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今回は人物中心の紹介である。その人物とはレナード・バーンスタイン。これまでマーラーやショスタコーヴィチの交響曲、ベルリンの壁崩壊を記念するベートーヴェンの第9などで取りあげてきた。
アルトゥーロ・トスカニーニ(1867~1957年)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954年)、ブルーノ・ワルター(1876~1962年)の三大巨匠なき後、戦後のクラシック音楽界を牽引したのが、20世紀生まれのヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89年)とバーンスタインだった。カラヤンを欧州楽界の帝王と呼ぶなら、バーンスタインは米国が生んだスーパースターであろう。両者の関係はいろいろ取り沙汰されてきた。それは事実だったのか。二人が意気投合したなどという話に大衆が興味を示すはずもなく、大喧嘩した、決裂したということであれば、そちらの方は大きな話題になるだろう。マスメディアの流す情報にはいつだって打算というものがある。だから眉に唾つけて、適当に受け流すにかぎるのだ。
さて、バーンスタインは1918年、マサチューセッツ州ローレンスに生まれた。この地名、聞き覚えはないだろうか。そう、《ブレッド&ローズ》の中でも書いた繊維産業の町である。適正な労働賃金を求め、工場で働く女性たちが大規模なストライキを決行したのが1912年。バーンスタインが生まれる六年前のことだ。
バーンスタインの父サミュエルは、1892年、ユダヤ教の律法学者の子として、帝政ロシア領だったウクライナに生まれた。1908年、彼は村を去る。家が豊かでなかったこともあろうが、ポグロム(反ユダヤ主義に根ざすユダヤ人への暴力)も影響していたと想像する。隣国ポーランドに行き、徒歩で北上、ドイツ領ダンツィヒ(今のグダニスク)から船で英国のリヴァプールに。そこから大西洋を渡ったのである。
ニューヨークに着いたサミュエルは、叔父の助けを得て移民の手続きをし、魚市場の仕事に就く。なにやら映画『死刑台のメロディ』のヴァンゼッティが目に浮かぶのだが、叔父の理髪店が成功したことでそちらに移り、さらに理容用品を扱う会社に転職。やはりロシアからの移民で、羊毛工場に勤めるジェニーと結婚、レナードが生まれたのは翌年であった。ジェニーも、もしかしたら工場のストライキに加わっていたのかもしれない。サミュエルは1923年に独立、自分の会社を設立した。
音楽とは縁遠い家庭である。サミュエルは息子に事業を継がせたかったようだが、ハーバード大学を卒業したレナードは、ナイトクラブでピアノを弾く傍ら、カーティス音楽院でフリッツ・ライナー(1888~1963年)のもと、指揮を学んでいた。カーティス音楽院への進学は、ハーバード大学のリベラルな教育体制に接することなしにはなかったのではあるまいか。トランプ大統領が目の敵にし、どうにかして潰してやりたいと思っている、あのハーバード大学である。
ボストン交響楽団がレジデント・オーケストラを務める〈タングルウッド音楽祭〉というのがある。マサチューセッツ州西部のバークシャー郡タングルウッドで夏に開かれる若手音楽家のための教育プログラムが盛り込まれた教育音楽祭で、1940年、レナードはボストン交響楽団の音楽監督セルゲイ・クーセヴィツキー(1874~1951年)の講習会に参加。43年、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督アルトゥール・ロジンスキ( 1892~1958年)がレナードを助手として採用した。この年の11月の演奏会で、急病のワルターに代わって指揮することになり、これが大成功。演奏はラジオで生放送され、さらに翌日のニューヨーク・タイムズ紙の一面で報じられ、レナード・バーンスタインの名は全米中の誰もが知るところとなった。
1958年、バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任。米国に生まれ、米国で教育を受けた人物が、米国で最も歴史のあるオーケストラの音楽監督の座に着いた。なにもかもが初めてづくし。これまで欧州から著名な指揮者を、自国の経済力にものをいわせて招聘していたが、これでコンプレックスという名のひとつの壁が打ち破られたのである。米国は自分たちの中に新しい英雄を見出したと言えよう。
とはいえ、バーンスタインは移民二世。他の五大オーケストラの音楽監督、ボストン交響楽団のクーセヴィツキーはロシア、シカゴ交響楽団のライナー、クリーブランド管弦楽団のジョージ・セル(1897~1970年)フィラデルフィア管弦楽団のユージン・オーマンディ(1899~1985年)の三人はハンガリーからの移民であった。ニューヨーク・フィルハーモニックの前任者ディミトリ・ミトロプーロス(1896~1960年)がギリシャ、ロジンスキはポーランドと、米国のクラシック音楽界は移民なしでは成り立たなかったし、外国人の力を必要としていることは今でも変わりがない。クラシックだけではなく、他の音楽ジャンル、文化芸術、学術すべてに言えることであり、米国に限った話でもない。
バーンスタインは1969年までニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督の地位にあり、その間もその後も、同楽団を引き連れて世界中に演奏旅行に出かけ、米国以外ではウィーン・フィルやロンドン交響楽団など世界の錚々たるオーケストラに客演し、レコードを制作するなど、八面六臂の大活躍をすることになるのだが、そのようなことは誰もが知っていることなので、詳細をあらためて書く必要などあるまい。ひとつだけ紹介するとすれば、作曲家であり教育者でもあったアーネスト・シェリング(1876~1939年)が始めた「青少年のためのコンサート」がテレビ番組化され、バーンスタインが司会と指揮を務めたことであろうか。会場に招待された青少年たちに、バーンスタインが音楽を解説し実演するという音楽教育番組である。演奏するのはニューヨーク・フィルハーモニック。なんと豪華な!
バーンスタインがハーバード大学に入ったのは1935年。翌年、ジョン・F・ケネディ(1917~63年)が入学。民主党支持のバーンスタインはホワイトハウスに招待される常連だったが、1962年、ケネディ政権はソ連に対抗すべく、核実験の再開を宣言。リベラル派による大規模な抗議運動が起き、首都ワシントンでは2万5千人が核兵器反対を訴えてパレードを決行。核兵器廃絶を願うバーンスタインはその先頭に立った。以来、二人の関係はぷつりと切れてしまう。
1963年11月22日、ケネディがダラスで暗殺された。翌々日のニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会は〈大統領追悼演奏会〉とされ、バーンスタインはマーラーの交響曲第2番『復活』を選んだ。モーツァルトの『レクイエム』や葬送行進曲のあるベートーヴェンの交響曲第3番といった定番ではなく、なぜマーラーの『復活』だったのか。「これは希望とか勝利といった現実にはない観念が世俗的な哀しみに苦しみに打ち克つ曲です。私たちが愛した人間の復活を願うだけでなく、その死を嘆き悲しむ私たちすべて希望を呼び戻したいのです」と、そうバーンスタインは説明した。主義主張が違うとは言え、それはそれ、やはり大人である。
核軍縮、世界平和、人種差別撤廃、エイズ撲滅のための研究支援など、バーンスタインは平和運動のために音楽家としての名声を利用することに躊躇いはなかった。社会問題について、機会あるごとに発言し、1979年のベルリン・フィルとの共演で得られた収益は、人権団体のアムネスティ・インターナショナルに寄付された。85年には音楽活動と政治を結びつけ、青少年オーケストラを率いて平和を訴える演奏会を世界各地で開く〈平和への旅〉に出発。原爆投下四〇年の広島でも8月6日に演奏会が開かれた。テレビ局のインタビューで彼は、「戦争は不要であり、核兵器などと言う無意味なものはすべてきっぱり廃絶すべきであるという賢明な認識を、この演奏会によって少しでも広げることができればと思っている」と答えている。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊。それを祝う演奏会が翌月のクリスマスに開かれた、バーンスタインがベートーヴェンの第9を指揮。オーケストラは、バイエルン放送交響楽団を中心に、東西ドイツ、ソ連(当時)、英国、フランスの管弦楽団員が加わった混成、独唱も合唱も東西両陣営からの参加で、シラーによる歌詞のfreude(歓喜)がfreiheit(自由)に置き換えられて歌われたことは、《ベートーヴェン 交響曲第9番『合唱』》の中で書いたとおりである。
バーンスタインは翌年5月の〈プラハの春〉で取りを務めた。欧州デビューが1946年の第1回〈プラハの春音楽祭〉だったこと、48年に共産党政権が成立し、「自由な国になったらまた呼んでほしい」の言葉を残して足が遠のいたままだったことを思うと、さぞかし感慨深かったのではなかろうか。彼は何よりも自由を愛する人だったのだから。
若き日にタングルウッド音楽祭で学んだバーンスタインは、巨匠になってからは教える立場になった。クラウディオ・アバド(1933~2014年)、小澤征爾(1935~2024年)、ズービン・メータ(1936年~)、みなタングルウッドに来て学んだ面々である。さらに1990年には〈パシフィック・ミュージック・フェスティバル〉を創設。オーディションで選ばれた世界の若手音楽家が夏の札幌に集結、世界的な指揮者、ウィーン・フィルやベルリン・フィル、シカゴ響などの現役団員から指導を受け、演奏会でその成果を披露するという国際的な教育音楽祭である。次代を担う若者に薫陶を与えたバーンスタインだったが、その三ヶ月後の11月、その魂は永遠の世界へと旅立った。
かつて作曲家は演奏家でもあった。時代が下るにつれ、両者は分業化、専業化していく。そのような中で、バーンスタインは演奏家と作曲家という二足の草鞋を履きこなした希有な存在だった。政治家ではなかったが、平和と人権を訴え、政治的な活動を辞さない市民だった。音楽を、平和な世界を築くための文化として捉えていた。それだからこそ音楽教育にも熱心に取り組んだ。マルチ・タレントと言うよりは、確固たる思想を持ち、社会に目を向けた文化人であり、己の責任を自覚した、文学研究者であり批評家のエドワード・サイード(1935~2003年)が言うところの“知識人”そのものであった。まさにこの点においてこそ、彼をスーパースターと呼ぶべきであろう。
今日の世界を目にしたら、ユダヤの血を引き、ウクライナにルーツを持つ平和主義者のバーンスタインは何を思うだろうか。思うだけでなく行動する人だった彼なら、何をするだろうか。彼が去ってから、もう35年になろうとしている。単なるバーンスタインのファンで終わりたくはないものだ。
バーンスタインの交響曲
そのバーンスタインによる三つの交響曲を聴くことにしよう。交響曲と名付けられてはいるが、どれも標題を持ち、通常の四楽章構成ではないなど、過去の伝統的な交響曲とは異なっている。歴史、文学、宗教との強い関わりを持つものだ。
交響曲第1番『エレミア』は、紀元前586年の古代バビロニアによるエルサレム攻略と預言者エレミアの嘆きという、旧約聖書の記述を題材にしたもの。終楽章では「エレミア哀歌」を直接引用し、メゾ・ソプラノにそのままヘブライ語で歌わせるところからも、ユダヤ主義的な主張が強く表れた作品である。最初に「悔い改めよ」という預言があり、人々はそれを無視、その結果の〈バビロン捕囚〉。ミュージカルを手がけただけあって、演劇的なストーリー性を有しながら、音楽的にも呈示―展開―再現というソナタ形式に則っている。
1946年、W・H・オーデン(1907~73年)が「不安の時代」と題する詩を発表した。第二次大戦の終わり近く、死者の魂が帰ってくるという万聖節前夜のマンハッタンが舞台。三人の男と一人の女が、人生の意味とは何か、酒を飲みながら話を交わす。信頼に足りる父性像の喪失、それを嘆く挽歌。人生を謳歌していると思い込もうとする四人だったが、何も見出すことなく夜明けが迫る。別れてそれぞれの道を歩みゆく。この詩は48年にピューリッツァー賞を受賞。オーデンは英国生まれで、39年に米国に移民した詩人で、20世紀最大の詩人の一人とされている。
1947年にこれを読んだバーンスタインは強い衝撃を受け、混沌とした現代社会の大都会に生きる人間の不安を描くものとして、交響曲第2番『不安の時代』の作曲を思い立ったという。第一部は「プロローグ」「七つの時代」「七つの道程」、第二部は「挽歌」「仮面舞踏会」「エピローグ」と、元の詩と対応するようになっている。文学作品をもとに、ピアノ独奏、無調、十二音技法、ブギウギなど多様な要素を盛り込み、それによって劇音楽のように構築している。
カディッシュとは、アラム語の「聖なるもの」に由来するユダヤ民族の葬儀と服喪期間に唱える頌謡のことである。バーンスタインはこの頌謡にもとづき、自身の手で朗読文を書き、独唱、合唱団、オーケストラによる交響曲第3番『カディッシュ』を書き上げた。第1楽章「神への祈り」、第2楽章「神による試練」、第3楽章「スケルツォとフィナーレ」という構成で、そのストーリー的展開は、交響曲と言うよりはオラトリオ的である。交響曲第1番『エレミア』と同様、作曲者のユダヤ人性とユダヤの伝統に対する意識が全面的に発露された作品と言えよう。暗くて重い歌詞の中に、「私の最期は一分後か、それとも一時間後か」「神は死を招く新たに発見された火を弄することをなぜ人間に許したのか」という、核戦争の恐怖を暗示させる節がある。
::: C D :::
1.交響曲第1番『エレミア』(1942年)
2.交響曲第2番『不安の時代』(1965年改定版)
3.5つの子供の歌(1943年)
Ⅰ 私の名前はバーバラ
Ⅱ 木星に7つの月がある
Ⅲ 私は音楽が嫌い
Ⅳ 大きなインディアンと小さなインディアン
Ⅴ 私もただの人
4.声楽とピアノのための4つのレシピ『おいしい料理法』(1947年)
Ⅰ 干しブドウ入りプディング(プラム・プディング)
Ⅱ クー・ド・ブフ(牛テール)
Ⅲ タヴーク・グェンシス(雌鶏の胸肉料理東洋風)
Ⅳ 即席のウサギ料理

指揮:レナード・バーンスタイン
演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1960年(3,4)、1961年(1)、1965年(2)
::: 動 画 交響曲第1番『エレミア』
::: 動 画 交響曲第2番『不安の時代』
::: 動 画 5つの子供の歌
::: 動 画
声楽とピアノのための4つのレシピ『おいしい料理法』
1.交響曲第3番『カディッシュ』(1963年)
2.合唱曲『チチェスター詩篇』(1965年)

語り:フェリシア・モンテアレグレ(1)
独唱:ジェニー・トゥーレル(メゾ・ソプラノ 1)
合唱:カメラーラ・シンガーズ(2)
指揮:レナード・バーンスタイン
演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1964年(1)、1965年(2)
::: 動 画 交響曲第3番『カディッシュ』
::: 動 画 合唱曲『チチェスター詩篇』
(しみずたけと) 2025.9.7
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