マーラーの《第9》



グスタフ・マーラー


CD 1 : ワルター盤

 マーラーの直接の弟子で、この曲の初演者であるワルターには、1938年のウィーン・フィルとの有名な録音がある。それはナチスの軍靴が迫り来る中での緊張感あふれるライブだった。モノラル盤なので、ここでは指揮の一線を退いた後に再録された方を紹介しておく。

 ワルターの演奏記録を残すべく、CBSはワルターの録音のために特別編成されたオーケストラを用意した。それがコロンビア交響楽団である。ワルター専用とも言えるこの楽団を起用し、マーラーの没後50年にあたる1961年、この第9番が録音された。指揮者が思うとおりにコントロールできるという意味で、マーラー演奏においてひとりひとりの団員が一家言を有するウィーン・フィルよりも結果的に良かったのかもしれない。


 演奏は、複雑な構成をすっきり見通しよくしたと言えば良いだろうか、歌曲作家でもあるマーラーの交響曲には、なにがしかのストーリー性を包含していることが多いのだが、それを強調することなく、響きの清澄さを前面に押し出した、当時としては新しい解釈による音作りとなっている。ワルターは1962年に亡くなったから、作曲家が死の前年に作った曲を、指揮者が死の前年に奏でた、両者の遺作とも言える記録である。

指揮:ブルーノ・ワルター
演奏:コロンビア交響楽団
録音:1961年


CD 2 : クレンペラー盤

 クレンペラーもまた、マーラーの弟子であった。モーツァルトを得意としたワルターは、マーラーを古典音楽のように聴かせたが、ロマン派から現代音楽まで幅広いレパートリーに定評あったクレンペラーのマーラーは、楽曲の様式美と構築性を強調したものとなっている。若い頃は、やや速めのテンポで突き進むような演奏が多かったクレンペラーだが、晩年は厳格なまでにテンポをまもり、いや、かなりテンポを落としてじっくり聴かせるスタイルへと移行、濃厚なロマンチズムあふれる表現を特徴とするようになった。

 視界から徐々に薄れゆくマーラー像に一抹の寂寥感を感じるのがワルターの演奏だとすれば、クレンペラーのそれは、遠ざかりながらも、作曲家の姿をいつまでもくっきりと力強く見せる。まるで生きている人間が、生きた存在へと、偶像化のプロセスを見るようだ、ドライな音を響かせる弦楽器群と鮮烈な金管セクション、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏がそれを支えている。同じ作曲家の薫陶を受けた、年齢差9年の二人の弟子。それがこれほど異なる演奏を聴かせてくれる。これだから音楽は楽しい。

指揮:オットー・クレンペラー
演奏:ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:
1967年


CD 3 : バルビローリ盤

 マーラーの直接の弟子であったワルターやクレンペラー、そして20世紀後半、マーラーの交響曲を爆発的な人気作品に押し上げたバーンスタインやショルティ、彼らはみなユダヤの血をひく音楽家たちだった。その世代間の空隙を、マーラーの音楽に対する溢れんばかりの敬愛を込めた演奏で埋めたのは、ひとりジョン・バルビローリ(1899~1970年)であった。マーラーの弟子でもなければユダヤ系でもない彼の音作りは、ユダヤ的な粘りとかストーリー展開とは無縁だが、誰にも負けない熱い情熱がほとばしっている。

 バルビローリがベルリン・フィルを初めて指揮したのは、同楽団がエディンバラ音楽祭に招聘された1949年。それから約10年後、彼は定期的にベルリン・フィルの指揮台に立つようになった。今でこそ世界最高の機動性を誇る楽団だが、カラヤンの支配が始まって日が浅い当時、まだマーラーはレパートリーにはなかったからであろう、金管楽器群の音が埋もれてしまったり、フレーズの色彩感に乏しかったりするなど、慣れない音楽に対する技術的な綻びがそこここに散見される。しかし、ここにはそれを補ってあまりあるマーラー独自の後期ロマン主義的な歌がある。それを見事なまでに引き出したバルビローリが、この後に訪れることになるマーラー・ブームの引き金になったのは間違いない。その意味で、これはマーラー演奏の歴史的な転換点を告げるものだったのではなかろうか。

指揮:ジョン・バルビローリ
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1964年


CD 4 : ジュリーニ盤

 カルロ・マリア・ジュリーニ(1914~2004年)もまた、ユダヤ系ではない。しかし、北イタリアで過ごした少年時代、周囲にはユダヤ系の人も数多くいたはずだし、ワルターやクレンペラーの下で指揮の研鑽を積んだ経験を有している。そうした背景によるものか、第二次大戦で徴兵され、クロアチア戦線に送られた彼は、ナチスとムッソリーニのファシズムに反対する立場と平和主義を貫き、人に銃を向けることをしなかった。イタリアと連合国の休戦協定が結ばれた後もローマ占領を続けるナチスは、地下に潜伏したジュリーニを発見次第射殺するよう、顔と名を記したポスターを街中に貼り出したという。

 そういうジュリーニの紡ぐマーラーの音楽は、作曲家と一体化するような深刻な感情移入による熱い演奏、たとえばバーンスタインなどがその典型だと思うが、それとはまったく異なるスタイルで聴かせてくれる。繊細で叙情的だが、ドラマ性を排した純音楽的なアプローチとでも表現したら良いであろうか、メロディの美しさと豊かさを存分に歌わせる。マーラーが歌曲作家であったことを思えば、マーラーらしさの一側面とも言えそうである。ショルティに鍛え上げられたシカゴ交響楽団が、ショルティの下ではギコギコ唸りを上げる弦楽器群が、ここでは嘘のようにやさしい音を奏でる。同じ楽団でも、指揮者が違うとこうも音が変わるのかと、音楽の奥深さを改めて感じさせてくれるだろう。

指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ
演奏:シカゴ交響楽団
録音:
1976年


CD 5 : 小澤征爾盤

 小澤征爾(1935~2024年)が指揮するマーラーの交響曲第9番は、ボストン交響楽団との1989年の録音があるが、ここでは“より熱い”演奏を聴かせてくれるサイトウ・キネン・オーケストラとの2001年のライブ録音を紹介したいと思う。

 サイトウ・キネン・オーケストラは、いわゆるスター・プレイヤーの集団であるが、とりわけ弦楽器群が秀逸だ。マーラーの完成された交響曲として最後の作品となった第9番は、最もポリフォニックな性格を帯びているだけに、対位法的なところで、この楽団の強みが遺憾なく発揮されている。この曲で重要な弦楽セクションの統一感には、第一ヴァイオリンに負けない第二ヴァイオリンやヴィオラの力強さが不可欠なのだ。ひとつひとつの音符を曖昧さなしに弾くことで各声部が明確に絡み合う、さすがサイトウ・キネンと唸ってしまう緊張と愉悦の瞬間が何度も襲ってくる。ライブだからであろう、小澤征爾はスタジオ録音とはうって変わった熱く粘りのある指揮ぶりで、どこまでもしなやかに、どこまでも濃密に、じっくり丁寧に歌い込んでいく。

 マーラーのユダヤ的情念や彼の人生観などを超越した、音楽として昇華されているのは、小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラという極めてコスモポリタン的な組み合わせの性格によって生み出されたものであるからであろう。いかにも21世紀のマーラー像である

指揮:小澤征爾
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
録音:2001年(ライブ)

1. Andante comodo アンダンテ・コモド (26:49 min.)
2. Im Tempo eines gemächlichen Ländlers. Etwas täppisch und sehr derb
緩やかなレントラー風のテンポで、いくぶん歩くように、そして、きわめて粗野に (16:11 min.)
3. Rondo, burleske, allegro assai, sehr trotzig
「ロンド=ブルレスケ」アレグロ・アッサイ きわめて反抗的に (13:15 min.)
4. Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend
アダージョ。非常にゆっくりと、抑えて
(24:30 min.)

(しみずたけと) 2024.8.4

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