マーラーを聴いて過ごしたGW

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(しみずたけと) 2025.5.15

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《復活》をアテにしてはならない

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(しみずたけと) 2025.5.1

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マーラーの《第9》



グスタフ・マーラー


CD 1 : ワルター盤

 マーラーの直接の弟子で、この曲の初演者であるワルターには、1938年のウィーン・フィルとの有名な録音がある。それはナチスの軍靴が迫り来る中での緊張感あふれるライブだった。モノラル盤なので、ここでは指揮の一線を退いた後に再録された方を紹介しておく。

 ワルターの演奏記録を残すべく、CBSはワルターの録音のために特別編成されたオーケストラを用意した。それがコロンビア交響楽団である。ワルター専用とも言えるこの楽団を起用し、マーラーの没後50年にあたる1961年、この第9番が録音された。指揮者が思うとおりにコントロールできるという意味で、マーラー演奏においてひとりひとりの団員が一家言を有するウィーン・フィルよりも結果的に良かったのかもしれない。


 演奏は、複雑な構成をすっきり見通しよくしたと言えば良いだろうか、歌曲作家でもあるマーラーの交響曲には、なにがしかのストーリー性を包含していることが多いのだが、それを強調することなく、響きの清澄さを前面に押し出した、当時としては新しい解釈による音作りとなっている。ワルターは1962年に亡くなったから、作曲家が死の前年に作った曲を、指揮者が死の前年に奏でた、両者の遺作とも言える記録である。

指揮:ブルーノ・ワルター
演奏:コロンビア交響楽団
録音:1961年


CD 2 : クレンペラー盤

 クレンペラーもまた、マーラーの弟子であった。モーツァルトを得意としたワルターは、マーラーを古典音楽のように聴かせたが、ロマン派から現代音楽まで幅広いレパートリーに定評あったクレンペラーのマーラーは、楽曲の様式美と構築性を強調したものとなっている。若い頃は、やや速めのテンポで突き進むような演奏が多かったクレンペラーだが、晩年は厳格なまでにテンポをまもり、いや、かなりテンポを落としてじっくり聴かせるスタイルへと移行、濃厚なロマンチズムあふれる表現を特徴とするようになった。

 視界から徐々に薄れゆくマーラー像に一抹の寂寥感を感じるのがワルターの演奏だとすれば、クレンペラーのそれは、遠ざかりながらも、作曲家の姿をいつまでもくっきりと力強く見せる。まるで生きている人間が、生きた存在へと、偶像化のプロセスを見るようだ、ドライな音を響かせる弦楽器群と鮮烈な金管セクション、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏がそれを支えている。同じ作曲家の薫陶を受けた、年齢差9年の二人の弟子。それがこれほど異なる演奏を聴かせてくれる。これだから音楽は楽しい。

指揮:オットー・クレンペラー
演奏:ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:
1967年


CD 3 : バルビローリ盤

 マーラーの直接の弟子であったワルターやクレンペラー、そして20世紀後半、マーラーの交響曲を爆発的な人気作品に押し上げたバーンスタインやショルティ、彼らはみなユダヤの血をひく音楽家たちだった。その世代間の空隙を、マーラーの音楽に対する溢れんばかりの敬愛を込めた演奏で埋めたのは、ひとりジョン・バルビローリ(1899~1970年)であった。マーラーの弟子でもなければユダヤ系でもない彼の音作りは、ユダヤ的な粘りとかストーリー展開とは無縁だが、誰にも負けない熱い情熱がほとばしっている。

 バルビローリがベルリン・フィルを初めて指揮したのは、同楽団がエディンバラ音楽祭に招聘された1949年。それから約10年後、彼は定期的にベルリン・フィルの指揮台に立つようになった。今でこそ世界最高の機動性を誇る楽団だが、カラヤンの支配が始まって日が浅い当時、まだマーラーはレパートリーにはなかったからであろう、金管楽器群の音が埋もれてしまったり、フレーズの色彩感に乏しかったりするなど、慣れない音楽に対する技術的な綻びがそこここに散見される。しかし、ここにはそれを補ってあまりあるマーラー独自の後期ロマン主義的な歌がある。それを見事なまでに引き出したバルビローリが、この後に訪れることになるマーラー・ブームの引き金になったのは間違いない。その意味で、これはマーラー演奏の歴史的な転換点を告げるものだったのではなかろうか。

指揮:ジョン・バルビローリ
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1964年


CD 4 : ジュリーニ盤

 カルロ・マリア・ジュリーニ(1914~2004年)もまた、ユダヤ系ではない。しかし、北イタリアで過ごした少年時代、周囲にはユダヤ系の人も数多くいたはずだし、ワルターやクレンペラーの下で指揮の研鑽を積んだ経験を有している。そうした背景によるものか、第二次大戦で徴兵され、クロアチア戦線に送られた彼は、ナチスとムッソリーニのファシズムに反対する立場と平和主義を貫き、人に銃を向けることをしなかった。イタリアと連合国の休戦協定が結ばれた後もローマ占領を続けるナチスは、地下に潜伏したジュリーニを発見次第射殺するよう、顔と名を記したポスターを街中に貼り出したという。

 そういうジュリーニの紡ぐマーラーの音楽は、作曲家と一体化するような深刻な感情移入による熱い演奏、たとえばバーンスタインなどがその典型だと思うが、それとはまったく異なるスタイルで聴かせてくれる。繊細で叙情的だが、ドラマ性を排した純音楽的なアプローチとでも表現したら良いであろうか、メロディの美しさと豊かさを存分に歌わせる。マーラーが歌曲作家であったことを思えば、マーラーらしさの一側面とも言えそうである。ショルティに鍛え上げられたシカゴ交響楽団が、ショルティの下ではギコギコ唸りを上げる弦楽器群が、ここでは嘘のようにやさしい音を奏でる。同じ楽団でも、指揮者が違うとこうも音が変わるのかと、音楽の奥深さを改めて感じさせてくれるだろう。

指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ
演奏:シカゴ交響楽団
録音:
1976年


CD 5 : 小澤征爾盤

 小澤征爾(1935~2024年)が指揮するマーラーの交響曲第9番は、ボストン交響楽団との1989年の録音があるが、ここでは“より熱い”演奏を聴かせてくれるサイトウ・キネン・オーケストラとの2001年のライブ録音を紹介したいと思う。

 サイトウ・キネン・オーケストラは、いわゆるスター・プレイヤーの集団であるが、とりわけ弦楽器群が秀逸だ。マーラーの完成された交響曲として最後の作品となった第9番は、最もポリフォニックな性格を帯びているだけに、対位法的なところで、この楽団の強みが遺憾なく発揮されている。この曲で重要な弦楽セクションの統一感には、第一ヴァイオリンに負けない第二ヴァイオリンやヴィオラの力強さが不可欠なのだ。ひとつひとつの音符を曖昧さなしに弾くことで各声部が明確に絡み合う、さすがサイトウ・キネンと唸ってしまう緊張と愉悦の瞬間が何度も襲ってくる。ライブだからであろう、小澤征爾はスタジオ録音とはうって変わった熱く粘りのある指揮ぶりで、どこまでもしなやかに、どこまでも濃密に、じっくり丁寧に歌い込んでいく。

 マーラーのユダヤ的情念や彼の人生観などを超越した、音楽として昇華されているのは、小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラという極めてコスモポリタン的な組み合わせの性格によって生み出されたものであるからであろう。いかにも21世紀のマーラー像である

指揮:小澤征爾
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
録音:2001年(ライブ)

1. Andante comodo アンダンテ・コモド (26:49 min.)
2. Im Tempo eines gemächlichen Ländlers. Etwas täppisch und sehr derb
緩やかなレントラー風のテンポで、いくぶん歩くように、そして、きわめて粗野に (16:11 min.)
3. Rondo, burleske, allegro assai, sehr trotzig
「ロンド=ブルレスケ」アレグロ・アッサイ きわめて反抗的に (13:15 min.)
4. Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend
アダージョ。非常にゆっくりと、抑えて
(24:30 min.)

(しみずたけと) 2024.8.4

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やっぱりライブは凄いのか?


 録音された音楽には、ジャンルを問わず、ライブとそうでないものがある。ライブとは、読んで字のごとく、コンサートなどの生演奏の録音。そうでないものは、満足いくまで何回も録りなおしが効く、いわゆるセッション録音と呼ばれるものだ。ホールの場合もあれば、スタジオを使うこともある。

 ライブ録音は、演奏会の記録とほぼ同義語だから、ミスはミスのまま、演奏の傷として残る。それに対し、録りなおすことができるセッション録音は、楽譜どおり、作曲家の意図を忠実に反映したり、演奏者の解釈をより正確かつ洗練された形にすることができるという点で、理想に近いのかもしれない。その一方で、なにやら人工的な、作りものっぽい印象が拭いきれないところもある。

 たとえばクラシックの交響曲を考えてみよう。一時間近く要する全曲をノー・ミスで演奏しきるのは大変なことだ。その中で、音をはずしたとかではなく、ある楽器にもう少しだけ音量があった方が良い、リズミカルな歯切れ良さが欲しい、全体的にほんのちょっとテンポを速めたい、反対に落としたいなどということが起きてくる。聴衆にしてみれば、「それでどう違うのか」「どっちでもいいではないか」かもしれないが、指揮者もオーケストラの団員もアーティストである。演奏会は聴衆のためだが、音楽は自分たち自身のためでもある。だから妥協点は恐ろしく高い。その交響曲の録音を商品として残す以上、納得のいくものにしたいという思いがあって当然であろう。

 だから楽章ごとに別々に収録する。不満があれば録りなおす。あるいは何回か演奏し、いちばん良い楽章同士をつなぎ合わせるということもおこなわれる。いわゆる“編集”という作業だ。傷のない演奏にこだわったカラヤンなどは、より細かい編集にこだわったという。デジタル録音時代の今日、音の調節などを含め、編集はより精密に、容易にできるようになった。作りもの感も払拭されるようになるのかもしれない。それでは、ライブ録音にはどのような意味があるのだろうか。

 音楽は、間違いがないことだけが価値を左右するわけではない。ミスがあっても素晴らしい演奏というのは、確かに存在する。一期一会、白熱のライブなどという表現がある。アーティストと聴衆、ステージと客席の間を行き交う熱気というものは目には見えないし、数値化もできない。拍手にブラボー、ブーイングや足踏みも、デシベル換算すれば同化してしまう。数値に置き換えることのできないものでさえ評価の対象として捉えることができる、そこが人間の凄いところだ。このあたりは、今のAIが及ばない領域だろう。

 私はライブ録音もセッション録音も、どちらも認めたい。前者の一回性と後者の完成度は、そもそも次元が違うものなのだから、くらべる必要もないのではないのか。どちらが好きか、聴きたいのはどちらか、私にとって重要なのはそれだけである。

 同じ曲、同じ指揮者、同じオーケストラで聴きくらべてみたらどうであろうか。ここに二つの《マーラー交響曲第5番嬰ハ短調》がある。どちらもラファエル・クーベリック指揮によるバイエルン放送交響楽団の演奏。ひとつは1971年のセッション録音、もうひとつは1981年のライブ録音である。10年の時間差があるが、あなたが好きなのはどちらか、いま聴くとしたら、どちらを選ぶか。人それぞれで良いし、毎回違ってもかまわない。音楽の“一回性”というものは、いつでも、どこでも存在するし、もちろんここにもあってしかるべきである。

 この曲については、だいぶ前になるが、カラヤンとベルリン・フィルによる演奏を紹介した。ワルター、クレンペラー、バーンスタイン、ショルティ、バルビローリなどを愛聴する人にとっては、やや異質な、変化球的なものに感じられたかもしれない。いや、むしろそれを狙ってのチョイスだった。しかし、クーベリックとバイエルン放送交響楽団のそれは、まさに正統派、ど真ん中の直球と言って良いだろう。マーラー特有のユダヤ的な情緒もなければ、マーラーゆかりのウィーンの華やかさとは別物の、マーラーとクーベリックが共有する故郷ボヘミアの薫りを存分に味わえる演奏となっている。

::: CD :::

1)セッション録音盤

指揮:ラファエル・クーベリック
演奏:バイエルン放送交響楽
録音:1971年

 

1)ライブ録音盤

指揮:ラファエル・クーベリック
演奏:バイエルン放送交響楽
録音:1981年


(しみずたけと) 2023.7.31

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マーラー 交響曲第1番


 マーラーの交響曲第2番『復活』を紹介する中で、ヤッシャ・ホーレンシュタイン(1898~1973年)の名にふれた。いま戦火の真っ只中にあるウクライナのキエフ出身、しかも姪が日本国憲法草案制定会議のメンバーであるベアテ・シロタ・ゴードン(1923~2012年)とくれば、憲法記念日を目の前に控え、《別所憲法9条の会》としては、ぜひともとりあげたい音楽家である。

 早くからマーラー演奏を得意としていた彼だが、交響曲第2番『復活』は録音されなかったのか、CDもLPも見つけることができなかった。手元にも、もちろんない。なんとか彼のマーラーを聴いてもらいたかったのだが…。いや、まてよ、交響曲第1番なら、ロンドン交響楽団との名盤があるではないか!

 ユダヤ系のホーレンシュタインは、ヒトラー支配下で酷い目に遭わされた一人である。戦後は米国を中心に、西側諸国で活躍した。ウクライナ出身なら、なぜソ連邦ではなかったのか。彼の手腕を持ってすれば、モスクワやレニングラードの主要オーケストラを率いるポスト、音楽監督でも首席指揮者にでも就けたはずである。

 それもまた、彼がユダヤ系だったからなのだろう。社会主義の国となったソ連だったが、帝政ロシアの時代と変わらない反ユダヤ主義が席巻していたのである。社会主義とか共産主義が問題なのではない。権威主義国家は、体制に従順な「もの言わぬ」人間を欲する、ありていに言えば、権力に尻尾を振り、媚びへつらう輩が重用され、そうでない者は「厄介な存在」として周辺に追いやられるのが常だ。日本学術会議に対する政権の姿勢を見れば、民主主義を自称するわが国も変わりないことがわかるはずだ。

 ヒトラーとスターリンは「同じ穴の狢」でしかない。互いに戦火を交えながら、自国民をも死に追いやった独裁者である。違っているのは、背負った看板だけ。卑近な例に当てはめれば、抗争を繰りひろげる○○組と××会みたいなものである。両者は主義主張や目指すものが異なっているから対立しているのではない。ベクトルが同じだからこそ衝突するのだ。

 ソ連という国の体制の犠牲になったのは、ホーレンシュタインだけではない。ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツ(1903~89年)やエミール・ギレリス(1916~85年)、ヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフ(1908~74年)など、枚挙にいとまがない。彼らはみな、ウクライナ生まれのユダヤ系という共通点を有する。優れた音楽家であったドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)がなめた辛酸については、彼の交響曲を紹介する中に書いておいた。音楽も政治とは無縁ではいられないということを、私たちは忘れてはならない。

マーラー 交響曲第1番 ニ長調

 この作品は、1884年に着手され、88年、ブダペストで一応の完成を見たことになっている。当時、ブダペスト王立歌劇場の指揮者だったマーラーは、作曲だけに専念するわけにもいかなかったのだろう。四年というかなり長い年月を要したのは、そのためだと思われる。

第1部「青春の日々から。花、果実、茨など」
 Ⅰ.果てしなき春
 Ⅱ.花の章
 Ⅲ.帆に風をはらんで
第2部「人間喜劇」
 Ⅳ.カロ絵風の葬送行進曲
 Ⅴ.地獄から天国へ

 全体が五つの楽章で構成された「二部からなる交響詩」として、それぞれに表題がついていた。初演は、失敗ではなかったものの、あまり芳しいものでもなかったようで、マーラーはこれを4楽章の交響曲に改訂する。このときに、第2楽章に置かれていた「花の章」が省かれることになった。

 4楽章となった交響曲第1番に、マーラーは以前に愛読していたジャン・パウル(1763~1825年)の小説“Titan”から、この題名を拝借して付けることにした。日本では、どちらも『巨人』と訳されている。この曲と小説の間に直接的な関係はないが、主人公アルバーノの人間的成長を描いた物語が、作曲者になんらかの影響を与えたのは間違いないだろう。歌曲「さすらう若人の歌」との関連性からも、それがわかる。

 これらの表題すべてが、後に作曲者自身によって取り払われたことを思うと、ベートーベンの『運命』と同じく、今日この作品に『巨人』の名を使うのは適切とは言えないだろう。とはいえ、マーラーの音楽の背景を理解するためには、小説『巨人』の内容は知っておいた方が良いのは確かだと思う。ただ、「巨人」という言葉で私たちが思い浮かべる「並はずれて体の大きな人」は、ジャン・パウルの作品のそれとは全く違うから、その点については要注意だ。


::: CD :::

 ホーレンシュタインが気になって書き始めたのだが、せっかくの機会なので、他の演奏も紹介したい。マーラーの交響曲第1番は人気もあり、プロもアマも問わず、演奏会でもしばしばとりあげられる。名盤も目白押しだ。そんな中で優れたものを選ぶのは至難の業だし、贔屓の録音が入っていないと怒り出す人も出てきそうだ。ということで、選択の基準は「私のお気に入り」ということにさせてもらおう。本当はもっとたくさんあるのだが、四種だけにする。

1)ホーレンシュタイン盤

 マーラーやブルックナーの交響曲を、ブームになるはるか以前から積極的にとりあげてきたホーレンシュタイン。惜しむらくは、主要レーベルの録音がほとんどないことであろう。そんな中で、ロンドン交響楽団を指揮したこの演奏は、LP時代から決定盤の誉れ高いものだった。彼のマーラーはスケールが大きく、骨太である。繊細さよりも豪胆さを前面に押し出した、ど真ん中に投げ込まれたストレートの剛速球とでも言えば良いだろうか。この曲には、実によく合っていると思う。ベアテはヤッシャ叔父さんのマーラーをどのように聴いたのだろうか。

指揮:ヤッシャ・ホーレンシュタイン
演奏:ロンドン交響楽団


録音:1969年


2)ワルター盤

 指揮者マーラーの弟子だったブルーノ・ワルター(1876~1962年)。マーラー演奏の第一世代であり、指標のような存在だ。奇をてらうようなところは微塵もなく、折り目正しい、端正の整った音の造形は、まるで石造りの大聖堂のようである。楽譜に記載されている過剰とも思えるポルタメントやルバートを排し、やや速めのテンポで進むところなど、規模を大きくしたハイドンやモーツァルトを思わせる。後期ロマン派音楽を古典派的解釈するとこうなるといった見本みたいなものである。一度は聴いておくべきマーラーだと思う。

指揮:ブルーノ・ワルター
演奏:コロンビア交響楽団


録音:1961年


3)小澤征爾盤

 小澤征爾(1935年~)によるこの演奏は、第1番に不可欠な若さ、瑞々しさにあふれた、場外ホームランのような胸のすくものと言って良い。タクトに応える名門ボストン響からも、73年に就任した音楽監督を心から大切にしている様子が伝わってくる。

 もうひとつの特徴は、「花の章」を加えた5楽章構成だということだろう。アナログLPの登場時、改訂後の最終稿を尊重したのか、それとも5楽章だと一枚のレコードに収まらないという商業的な理由だったのか、4楽章の交響曲として発売された。二枚組にすると値段が倍になるし、ディスクの埋め草も考えなければならない。この曲とカップリングするとしたら…。ベートーヴェンの『運命』とシューベルトの『未完成』、ドヴォルザークの『新世界』とスメタナの『モルダウ』のような鉄板の取り合わせはなかなか難しい。

 CDの時代になり、「花の章」付きもチラホラ見かけるようになったが、これはその先鞭をつけたものになる。トランペットの軽やかでリリカルな調べを楽しんでほしい。マーラーが最初に思い描いた曲想は、まさにこれだったのである。

指揮:小澤征爾
演奏:ボストン交響楽団


録音:1977年


4)テンシュテット盤

 ドイツ後期ロマン派の叙情性を色濃く引き出すクラウス・テンシュテット(1926~98年)のマーラー演奏は、言うなればワーグナーの流れをくむものだ。堅実な指揮と情感豊かな演奏は、情念と深い精神性を併せ持つものとなっている。音楽監督を務めたロンドン・フィルとの演奏も見事なのだが、ゲオルク・ショルティ(1912~97年)が徹底的に鍛え上げたシカゴ響を振ったこの録音は、ライブと言うこともあり、緊張感みなぎる凄演となっている。享年72才。早世が惜しまれる巨匠だった。

指揮:クラウス・テンシュテット
演奏:シカゴ交響楽団


録音:1990年(ライブ


(しみずたけと) 2023.4.30

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