死んだ男の残したものは


 現代の日本を代表する詩人のひとりである谷川俊太郎(1931年~)をテーマに、中島みゆきが大学の卒論を書いたことは前に記した。彼のこの詩に、これもまた日本を代表する作曲家である武満徹(1930~96年)がメロディをつけた、あまりにも有名な歌である。ベトナム戦争の真っ只中の1965年、《ベトナムの平和を願う市民の集会》のために作られた反戦歌のひとつだ。

 米軍によってアジアの国の人が殺戮されたベトナム戦争。同じアジアの国である日本は、その出撃拠点であった。もしかしたら、今の若い人たちはそれを知らないかもしれない。朝鮮戦争とベトナム戦争という、自らの努力によって勝ち得たとは言えない“特需”によって奇跡的な復興と経済成長を遂げたわが国は、やがて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の声に酔いしれ、傲慢な国へと成長していった。私たちの(一見すると)豊かな暮らしは、アジアの人々が流したおびただしい血と涙の上にあることを忘れてはならない。

 反戦歌というと、なにやら左派を連想し、身構えてしまう人たちがいる。反戦歌は戦争に反対する歌だが、それが左派としか結びつかないとしたら、左派でない中道や右派は戦争に賛成する、戦争が好きな人たちということなのだろうか。反戦歌に対するものとして、好戦歌とか推戦歌なるものがあるのだろうか。軍歌がそれに類するものであるのは確かだろうが、あからさまに賛美するのではなくても、戦争容認や傍観は、もしかしたら反戦歌とは対極に位置するものなのかもしれない。

 経済大国も技術大国も、もはや過ぎ去った、今から思えば、過去におけるホンの一瞬の栄光でしかなかった。ただひとつ残った平和大国の看板を、日本は降ろそうとしている。そのとき、この国に残るものは何であろうか。そのようなことを思いながら聴いてほしい、歌ってほしい歌である。

死んだ男の残したものは

作詞:谷川俊太郎
作曲:武満徹

1.死んだ男の残したものは
  ひとりの妻とひとりの子ども
  他には何も残さなかった
  墓石ひとつ残さなかった


2.死んだ女の残したものは
  しおれた花とひとりの子ども
  他には何も残さなかった
  着もの一枚残さなかった


3.死んだ子どもの残したものは
  ねじれた脚と乾いた涙
  他には何も残さなかった
  思い出ひとつ残さなかった


4.死んだ兵士の残したものは
  こわれた銃とゆがんだ地球
  他には何も残せなかった
  平和ひとつ残せなかった


5.死んだかれらの残したものは
  生きてるわたし生きてるあなた
  他には誰も残っていない
  他には誰も残っていない


6.死んだ歴史の残したものは
  輝く今日とまた来るあした
  他には何も残っていない
  他には何も残っていない

::: CD :::

《本田路津子 フォークソング・コレクション1》

収録曲
 1.秋でもないのに
 2.風がはこぶもの。
 3.一人の手
 4.死んだ少女
 5.誰もいない海
 6.遠い世界に
 7.白い色は恋人の色
 8.おはなし
 9.小さな日記
 10
今日の日はさようなら
 11.手紙
 12.あの素晴らしい愛をもう一度
 13.知床旅情
 14.遠くへ行きたい
 15.出稼ぎお父う
 16.防人の唄
 17.友よ
 18.戦争は知らない
 19.死んだ男の残したものは
 20.X’masなんか来てほしくない
 21.幸せはつくるもの
 22.若者たち


フォークソングを考える

 「死んだ男の残したものは」は、ポップス・シンガーからクラシック歌手、合唱団まで、実に多くのアーティストがカバーしている。数多ある中から、どれを聴くべきなのか。難しく考える必要はない。いつも思うことだが、各自が“好きなもの”を選べば良い。それだけである。

 高石友也盤や夏木マリ盤など、5番までしか歌っていないものがあるのだが、なぜ6番を外したのだろうか。長すぎてレコードに収録できないとかではないはずだ。理由はわからないが、詩人の心を思えば、最後まできちんと歌いたいものである。もしこの部分が不要なら、初めから書かなかっただろうし、谷川俊太郎が自らの手で改訂したに違いない。

 ここで本田路津子の歌唱を紹介したのは、この歌に合う声質とかその卓越した歌唱力が理由というよりも、彼女が正統的なフォーク歌手のひとりだと思うからである。最近はもっぱらタレントとして活躍中だが、もとはフォーク歌手だったなぎら健壱が、その著書の中で、「数多くのアーティストが十把一絡げにフォークというジャンルに入れられてしまった。プロテスト性を持ったアングラ・フォークをフォーク・ソングと呼ぶなら、○○等々のアーティストはフォークとは呼べないであろう」と書いており、挙げられた数多くのアーティストの中に本田路津子も含めている。そのことにも触れながら、フォークソングについて考えてみたい。

 チャイルド・バラッドと言う名を聞いたことがあるだろうか。米国の文献学者フランシス・ジェームズ・チャイルド(1825~96年)が、イングランドやスコットランドの民間に伝わる物語歌、すなわちバラッドの採取に努め、本に編纂した。その通称がチャイルド・バラッドである。大学時代、英文科に属していた本田路津子は、このチャイルド・バラッドを研究していた。1970年に優勝したハルミラ・フォークコンテストで歌った「シルキー」は、スコットランドのオークニー諸島に伝わる伝承歌で、このチャイルドのバラッド集に収められたものである。彼女自身による録音はないが、ジョーン・バエズやジュディ・コリンズの歌唱で聴くことができる。


 「フォークの女王」と呼ばれるジョーン・バエズは、自身のソングブックの収録歌を、①叙情歌と哀歌、②チャイルドのバラッド、③ブロードサイド・バラッド、④アメリカのバラッドと歌謡、⑤賛美歌、霊歌、子守歌、⑥現代及び創作歌謡に分けている。反戦運動や公民権運動、非暴力運動をリードしてきた生き様から、権力に対するプロテスト・フォークばかりに焦点が当てられがちだが、かくのごとく彼女のレパートリーは幅広く、チャイルドのバラッドも大きな位置を占めている。

 フォークは“民衆”を意味しているのだが、“文化や伝統で結びついた人々”というところがピープルとの違いだろうか。だからフォークソングを民謡と訳すのは間違いではないが、その範疇はかなり広いことに留意したい。各国で古くから歌い継がれる民謡やチャイルド・バラッドはもちろんのこと、中世の吟遊詩人が歌ったものなども含めて良いだろう。カントリー&ウェスタンとの境界もかなり曖昧だ。なぜ反戦歌などのプロテスト・フォークやアングラ・フォークだけが、あたかもフォークの主流のように思われるようになったのであろうか。

 戦争が終わったとき、軍歌や戦争を讃美する歌しかゆるされない時代も終わりを告げた。人々は、それまで抑えつけられていた喜びや悲しみを歌で表すことができるようになったのである。民主化の一つの流れに労働者の権利獲得があるが、それには“プロテスト”という要素が否応なしにつきまとう。戦争中は敵の思想でしかなかった社会主義も、内包する平等や福祉という要素に目が向けられるようになった。歌声喫茶で労働歌やロシア民謡が歌われたのには、そのような背景があったのである。戦争の傷痕が癒え始めた60年代、若者たちが野山で車座になって歌う光景も、その延長線上に連なるものだったように思う。

 歌声喫茶や野山という“歌う場”には開放された空間という特徴がある。今日の閉鎖的なカラオケ・ボックスとは大きく異なる点だ。そして68年、世界中の若者が激動の渦に飲み込まれていく。日本では70年安保。そこで歌われたのがフォークであった。《新宿西口フォークゲリラ》を記憶している人は、今やそれほど多くないかもしれない。

 米国の《ニューポート・フォーク・フェスティバル》に遅れること約10年、中津川で《全日本フォークジャンボリー》が開かれた。《ウッドストック・フェスティバル》と同年だったところは画期的だったが、残念なことに、そこで歌われるものだけがフォーク、あるいは歌われるべきは主流と認められるフォークという、偏狭的な勘違いが生じたのではなかろうか、わずか三回だけで幕を閉じることになる。フォークゲリラもフォークジャンボリーも、そこが“開かれた場”だったからこそ成立したはずなのに。

 フランシス・ジェームズ・チャイルドの名前は、日本では英文学を専攻した者でもないと知られていないのでしかたないかもしれないが、“フォークらしいフォーク”にこだわるあまり、フォークの領域をいたずらに狭めることにつながったのが惜しまれる。プロテスト・フォークの旗手であったピート・シーガーは、カントリー&ウェスタンの大御所でもあった。日本におけるカレッジ・フォークは、広い意味でのフォークを網羅的に取り込んだ結果であったと思う。そういえば、ピート・シーガーの「ひとりの手」を訳して広めたのは、実に本田路津子であった。


 閉鎖的な狭い空間内の仲良しクラブ的な集まりに身を置くことは、同質性を有する者同士にとっては居心地が良いものだ。日本人が好む“和”の意識も築きやすい。その代わり、外に向かって開いていない分だけ発展性に欠け、状況の変化について行きにくく、時代が変わると陳腐化するのも早いものだ。新しい世界への発展可能性は、境界領域を広げることにこそある。


 フォークを守ろうとするあまり、「こんなものはフォークなんかではない」としたことが、かえってフォークを廃れさせる原因になったのではあるまいか。多様性に背を向け、特定の価値観だけを認め、共有する者同士のみが集い、それ以外を排除していく。戦前戦中がまさにそうだったし、いつの時代もそれが権力側の手法である。反権力こそがフォークの真骨頂であるなら、権力者の模倣は自死でしかない。日本のフォークがその後にたどった道、今日のJ-POPにおける立ち位置を思うと、そんなことを感じるのである。

 たとえば《NHK 紅白歌合戦》は、その長い歴史の中で、歌謡曲、演歌、フォーク、GS、アイドル、ニューミュージック、テクノ、シティ・ポップ、バンド、ときにはクラシックと、多種多様なアーティストが登場してきた。映像に見る《ニューポート・フォーク・フェスティバル》の参加者や《ウッドストック・フェスティバル》の精神には、それに劣らぬ多様性を感じないだろうか。私は紅白歌合戦は見ないし、日本のフォーク界を否定するつもりもないが、フォークが短命に終わった原因を多様性の拒否にあったとみている。


 これは音楽にかぎらず、わが国に特有の現象かもしれない。学問の世界などでも、学際性を捨象し、狭小で独善的な領域に閉じこもりがちな傾向がある。アタマの固い学者連中は置いておいて、せめて歌くらいは、カラオケ・ボックスに引きこもったりせず、オープンな空間で歌ったらどうだろう。それこそがフォークソング、民衆の歌だと思うのだが。


(しみずたけと) 2023.5.31

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ベルリオーズの『レクイエム』


 『幻想交響曲』で知られるエクトル・ベルリオーズ(1803~69年)。古典派あるいはウィーン古典派のモーツァルトと近代音楽初頭のフォーレの間に現れた、フランスのロマン派音楽の作曲家である。同じくロマン派に属するブラームスが古典主義的な形式美を尊重したのに対し、ブラームスより30年早く生まれたベルリオーズは、絶対音楽に対するかのような斬新な手法を世に問うた。後にフランツ・リスト(1811~86年)が標題音楽と呼ぶことになるものである。

 古典派の中心とも言えるベートーヴェンも、交響曲第6番『田園』を情念の表現である絶対音楽としながら、各楽章には情景を示唆するような題名を与え、それに対応するかのように、水の流れ、鳥のさえずり、突風や雷鳴など、自然の営みを音作りに採り入れたものとしていた。ベルリオーズは、さらに一歩進め、音楽による絵や物語を主軸に据えたスタイルをうち立てたと言うところか。

 そのベルリオーズによるレクイエム、正しくは『死者のための大ミサ曲』と呼ぶ。1830年の七月革命の犠牲者と、35年に起きたこの記念日の式典で、国王ルイ・フィリップ(1773~1850年)を暗殺する目的で投げられた爆弾による犠牲者を追悼する慰霊祭用に、フランス政府から依頼されたものだった。『幻想交響曲』の七年後、脂ののりきった時期の作曲家とはいえ、国家の公式行事を目的にした楽曲依頼は異例と言って良い。

 かねてより葬送交響曲の構想を抱いていたこともあり、作曲中だった歌劇『ベンヴェヌート・チェッリーニ』を中断したベルリオーズは、この曲を三ヶ月という短い期間で一気に書き上げた。主オーケストラに加え、東側と西側、南側にそれぞれトランペットとトロンボーンを各4本、北側にコルネットとトロンボーンを各4、チューバ2本の四つのバンダ(別働隊)を配置、独唱テノールと合唱団を必要とする大がかりなものとしている。合唱も、ソプラノ80人、テノール60人、バス70人と、なかなか指定が細かい。

 作曲にあたって、ベルリオーズは演奏場所についてまで考慮している。アンヴァリッド(廃兵院)のサン・ルイ教会は、ナポレオンの棺が置かれたドームとは背中合わせになっており、大人数を収容できた。その窓はすべて閉ざされ、壁は黒布で覆われ、闇に包まれた堂内で、棺の周り置かれたロウソクだけが鈍く光を放つ。このような雰囲気の式典を想定し、モーツァルトの『レクイエム』をマドレーヌ教会で、ケルビーニの『レクイエム』をここサン・ルイ教会で聴いた経験から、会場の音響効果や音量の増減が必要であることに気づいた彼は、参列者の集中力を途切れさせないため、音楽に強烈なコントラストを織り込むことにした。それがこうした規模の大きさと四方に置いたバンダである。

 考え抜かれた大曲だったが、1837年7月28日に予定されていた式典は、政治的な理由で三日間から一日に縮小され、ベルリオーズの力作は演奏されずじまいになった。初演は、同年12月5日、アルジェリア戦争で戦死したシャルル=マリー・ドニ・ド・ダムレモン将軍(1783~1837年)と彼の将兵の追悼式として、同じくサン・ルイ教会でおこなわれたのである。

 ベルリオーズは、「ただ一曲だけを残すことが許されるなら、迷わずこれを残してほしい」と言い残すほど、この作品に自信を持っていた、あるいはその出来映えに惚れ込んでいたようであるが、どうであろうか。それは聴いてのお楽しみと言うことで。

ベルリオーズ:『死者のための大ミサ曲』作品5(1837年)

第一曲 入祭文「レクイエム」と「キリエ」
第二曲 続誦「怒りの日」
第三曲 そのとき憐れなるわれ

第四曲 おそるべき御稜威の王よ
第五曲 われをさがし求め
第六曲 涙の日
第七曲 奉献誦
第八曲 賛美のいけにえ
第九曲 聖なるかな
第十曲 神の子羊


::: CD :::

 ベルリオーズの演奏において、指揮者シャルル・ミュンシュ(1891~1968年)の名は外すことができない。フランスものとドイツもの、どちらも熱のこもった素晴らしい録音を残した彼であるが、『レクイエム』については、天才ミケランジェロによるバチカンのシスティナ礼拝堂の天井画『最後の審判』になぞらえるほど高く評価していた。このボストン交響楽団指揮した演奏は、ミケランジェロの壁画の音化とも言えば良いであろうか、パリ管弦楽団との『幻想交響曲』と並び、ステレオ録音初期の最高傑作、究極のベルリオーズ演奏と言って良いだろう。

 もう一枚、より新しい録音を探してみた。まず思いついたのは、1993年の小澤征爾とボストン交響楽団による演奏。ミュンシュは13年間にわたってボストン交響楽団の常任指揮者の地位にあったし、小澤征爾はそのミュンシュの影響を強く受けている。ミュンシュ、小澤征爾、ボストン交響楽団、この三者の共通点は、みなベルリオーズが得意、十八番にしていたということから、新旧レクイエムの対比ということになろうか。しかし、待てよ。どうせ対比するなら、もっと違うスタイルの演奏の方が楽しめるのではないのか…。そうだ、自他共に認めるベルリオーズのエキスパート、サー・コリン・デイヴィスがいたではないか!

 古都ドレスデン。1945年2月13日から15日にかけ、英国空軍と米陸軍航空隊が四度にわたり、のべ1,300の重爆撃機がこの街を無差別爆撃した。投下された3,800トン近い爆弾により、街の大半は破壊され、約三万人が犠牲となる、歴史に残る民間人大量殺戮であった。

 それから半世紀、ドレスデン爆撃50周年を翌年に控えた1994年2月14日、戦没者を追悼する演奏会が開かれた。甚大な被害を受けたこの街で、しかも爆撃のあったのと同じ日に、ドイツを代表するオーケストラのひとつ、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮するのは、爆撃をおこなった側の人間として痛切な衝動に駆られたという英国の巨匠コリン・デイヴィス。その事実が、圧倒的な名演、いや凄演と呼ぶべきか、音楽会という言葉では言い足りないものとしている。独唱と合唱をあわせ、和解と癒やしをもたらす同曲の名演奏として、末永く語り継がれることになるであろう、そんなライブ盤である。

1)ミュンシュ盤

独唱:レオポルド・シモノー(テノール)
合唱:ニュー・イングランド音楽院合唱団

指揮:シャルル・ミュンシュ
演奏:ボストン交響楽団


録音:1959年



2)デイヴィス盤

独唱:キース・イカイア=パーディ (テノール)
合唱:ドレスデン国立歌劇場合唱団
   ドレスデン・シンフォニー合唱団
   ドレスデン・ジングアカデミー

指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:シュターツカペレ・ドレスデン


録音:1994年2月14日 ドレスデン聖十字架教会 (ライヴ)


(しみずたけと) 2023.5.24

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別れの曲(うた)


 沖縄が梅雨入りした。あと一月もすれば、慰霊の日である。78年前の今頃、沖縄は鉄の暴風と呼ばれた激しい戦いのただ中にあった。逃げまどう島民の中で、若い男子生徒たちは鉄血勤王隊として、女子生徒たちは学徒隊として、否応なく戦場へ。ひめゆり部隊の名前くらいは、誰もが聞いたことがあるだろう。

 後にひめゆり学徒隊と呼ばれることになる沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒たちは、太田博少尉の指揮する部隊に配属され、高射砲陣地を築くための土木作業に従事。若き詩人でもあった太田は、三月に控えた卒業式の餞として、「卒業生に贈る詩」と題する一篇の詩を贈った。宮古島生まれで引率の音楽教師、東風平恵位がこれに曲を付け、「別れの曲」としたのである。

作詞:太田 博
作曲:東風平 恵位

1.目に親し 相思樹並木
  往きかえり 去り難(がた)けれど
  夢の如 疾(と)き年月の
  行きにけん 後ぞくやしき

2.学舎(まなびや)の 赤きいらかも
  別れなば なつかしからん
  吾が寮に 睦みし友よ
  忘るるな 離(さか)り住むとも

3.業(わざ)なりて 巣立つよろこび
  いや深き なげきぞこもる
  いざさらば いとしの友よ
  何時の日か 再び逢わん

4.微笑みて 吾等おくらん
  過ぎし日の 思い出秘めし
  澄みまさる 明るきまみよ
  すこやかに 幸多かれと
        幸多かれと

 米軍の沖縄上陸が迫り、ひめゆり学徒隊は「別れの曲」を歌う機会もないままに、看護要員として、初めは南風原の陸軍病院に動員された。病院と言えば聞こえが良いが、黄金森(くがねむい)の丘に掘られた横穴壕である。拠点の首里が陥落し、敗走を続ける軍とともに南方の糸数に移動、三つの壕に分散配置された。そこかしこで戦線が突破され、敗色が濃厚になった6月19日、突如の解散命令。しかし…。

 ひめゆり部隊だけではない。第二高等女学校の白梅学徒隊、第三高等女学校のなごらん学徒隊、県立首里高等女学校の瑞泉学徒隊、私立積徳髙等女学校の積徳学徒隊・ふじ学徒隊、私立昭和高等女学校の悌梧学徒隊、本島以外では、県立宮古高等女学校の宮古高女学徒隊、八重山高等女学校の八重山高女学徒隊、県立八重山農学校の八重農女子学徒隊の八つの学徒隊が編成された。男子の鉄血勤王隊と合わせれば、21もの学校の生徒たちが戦争に動員されたことになる。

 6月23日、沖縄守備にあたった第32軍司令官の牛島満中将が摩文仁の丘で自決し、日本軍による組織的抵抗が終了した。この日が慰霊の日となった理由である。しかし、これをもって沖縄戦が終わったわけではない。自決するにあたり、牛島中将が最後に「各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ(中略)生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」との命を発した。最後の一兵として、死ぬまで戦をやめるな、戦い続けろと言うわけである。

 戦闘停止は、双方の司令官による協議でなされるものだから、日本側の司令官が不在になった以上、停戦は不可能となってしまった。沖縄における戦闘は、8月15日以降も続くことになる。戦争は終わったのだから、その後の死者は、本来なら必要のないものだった。まさに無駄死にでしかない。

 ひめゆり平和祈念資料館の証言を集めた一室。控えめな照明の中で静かに流れるのが、ここに紹介した「別れの曲」である。壕からの脱出が間に合わず、投げ込まれた黄燐弾によって亡くなった者、荒崎海岸まで逃げたものの、そこで集団死した者、かろうじて生きながらえた者、彼女らの運命は様々であった。生き残ったにもかかわらず、米兵に「私は皇国女性だ。殺せ」と詰め寄り、射殺された者もいる。皇民化教育の恐ろしさを感じないだろうか。

 ひめゆり学徒隊を扱った小説、映画、芝居は数多ある。どれでも良いから、この機会に触れてみてほしい。そして考えてほしい。コロナ禍もあったが、久しく足を運んでいない沖縄、そしてひめゆり平和祈念資料館。あの悲惨な戦争から、私たちは平和の尊さを学びとったはずである。戦争はいけない、戦争への道を突き進んではならない。私だけでなく、みなそう思ってきた。

 しかし、戦争をしたがる人たちは後を絶たない。いつも彼らは、人々の不安と恐怖を煽り、そうしたものへの耐性が低い日本国民はあたふたし、踊らされ、知らぬ間に戦争支持へと誘導されてしまう。論理ではなく感情に支配されてしまうからだろう。偏った教育とメディアがそれを後押ししている。それどころか、周りを見よ、論理的な思考が必要だと言う者を「偏っている」などと非難する勢力が幅をきかすご時世だから、状況は悪化する一方だ。

 望んでもいない戦争に巻き込まれないためには、正しい情報をもとにした知識を身につけ、考えることしかない。歴史を学ぶ、歴史から学ぶというのは、そういうことだ。いつか来た道をたどらないために。それだけが、無念の死を遂げたひめゆりたちへの手向けになるのだと思う。


ひめゆり学徒隊を扱った映画をリストアップし、それぞれ解説しています。ぜひごらんください。クリックしてください!


ひめゆり学徒隊に係わる沖縄の平和ミュージアムをリストアップしています。それぞれの館のホームページを開くことができます。参考になさっていただければ幸いです。


::: CD :::

別れの曲(うた)

歌: 新垣八千代、大湾朝子、作田美穂子、玻名城規子、真栄城早由
ピアノ: 浜田淳子   シンセサイザー: 新垣雄
フルート: 山城波季  クラリネット: 當間むつき
ホルン: 大野岳弘、高江洲奈


録音: 1996年


(しみずたけと) 2023.5.18

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再びメンデルスゾーンの『スコットランド』


 フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47年)の交響曲第3番『スコットランド』をとりあげたのは2021年5月11日だった。もう二年も経ってしまったのか。時の流れのなんと速いことよ。
 
 あのとき、四つの録音を紹介した。どれも素晴らしいものだが、もうひとつ、少し違うものを加えてみたいと思う。ベートーヴェンの交響曲第9番『合唱』を、小澤征爾指揮、水戸室内管弦楽団という小編成の演奏で聴いていただいた。それと同じように、ここでは『スコットランド』を、ネヴィル・マリナー(1924~2016年)が指揮するアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズを聴いてほしい


アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズは、室内管弦楽団でこそないが、編成の小さなオーケストラである。澄んだ音色と緻密なアンサンブルはもちろんだが、小編成の割には音量も豊かだ。オーケストラのトップないしセカンドを務められる腕扱き集団だけのことはある。マリナーともども、もう何回も登場している楽団だから、これ以上の説明はいるまい。スコットランドの風が、より軽やかで爽やかになったような、それでいてしみじみした気持ちにさせてくれる、そんな音色に耳を傾ければ、曇りがちな心も少しは晴れやかになるかもしれない。


::: CD :::

交響曲第3番イ短調『スコットランド』作品56
交響曲第4番イ長調『イタリア』作品90

指揮:ネヴィル・マリナー
演奏:アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

録音:1979年


(しみずたけと) 2023.5.18

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マーラー 交響曲第1番


 マーラーの交響曲第2番『復活』を紹介する中で、ヤッシャ・ホーレンシュタイン(1898~1973年)の名にふれた。いま戦火の真っ只中にあるウクライナのキエフ出身、しかも姪が日本国憲法草案制定会議のメンバーであるベアテ・シロタ・ゴードン(1923~2012年)とくれば、憲法記念日を目の前に控え、《別所憲法9条の会》としては、ぜひともとりあげたい音楽家である。

 早くからマーラー演奏を得意としていた彼だが、交響曲第2番『復活』は録音されなかったのか、CDもLPも見つけることができなかった。手元にも、もちろんない。なんとか彼のマーラーを聴いてもらいたかったのだが…。いや、まてよ、交響曲第1番なら、ロンドン交響楽団との名盤があるではないか!

 ユダヤ系のホーレンシュタインは、ヒトラー支配下で酷い目に遭わされた一人である。戦後は米国を中心に、西側諸国で活躍した。ウクライナ出身なら、なぜソ連邦ではなかったのか。彼の手腕を持ってすれば、モスクワやレニングラードの主要オーケストラを率いるポスト、音楽監督でも首席指揮者にでも就けたはずである。

 それもまた、彼がユダヤ系だったからなのだろう。社会主義の国となったソ連だったが、帝政ロシアの時代と変わらない反ユダヤ主義が席巻していたのである。社会主義とか共産主義が問題なのではない。権威主義国家は、体制に従順な「もの言わぬ」人間を欲する、ありていに言えば、権力に尻尾を振り、媚びへつらう輩が重用され、そうでない者は「厄介な存在」として周辺に追いやられるのが常だ。日本学術会議に対する政権の姿勢を見れば、民主主義を自称するわが国も変わりないことがわかるはずだ。

 ヒトラーとスターリンは「同じ穴の狢」でしかない。互いに戦火を交えながら、自国民をも死に追いやった独裁者である。違っているのは、背負った看板だけ。卑近な例に当てはめれば、抗争を繰りひろげる○○組と××会みたいなものである。両者は主義主張や目指すものが異なっているから対立しているのではない。ベクトルが同じだからこそ衝突するのだ。

 ソ連という国の体制の犠牲になったのは、ホーレンシュタインだけではない。ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツ(1903~89年)やエミール・ギレリス(1916~85年)、ヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフ(1908~74年)など、枚挙にいとまがない。彼らはみな、ウクライナ生まれのユダヤ系という共通点を有する。優れた音楽家であったドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)がなめた辛酸については、彼の交響曲を紹介する中に書いておいた。音楽も政治とは無縁ではいられないということを、私たちは忘れてはならない。

マーラー 交響曲第1番 ニ長調

 この作品は、1884年に着手され、88年、ブダペストで一応の完成を見たことになっている。当時、ブダペスト王立歌劇場の指揮者だったマーラーは、作曲だけに専念するわけにもいかなかったのだろう。四年というかなり長い年月を要したのは、そのためだと思われる。

第1部「青春の日々から。花、果実、茨など」
 Ⅰ.果てしなき春
 Ⅱ.花の章
 Ⅲ.帆に風をはらんで
第2部「人間喜劇」
 Ⅳ.カロ絵風の葬送行進曲
 Ⅴ.地獄から天国へ

 全体が五つの楽章で構成された「二部からなる交響詩」として、それぞれに表題がついていた。初演は、失敗ではなかったものの、あまり芳しいものでもなかったようで、マーラーはこれを4楽章の交響曲に改訂する。このときに、第2楽章に置かれていた「花の章」が省かれることになった。

 4楽章となった交響曲第1番に、マーラーは以前に愛読していたジャン・パウル(1763~1825年)の小説“Titan”から、この題名を拝借して付けることにした。日本では、どちらも『巨人』と訳されている。この曲と小説の間に直接的な関係はないが、主人公アルバーノの人間的成長を描いた物語が、作曲者になんらかの影響を与えたのは間違いないだろう。歌曲「さすらう若人の歌」との関連性からも、それがわかる。

 これらの表題すべてが、後に作曲者自身によって取り払われたことを思うと、ベートーベンの『運命』と同じく、今日この作品に『巨人』の名を使うのは適切とは言えないだろう。とはいえ、マーラーの音楽の背景を理解するためには、小説『巨人』の内容は知っておいた方が良いのは確かだと思う。ただ、「巨人」という言葉で私たちが思い浮かべる「並はずれて体の大きな人」は、ジャン・パウルの作品のそれとは全く違うから、その点については要注意だ。


::: CD :::

 ホーレンシュタインが気になって書き始めたのだが、せっかくの機会なので、他の演奏も紹介したい。マーラーの交響曲第1番は人気もあり、プロもアマも問わず、演奏会でもしばしばとりあげられる。名盤も目白押しだ。そんな中で優れたものを選ぶのは至難の業だし、贔屓の録音が入っていないと怒り出す人も出てきそうだ。ということで、選択の基準は「私のお気に入り」ということにさせてもらおう。本当はもっとたくさんあるのだが、四種だけにする。

1)ホーレンシュタイン盤

 マーラーやブルックナーの交響曲を、ブームになるはるか以前から積極的にとりあげてきたホーレンシュタイン。惜しむらくは、主要レーベルの録音がほとんどないことであろう。そんな中で、ロンドン交響楽団を指揮したこの演奏は、LP時代から決定盤の誉れ高いものだった。彼のマーラーはスケールが大きく、骨太である。繊細さよりも豪胆さを前面に押し出した、ど真ん中に投げ込まれたストレートの剛速球とでも言えば良いだろうか。この曲には、実によく合っていると思う。ベアテはヤッシャ叔父さんのマーラーをどのように聴いたのだろうか。

指揮:ヤッシャ・ホーレンシュタイン
演奏:ロンドン交響楽団


録音:1969年


2)ワルター盤

 指揮者マーラーの弟子だったブルーノ・ワルター(1876~1962年)。マーラー演奏の第一世代であり、指標のような存在だ。奇をてらうようなところは微塵もなく、折り目正しい、端正の整った音の造形は、まるで石造りの大聖堂のようである。楽譜に記載されている過剰とも思えるポルタメントやルバートを排し、やや速めのテンポで進むところなど、規模を大きくしたハイドンやモーツァルトを思わせる。後期ロマン派音楽を古典派的解釈するとこうなるといった見本みたいなものである。一度は聴いておくべきマーラーだと思う。

指揮:ブルーノ・ワルター
演奏:コロンビア交響楽団


録音:1961年


3)小澤征爾盤

 小澤征爾(1935年~)によるこの演奏は、第1番に不可欠な若さ、瑞々しさにあふれた、場外ホームランのような胸のすくものと言って良い。タクトに応える名門ボストン響からも、73年に就任した音楽監督を心から大切にしている様子が伝わってくる。

 もうひとつの特徴は、「花の章」を加えた5楽章構成だということだろう。アナログLPの登場時、改訂後の最終稿を尊重したのか、それとも5楽章だと一枚のレコードに収まらないという商業的な理由だったのか、4楽章の交響曲として発売された。二枚組にすると値段が倍になるし、ディスクの埋め草も考えなければならない。この曲とカップリングするとしたら…。ベートーヴェンの『運命』とシューベルトの『未完成』、ドヴォルザークの『新世界』とスメタナの『モルダウ』のような鉄板の取り合わせはなかなか難しい。

 CDの時代になり、「花の章」付きもチラホラ見かけるようになったが、これはその先鞭をつけたものになる。トランペットの軽やかでリリカルな調べを楽しんでほしい。マーラーが最初に思い描いた曲想は、まさにこれだったのである。

指揮:小澤征爾
演奏:ボストン交響楽団


録音:1977年


4)テンシュテット盤

 ドイツ後期ロマン派の叙情性を色濃く引き出すクラウス・テンシュテット(1926~98年)のマーラー演奏は、言うなればワーグナーの流れをくむものだ。堅実な指揮と情感豊かな演奏は、情念と深い精神性を併せ持つものとなっている。音楽監督を務めたロンドン・フィルとの演奏も見事なのだが、ゲオルク・ショルティ(1912~97年)が徹底的に鍛え上げたシカゴ響を振ったこの録音は、ライブと言うこともあり、緊張感みなぎる凄演となっている。享年72才。早世が惜しまれる巨匠だった。

指揮:クラウス・テンシュテット
演奏:シカゴ交響楽団


録音:1990年(ライブ


(しみずたけと) 2023.4.30

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