追悼 小澤征爾


 小澤征爾さんが天に召された。88歳だった。


CD 1

バルトーク
ピアノ協奏曲第1番(1926年)
ピアノ協奏曲第3番(1945年)

演奏:ピーター・ゼルキン(ピアノ)
   シカゴ交響楽団
指揮:小澤征爾
録音:1965年(1) 1966年(3)

バルトーク ピアノ協奏曲第1番
バルトーク ピアノ協奏曲第3番 I. Allegretto
バルトーク ピアノ協奏曲第3番 II. Adagio religioso
バルトーク ピアノ協奏曲第3番 III. Allegro vivace

CD 2

ラヴェル
ピアノ協奏曲ト長調(1931年)

プロコフィエフ
ピアノ協奏曲第3番ハ長調 作品26(1921年)

演奏:アレクシス・ワイセンベルク(ピアノ)
   パリ管弦楽団

指揮:小澤征爾
録音:1970年

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番ハ長調 I-III
ラヴェル ピアノ協奏曲ト長調 I-III

CD 3

チャイコフスキー
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35(1878年)

シベリウス
ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品47(1903年)

演奏:ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン)
   ボストン交響楽団

指揮:小澤征爾
録音:1985年

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲ニ長調 1-3
シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調 1-3

CD 4

ドヴォルザーク
チェロ協奏曲ロ短調 作品104(1895年)

チャイコフスキー
『ロココ風の主題による変奏曲』(1876年)

演奏:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
   ボストン交響楽団

指揮:小澤征爾
録音:1985年

ドヴォルザーク チェロ協奏曲ロ短調 I-III
チャイコフスキー 『ロココ風の主題による変奏曲』Introduction, I-VI

CD 5

モーツァルト
ホルン協奏曲第1番ニ長調 K.412/514
ホルン協奏曲第2番変ホ長調 K.417
ホルン協奏曲第3番変ホ長調 K.447
ホルン協奏曲第4番変ホ長調 K.495

演奏:ラデク・バボラーク(ホルン)
   水戸室内管弦楽団

指揮:小澤征爾
録音:2005年(1,2,4)2009年(3)

ホルン協奏曲第1番ニ長調
ホルン協奏曲第2番変ホ長調 I. Allegro maestoso
ホルン協奏曲第2番変ホ長調  II. Andante

CD 6

ベートーヴェン
交響曲第1番ハ長調 作品21(1800年)
ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品15(1795年)

演奏:マルタ・アルヘリッチ(ピアノ)
   水戸室内管弦楽団

指揮:小澤征爾
録音:2017年(ライブ)

ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品15 1. Allegro con brio
ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品15 2. Largo
ピアノ協奏曲第1番ハ長調 作品15 3. Rondo (Allegro scherzando)

(しみずたけと) 2024.5.6

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草原の小姉妹


 前回、ブリテンの『戦争レクイエム』を紹介する中で、世界で活躍する小澤征爾の、日中関係を見る目、個人と集団のあり方について、少しばかり書いた。ここで紹介するのは、彼が音楽監督を務めるボストン交響楽団を率いておこなった、1979年4月の中国ツアーでの録音である。

 日本は、中国とは数千年にわたる関係があるにもかかわらず、たとえば日中関係が良くなると中国語を学ぶ者が増え、関係が悪化した途端に減るといった、その時々の状況に左右されやすい国民性が表出する。相手をステレオタイプでしか見ることができないのは、権力やメディアによる誘導があるにしても、自我の認識が希薄で、自分のモノサシが無い証左である。そうした特質が“お上”から“下々の民”にまで浸透している社会からは、小澤征爾のような人物はなかなか出てこない。

 この年の1月の米中国交正常化を背景にした友好行事という側面があり、両国の音楽作品を、両国の音楽家によって演奏するというところがミソなので、それぞれの国らしさを前面に出した曲が選ばれているのだろう。それを、中国に生まれ、米国で音楽活動をする日本人が取り持った、日米中の協力で実現した音楽会ということが、このレコードを日本で販売する宣伝材料なのだろうが、たまたま小澤征爾が日本人であると言うだけで、とりわけ日本が米中友好のために大きな役割を果たしたわけではないことを、聴く側の私たちは認識しておいた方が良いと思う。

 この曲は、今回紹介するCDを聴くまで知らなかったのだが、中国的なメロディと西洋音楽を融合させたような作品である。琵琶演奏の第一人者といわれる劉徳海は、1937年、上海生まれ。その美しい響きが印象的である。2020年、惜しまれつつ亡くなった。

 二曲目の『星条旗よ永遠なれ』は、マーチ王と謳われる米国のジョン・フィリップ・スーザ(1854~1932年)による作品。今さら説明など必要ないだろう。米国のオーケストラがアンコール曲として好んでとりあげる一品で、「いかにもアメリカ!」なのだが、これが米国らしさの本流なのだろうか。やや違和感も感ずるところだ。

 最後のリストのピアノ協奏曲は、米中とは別の、もうひとつの極である欧州の作品という意味合いだろうか。ピアノを弾く劉詩昆(1939年~)は、1958年の第一回チャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で第二位になった人物である。このときの優勝者はヴァン・クライバーン(1934~2013年)。モスクワ音楽院に留学し、帰国後は中央音楽院で教えていた劉詩昆だが、66年に始まった文化大革命で西洋音楽は禁止。紅衛兵に腕や指を折られ、逮捕されて八年間の刑務所暮らしを強いられた。この演奏会に招聘されたのは、同じく文化大革命で辛酸を嘗めさせられた鄧小平の肝煎りだったのではなかろうか。


::: C D :::

1)呉祖強:琵琶協奏曲『草原の小姉妹』
2)スーザ:星条旗よ永遠なれ
3)リスト:ピアノ協奏曲第1番変ホ長調

独奏:劉徳海(琵琶)
   劉詩昆(ピアノ)

指揮:小澤征爾
演奏:ボストン交響楽団

録音:1979年・北京(ライブ


(しみずたけと) 2023.10.6

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オザワの《戦争レクイエム》


 モーツァルトに始まる一連のレクイエム紹介のきっかけは、ウクライナ戦争に心を痛めたからだった。しかし、ベンジャミン・ブリテン(1913~1976年)の『戦争レクイエム』をとりあげたのは、ウクライナ戦争が始まる半年以上も前になる。もとより鈍感な人間であるから、予感の類であるはずがない。歴史に残る大作曲家たちによるいくつかのレクイエムをまとめて聴きなおす機会にはなったが、心は少しも晴れないままだ。

 無信仰者の私だが、これも何かの啓示かもしれない、『戦争レクイエム』を改めて聴きなおすことにした。

 歌詞に用いられているのは、オーソドックスなラテン語の典礼文とウィルフレッド・オーウェン(1893~1918年)による英語の詩だが、両者の比重はほぼ同じ。その接続は実に巧みにされているという。生まれつき病弱だったオーウェンが第一次大戦に従軍し、敵弾に倒れたのは休戦一週間前だった。総譜の冒頭にあるのは彼の言葉である。

 「私の主題は戦争であり、また戦争の悲哀である。そして詩は悲しみの中にある。詩人のなし得るすべてのことは、警告することなのだ」


戦争レクイエム

 曲は六つの楽章で構成されている。

第1楽章  永遠の安息を

・主よ、永遠の安息を彼らに与え給え
・家畜のように死んでゆく兵士たちに

第2楽章  怒りの日

・その日こそ怒りの日である
・夕べの大気を悲しげに
・そのとき、この世を裁く
・戦場で、ぼくたちはごく親しげに
・慈悲深いイエスよ
・汝の長く黒い腕が
・怒りの日
・罪ある人が裁かれるために
・彼を動かせ

第3楽章  奉献文

・栄光の王、主イエス・キリストよ
・かくて、アブラハムは立ちあがり

第4楽章  聖なるかな

・聖なるかな、聖なるかな
・東方から一筋のいなずまが

第5楽章  神の小羊

・かりそめにも爆撃された

第6楽章  我を解き放ちたまえ

・主よ、かの恐ろしき日に
・ぼくは戦闘から脱出して
・さあ、もう眠ろうよ


 

::: C D :::

 前回は作曲者自身の指揮による1963年の演奏だったが、今回はなるべく新しい録音のものを選んだ。小澤征爾(1935年~)とサイトウ・キネン・オーケストラによるライブである。満洲に生まれた小澤は、日本で教育を受け、欧州で認められ、米国で成功し、西洋音楽の世界で確固たる地位を得た人物である。西洋と東洋の接するところに生き、両者の優れたところとそうでないところを肌で感じとってきた人間だけが持つ、俯瞰的な視点。私はそれを感ぜずにはいられない。

 小澤征爾のつくり出す音楽は、時に淡泊、時に熱く、そして純音楽的。彼を含め、音楽家が政治について語ることはほとんどないと思われがちだが、彼が政治に無関心な人間だということにはならない。戦争末期、満洲から引き揚げ、一家で立川に暮らしていた彼は、米軍のP51戦闘機が、軍事的必要性からではない、子どもや一般市民に対する無差別な機銃掃射を目撃し、こう語っている。

「恐らくふざけてやっていた気がするな。桑畑なんて撃つ必要がないんだから」

 同級生の自宅は直撃弾によって一家三人が即死したと言う。これは朝日新聞(2013年9月19日)に載ったインタビュー記事である。記事の題名は「日中関係《大事なのは一人ひとり》」。尖閣列島の領有をめぐり、日中関係が冷え込んでいく時期だった。

「俺なんか全然冷え込んでないよ。冷え込んでいるのは、日中政府間の関係。大事なのは一人ひとりの関係で、ぼくは、中国にいる友人たちを信じている(中略)人間生きていくときにね、俺の政府と、お前の政府との仲が冷え込んでいるからって俺には何の関係もないよ。ぼくはまったく心配していない。中国にいる僕の仲間だって心配してないと思う(中略)政府がどう言ったからだとか、新聞が書いているから、とかじゃなくて。大事なのは一人ひとり。政府よりも、政府じゃない普通のひとがどう考えるかが一番大事。僕はそう思う」

 1979年、手兵のボストン交響楽団を率いて中国公演をおこない、中国のオーケストラとも合同演奏会を実現した彼の言葉には重みがある。それで思い出したのは、別のTVインタビューでのこと。聴き手がいろいろな単語をあげ、それに答えるという趣向だった。その中の一問一答。

Q.航空母艦
A.無駄なもの

 小澤征爾の音楽から政治性が排除され、純粋な音楽としての昇華こそが柱になっているのだとしたら、それは彼が政治に対して無関心なのではなく、政治の貧困、歪んだ政治の無力さゆえなのだろう。いつの時代も、音楽は政治に利用されてきた。いや、政治と結びつくことによって生きながらえてきたという側面も否定できない。

 権力が音楽を利用してきたと同様、それに抗する民衆もまた、音楽によって団結してきたのもまた事実である。なぜなら、音楽というものは、人々に生きる勇気を与えるためのものであるから。また、そうあるべきであるから。音楽にかぎらず、絵画、写真、映画など芸術全般、文学などにも言えることである。

 米国の国際政治学者サミュエル・ハンティントン(1927~2008年)は、現代の国家間の対立を「文明の衝突」と呼んだ。彼の言う文明が、何によって構成されるものなのかが今ひとつわからないのだが、おそらく文化は含まれていないのだろう。言語や宗教が違うからと言って、人は必ずしも対立したり争ったりするわけではない。利権や富の配分、その不均衡や不公正さこそが主たる原因になっている。それを容認し、むしろ推進しているのが政治である。いや、政治それ自体がそのことを目的としているからにほかならない。

 「大事なのは一人ひとり」は、彼が自我を確立した個人、市民社会に生きる人間であることを表している。それが中国大陸に生まれたことによるものなのか、欧米社会に長く身を置いたせいなのかはわからないが、多くの日本人とは異なっている特質であろう。私が「小澤征爾は日本人ではない」と思うのは、民主主義の理解度の相違、まさにこの点にある。

 その小澤征爾による、長野県松本文化会館での『戦争レクイエム』である。こうした大曲、大編成のオーケストラを操る巧みさは昔からだし、世界で活躍する演奏者が結集したサイトウ・キネン・オーケストラの機動性は折り紙付き、独唱も合唱も文句なしの出来映えなのだが、このライブはそれだけにとどまらない。咽頭ガン手術のあと、まさに命を削るかのような鬼気迫る彼のバトンは、ステージ上すべての演奏家の魂の叫びを引き出し、その温かさが聴衆の心にしみ入ってくる。

 翌年、彼の『戦争レクイエム』は、ニューヨークのカーネギー・ホールで再び演奏された。バリトンがマティアス・ゲルネに変わったほかは、ほぼ同じ顔ぶれ。音の良さで定評のある会場だが、松本文化会館も負けていない。以前、スタジオ録音とライブの違いを、ラファエル・クーベリックの『マーラー交響曲第5番』で聴きくらべてもらったことがあるが、今回の聴きくらべはホールと聴衆ということになろうか。オザワ渾身の『戦争レクイエム』を、とにかく聴いてほしい。

1)2009年 松本文化会館

独唱:クリスティン・ゴーキー(ソプラノ)
   アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール)
   ジェイムズ・ウェストマン(バリトン)
合唱:SKF松本合唱団、東京オペラシンガーズ
   栗友会合唱団、SKF松本児童合唱団

指揮:小澤征爾
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ


2)2010年 ニューヨーク カーネギー・ホール

独唱:クリスティン・ゴーキー(ソプラノ)
   アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール)
   マティアス・ゲルネ(バリトン)
合唱:SKF松本合唱団、東京オペラシンガーズ
   栗友会合唱団、SKF松本児童合唱団


指揮:小澤征爾
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ


(しみずたけと) 2023.10.5

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小編成『第九』の澄んだ響き


 12月である。年末恒例の「第九」の季節だ。今さらベートーヴェンの第九の説明などいるまい。それくらい日本人にとってはお馴染みの曲目だ。

 音楽ライブラリーでも、バーンスタインによる1989年12月の演奏を既に紹介ずみである。しかし、あれは同じ年に起きたベルリンの壁崩壊という歴史的な出来事を記念し、「歓喜の歌」の歌詞にあるfreude(歓喜)をfreiheit(自由)に置き換えた、自由と民主主義への賛歌、あの時だからこそ特別な意味を持つものだった。

 そこで古典音楽として正統的…と言うより、スタンダードな演奏のものを採りあげてみることにした。なにしろ有名な曲である。数多あるベートーヴェンの作品中でダントツの人気らしい。録音は数知れない。いろいろ逡巡する中でふと思いついたのが、小澤征爾(1935年~)が指揮する水戸室内管弦楽団の演奏である。

 大オーケストラとは違い、編成の小さな室内管弦楽団ということもあって、各パート、各楽器の音が実にクリアで、誰にでもはっきり聴き分けることができよう。それでいて薄ぺっらい感じはまったくない。独唱や合唱を妨げることもない。思えば、ベートーヴェンが作曲した時代は、このような響きだったのではあるまいか。同じく小澤征爾のもと、マルタ・アルヘリッチ(1941年~)と録音したベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、第2番も素晴らしい出来映えだった。古典音楽とは、まことに相性の良い楽団だと思う。

 第の良さはフィナーレの壮麗な大合唱だ。日本の演奏会での合唱団は、少なくとも200、多いときは300人にもなる。舞台が狭い欧州では、せいぜい70人だから厚みが出ない。第九を聞くなら日本で。こう書いていたのは、音楽評論家の宇野功芳(1930年~)。

 なるほどとも思うのだが、器楽でも合唱でも、編成が大きくなるほどアンサンブルが難しくなり、音の濁りが生じやすい。名人芸や練度で克服するというのも一つの手かもしれないが、年末の第ではアマチュア合唱団の起用も珍しくない。大編成なのは、プロの声楽家にくらべてひとりひとりの声量が小さいという理由もある。

 この演奏を聴いて、壮麗さや迫力、音量が不足すると思う人はいるだろうか。充実の独唱陣。とりわけ、世界最高のメゾの一人と絶賛されている藤村実穂子は圧巻だろう。日本のオーケストラや合唱団の水準も高くなったものである。この演奏を聴くと、水戸室内管弦楽団、東京オペラシンガーズ、どちらも世界で通用するレベルであるのは間違いない。

 演奏会では、第2楽章まではラデク・バボラーク(1976年~)が指揮を務めた。2009年までベルリン・フィルの首席奏者を務めたホルンの名手である。小澤征爾の信頼も厚く、サイトウ・キネン・オーケストラの常連。水戸室内管弦楽団とは、小澤征爾の指揮のもとでモーツァルトのホルン協奏曲を録音しており、気心の知れた関係だ。現在はソロを中心に世界中で活躍している。第3楽章で、いよいよ我らが小澤征爾の登場。当ディスクには、演奏会とは別に、小澤征爾の指揮でセッション録音をおこなった第1・2楽章が収録されている。年の瀬をおくるのにふさわしい、豪華キャストによる、力強く澄んだ演奏を楽しんでほしい。


 ::: CD :::

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
交響曲第9番ニ短調『合唱』作品125(1824年)

独唱:三宅理恵(ソプラノ)、藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)
   福井敬(テノール)、マルクス・アイヒェ(バリトン)
合唱:東京オペラシンガーズ
指揮:小澤征爾
演奏:水戸室内管弦楽団

録音:2017年、水戸芸術館コンサートホール

   第1・2楽章(セッション)/第3・4楽章(ライブ)


(しみずたけと) 2022.12.12

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