ドヴォルザークの『レクイエム』


 ベートーヴェンとならんでポピュラーな交響曲第9番の作曲家といえば、やはり《新世界》のドヴォルザークであろう。ベートーヴェンの第9が器楽と声楽との融合を特徴とするなら、ドヴォルザークのそれは器楽による歌、ボヘミア節とでも言ったらよいだろうか、あのメロディにこそ魂が宿っているように思える。

 アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904年)は北ボヘミア、現在のチェコに生まれた。フランス革命後の欧州で、国民国家の意識が高まっていく時代である。ロマン派に属する音楽家たちもまた、民族的なアイデンティティを主張あるいは盛り込んだ音楽を作るようになった。民族の間に語り継がれてきた物語や詩、歌い継がれてきた伝統的な旋律を採り入れた作曲家たちを総称して国民楽派と呼んでいる。これまでとりあげてきたロシアのムソルグスキーやフィンランドのシベリウス、ドヴォルザークと同郷のスメタナなどがそうだ。チャイコフスキーもその一人に含めて良いと思うのだが、ドイツ音楽の影響が強いことから、ロシア国民楽派とみなす人、みなさない人と、評価が分かれている。


 ドヴォルザークは、交響曲から室内楽、声楽と、幅広いジャンルで優れた作品を残しているが、国民楽派には歌劇や標題音楽に特色を打ち出すケースが多いことを思うと、このあたりがやや異質なところかもしれない。ここで紹介するのは、そんなドヴォルザークによるレクイエムである。

ドヴォルザーク: レクイエム
作品89(1890年)

 演奏時間が90分を超えるにもかかわらず、旋律は素朴かつ情感を漂わせた美しく、聴く者を飽きさせない、疲れさせない、親しみやすい作品に仕上がっている。深い祈りの美しさから、神への畏敬を示す荘厳な激しさへのダイナミズムは、ドヴォルザークが敬虔なカトリック信者であったことを思わせるものだ。また、バッハの《ロ短調ミサ》の第三曲からの引用によって曲が開始されるのも興味深い。

第1曲 入祭文
第2曲 昇階誦
第3曲 怒りの日

第4曲 奇しきラッパの響き
第5曲 哀れなるわれ
第6曲 思い出したまえ
第7曲 呪われたもの
第8曲 涙の日
第9曲 奉献文
第10曲 賛美の生け贄と祈り

第11曲 聖なるかな
第12曲 慈悲深きイエスよ
第13曲 神羊誦

 テクストは、レクイエムお決まりのラテン語によっているが、一部文節の切り方が、グレゴリオ聖歌から脈々と続くスタイルとは微妙に異なっているところがあったり、第3曲の「怒りの日」がドヴォルザーク自身の手によるものになっていたりする。牧歌的にも感じられる親しみやすさの秘密は、こうしたところにあるのかもしれない。


::: CD :::

1)ケルテス盤

 この曲のベストの一つと言っても、間違いではなかろう。英国バーミンガム音楽祭の委嘱により作曲され、1891年にドヴォルザーク自身の指揮によってバーミンガムで初演されたことを思うと、英国とのつながりの深さを感じる。ハンガリー生まれのイシュトヴァン・ケルテス(1929~73年)は、ロンドン交響楽団の楽団員からは絶大な信頼を受け、この時期、同楽団と精力的にドヴォルザークの作品を録音していた。正統かつ模範的な演奏だが、だからといって教科書的な退屈な堅苦しさは微塵もなく、“ドヴォルザーク愛”に満ちあふれたものとなっている。

 いつもながらインターナショナルな音が持ち味のロンドン交響楽団だが、こうした宗教曲は、地域的なアクや民族性を出し過ぎず、ほどほどに抑えた方が普遍性を醸し出し、誰にでも受け入れやすくなって良いのかもしれない。独唱陣は文句なし。合唱を受け持つアンブロジアン・シンガーズも、多彩な表現が求められ、技術的に難しいとされるこの曲を、豊かな表現力で美しい声を響かせている。まさに合唱王国イギリスの面目躍如といったところ。半世紀も前のものだが、今日聴いても不満を感ずることはないだろう。英デッカの録音技術、恐るべし。

独唱:ピラール・ローレンガー(ソプラノ)
   エルジェーベト・コムロッシー(メゾ・ソプラノ)
   ロベルト・イロシュファルヴィ(テノール)
   トム・クラウセ(バリトン)
合唱:
アンブロジアン・シンガーズ

指揮:イシュトヴァン・ケルテス
演奏:ロンドン交響楽団


録音:1969年



2)フルシャ盤

 こちらはチェコの指揮者、オーケストラ、合唱団による、ボヘミアの香り高い演奏である。ヤクブ・フルシャは1981年にブルノに生まれた、40代になったばかりの気鋭の指揮者。2010年には、プラハの春国際音楽祭オープニング・コンサートの指揮者を務めた。これは同音楽祭の最年少記録である。2010年から7年間、東京都交響楽団の首席客演指揮者の地位にあったので、知る人も多いに違いない。

 本CDには、フルシャによる『テ・デウム』とともに、イルジー・ビエロフラーヴェク(1946~2017年)がタクトをとる『聖書の歌』が収録されている。ヴァーツラフ・スメターチェク、カレル・アンチェル、ラファエル・クーベリック、ヴァーツラフ・ノイマン、ズデニェク・コシュラーといったビッグ・ネームの陰に隠れがちだが、少しも引けをとらない指揮者だった。この演奏は最晩年、亡くなった年の貴重なライブ録音である。

独唱: アイリン・ペレス(ソプラノ)
    クリスティアーネ・ストーティン(メゾ・ソプラノ)
    マイケル・スパイアーズ(テノール)
    ヤン・マルティニーク(バリトン)

合唱: プラハ・フィルハーモニー合唱団

指揮: ヤクブ・フルシャ
演奏: チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


録音: 2017年(ライブ)

歌曲集『聖書の歌』作品99(1894年)

独唱: ヤン・マルティニーク(バリトン)
指揮: イルジー・ビエロフラーヴェク
演奏: チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


録音: 2017年(ライブ)

テ・デウム 作品103(1892年)

独唱: カテリーナ・クネージコヴァ(ソプラノ)
    スヴォタプルク・セム(バリトン)
合唱: プラハ・フィルハーモニー合唱団

指揮: ヤクブ・フルシャ
演奏: チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


録音: 2018年(ライブ)


(しみずたけと) 2023.7.30

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死んだ男の残したものは


 現代の日本を代表する詩人のひとりである谷川俊太郎(1931年~)をテーマに、中島みゆきが大学の卒論を書いたことは前に記した。彼のこの詩に、これもまた日本を代表する作曲家である武満徹(1930~96年)がメロディをつけた、あまりにも有名な歌である。ベトナム戦争の真っ只中の1965年、《ベトナムの平和を願う市民の集会》のために作られた反戦歌のひとつだ。

 米軍によってアジアの国の人が殺戮されたベトナム戦争。同じアジアの国である日本は、その出撃拠点であった。もしかしたら、今の若い人たちはそれを知らないかもしれない。朝鮮戦争とベトナム戦争という、自らの努力によって勝ち得たとは言えない“特需”によって奇跡的な復興と経済成長を遂げたわが国は、やがて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の声に酔いしれ、傲慢な国へと成長していった。私たちの(一見すると)豊かな暮らしは、アジアの人々が流したおびただしい血と涙の上にあることを忘れてはならない。

 反戦歌というと、なにやら左派を連想し、身構えてしまう人たちがいる。反戦歌は戦争に反対する歌だが、それが左派としか結びつかないとしたら、左派でない中道や右派は戦争に賛成する、戦争が好きな人たちということなのだろうか。反戦歌に対するものとして、好戦歌とか推戦歌なるものがあるのだろうか。軍歌がそれに類するものであるのは確かだろうが、あからさまに賛美するのではなくても、戦争容認や傍観は、もしかしたら反戦歌とは対極に位置するものなのかもしれない。

 経済大国も技術大国も、もはや過ぎ去った、今から思えば、過去におけるホンの一瞬の栄光でしかなかった。ただひとつ残った平和大国の看板を、日本は降ろそうとしている。そのとき、この国に残るものは何であろうか。そのようなことを思いながら聴いてほしい、歌ってほしい歌である。

死んだ男の残したものは

作詞:谷川俊太郎
作曲:武満徹

1.死んだ男の残したものは
  ひとりの妻とひとりの子ども
  他には何も残さなかった
  墓石ひとつ残さなかった


2.死んだ女の残したものは
  しおれた花とひとりの子ども
  他には何も残さなかった
  着もの一枚残さなかった


3.死んだ子どもの残したものは
  ねじれた脚と乾いた涙
  他には何も残さなかった
  思い出ひとつ残さなかった


4.死んだ兵士の残したものは
  こわれた銃とゆがんだ地球
  他には何も残せなかった
  平和ひとつ残せなかった


5.死んだかれらの残したものは
  生きてるわたし生きてるあなた
  他には誰も残っていない
  他には誰も残っていない


6.死んだ歴史の残したものは
  輝く今日とまた来るあした
  他には何も残っていない
  他には何も残っていない

::: CD :::

《本田路津子 フォークソング・コレクション1》

収録曲
 1.秋でもないのに
 2.風がはこぶもの。
 3.一人の手
 4.死んだ少女
 5.誰もいない海
 6.遠い世界に
 7.白い色は恋人の色
 8.おはなし
 9.小さな日記
 10
今日の日はさようなら
 11.手紙
 12.あの素晴らしい愛をもう一度
 13.知床旅情
 14.遠くへ行きたい
 15.出稼ぎお父う
 16.防人の唄
 17.友よ
 18.戦争は知らない
 19.死んだ男の残したものは
 20.X’masなんか来てほしくない
 21.幸せはつくるもの
 22.若者たち


フォークソングを考える

 「死んだ男の残したものは」は、ポップス・シンガーからクラシック歌手、合唱団まで、実に多くのアーティストがカバーしている。数多ある中から、どれを聴くべきなのか。難しく考える必要はない。いつも思うことだが、各自が“好きなもの”を選べば良い。それだけである。

 高石友也盤や夏木マリ盤など、5番までしか歌っていないものがあるのだが、なぜ6番を外したのだろうか。長すぎてレコードに収録できないとかではないはずだ。理由はわからないが、詩人の心を思えば、最後まできちんと歌いたいものである。もしこの部分が不要なら、初めから書かなかっただろうし、谷川俊太郎が自らの手で改訂したに違いない。

 ここで本田路津子の歌唱を紹介したのは、この歌に合う声質とかその卓越した歌唱力が理由というよりも、彼女が正統的なフォーク歌手のひとりだと思うからである。最近はもっぱらタレントとして活躍中だが、もとはフォーク歌手だったなぎら健壱が、その著書の中で、「数多くのアーティストが十把一絡げにフォークというジャンルに入れられてしまった。プロテスト性を持ったアングラ・フォークをフォーク・ソングと呼ぶなら、○○等々のアーティストはフォークとは呼べないであろう」と書いており、挙げられた数多くのアーティストの中に本田路津子も含めている。そのことにも触れながら、フォークソングについて考えてみたい。

 チャイルド・バラッドと言う名を聞いたことがあるだろうか。米国の文献学者フランシス・ジェームズ・チャイルド(1825~96年)が、イングランドやスコットランドの民間に伝わる物語歌、すなわちバラッドの採取に努め、本に編纂した。その通称がチャイルド・バラッドである。大学時代、英文科に属していた本田路津子は、このチャイルド・バラッドを研究していた。1970年に優勝したハルミラ・フォークコンテストで歌った「シルキー」は、スコットランドのオークニー諸島に伝わる伝承歌で、このチャイルドのバラッド集に収められたものである。彼女自身による録音はないが、ジョーン・バエズやジュディ・コリンズの歌唱で聴くことができる。


 「フォークの女王」と呼ばれるジョーン・バエズは、自身のソングブックの収録歌を、①叙情歌と哀歌、②チャイルドのバラッド、③ブロードサイド・バラッド、④アメリカのバラッドと歌謡、⑤賛美歌、霊歌、子守歌、⑥現代及び創作歌謡に分けている。反戦運動や公民権運動、非暴力運動をリードしてきた生き様から、権力に対するプロテスト・フォークばかりに焦点が当てられがちだが、かくのごとく彼女のレパートリーは幅広く、チャイルドのバラッドも大きな位置を占めている。

 フォークは“民衆”を意味しているのだが、“文化や伝統で結びついた人々”というところがピープルとの違いだろうか。だからフォークソングを民謡と訳すのは間違いではないが、その範疇はかなり広いことに留意したい。各国で古くから歌い継がれる民謡やチャイルド・バラッドはもちろんのこと、中世の吟遊詩人が歌ったものなども含めて良いだろう。カントリー&ウェスタンとの境界もかなり曖昧だ。なぜ反戦歌などのプロテスト・フォークやアングラ・フォークだけが、あたかもフォークの主流のように思われるようになったのであろうか。

 戦争が終わったとき、軍歌や戦争を讃美する歌しかゆるされない時代も終わりを告げた。人々は、それまで抑えつけられていた喜びや悲しみを歌で表すことができるようになったのである。民主化の一つの流れに労働者の権利獲得があるが、それには“プロテスト”という要素が否応なしにつきまとう。戦争中は敵の思想でしかなかった社会主義も、内包する平等や福祉という要素に目が向けられるようになった。歌声喫茶で労働歌やロシア民謡が歌われたのには、そのような背景があったのである。戦争の傷痕が癒え始めた60年代、若者たちが野山で車座になって歌う光景も、その延長線上に連なるものだったように思う。

 歌声喫茶や野山という“歌う場”には開放された空間という特徴がある。今日の閉鎖的なカラオケ・ボックスとは大きく異なる点だ。そして68年、世界中の若者が激動の渦に飲み込まれていく。日本では70年安保。そこで歌われたのがフォークであった。《新宿西口フォークゲリラ》を記憶している人は、今やそれほど多くないかもしれない。

 米国の《ニューポート・フォーク・フェスティバル》に遅れること約10年、中津川で《全日本フォークジャンボリー》が開かれた。《ウッドストック・フェスティバル》と同年だったところは画期的だったが、残念なことに、そこで歌われるものだけがフォーク、あるいは歌われるべきは主流と認められるフォークという、偏狭的な勘違いが生じたのではなかろうか、わずか三回だけで幕を閉じることになる。フォークゲリラもフォークジャンボリーも、そこが“開かれた場”だったからこそ成立したはずなのに。

 フランシス・ジェームズ・チャイルドの名前は、日本では英文学を専攻した者でもないと知られていないのでしかたないかもしれないが、“フォークらしいフォーク”にこだわるあまり、フォークの領域をいたずらに狭めることにつながったのが惜しまれる。プロテスト・フォークの旗手であったピート・シーガーは、カントリー&ウェスタンの大御所でもあった。日本におけるカレッジ・フォークは、広い意味でのフォークを網羅的に取り込んだ結果であったと思う。そういえば、ピート・シーガーの「ひとりの手」を訳して広めたのは、実に本田路津子であった。


 閉鎖的な狭い空間内の仲良しクラブ的な集まりに身を置くことは、同質性を有する者同士にとっては居心地が良いものだ。日本人が好む“和”の意識も築きやすい。その代わり、外に向かって開いていない分だけ発展性に欠け、状況の変化について行きにくく、時代が変わると陳腐化するのも早いものだ。新しい世界への発展可能性は、境界領域を広げることにこそある。


 フォークを守ろうとするあまり、「こんなものはフォークなんかではない」としたことが、かえってフォークを廃れさせる原因になったのではあるまいか。多様性に背を向け、特定の価値観だけを認め、共有する者同士のみが集い、それ以外を排除していく。戦前戦中がまさにそうだったし、いつの時代もそれが権力側の手法である。反権力こそがフォークの真骨頂であるなら、権力者の模倣は自死でしかない。日本のフォークがその後にたどった道、今日のJ-POPにおける立ち位置を思うと、そんなことを感じるのである。

 たとえば《NHK 紅白歌合戦》は、その長い歴史の中で、歌謡曲、演歌、フォーク、GS、アイドル、ニューミュージック、テクノ、シティ・ポップ、バンド、ときにはクラシックと、多種多様なアーティストが登場してきた。映像に見る《ニューポート・フォーク・フェスティバル》の参加者や《ウッドストック・フェスティバル》の精神には、それに劣らぬ多様性を感じないだろうか。私は紅白歌合戦は見ないし、日本のフォーク界を否定するつもりもないが、フォークが短命に終わった原因を多様性の拒否にあったとみている。


 これは音楽にかぎらず、わが国に特有の現象かもしれない。学問の世界などでも、学際性を捨象し、狭小で独善的な領域に閉じこもりがちな傾向がある。アタマの固い学者連中は置いておいて、せめて歌くらいは、カラオケ・ボックスに引きこもったりせず、オープンな空間で歌ったらどうだろう。それこそがフォークソング、民衆の歌だと思うのだが。


(しみずたけと) 2023.5.31

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ベルリオーズの『レクイエム』


 『幻想交響曲』で知られるエクトル・ベルリオーズ(1803~69年)。古典派あるいはウィーン古典派のモーツァルトと近代音楽初頭のフォーレの間に現れた、フランスのロマン派音楽の作曲家である。同じくロマン派に属するブラームスが古典主義的な形式美を尊重したのに対し、ブラームスより30年早く生まれたベルリオーズは、絶対音楽に対するかのような斬新な手法を世に問うた。後にフランツ・リスト(1811~86年)が標題音楽と呼ぶことになるものである。

 古典派の中心とも言えるベートーヴェンも、交響曲第6番『田園』を情念の表現である絶対音楽としながら、各楽章には情景を示唆するような題名を与え、それに対応するかのように、水の流れ、鳥のさえずり、突風や雷鳴など、自然の営みを音作りに採り入れたものとしていた。ベルリオーズは、さらに一歩進め、音楽による絵や物語を主軸に据えたスタイルをうち立てたと言うところか。

 そのベルリオーズによるレクイエム、正しくは『死者のための大ミサ曲』と呼ぶ。1830年の七月革命の犠牲者と、35年に起きたこの記念日の式典で、国王ルイ・フィリップ(1773~1850年)を暗殺する目的で投げられた爆弾による犠牲者を追悼する慰霊祭用に、フランス政府から依頼されたものだった。『幻想交響曲』の七年後、脂ののりきった時期の作曲家とはいえ、国家の公式行事を目的にした楽曲依頼は異例と言って良い。

 かねてより葬送交響曲の構想を抱いていたこともあり、作曲中だった歌劇『ベンヴェヌート・チェッリーニ』を中断したベルリオーズは、この曲を三ヶ月という短い期間で一気に書き上げた。主オーケストラに加え、東側と西側、南側にそれぞれトランペットとトロンボーンを各4本、北側にコルネットとトロンボーンを各4、チューバ2本の四つのバンダ(別働隊)を配置、独唱テノールと合唱団を必要とする大がかりなものとしている。合唱も、ソプラノ80人、テノール60人、バス70人と、なかなか指定が細かい。

 作曲にあたって、ベルリオーズは演奏場所についてまで考慮している。アンヴァリッド(廃兵院)のサン・ルイ教会は、ナポレオンの棺が置かれたドームとは背中合わせになっており、大人数を収容できた。その窓はすべて閉ざされ、壁は黒布で覆われ、闇に包まれた堂内で、棺の周り置かれたロウソクだけが鈍く光を放つ。このような雰囲気の式典を想定し、モーツァルトの『レクイエム』をマドレーヌ教会で、ケルビーニの『レクイエム』をここサン・ルイ教会で聴いた経験から、会場の音響効果や音量の増減が必要であることに気づいた彼は、参列者の集中力を途切れさせないため、音楽に強烈なコントラストを織り込むことにした。それがこうした規模の大きさと四方に置いたバンダである。

 考え抜かれた大曲だったが、1837年7月28日に予定されていた式典は、政治的な理由で三日間から一日に縮小され、ベルリオーズの力作は演奏されずじまいになった。初演は、同年12月5日、アルジェリア戦争で戦死したシャルル=マリー・ドニ・ド・ダムレモン将軍(1783~1837年)と彼の将兵の追悼式として、同じくサン・ルイ教会でおこなわれたのである。

 ベルリオーズは、「ただ一曲だけを残すことが許されるなら、迷わずこれを残してほしい」と言い残すほど、この作品に自信を持っていた、あるいはその出来映えに惚れ込んでいたようであるが、どうであろうか。それは聴いてのお楽しみと言うことで。

ベルリオーズ:『死者のための大ミサ曲』作品5(1837年)

第一曲 入祭文「レクイエム」と「キリエ」
第二曲 続誦「怒りの日」
第三曲 そのとき憐れなるわれ

第四曲 おそるべき御稜威の王よ
第五曲 われをさがし求め
第六曲 涙の日
第七曲 奉献誦
第八曲 賛美のいけにえ
第九曲 聖なるかな
第十曲 神の子羊


::: CD :::

 ベルリオーズの演奏において、指揮者シャルル・ミュンシュ(1891~1968年)の名は外すことができない。フランスものとドイツもの、どちらも熱のこもった素晴らしい録音を残した彼であるが、『レクイエム』については、天才ミケランジェロによるバチカンのシスティナ礼拝堂の天井画『最後の審判』になぞらえるほど高く評価していた。このボストン交響楽団指揮した演奏は、ミケランジェロの壁画の音化とも言えば良いであろうか、パリ管弦楽団との『幻想交響曲』と並び、ステレオ録音初期の最高傑作、究極のベルリオーズ演奏と言って良いだろう。

 もう一枚、より新しい録音を探してみた。まず思いついたのは、1993年の小澤征爾とボストン交響楽団による演奏。ミュンシュは13年間にわたってボストン交響楽団の常任指揮者の地位にあったし、小澤征爾はそのミュンシュの影響を強く受けている。ミュンシュ、小澤征爾、ボストン交響楽団、この三者の共通点は、みなベルリオーズが得意、十八番にしていたということから、新旧レクイエムの対比ということになろうか。しかし、待てよ。どうせ対比するなら、もっと違うスタイルの演奏の方が楽しめるのではないのか…。そうだ、自他共に認めるベルリオーズのエキスパート、サー・コリン・デイヴィスがいたではないか!

 古都ドレスデン。1945年2月13日から15日にかけ、英国空軍と米陸軍航空隊が四度にわたり、のべ1,300の重爆撃機がこの街を無差別爆撃した。投下された3,800トン近い爆弾により、街の大半は破壊され、約三万人が犠牲となる、歴史に残る民間人大量殺戮であった。

 それから半世紀、ドレスデン爆撃50周年を翌年に控えた1994年2月14日、戦没者を追悼する演奏会が開かれた。甚大な被害を受けたこの街で、しかも爆撃のあったのと同じ日に、ドイツを代表するオーケストラのひとつ、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮するのは、爆撃をおこなった側の人間として痛切な衝動に駆られたという英国の巨匠コリン・デイヴィス。その事実が、圧倒的な名演、いや凄演と呼ぶべきか、音楽会という言葉では言い足りないものとしている。独唱と合唱をあわせ、和解と癒やしをもたらす同曲の名演奏として、末永く語り継がれることになるであろう、そんなライブ盤である。

1)ミュンシュ盤

独唱:レオポルド・シモノー(テノール)
合唱:ニュー・イングランド音楽院合唱団

指揮:シャルル・ミュンシュ
演奏:ボストン交響楽団


録音:1959年



2)デイヴィス盤

独唱:キース・イカイア=パーディ (テノール)
合唱:ドレスデン国立歌劇場合唱団
   ドレスデン・シンフォニー合唱団
   ドレスデン・ジングアカデミー

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:シュターツカペレ・ドレスデン


録音:1994年2月14日 ドレスデン聖十字架教会 (ライヴ)


(しみずたけと) 2023.5.24

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別れの曲(うた)


 沖縄が梅雨入りした。あと一月もすれば、慰霊の日である。78年前の今頃、沖縄は鉄の暴風と呼ばれた激しい戦いのただ中にあった。逃げまどう島民の中で、若い男子生徒たちは鉄血勤王隊として、女子生徒たちは学徒隊として、否応なく戦場へ。ひめゆり部隊の名前くらいは、誰もが聞いたことがあるだろう。

 後にひめゆり学徒隊と呼ばれることになる沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒たちは、太田博少尉の指揮する部隊に配属され、高射砲陣地を築くための土木作業に従事。若き詩人でもあった太田は、三月に控えた卒業式の餞として、「卒業生に贈る詩」と題する一篇の詩を贈った。宮古島生まれで引率の音楽教師、東風平恵位がこれに曲を付け、「別れの曲」としたのである。

作詞:太田 博
作曲:東風平 恵位

1.目に親し 相思樹並木
  往きかえり 去り難(がた)けれど
  夢の如 疾(と)き年月の
  行きにけん 後ぞくやしき

2.学舎(まなびや)の 赤きいらかも
  別れなば なつかしからん
  吾が寮に 睦みし友よ
  忘るるな 離(さか)り住むとも

3.業(わざ)なりて 巣立つよろこび
  いや深き なげきぞこもる
  いざさらば いとしの友よ
  何時の日か 再び逢わん

4.微笑みて 吾等おくらん
  過ぎし日の 思い出秘めし
  澄みまさる 明るきまみよ
  すこやかに 幸多かれと
        幸多かれと

 米軍の沖縄上陸が迫り、ひめゆり学徒隊は「別れの曲」を歌う機会もないままに、看護要員として、初めは南風原の陸軍病院に動員された。病院と言えば聞こえが良いが、黄金森(くがねむい)の丘に掘られた横穴壕である。拠点の首里が陥落し、敗走を続ける軍とともに南方の糸数に移動、三つの壕に分散配置された。そこかしこで戦線が突破され、敗色が濃厚になった6月19日、突如の解散命令。しかし…。

 ひめゆり部隊だけではない。第二高等女学校の白梅学徒隊、第三高等女学校のなごらん学徒隊、県立首里高等女学校の瑞泉学徒隊、私立積徳髙等女学校の積徳学徒隊・ふじ学徒隊、私立昭和高等女学校の悌梧学徒隊、本島以外では、県立宮古高等女学校の宮古高女学徒隊、八重山高等女学校の八重山高女学徒隊、県立八重山農学校の八重農女子学徒隊の八つの学徒隊が編成された。男子の鉄血勤王隊と合わせれば、21もの学校の生徒たちが戦争に動員されたことになる。

 6月23日、沖縄守備にあたった第32軍司令官の牛島満中将が摩文仁の丘で自決し、日本軍による組織的抵抗が終了した。この日が慰霊の日となった理由である。しかし、これをもって沖縄戦が終わったわけではない。自決するにあたり、牛島中将が最後に「各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ(中略)生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」との命を発した。最後の一兵として、死ぬまで戦をやめるな、戦い続けろと言うわけである。

 戦闘停止は、双方の司令官による協議でなされるものだから、日本側の司令官が不在になった以上、停戦は不可能となってしまった。沖縄における戦闘は、8月15日以降も続くことになる。戦争は終わったのだから、その後の死者は、本来なら必要のないものだった。まさに無駄死にでしかない。

 ひめゆり平和祈念資料館の証言を集めた一室。控えめな照明の中で静かに流れるのが、ここに紹介した「別れの曲」である。壕からの脱出が間に合わず、投げ込まれた黄燐弾によって亡くなった者、荒崎海岸まで逃げたものの、そこで集団死した者、かろうじて生きながらえた者、彼女らの運命は様々であった。生き残ったにもかかわらず、米兵に「私は皇国女性だ。殺せ」と詰め寄り、射殺された者もいる。皇民化教育の恐ろしさを感じないだろうか。

 ひめゆり学徒隊を扱った小説、映画、芝居は数多ある。どれでも良いから、この機会に触れてみてほしい。そして考えてほしい。コロナ禍もあったが、久しく足を運んでいない沖縄、そしてひめゆり平和祈念資料館。あの悲惨な戦争から、私たちは平和の尊さを学びとったはずである。戦争はいけない、戦争への道を突き進んではならない。私だけでなく、みなそう思ってきた。

 しかし、戦争をしたがる人たちは後を絶たない。いつも彼らは、人々の不安と恐怖を煽り、そうしたものへの耐性が低い日本国民はあたふたし、踊らされ、知らぬ間に戦争支持へと誘導されてしまう。論理ではなく感情に支配されてしまうからだろう。偏った教育とメディアがそれを後押ししている。それどころか、周りを見よ、論理的な思考が必要だと言う者を「偏っている」などと非難する勢力が幅をきかすご時世だから、状況は悪化する一方だ。

 望んでもいない戦争に巻き込まれないためには、正しい情報をもとにした知識を身につけ、考えることしかない。歴史を学ぶ、歴史から学ぶというのは、そういうことだ。いつか来た道をたどらないために。それだけが、無念の死を遂げたひめゆりたちへの手向けになるのだと思う。


ひめゆり学徒隊を扱った映画をリストアップし、それぞれ解説しています。ぜひごらんください。クリックしてください!


ひめゆり学徒隊に係わる沖縄の平和ミュージアムをリストアップしています。それぞれの館のホームページを開くことができます。参考になさっていただければ幸いです。


::: CD :::

別れの曲(うた)

歌: 新垣八千代、大湾朝子、作田美穂子、玻名城規子、真栄城早由
ピアノ: 浜田淳子   シンセサイザー: 新垣雄
フルート: 山城波季  クラリネット: 當間むつき
ホルン: 大野岳弘、高江洲奈


録音: 1996年


(しみずたけと) 2023.5.18

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再びメンデルスゾーンの『スコットランド』


 フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47年)の交響曲第3番『スコットランド』をとりあげたのは2021年5月11日だった。もう二年も経ってしまったのか。時の流れのなんと速いことよ。
 
 あのとき、四つの録音を紹介した。どれも素晴らしいものだが、もうひとつ、少し違うものを加えてみたいと思う。ベートーヴェンの交響曲第9番『合唱』を、小澤征爾指揮、水戸室内管弦楽団という小編成の演奏で聴いていただいた。それと同じように、ここでは『スコットランド』を、ネヴィル・マリナー(1924~2016年)が指揮するアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズを聴いてほしい


アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズは、室内管弦楽団でこそないが、編成の小さなオーケストラである。澄んだ音色と緻密なアンサンブルはもちろんだが、小編成の割には音量も豊かだ。オーケストラのトップないしセカンドを務められる腕扱き集団だけのことはある。マリナーともども、もう何回も登場している楽団だから、これ以上の説明はいるまい。スコットランドの風が、より軽やかで爽やかになったような、それでいてしみじみした気持ちにさせてくれる、そんな音色に耳を傾ければ、曇りがちな心も少しは晴れやかになるかもしれない。


::: CD :::

交響曲第3番イ短調『スコットランド』作品56
交響曲第4番イ長調『イタリア』作品90

指揮:ネヴィル・マリナー
演奏:アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

録音:1979年


(しみずたけと) 2023.5.18

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