小澤征爾さんが天に召された。88歳だった。
小澤征爾は満洲の奉天(現在の瀋陽)の生まれ。征爾という名前が、中国侵略の立役者である板垣征四郎(1885〜1948年)の“征”と石原莞爾(1889〜1949年)の“爾”から取られたものであることは誰もが知っている。小澤征爾が生まれた1935年当時、板垣は陸軍少将、関東軍司令部附で満洲国軍政部最高顧問の地位にあった。石原の方は 関東軍参謀本部作戦課長である。当時の日本は膨張政策のまっただ中。その牽引役だったこの二人こそ、当時の国民的ヒーローなのだから、わからないでもない。生まれた子どもにその年の五輪メダリストの名前をつけるのと似た感覚だろう。しかし、日本の「いけいけどんどん」は日本側の都合、一部の人の利権拡大をアジア諸国に押し付け、それに乗せられてしまった国民が否応なしに支持した結果だった。小澤征爾は、そんな板垣や石原とは正反対の道を歩んだ人だったと思う。
小澤征爾の兄、小澤俊夫先生がご母堂の小澤さくらさんを伴ってうちに来たことがあった。日本女子大でドイツ文学を教えていた当時、同じ市内に住んでいたのである。やはり満洲生まれで、兄弟そろってのおおらかな人柄は大陸で育まれたからに違いない。お連れ合いの牧子さんは臨床心理学者で、和光大学の人間関係学部で教えていた。なんだか面白そうな分野だなと思ったことを記憶している。父は子ども時代、しばしば隣りの小澤家にお風呂をもらいに行っていたという。貧乏牧師の一家にとって、歯科医で鉄道事業にも関わっていた小澤開作氏とその一家にはずいぶん助けられたのであろう。
閑話休題。ブザンソン国際指揮者コンクールに優勝して頭角を現した小沢征爾は、以後、世界の名だたるオーケストラを指揮するようになった。指揮でもピアノでもヴァイオリンでも、今でこそコンクールがクラシック音楽家の登竜門のようになっているが、伝統的にヨーロッパの指揮者は教会のオルガニストから、あるいは地方の歌劇場指揮者から出発し、そこで積み上げた実績次第で主要歌劇場に招かれるようになり、さらにコンサートへとレパートリーを広げていくのがよくある道筋であった。しかし、前に紹介したことのあるジョン・バルビローリ(1899〜1970年)はオーケストラのチェリストだったし、シャルル・ミュンシュ(1891〜1968年)はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターを務めたこともあるヴァイオリニストなど、例外がないわけではない。作曲家でありピアニストでもあったレナード・バーンスタイン(1918〜90年)は、コンサート指揮者から歌劇へとレパートリーを広げていった人である。指揮者コンクールが意味を持つようになった黎明期と小澤征爾の世界デビューが重なるところから、彼をコンクール出身第一世代の指揮者の一人と捉えてもあながち間違いではないだろう。
小澤征爾のみごとな指揮ぶりは、師である齋藤秀雄に叩き込まれた完璧なバトンテクニックがあってこそのものではあるが、彼の音楽それ自体には方法論というものがない。「音楽はひとりひとり違うものだから」と彼は言う。違うもの同士がぶつかり合い、対話をしながら、ひとりでは創れない世界を力を合わせることで生み出す。殻に閉じこもるのではなく、垣根を乗り越えたところにこそ新たな世界がひらけるとでも言いたげである。小澤征爾は四半世紀に渡って米国の名門ボストン交響楽団に君臨したが、絶対君主としてではなく、厳しさの中にもホンワカした関係があったように思う。なるほど、支配ではなく協調。板垣や石原と正反対というのは、まさにこの点である。
これまで幾度となく、小澤征爾は日本人ではないと述べてきた。方法論にとらわれがちな日本にあって、芸術でもスポーツでも、まず形から入ろうとする。とるべき手法や正しいフォームというものがあって、まずはそれを身につけることが先決。そして手段に過ぎないそれらが、いつの間にか目的と化していく。なぜそうするのか、理由を考えることなく、ただ形を模倣するだけ。中国大陸に生まれたからなのか、長く世界を相手にしてきたことによるのかはわからないが、日本的なるものから“はずれた”人間、それが「世界のオザワ」たるゆえんであろう。
NHKは2月18日の《クラシック音楽館》で、「追悼 マエストロ・小澤征爾」なる特番を組んだ。映像の中心は2002年のウィーン・ニューイヤー・コンサート。毎年放送しているニューイヤー・コンサートの映像が手元にあるからなのか、みんなが知っている名曲のオンパレードだからという理由なのか、それとも放送時間の枠に収まりやすいという番組編成上の都合だったのか。小澤征爾はウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めたし、彼のウィンナ・ワルツが悪いわけではないが、もっと他の曲、たとえばレスピーギやバルトーク、ベルリオーズやマーラーといった、より色彩的だったり、キレの良いリズム、複雑なテクスチュアの曲の方が、彼の優れたところ、魅力が伝わったように思う。
この《音楽ライブラリー》では、サイトウ・キネン・オーケストラという精鋭集団によるマーラーの交響曲第2番『復活』やブリテンの『戦争レクイエム』といった大編成の曲、反対に編成を小さくした水戸室内管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲第9番『合唱』などを紹介してきた。リムスキー=コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』では美しいソロ・ヴァイオリンも聴くことができたと思う。一歩すすめて、今回は世界のソリストたちを支えながら築く演奏を聴いてもらうために、協奏曲をとりあげてみたい。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ホルンなど、世界中の超一流たちとの共演を聴いてもらえば、なぜ彼が「世界のオザワ」と呼ばれるのかがわかると思う。
ピーター・ゼルキン(1947〜2020年)は米国生まれのピアニスト。父親はボヘミア出身のユダヤ系ピアニスト、ルドルフ・ゼルキン(1903〜91年)である。アレクシス・ワイセンベルク(1929〜2012年)はブルガリア出身で、こちらもユダヤ系のピアニスト。ヴィクトリア・ムローヴァ(1959年〜)はロシア出身のヴァイオリニストだが、83年に西側に亡命。大チェリストであるムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927〜2007年)は、これまでも指揮者として何度も取りあげた。チェコ出身のラデク・バボラーク(1976年〜)は、ベルリン・フィルの主席ホルン奏者を務めた後、フリーとなり、サイトウ・キネン・オーケストラの常連。水戸室内管弦楽団のベートーヴェンの第9交響曲を小澤征爾と分け合って指揮したりしてもいる。アルゼンチン出身のピアニスト、マルタ・アルヘリッチ(1941年〜)については、いまさら説明の必要はあるまい。
CD 1
バルトーク
ピアノ協奏曲第1番(1926年)
ピアノ協奏曲第3番(1945年)
演奏:ピーター・ゼルキン(ピアノ)
シカゴ交響楽団
指揮:小澤征爾
録音:1965年(1) 1966年(3)
CD 2
ラヴェル
ピアノ協奏曲ト長調(1931年)
プロコフィエフ
ピアノ協奏曲第3番ハ長調 作品26(1921年)
演奏:アレクシス・ワイセンベルク(ピアノ)
パリ管弦楽団
指揮:小澤征爾
録音:1970年
CD 3
チャイコフスキー
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35(1878年)
シベリウス
ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品47(1903年)
演奏:ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン)
ボストン交響楽団
指揮:小澤征爾
録音:1985年
CD 4
ドヴォルザーク
チェロ協奏曲ロ短調 作品104(1895年)
チャイコフスキー
『ロココ風の主題による変奏曲』(1876年)
演奏:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
ボストン交響楽団
指揮:小澤征爾
録音:1985年
CD 5
モーツァルト
ホルン協奏曲第1番ニ長調 K.412/514
ホルン協奏曲第2番変ホ長調 K.417
ホルン協奏曲第3番変ホ長調 K.447
ホルン協奏曲第4番変ホ長調 K.495
演奏:ラデク・バボラーク(ホルン)
水戸室内管弦楽団
指揮:小澤征爾
録音:2005年(1,2,4)2009年(3)
CD 6
ベートーヴェン
交響曲第1番ハ長調 作品21(1800年)
ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品15(1795年)
演奏:マルタ・アルヘリッチ(ピアノ)
水戸室内管弦楽団
指揮:小澤征爾
録音:2017年(ライブ)
(しみずたけと) 2024.5.6
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