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9条の会のメンバーからメールが来た。そこにあった「聖週間」の文字。イエス・キリストがエルサレムで受けた苦難を記憶する一週間で、聖枝祭から復活祭の前日までを指す。聖週間はカトリックの呼称で、正教会では受難週間、聖公会では聖週、プロテスタントでは受難週と、それぞれ別の呼び方をしている。今年(2025年)のそれは4月13日から20日。ああ、もうそんな時期になってしまったのか。時の流れは早いものだ。
ニューデリーの幼稚園では、復活祭の日にイースター・エッグが園児に配られた。卵の形をした容器を開けると、中にはキャンディが。他にどんな行事がおこなわれたのか、まるで覚えていない。何が何だかわからないが、キャンディが入ったイースター・エッグがもらえるイースターってステキじゃないか。子ども心に思ったのはその程度だった。仏教発祥の地インドだが、人口の80%近くがヒンズー教徒、ついでイスラム教の15%弱、キリスト教は2.3%ほど、シーク教が1.7%とつづき、仏教は0.7%にすぎない。キリスト教が第三位に位置するのは、もちろん英国の統治下にあったためである。
階層社会のインドでは信仰の形態が階層によって異なる。概して上の階層ほど宗教に対して“冷めた”感がある。信仰心が薄いとかいうつもりはない。ただ、知識階級は宗教に対して合理的な接し方をしており、冠婚葬祭などの儀式は、各家庭の宗教スタイルに則って“それなりに”おこなうものの、けっして熱狂したりはしないのだ。
ご存じの通り、菜食主義者が多い国。しかしベジタリアンも様々だ。牛はヒンズー教にとって聖なる生き物だから食べないが、牛乳は飲む。羊、鶏、玉子、魚と、厳しくなるにつれ、食べてはいけないものが増えていく。野菜も、トマトや茄子、南瓜などの瓜類は良いが、人参や大根、ジャガイモ等の根菜はダメという人たちもいる。掘ると土中の虫やミミズを死なせてしまうからだ。一方、イスラム教徒は牛を食べる。しかし豚は不浄だから口にしない。食のタブーがない私たちはなんと幸せであることか。
蚊がいてもパチンと叩いたりせず、手で追い払うだけだったりするヒンズー教徒。それくらい殺生を嫌う彼らが、イスラム教徒とは血みどろの争いをするのはどうしてなのか。異教徒は虫けら以下の存在なのか。そうではない。ヒンズー至上主義の台頭や宗教間の対立などは、利権をめぐって一方が得をするような政治経済に起因している。己の利益につなげようと煽動する者にとって、宗教はまことに都合の良い存在だ。何をどう信じるか、信仰には説明の必要がない。論理ではなく情緒に訴えかけるものだからである。そういう輩はたいてい上の階層に属し、煽動されて傷つくのはいつも下の庶民たちだ。社会を分断させ、対立を煽ることを目的に宗教が利用され、階層もそのために維持されているのではあるまいか。特別に信仰心が篤いとも思えない連中が宗教とか伝統を持ち出してきたら要注意だ。むしろ日本の葬式仏教のように、熱くならず“形だけ”の宗教でお茶を濁す方がマシな気がする。
その一方で、宗教の存在が人を支えているという部分も確かにある。ホロコースト下のポーランドの日常を描いたアンジェイ・ワイダ監督の映画、その名も『聖週間』を思い出す。最後の審判を経て永遠の生がある。だからこそ正しく生きねばならない。死を恐れず不正と戦うのも、そこから来るのだろう。しかし、ホロコーストを生み出したのもまた、キリスト教社会であることをどう考えたら良いのだろう。
聖週間から始まった話が、なぜかインド人の宗教観と政治経済の関係、そしてホロコーストへと飛んでしまった。私は神学を専門にする人間ではないし、そもそも神学というのは哲学より後に生まれたものである。前にゾロアスター教について触れた際、ゾロアスター教が多神教でありながら、アフラ・マズダーを最高神として崇め、終末思想を内包していたことを書いた。いつの時代にも現世で救われない者は存在し、そういう者たちに生きるための希望と勇気を与えるには、空想の産物である天国をいかにも“ある”ように思わせるしかなかったのであろう。パラダイス、極楽、彼岸、私達はどれも楽園をイメージする。正しく生きさえすれば、少なくとも現世よりひどいことにはならないと。
主食の米をはじめ、物価は上がる一方だ。労働賃金は上がらないどころか、実質的に下がっている。過労死は珍しくない。教育コストも医療負担も上がる一方だ。だが国家は助けてくれない。差別やヘイトは依然としてあり、原発事故や戦争の不安も大きくなってきた、自然災害への対応は遅々として進まず、環境問題は放置されたままだ。助けを求めようとすれば自己責任だと突っぱねられる。現世に希望を見出だせなければ、死後の世界に望みを託そうとする者も出てくるであろう。増加傾向の自死、しかも若者に多いことが気にかかる。復活信仰こそが一縷の望み、そんなことになったら大変だ。
交響曲『大地の歌』の中で「生は暗く、死もまた暗い」と言ったグスタフ・マーラー。彼にとって現世は心安らかに生きることのできる場所ではなかったということか。そして死後の世界も。オーストリアにおいてはボヘミア人、ドイツにおいてはオーストリア人、キリスト教世界においてはユダヤ人である自分を「三重の意味で故郷がない人間」と呼んだ彼だが、この世だけでなくあの世にも居場所を見出せそうにないと感じていたのか。ユダヤ教からキリスト教へと改宗したマーラーにとっては、復活信仰すら救いにならなかったのか。そうだとしたら、あの素晴らしい交響曲第2番につけられた『復活』の標題は何だったのか。『復活』と『大地の歌』の間には20年近い歳月がある。その間に大きな心境の変化があったということなのであろうか。
作品を聴くということは、作曲家の人生を聴くことでもある。交響曲第2番『復活』。二年前の今頃、三種類の演奏を紹介した。あの時、とりあげようかどうしようかと迷った演奏がある。ひとつはズービン・メータ指揮のウィーン・フィル、もうひとつがクラウディオ・アバド指揮のシカゴ響。1970年代の半ば、ほぼ同時期の録音である。濃厚なロマンティズムあふれるメータと鋭く研ぎ澄まされた現代的なアバド、好みが分かれるところだろう。指揮者が総譜から読み取るのは音符だけではない。両者の対比にマーラーの心を探るヒントはないだろうか。この二つにレナード・バーンスタイン指揮のロンドン響を加えようと思う。バーンスタインと言えば、マーラー・ブームの立役者である。《映画コレクション》にもあるイーリー大聖堂での録音だが、こちらの方が音が良いし、同じくロンドン響を振ったショルティと比べることで、オーケストラが指揮者によってどれくらい変わるのかがわかるところもミソだ。今はまだ、復活をアテにして、そこに逃げ込むには早すぎる。これらの演奏がそう思わせてくれると良いのだが…。
「聖週間」の言葉を綴ったメールはパレスチナ、とりわけガザの窮状を訴えるものだった。その内容は《別所憲法9条の会》のニューズレター no.201(2025年5月)に転載されている。彼の地で地獄のような生を強いられている人々にとって、復活後の世界だけが希望とならぬよう、世界中の人が声を上げ、立ち上がるときが来たのだ。
C D
1)メータ盤

独唱:イレアナ・コトルバス(ソプラノ)
クリスタ・ルードヴィヒ(アルト)
合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団
合唱指揮 ノルベルト・バラチュ
指揮:ズービン・メータ
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1975年
2)アバド盤

独唱:キャロル・ネブレット(ソプラノ)
マリリン・ホーン(メゾ・ソプラノ)
合唱:シカゴ交響合唱団
合唱指揮 マーガレット・ヒリス
指揮:クラウディオ・アバド
演奏:シカゴ交響楽団
録音:1976年
3)バーンスタイン盤

独唱:ジャネト・ベイカー(メゾ・ソプラノ)
シーラ・アームストロング(ソプラノ)
合唱:エディンバラ音楽祭合唱団
合唱指揮 アーサー・オールダム
指揮:レナード・バーンスタイン
演奏:ロンドン交響楽団
録音:1973年
(しみずたけと) 2025.5.1
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