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9月11日になると、いつも思い出す。1973年、南米チリで起きたあのクーデターのことを。米国の偽りの民主主義と、その後押しを受けたアウグスト・ピノチェト(1915~2016年)による暴虐の顛末。これについては、パトリシオ・グスマン(1941年~)による『チリの闘い』、『光のノスタルジア』、『真珠のボタン』と言ったドキュメンタリー映像を見てもらうのが良いだろう。映画だが、『11’09″01 セプテンバー11』の中に、ケン・ローチ(1936年~)の実写フィルムをふんだんに使った作品がある。これならわずか11分少々で概略をつかむことができるはずだ。
チリの民主主義は〈ヌエバ・カンシオン〉と呼ばれる音楽を通した社会変革運動と手を携えるようにして花開いた。ヌエバ・カンシオン、新しい音楽という意味である。その源流は、1910年から17年にかけて起きたメキシコ革命と、そこで歌われた革命歌だと思われる。革命と言っても、○○主義に基づく政治体制を打ち立てるとかではなく、農地改革、貧困撲滅、格差是正、労働者の権利を守ると言った、社会構造や経済システムの変革を目指す民主的なものであった。概して中南米における革命というのは、北半球に典型的な知識階級によるトップダウンとは対照的に、この種のボトムアップ的なものが多い。
アルゼンチンでは、先住民ケチュア族の血を引くアタウアルパ・ユパンキ(1908~92年)が、1929年に「インディオの小径」と言う歌を発表し、民族の詩、民族のメロディが注目されるようなった。今日〈フォルクローレ〉と呼ばれるものである。しかし民族主義的な文化は、権力者にとっては目の上のたんこぶであった。権力者とは、米国企業であり、米国資本に支えられた大地主や資本家たちである。自分たちのアイデンティティよりも目先の利益、根っこより金蔓の方が大事。反政府的と目され、ユパンキは欧州に亡命。中南米は、「自分たちの裏庭」と考える米国に翻弄され続けた。
ヌエバ・カンシオンの呼び名は、メルセデス・ソーサ(1935~2009年)らが1962年にアルゼンチンで立ち上げた〈新しい歌の運動〉に由来する。資本主義の闇、世界的な社会主義の台頭、そして二つの超大国の対立がもたらす冷戦体制。これらの矛盾に気付いた民衆が、民族の独自性を軸に、欧米とは違うスタイルの民主主義を打ち立てようとする動きと呼応するかのように、ヌエバ・カンシオンはキューバやチリでも広がっていった。チリでは、ビオレータ・パラ(1917~67年)とビクトル・ハラ(1932~73年)を中心に、70年前後から優れたミュージシャンが多数登場する。
こうした民衆のうねりは、それまでの資本主義体制とは相容れないものがあった。それゆえ、恐怖感を抱いた旧体制は、新たな共産主義革命の来襲のように捉えたのである。軍事クーデターによってピノチェト将軍が軍事独裁政権を打ち立てるのに手を貸したのは、それが米企業のチリへの浸透を容易にし、米国の利益をもたらし、中南米における地政学的な覇権に寄与するからである。やりたい放題の米資本のため、大規模な人権弾圧がおこなわれ、ヌエバ・カンシオンは格好の標的となった。1976年にはアルゼンチンでもクーデターが起き、メルセデス・ソーサら民族主義的ミュージシャンは国外亡命を余儀なくされる。中南米の多くの国家が軍事独裁政権化した背後には常に米国があり、中央情報局(CIA)と米陸軍米州学校(SOA)がその実働部隊であったことを忘れてはならない。
1990年にチリの軍政が倒され、ヌエバ・カンシオンは反軍政運動の中心となっていく。ビクトル・ハラは73年のクーデターの中で殺害されたが、彼の歌は圧政に抵抗する人民の歌として、それ以後も、そして今も歌い継がれている。ビクトル・ハラについては、前に「平和に生きる権利」を中心に書いたので、ここではチリにおけるヌエバ・カンシオンのもうひとりの騎手、いや、ビクトル・ハラに影響を与え、彼をヌエバ・カンシオンの道へと歩ませた先駆者、ビオレータ・パラの“Gracias A La Vida”を紹介したい。
Gracias A La Vida 人生よ、ありがとう
Gracias a la vida que me ha dado tanto
me dio dos luceros que cuando los abro
perfecto distingo lo negro del blanco
en el alto cielo su fondo estrellado
en las multitudes el hombre que yo amo
人生よ、ありがとう たくさん与えてくれて
あなたがくれた二つの瞳 それを開けば
白と黒を見分けられる
星を背にした 空高く
群衆の中の 愛するあなたも
じ
Gracias a la vida que me ha dado tanto.
me ha dado el oído que en todo su ancho
graba noche y día grillos y canarios:
martillos, turbinas, ladridos, chubascos
y la voz tan tierna de mi bien amado.
人生よ、ありがとう たくさん与えてくれて
あなたがくれた耳 様々な音を聴き分けられる
夜も昼も 蟋蟀や金糸雀、
槌音、タービン、犬の吠え、雨音
そして愛するあなたのやさしい声を
じ
Gracias a la vida que me ha dado tanto.
me ha dado el sonido y el abecedario
con él las palabras que pienso y declare
madre, amigo, hermano y luz alumbrando
la ruta del alma del que estoy amando.
人生よ、ありがとう たくさん与えてくれて
あなたがくれた音と文字
その言葉で私は考え 語る
母、友、兄弟 私が愛する人たちの
魂がたどる道を照らす光を
じ
Gracias a la vida que me ha dado tanto.
me ha dado la marcha de mis pies cansados:
con ellos anduve ciudades y charcos,
playas y desiertos, montañas y llanos
y la casa tuya, tu calle y tu patio.
人生よ、ありがとう たくさん与えてくれて
あなたがくれた くたびれた脚
その脚で私は歩いた 町や湖、
海辺、砂漠、山、平原
あなたの家、あなたの道、あなたの庭を
じ
Gracias a la vida que me ha dado tanto.
me dio el corazón que agita su marco
cuando miro el fruto del cerebro humano,
cuando miro el bueno tan lejos del malo,
cuando miro el fondo de tus ojos claros.
人生よ、ありがとう たくさん与えてくれて
あなたがくれた心 その心がふるえる
人の知性が 実りをもたらすのを見るとき
善と悪の区別を見るとき
愛するあなたの瞳の奥に光を見るとき
じ
Gracias a la vida que me ha dado tanto.
me ha dado la risa y me ha dado el llanto,
así yo distingo dicha de quebranto,
los dos materiales que forman mi canto
y el canto de ustedes que es el mismo canto
y el canto de todos, que es mi propio canto.
¡Gracias a la vida que me ha dado tanto…!
人生よ、ありがとう たくさん与えてくれて
あなたがくれた 笑いと嘆き
私は幸福と不幸を 分けることができる
この二つが 私の歌になる
あなたたちの歌になる
みんなの歌になり それが私の歌になる
人生よ、ありがとう たくさん与えてくれて
::: C D :::
1)ビオレータ・パラ盤

ビオレータ・パラは1917年の生まれ。出生地は諸説あり、どれが正しいのかわからないので、ここでは記さないでおく。父親は小学校の音楽教師だったと言うから、豊かではないにせよ、知識階級の家庭ではあったのだろう。兄のニカノール・パラ(1914~2018年)は詩人、弟のロベルト・パラ(1921~95年)は民俗学者になった。ビオレータを含む兄弟姉妹に歌とギターを教えたのは、裁縫師だった母親である。ビオレータの娘イサベル(1939年~)と息子アンヘル(1943~2017年)は後年、ヌエバ・カンシオンの担い手となった。
音楽活動がうまくいかなかったためか、父親はアルコール依存症に。家計を支えるために、兄弟姉妹は地元の町で演奏活動するものの、ビオレータが13歳の時に父親が結核で死去。一家はみな働かなければならなくなった。ニカノールの強い勧めで師範学校に通うことになったビオレータは、1932年、首都サンチアゴの親戚の家に身を寄せる。ここでミュージシャンとして頭角を現すのだが、二度の結婚は、演奏旅行中に置いていった子どもが亡くなることもあったりして、決してうまくいったものではなかった。生涯の苦悩として残ったのかもしれない。彼女が応援し続けたサルバトーレ・アジェンデ(1908~73年)が大統領に選出されたのは1970年。その三年前、アジェンデ政権の成立を見ることなく、彼女は自ら命を絶った。あまりに早すぎる死である。2011年、彼女が生まれた10月4日が〈チリ音楽家の日〉とされた。「人生よ、ありがとう」は、彼女の最後のアルバムに残された作品である。
収録曲
1.Gracias A La Vida
2.El Albertio
3.Cantores Que Reflexionan
4.Pupila De Aguila
5.Run Run Se Fue P’al Norte
6.Maldigo Del Alto Cielo
7.La Cueca De Los Poetas
8.Mazurquica Modernica
9.Volver A Los Diecisiete
10.Rin Del Angelito
11.Una Copla Me Ha Cantado
12.El Guillatun
13.Pastelero A Tus Pasteles
14.De Cuerpo Entero
2)ジョーン・バエズ盤

ジョーン・バエズについては、もう既に何度も取り上げてきたので、あらためて付け加えることもあるまい。彼女のアップテンポで歯切れの良い「人生よ、ありがとう」を聴いてほしい。
収録曲
1.Gracias A La Vida
2.Llego Con Tres Heridas
3.La Llorona
4.El Preso Numero Nueve
5.Guantanamera
6.Te Recuerdo Amanda
7.Dida
8.Cucurrucucu Paloma
9.Paso Rio
10.El Rossinyol
11.De Colores
12.Las Madres Cansadas
13.No Nos Moveran
14.Esquinazo Del Guerrillero
3)メルセデス・ソーサ盤

メルセデス・ソーサは、1935年、アルゼンチン北西部のトゥクマンに生まれた。労働者階級の貧しい家庭だったが、15歳の時にラジオ局の歌のコンテストで優勝したこともある。歌手として知られるようになったのは30歳頃であろう。1973年、「アルヘンティーナの女」がヒット。アルゼンチン史に輝く八人の女性(一人はボリビア人だが)を歌ったフォルクローレの名作だが、70年代後半の軍事独裁政権下、フランス、そしてスペインへと亡命を余儀なくされる。民政を取り戻した1982年に帰国し、それからはフォルクローレの枠を越え、多種多様な音楽を、様々なミュージシャンらと演奏し、歌うようになった。彼女の歌う「人生よ、ありがとう」は、繊細であり重厚。ジョーン・バエズとの共演は感動的ですらある。これはYouTubeでも見つけることができよう。
収録曲
1.Todo Cambia
2.Unicornio
3.La Maza
4.Cancion Para Carito
5.Cancion y Huayno
6.Yo Vengo a Ofrecer Mi Corazon
7.Los Bailes de la Vida
8.Maria Maria
9.El Corazon Al Sur
10.Galopa Murrieta
11.Corazon de Estudiante
12.Como Pajaros en el Aire
13.Razon de Vivir
14.Venas Abiertas
15.Gracias a la Vida
(しみずたけと) 2025.9.11
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