女性の賛歌

L’hymne des Femmes

以前の「沼地の兵士の歌」で紹介した“L’hymne des Femmes”という歌です。直訳すると「女性の賛歌」。

1971年3月に女性解放運動(MLF)の活動家で、モニク・ヴィティグとアントワネット・フーケらを中心にした「ヒナギク」というグループによって作成された歌です。3月8日の国際女性デー、フランス語圏ではよく歌われます。

―  目  次  ――

目次の順に下に並んでいます。

フランス語歌詞#39

うた(動画): ジョリ・モーム
うた(動画): フランス語歌詞表示
うた(動画): 39人の歌手による合唱
うた(動画): 女子 World Cupサッカーでの観戦者の合唱

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ジョリー・モームの野外コンサート

 


曲に合わせてフランス語歌詞が表示されます。


こちらは2018年11月24日、世界的な#Me Too運動の中でおこなわれたパリでの大行進の前夜に39人のミュージシャンによって歌われた時の風景

2019年の女子ワールドカップ・サッカー、フランス大会。レンヌFCの本拠地、ラ・ルート・デ・ロリアンでチリ対スウェーデン戦がおこなわれた6月11日。レンヌ市長の提唱によって会場で600人が歌声を響かせ、8万の観戦者が総立ちでこたえました。

(しみずたけと) 2021.10.27

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悪党が改憲? 笑わせちゃいけない!


 この数年で日本の政治は著しく劣化、腐敗した。公文書偽造に裏金問題、何でもありだ。政治家が悪事に手を染めたというよりは、悪党が政治をやっているという方が的を射た表現だろう。森友学園に加計学園、桜を見る会、統一教会、パーティー券、すべてカネ、カネ、カネ…、金絡みである。新聞やテレビはこれを「政治と金の問題」というが、いやしくも言論機関を自負するのなら言葉は正しく使うべきだ。これは長きにわたる金権政治の延長線上にある「自民党の裏金問題」である。それとも、政治というものはすべからく金と癒着するものという印象を国民に与え、政治家への不信から政治への無関心を誘い出し、選挙に行く気を失わせ、その結果生ずる投票率の低下によって現政権を有利にしようという“隠れ忖度”なのだろうか。

 かくの如き腐りきった政権、悪党どもが憲法を変えることでより良い社会が来ると本気で思っている人がいるとしたら、それこそ究極の平和ボケ、脳内お花畑といわれるに違いない。まして憲法は《権力拘束規範》である。強大な力を持つ国家権力に縛りをかけることで、その暴走を食い止め、国民の権利を守っている憲法を、悪党どもが変えたらどうなる。自分らへの縛りをゆるめ、歯止めが効かなくなるに決まっているではないか。汚れた手の者が今の憲法に触れようとするのを許してはならない。ロシア、中国、北朝鮮を、多くの日本人が好ましからぬものと思っているようだが、いずれも国家権力が好き放題やっている国である。これらの国に日本国憲法があったなら、世界はもっと違った様相を呈していたであろう。

 現行の日本国憲法が完全無欠だというつもりはない。天皇制の問題や不完全な三権分立体制など、検討および改善すべき余地は多々ある。しかし、この憲法で困っている人はどれほどいるのだろうか。2012年5月10日の憲政記念会館。安倍晋三(元首相)が代表を務める創生会の集会で、第一次安倍内閣の法相だった長勢甚遠が「国民主権、基本的人権、平和主義をなくさないと本当の自主憲法ではない」と発言し、会場から拍手喝采を受けた。きっとこうした政治家と彼らを支持する人たちが、暴走したくてもさせてもらえない今の憲法に手を焼いているのだろう。

 憲法の手直しはありうるし、他の国でもやっている。ただし、それは修正条項とか追加条項という形でおこなわれるのがふつうだ。たとえば、アメリカ合衆国憲法には女性の参政権が記載されていない。その一方で奴隷制が認められている。奴隷制の廃止は1865年の修正第13条で、女性参政権は1920年の修正第19条で、それぞれ憲法に規定された。時代の要請に答えるために、ゼロからすべて書き直さなければならないわけではない。

 岸田文雄(現首相)は1月30日の施政方針演説で、「先送りできない課題(中略)まずは、憲法改正です。衆参両院の憲法審査会において、活発な議論をいただいたことを歓迎します。国民の皆様にご判断をいただくためにも、国会の発議に向け、これまで以上に積極的な議論が行われることを期待します。また、あえて自民党総裁として申し上げれば、自分の総裁任期中に改正を実現したいとの思いに変わりはなく…」と述べた。しかし、これは明らかな憲法99条違反である[1]。多少なりともその認識があるからだろう、「自民党総裁として…」という断りを入れているのだが、施政方針演説は党代表がするものではなく、あくまでも内閣総理大臣が公務員の立場で行うものであることを考えれば、エクスキューズにはまったくなり得ないものだ。同日、公明党代表の山口那津男は「憲法の課題は極めて重要だが、先送りできない優先課題を差し置いて憲法に力を注ぐという状況ではない」とコメントしている。

 しかし、改憲勢力は自公政権だけではない。維新、国民民主を合わせれば、発議できるだけの議席を占めている。維新と国民民主は、「改憲を党是に掲げる自民の対応が後ろ向き」と批判的だ。改憲の国民投票を実施するためには60〜180日の周知期間が必要であり、維新代表の馬場伸幸は、「今国会で発議しなければ間に合わない」と迫っている。予算案が衆院を通過するまで憲法審査会が開かれないことに対するいら立ちであろう。何が何でも改憲したい勢力の一人ということであろうか。

 昨年12月7日の憲法審査会で、自民党の中谷元は、「来年の常会に、議員任期延長や解散禁止などを含めた緊急事態における国会機能の維持の憲法改正について、具体的な条文の起草作業のための機関(作業部会)を設け、作業ステージに入ること」を提案した。しかし、緊急事態条項について議論されたのは議員の任期延長だけである。議論もなしに改定条文の起草を始めるとは、改憲に賛成の人だけで進めましょうということか。国政を自分のおもちゃ箱だと勘違いしているのかもしれない。

 議員の任期延長とは、国民の投票権を停止することである。私たちは、自分たちが選挙を通して選んだ代議士を通して国政に参加している。これを《間接民主制》と呼ぶわけだが、それをできなくするのは参政権を奪うということにほかならない。信頼できる人を選べない、信頼できない人を辞めさせられないのでは民主政治は崩壊してしまう。

 緊急事態には、緊急政令(内閣の命令が法律と同等に扱われる)、緊急財産処分(国民の預金を封鎖したり土地や家屋の使用・没収ができる)、兵役の強制(徴兵や戦場に送ることができる)、人権制限(通信の秘密、知る権利、言論の自由を制限できる)など、国民にとって大きな危険が生ずるものである。つまり、国家に従わない者を排除できるようになるのだ。しかし、それがいつ、どういうときに、どの範囲で、どれくらいの期間になるのかは一切議論されていない。1933年のナチスの《全権委任法》[2]になぞらえられるわけだが、これは単なる昔話、歴史のひとコマではない。政府にとって都合の悪い人間が飛行機事故で死んだり、突然死したり、薬で溶かされたり、そういうことが起こる国になるということである。そのような法案を、「お上は間違いをしませんから安心して白紙委任してください」といわれて信じることができるとしたら、よほどのおめでたい人間であろう。

 岸田文雄の属する宏池会は、改憲、改憲と騒ぐ筋金入りの極右とは距離をおいた存在だったはずだ。彼は改憲を目的に首相になったのではなく、首相の座につくために安倍派の支持を得なければならず、それゆえ政策としての改憲を継承せざるを得なかったのである。改憲の成否は自身の進退を左右するわけで、首相で居続けるためには是が非でも改憲を成功させなければならない。それゆえ、改憲によって生ずる混乱など負の側面を指摘しても説得にはならないから、その意味ではかえって質(たち)が悪いといえよう。

 単に総理大臣の椅子に座り続けるための改憲、やめることのない議員職が目的だとしても、その先にあるのは独裁政治である。無責任で不適切な政策だけでなく、汚職などの腐敗政治にも関わらず、国民の声をないがしろにし、政権交代を阻み、そのために人々の権利を制限しようとするのは、戦争に向かう国家に見られる特有のものだ。2014年の閣議決定による《解釈改憲》、その翌年の《安保法》は、まさにその通過点だったといえよう。

 いま私たちが率先してしなければならないことは、改憲の必要性が希薄であること、緊急事態条項の危険性、それよりも優先する課題が山積みである現状を多くの人に周知徹底し、政治家としてふさわしくない汚れた人物らによる憲法審査会の開催に反対し、改憲の発議など言語道断であることを、声を大にして訴え続け、これを国民総出で共有することであろう。

 


(しみずたけと) 2024.2.26

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サン=サーンス ピアノ協奏曲第5番《エジプト風》


 昨年はLGBTという言葉が一般に知られるようになった年だったと思う。LGBTとは何であるかなど、このサイトを閲覧する方々には説明の必要などあるまい。世界的に見れば「なにを今さら…」と、遅きに失した感もあるが、それでも一歩前進には違いないから、まあ喜ばしいことではある。

 ところが、無知や性的マイノリティへの無理解からLGBTへの攻撃を繰り返す議員がいたり、頓珍漢な批判をする者も現れる始末だ。曰く、性自認を悪用して女性用の浴場やトイレに入ろうとする男性がいたらどうするか等々。LGBTの権利を認めている国で、そういう事件が頻発しているのか?もしそうした問題が起こるとしたら、それは性自認の問題とかLGBTのせいではなく、わが国の民度が低いということにほかならない。LGBTは生産性がないという愚にもつかない妄言にいたっては、人間の価値を生産性だけでしか測れない蒙昧さの発露に過ぎず、ナンセンスを通り越して哀れみさえ感じてしまう。

 ひとりひとり個性があるように、趣味や得意なことが違うように、性もまた多様である。LGBTをふつうのこと、当たり前のこととして描く文学作品や映画もあるではないか。歴史的にも、少数者は弱者であり、多数派と同じ権利を獲得するには闘うしかない。強い立場にある側が進んで譲歩することなどないからである。しかしLGBTたちの闘いはいつも静かだ。そこで思い出したのがリオネル・バイエーのドキュメンタリー『パレード』。

 映像の終わりの方で、葛藤を抱える主人公(監督自身である)がパレードへの参加を決意し、保守的な人の多い街に出る。そこで流れる音楽が実に良くマッチしている。そう、サン=サーンスのピアノ協奏曲第5番『エジプト風』の終楽章なのだ。つくづく映像作家はアーティストなのだなと思わされる。

ピアノ協奏曲第5番ヘ長調《エジプト風》作品103

 シャルル・カミーユ・サン=サーンス(1835~1921年)については、一連のレクイエム作品のひとつとしてとりあげたことがある。彼が11歳でピアニストとしてパリの楽壇に登場したのが1846年。このピアノ協奏曲第5番ヘ長調『エジプト風』は、1896年、プレイエル音楽堂でおこなわれることになった、自身の楽壇生活50周年記念演奏会のためにつくられた新曲である。彼の最後のピアノ協奏曲だ。

 生来旅行が好きだったこともあり、晩年の彼は各地を演奏旅行したらしい。その経験を反映しているのか、あるいは功成り名遂げた老音楽家のゆとりのせいだろうか、この協奏曲は楽曲構成の形式的規制にとらわれることなく、主題の循環法さえ無視している。第1楽章こそいちおうソナタ形式を備えているが、第2楽章はエキゾチズムにあふれたラプソディ、第3楽章はピアノによるトッカータとでも言うべきだろうか。管弦楽をバックに、その隙間を飛び跳ねるかのように進行し、自由奔放な名人芸が姿を表す。古典音楽の外枠を取り払ったからこそ可能になった伸びやかで生き生きしたリズムと色彩の洪水である。

 ああ、そうなのか。男とか女、外観を含めた形式に縛られず、枠を打ち破ることで、音楽同様、人間はもっともっと自由になれるのだ。リオネル・バイエーが『パレード』の終盤にこの曲を持ってきたのは、そうしたメッセージを含めてのことだろう。そうではなく、あれが偶然の産物であるなら、この曲の本質を本能的に嗅ぎ分けていたことになる。うーん、やはりアーティストってすごいものだ。これはピアノによる自由の謳歌、自由の讃歌にほかならない。


::: C D :::

 人気の曲でもあるから、それなりに録音は豊富だ。これまで聴いた中でハズレはなかったから、お好きなものを選んでもらってかまわない。ここでは二つ紹介しておこうと思う。

 パスカル・ロジェ(1951年〜)はフランス物を得意とするシャルル・デュトワとの共演。ジャン=フィリップ・コラール(1948年〜)はピアニストでもあるアンドレ・プレヴィンのサポートを受けた演奏。

 私の感じるところでは、ロジェはハイドンやブラームスなどのドイツ物も得意としているが、やはりサン=サーンス以後、フォーレ、サティ、ドビュッシー、ラヴェル、プーランクと言った、フランス近代から現代のピアノ曲がすばらしい。コラールもまた、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルら近代フランス音楽を得意とするピアニストだが、ムソルグスキーやラフマニノフなどの演奏が世界的に評価されていることは、わが国でまあまり知られていないようだ。ロジェとコラール、二人のフランス人に共通するところと異なるところを聴き比べるのが楽しい。

 共演はどちらも同じロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団であるが、デュトワ(1936年〜)は色彩豊かな音作り、プレヴィン(1929年〜2019年)は陰影の濃い表現を聴かせてくれる。こちらも聴き比べを楽しんでほしいところだが、カップリングの曲で選ぶのも良いだろう。

1)ロジェ盤

収録曲
1.ピアノ協奏曲第4番ハ短調 作品44

2.ピアノ協奏曲第5番ヘ長調『エジプト風』作品103

独奏:パスカル・ロジェ(ピアノ)
指揮:シャルル・デュトワ

演奏:ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1978年


2)コラール盤

収録曲
1.ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品29

2.ピアノ協奏曲第5番ヘ長調『エジプト風』作品103
3.ウェディング・ケーキ(カプリス・ワルツ) 作品76
4.アフリカ幻想曲 作品89

独奏:ジャン=フィリップ・コラール(ピアノ)
指揮:アンドレ・プレヴィン
演奏:ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1986年(1-2)、1987年(3-4)


(しみずたけと) 2024.1.7

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古謝美佐子の《 童神 》


 今やウチナー・ミュージックの重鎮ともいえる知名定男(1945年〜)のプロデュースで1990年に結成されたのがネーネーズだった。メンバーを入れ替えながら、現在でも第六世代が変わらずに活躍している。とはいえ、初代ネーネーズのインパクトは大きく、音楽界のレジェンドと言っても差し支えないだろう。様々なミュージシャンとのコラボや世界ツアーなど、沖縄音楽の認知度を高め、その後の沖縄ブームに大きな貢献をしたのは間違いない。

 その初代ネーネーズの一員だった古謝美佐子(1954年〜)が独立し、初のソロアルバムとしてリリースしたのが、ここで紹介する《天架ける橋》である。収録曲はどれも魅力的だが、中でも1997年にシングル盤がリリースされた「童神」は大ヒットとなった。初孫誕生の前に書いた詞に、音楽プロデューサーの佐原一哉(1958年〜)が曲をつけたものである。

 独特のリズムとウチナーグチ(沖縄言葉)の歌は、本土の人間にはややとっつきにくいところがあるものだが、子守唄を思わせるこの歌は、誰にでも聴きやすく、また歌いやすい。ヤマトゥグチ(本土言葉)バージョンもつくられ、夏川りみ、山本潤子、加藤登紀子など、多くの歌手がカバーしている。NHKの連続テレビ小説『ちゅらさん』の挿入歌としても使われたことを記憶している人もいることだろう。

 憲法集会に参加したことがあれば、一度や二度、古謝美佐子の生歌を聴いたことがあるに違いない。その中に「童神」があったかどうかは失念してしまったが、一年の終わりを静かに迎えるのにふさわしい歌ではなかろうか。

::: 歌詞 :::

童神
https://www.uta-net.com/song/302921/


::: C D :::

《 天架ける橋 》

収録曲
1. サーサー節
2. 橋ナークニー~夢かいされ
3. 天架きる橋
4. 童神
5. すーしーすーさー
6. やっちー
7. 恋ぬ初み
8. 家路
9. 恨む比謝橋
10. ヒンスー尾類小
11. 天架きる橋Ⅱ


(しみずたけと) 2023.12.28

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暮れゆく一年に…


 今年も足早に一年が過ぎていった。楽しいことがなかったわけではないが、つらい話を耳にすることの方が多かったような気がする。今年に限らないことだが…。

 暮れゆく一年に思いを馳せながら聴く音楽は…と。そうだ、《四季》にしよう。バロック音楽の巨匠アントニオ・ヴィヴァルディ(1678~1741年)のヴァイオリン協奏曲ではない。ピョートル・チャイコフスキー(1840~93年)のピアノ曲である。

 ロシアの詩人による一月から十二月の風物を描いた12の詩をもとにして書かれた作品。詩に曲がつけられているわけではなく、あくまでも曲想を得るために、詩をモチーフにしただけ。映画などでも使われたりしている。十二曲中、八曲が長調、四曲が短調。明るくカラフルなヴィヴァルディの《四季》とは対照的だ。いかにも陽光降り注ぐ南欧的なヴィヴァルディに対し、こちらは木々や草の緑も淡く、冬はモノトーンといった趣で、寒い国の静けさが漂う。各月の表題と元になった詩の作者を記しておく。

1月 炉辺にて(アレクサンドル・プーシキン)
2月 謝肉祭週(ピョートル・ヴィャゼムスキー)
3月 ひばりの歌(アポロン・マイコフ)
4月 松雪草(アポロン・マイコフ)
5月 白夜(アファナシ・フェート)
6月 舟唄(アレクセイ・プレシチェーエフ)
7月 草刈人の歌(アレクセイ・コリツェフ)
8月 収穫(アレクセイ・コリツェフ)
9月 狩り(アレクサンドル・プーシキン)
10月 秋の歌(アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ)
11月 トロイカ(ニコライ・ネクラーソフ)
12月 クリスマス(ヴァシリ・ジューコフスキー)

 各月の表題を見てもらえばわかると思うが、《四季》という題になにか違和感を感ずる。四季という言葉から、私たち日本人は春夏秋冬の四つの季節、たとえば若葉が萌え出る春、夏の暑さ、紅葉の秋、雪に閉ざされる冬を思いうかべたりするが、副題である「十二の性格的小品」から、この曲が十二ヵ月のそれぞれの性格を音で描いたものであることがわかる。

 気候変動のせいか、ただ暑いだけの単調な夏が続くかと思えば、いきなり夏から冬になったりと、季節感は薄れるばかりの今日この頃である。それにともなって、昔からの行事などの風物詩も、私たちの日常生活とは一致しなくなっているのではなかろうか。この曲を聴きながら、懐古趣味的に「むかしは良かったなー」などと嘆息するのではなく、「このままで本当に良いのか」と自問自答したいものだ。


::: C D :::

1)アシュケナージ盤

 よく知られた曲だし、録音もそれなりにある。演奏会の曲目としてはどうなのだろうか。ここではウラディーミル・アシュケナージ(1937年〜)の演奏を聴いてもらおう。抜群の技巧を誇る人だが、それをひけらかすこともなく、過度の感情移入も避け、淡々と聴かせてくれる。とはいえ、BGMとして聴き流すのではあまりにももったいない。現在は指揮者としても活躍しているが、主要なピアノ曲はすべて録音しているのではないかと思うくらい、20世紀を代表するピアニストの一人である。

収録曲
1.18の小品 作品72から第5曲「瞑想曲」

2.6つの小品 作品51から第2曲「踊るポルカ」
3.情熱的な告白
4.18の小品 作品72から第3曲「やさしい非難」
5.18の小品 作品72から第2曲「子守歌」

6.四季 作品37

演奏:ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)
録音:1998年


2)スヴェトラーノフ盤

 こちらはアレクサンドル・ガウク(1893〜1963年)によって管弦楽のために編曲されたものだ。元のピアノ版よりもさらに録音が少ない。ガウクの編曲は、ツボにはまっているというか、まるでチャイコフスキー自身が作曲したかのような見事さだ。重厚な曲が得意なエフゲニー・スヴェトラーノフ(1928〜2002年)だが、ここでは軽やかで小気味の良い音作りをしている。そういえば、スヴェトラーノフの指揮法の先生はガウクであった

指揮:エフゲニー・スヴェトラーノフ
演奏:ソビエト国立交響楽団

録音:1975年


(しみずたけと) 2023.12.22

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