差別する心を払拭したい

私たちはみな、自由で平等、そして平和な社会を求めている。しかし、それは実現していない。大きな妨げになっているもののひとつが「差別」ではなかろうか。ここでは、差別について考えてみたい。

世界には様々な差別が存在する。たとえば、民族、性、学歴、職業、信仰、思想信条、言語、出身地、貧富による差別、障がい者や性的嗜好に対する差別、他にもあるだろう。こうしたものが、人と人の間に溝をうみ、衝突の原因になっていることを、誰も否定できまい。

ナチスによるユダヤ人迫害や米国における黒人や先住民に対する差別については、われわれ日本人も知っていることだ。そして、それを良くないことだとする共通認識もある。ところがアジアの人たち、とりわけ韓国、朝鮮、中国の人たちに対しては、あからさまでないにしても、差別感情を持っている人は少なくない。何世代にもわたって日本に住む在日を含め、外国人に対する偏見は、今日でも根強くある。

こうした差別や偏見は、論理的なものでも合理性があるものでもない。ほとんどが感情である。それらを「子どもじみている」と断じて良いだろう。なぜか。子どもは純粋で正直である。だから見たまま、感じたままを言葉にする。「だってあの子の肌は黒いんだよ」「○○くんは耳が聞こえないんだから」「ボクらと違うんだ」等々。決して間違ったことを言っているわけではない。しかし大人は、違う面があっても人間の価値としては同じであることを、感情ではなく論理として理解している。それは家庭や学校での教育を通して、成長過程で育まれるものだ。大人と子どもの分かれ目と言っても良いだろう。

人は自分が差別主義者だとは思われたくないものだ。しかし、差別している者は、自分が差別しているという意識がなかったりする。また、「あの差別はいけないが、この差別は良い」というような理論は成り立たない。差別は、それを支持するか反対するかのどちらかしかないのである。わかりやすく説明しよう。私は日本人で男性だから、「白人至上主義には反対するが、女性差別はあっても良い」とか「アジア人差別は許せないが、LGBTは認めない」と言ったらどう思われるだろう。差別されるのが嫌なだけで、差別する側ならかまわない、つまり差別主義者だということになる。無意識の差別主義者はトランプ大統領だけではないのだ。

戦争、宗教対立、民族浄化、格差社会、DV、非正規労働、教育機会の不平等、イジメ、原発、性暴力…。ひとりひとりから差別意識がなくなれば、きっと多くの問題が解決に向かうに違いない。そのためには、私たちは何をすべきなのか、今いちど考えてみたらどうだろうか。
(しみずたけと)

メルケル首相【憎悪表現】に決別

ミネアポリスでの警官による人種差別殺人に呼応してか、去年2019年11月に連邦議会でメルケル首相が行った力のこもったスピーチが、2020年5月、6月の今、再び注目を浴びています。はっきりとはわかりませんが、Pablo Perezという人が演説の一部を切り取って5/29にツィートしたのが発端のように見えます。Pablo Perez Armenteros はベルギー在住のジャーナリストで、EUのソーシャルメディア部門の長をしていた人とのことです。

その後、カナダで30年間人気のニュース番組のアンカーを務めたPeter Mansbridgeが追随しています。

この下の動画がそうです。ドイツ議会ですから、ドイツ語で演説していますが、動画内に英訳が付いています。

ほれぼれします!

We have freedom of expression in our country.

For all those who claim that they can no longer express their opinion, I say this to them: If you express a pronounced opinion, you must live with the fact that you will be contradicted. Expressing an opinion does not come at zero cost.

But freedom of expression has its limits. Those limits begin where hatred is spread. They begin where the dignity of other people is violated.

This house will and must oppose extreme speech. Otherwise our society will no longer be the free society that it was.

この国には確かに表現の自由はあります。

最近は自分の言いたいことをを自由に表明することができなくなってしまったと主張する人々に言っておきたいです。:断固たる主張をするならば、反論されうるということも覚悟していなければなりません。意見を表明するには代償を支払わなければならない場合があります。

確かに人は自分の意見を自由に表明できますが、その自由には制限があります。憎悪が拡がるのを制限する必要があるからです。人の尊厳が傷つけられることがないようにしなければなりません。

国会は過激な憎悪言動(ヘイト・スピーチ)に反対しなければなりません。でなければ、ドイツ社会は、かつてそうであったような自由な社会とは言えなくなるからです。」(訳 こじま)

※かなり意訳しています。内容が損なわれていないと良いのですが。

※この動画は、もともと、DW ドイッチェ・ヴェレ(ドイツの放送局)が放送したもののようです。


この下の動画は上のと同じスピーチです。他の議員の反応など、全体の様子が見られます。(ドイツ語のみ)

この動画はRUPTLYというベルリン拠点のビデオ・ニュース・メディアが配信しています。RUPTLYは RT (旧Russia Today)の一部門で、内容的にはロシア政府から独立しているとは主張しているものの、ロシアのNPOテレビ局が単一株主になっているとのwikiの情報です。それが理由かどうかわかりませんが、この動画のぶら下がりには「メルケル、最悪!」などの否定的書き込みがどっさり見られます。

こういうリーダーがいることがほんとにうらやましい!


HPの映画紹介ページに「女は二度決断する」という映画があります。

司法と行政が正しく機能しないと 女は二度決断する 2017年・独

トルコ系の夫と小さい息子を若いネオナチ夫婦に爆弾テロで殺されたドイツ人女性が法廷で戦うドラマです。題名の「二度決断する」の意味はよくわかりません。主人公は司法はあてにならないと絶望し、自分で動き始めます。一度目は実行を躊躇し、二度目に成就するところから付けられている題名かと想像しますが、この映画の主題はそこじゃありません。

ドイツ語の原題 Aus dem Nichts は「何もないところから」、「いわれなく」です。「(殺される)理由は何もないのに」という意味だと思います。 人種が違うだけです。

ドイツのトルコ人移民は1961年に政府が労働力不足を補うためにトルコなど近隣諸国からの移民を奨励したことから始まりました。今や300万人が暮らしていると言われます。4世が誕生していることでしょう。トルコ人は、今や、ドイツ人がいやがった職業に就労しているだけでなく、他のさまざまな職業に従事しています。移民統合政策に舵を取って来た政府の功かもしれません。日本に住む人が想像することができないほど、トルコ人はドイツ社会に深く根を下ろしています。

けれども、2015年から始まったシリア難民の大量受け入れを機にドイツ社会で外国人排斥が表面化して来ました。昨秋(2019年)の各州議会選挙で極右政党のひとつAfD (ドイツのための選択肢) が議席を増やしたのはまだ記憶に新しいことです。

当のドイツにおけるトルコ人社会も排斥を目の当たりにして、エルドアン政権に拠り所を求めたりするようになっているようです。もともと、ドイツでのトルコ人社会の結束は強いものであり、若い人ですら、自分の祖国はどちらであるのか模索している人が多いと聞きます。

同じく「映画の紹介」ページにて紹介している映画

「みんないっしょ」の陶酔感  THE WAVE ウェイヴ 2008年・独 の中で、

高校生の同級生仲間が「ぼくらドイツ人は」と発言した時に、「ぼくはトルコ人だけど」と言っていたのが興味深かったです。この映画のテーマは人はなぜ独裁を許してしまうのかです。それを学ぶために始めた高校の授業と生徒たちの反応が描かれる物語です。

人々の憎悪は新たな難民にだけでなく、これまで社会に深く根を下ろしてきたトルコ人社会にも向けられてきているようです。それが、上に書きました映画「女は二度決断する」の背景です。

ただ、コロナ禍の中、人々の目は現政権のリーダーシップに向けられ、AfDなどの極右勢力は力を失いつつあるというニュースを見ました。良い兆候です。メルケルなくしてこの状況が生まれたかどうかは定かではありませんが。

さて、この国でわたしたちがやるべきことは?

Ak.