家ではない。緩衝地帯の役割が果たせるかもしれないのに。

以上、自分で書いて整理したいことの十分の一も書けていない。これからまだまだ頭の中でぐるぐると回り続ける。砂漠の砂粒のひとつであろうとも、十分な判断材料を集めることができなくとも、考えることは必要、考えることは意味があると信じる。砂粒の集合体が世界の思潮となることもあり得る。この「たより」が配られる頃には戦争が終結していることを願うばかり。ウクライナの人、ロシアの人に連帯を!



(Ak.)