くるみ割り人形


 クリスマスの季節のクラシック音楽と言えば、おそらく『くるみ割り人形』が一番人気だろう。ドイツのエルンスト・ホフマン(1776~1822年)によるメルヘン『くるみ割り人形とねずみの王様』をもとに、ピョートル・チャイコフスキー(1840~93年)が死の前年に完成させたバレエ音楽だ。『白鳥の湖』『眠れる森の美女』とあわせ、チャイコフスキーの三大バレエと呼ばれている。

 この作品は、全2幕3場のバレエ音楽として、1891年から92年にかけて作曲された。クリスマス・イヴに、くるみ割り人形をプレゼントされた少女クララ(原作ではマリーとなっている)が、人形と夢の世界を旅するストーリーである。舞台は、まさにクリスマスの晩。この季節の人気演目なのも当然だろう。だいたいのストーリーがわかるよう、作品を構成する15曲の題を記しておく。

小序曲

第1幕/第1場
 1. 情景 クリスマスツリー
 2. 行進曲

 3. 子どたちのギャロップと両親の登場
 4. 踊りの情景、祖父の登場と贈り物
 5. 情景 祖父の踊り
 6. 情景 クララとくるみ割り人形
 7. 情景 くるみ割り人形とねずみの王様の戦い、くるみ割り人形の勝利、そして、人形は王子に変わる

第1幕/第2場
 8. 情景 冬の松林
 9. 雪片のワルツ

第2幕/第1場
 10. 情景 お菓子の国の魔法の城
 11. 情景 クララとくるみ割り人形王子

 12. 嬉遊曲
  チョコレート(スペインの踊り)
  コーヒー (アラビアの踊り)
  お茶(中国の踊り)
  トレパック(ロシアの踊り)
  葦笛の踊り
  生姜と道化たちの踊り
 13. 花のワルツ
 14. パ・ド・ドゥ
  導入(金平糖の精とアーモンド王子)
  変奏Ⅰ(タランテラ)
  変奏Ⅱ(金平糖の精の踊り)
  終結
 15. 終幕のワルツと大団円

 92年3月、チャイコフスキーは演奏会用の新曲を依頼されるのだが、新たに構想するだけの時間がなく、つくりかけの『くるみ割り人形』から自身で八曲を抜き出し、演奏会用の組曲とした。全曲版と組曲版の作曲時期がほとんど同じなのは、そのためである。演奏効果を考慮して、全曲版とは曲順を変えているが、有名な曲のほとんどが含まれていることもあり、クリスマスの季節以外にもしばしば演奏される。多くの人が知っているのは、おそらくこちらの方だろう。

第1曲 小序曲
第2曲 行進曲
第3曲 金平糖の精の踊り
第4曲 ロシアの踊り(トレパック)
第5曲 アラビアの踊り
第6曲 中国の踊り
第7曲 葦笛の踊り
第8曲 花のワルツ


::: CD :::

バレエ『くるみ割り人形』全曲 作品71

 アンタル・ドラティ(1906~88年)というハンガリー出身の指揮者は、日本では過小評価されていないだろうか。カラヤンとかバーンスタインのようなスター指揮者ではなく、特定の作曲家だけに秀でたスペシャリストでもない。しかし、レパートリーは広く、彼はどんな曲でもこなした。だからといって器用貧乏というのとも少し違う。大物指揮者に隠れた、いなくなって気づかされた別のタイプの大物指揮者とでも言えば良いだろうか。

 しばしば“オーケストラ・ビルダー”と呼ばれるドラティ。ダラス交響楽団を築き上げ、財政破綻や労働争議で崩壊しかけたワシントン・ナショナル交響楽団を危機から救い上げ、凋落したデトロイト交響楽団に世界水準の名声を取り戻させるなど、彼の奮闘でよみがえったオーケストラはいくつもある。いわば、オーケストラ建設と再生のプロだ。それが独裁者の強権的な手法でなく、人望と信頼にもとづくものであったところは、まさにドラティの人間性によるところが大きいのだろう。

 ドラティは、決してオーケストラの建て直しばかりやっていたのではない。残された録音を聴くと、どれも水準が高く、この『くるみ割り人形』全曲などは、全曲録音の中でも最高の部類に入るものである。名門コンセルトヘボウを指揮し、夾雑物のない弦セクション、いぶし銀のような金管楽器群を軸に、重厚で安定感のあるハーモニーを見事に引き出している。

指揮:アンタル・ドラティ
演奏:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
合唱:ハールレム聖バーフ大聖堂少年合唱団
録音:1975年



『くるみ割り人形』組曲 作品71a

 全曲を聴いてこそ…。その通りではあるが、バレエ鑑賞ではなく、管弦楽作品としての『くるみ割り人形』を楽しみたい、有名なメロディを聴きたいと言うことであれば、組曲版を選ぶのも間違いではなかろう。なにしろ、チャイコフスキー自らが編んだものだ。否定する理由などない。

 ネヴィル・マリナー(1924~2016年)は、あくまでも管弦楽作品としてのテンポを設定している。バレエ劇の伴奏なら、もう少しテンポを落とすところだろうが、このきびきび感、軽やかさ、小気味よさが聴いていて気持ちよい。小澤征爾と水戸室内管弦楽団によるベートーヴェンの『第九』のところでも書いたのだが、アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズという比較的小編成な楽団ゆえのクリアな音色が、この曲に実にマッチしている。録音も優秀だ。

 カップリングされている『弦楽セレナード』の方は、その重厚かつ壮麗な響きに驚かされる。同じオーケストラを、このように使い分け、まるで違う響きを引き出すとは、マリナーの手腕に脱帽。《クリスマスのうた》で、このコンビによるクリスマス曲集を紹介しているので、そちらもどうぞ。

指揮:ネヴィル・マリナー
演奏:アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
録音:1982年

上の動画では8曲(小序曲、行進曲、金平糖の精の踊り、ロシアの踊り(トレパック)、アラビアの踊り、中国の踊り、葦笛の踊り、花のワルツ)が連続再生されます。


(しみずたけと) 2022.12.15

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再びメンデルスゾーンの『スコットランド』


 フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47年)の交響曲第3番『スコットランド』をとりあげたのは2021年5月11日だった。もう二年も経ってしまったのか。時の流れのなんと速いことよ。
 
 あのとき、四つの録音を紹介した。どれも素晴らしいものだが、もうひとつ、少し違うものを加えてみたいと思う。ベートーヴェンの交響曲第9番『合唱』を、小澤征爾指揮、水戸室内管弦楽団という小編成の演奏で聴いていただいた。それと同じように、ここでは『スコットランド』を、ネヴィル・マリナー(1924~2016年)が指揮するアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズを聴いてほしい


アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズは、室内管弦楽団でこそないが、編成の小さなオーケストラである。澄んだ音色と緻密なアンサンブルはもちろんだが、小編成の割には音量も豊かだ。オーケストラのトップないしセカンドを務められる腕扱き集団だけのことはある。マリナーともども、もう何回も登場している楽団だから、これ以上の説明はいるまい。スコットランドの風が、より軽やかで爽やかになったような、それでいてしみじみした気持ちにさせてくれる、そんな音色に耳を傾ければ、曇りがちな心も少しは晴れやかになるかもしれない。


::: CD :::

交響曲第3番イ短調『スコットランド』作品56
交響曲第4番イ長調『イタリア』作品90

指揮:ネヴィル・マリナー
演奏:アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

録音:1979年


(しみずたけと) 2023.5.18

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モーツァルトの『レクイエム』


 年が明けてからと言うもの、レクイエムばかり聴いている。今から約一年半前にベンジャミン・ブリテン(1913~1976年)の『戦争レクイエム』をとりあげた。ウクライナ戦争が始まる前だった。それにしても、新しい年の初めに聴きたくなったのが「死者を悼む歌」とは、私の頭がどうかしているのか、はたまた世の中がおかしいせいなのか…。後者だとしたら、ただ事ではない。そうでないことを祈るばかりだ。

 レクイエムとは、死者の安息を神に祈るキリスト教(カトリック)のミサのことであり、転じて、そのミサで用いられる聖歌を指す言葉だった。そうした典礼を離れ、いつしか「葬送曲」とか「死者へのミサ曲」という意味で名づけられた音楽作品を広くレクイエムと呼んでいる。かつては鎮魂曲と呼ばれていたが、鎮魂とは神道の言葉で、キリスト教には魂を鎮めるという概念はない。

 多くの作曲家がレクイエムを作曲しており、中でも、モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの作品が有名で、俗に「三大レクイエム」などと呼ばれたりしている。この「三大○○」という言い回しが、私は大嫌いだ。誰が、どういう基準で選んだのかが不明なまま一人歩きしているからである。人気投票があったとは聞かないし、売り上げとかであれば、レコードの枚数やダウンロード数が公表されるに違いない。

 この種のキャッチコピーは、日本に限らないようだ。米国のオーケストラを、ベスト・スリー、ビッグ・ファイブ、エリート・イレブンなどと称したりするのを聞いたことがあると思う。しかしこれらは、歴史や伝統もあるが、そのときどきの演奏に対する評価、聴衆の数(チケット売り上げ)、レコーディング、海外ツアー、そして財政など、きちんと理由付けされ、さらに先々の変動をも前提としている

 それに対し、日本の場合は論理的根拠も示さず、なんとはなしの「みんな納得でしょ」「あなたもその一人」みたいな疑似コンセンサスから、いつの間にか「全員による責任の共有」、だから「誰にも責任がない」という、誘導による共犯関係と無責任社会を成立させるような図式が浮かび上がってくる。中島みゆきの《阿檀の木の下で》に、「だれも知らない日に決まった」という歌詞があったのを思い出す…。

 それにしても「三大○○」は多い。なぜ三つなのかもわからない。モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの作品は、確かに素晴らしいが、素晴らしいレクイエムは他にもある。美味しい料理店に行くのは、「その店なら知っているよ」と言うためでないのと同じだ。みなさんにも、いろいろなレクイエムを聴いてほしい。それでは、まずはモーツァルトからでも。


モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626(1791年・未完)

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年の生まれであるから、彼を取り巻く社会、音楽の意味など、私たちには想像することさえ容易ではない。彼がこの曲に取りかかったのは91年と言われるから、35歳の時である。カトリックの典礼で使われる言葉は決まっており、楽曲にも定められた様式が存在し、それに従っているとは言え、この若さで、天の主への祈りを、かくも美しく、かくも深きレベルで音にするとは…。やはりモーツァルトが天才だからなのか、それとも当時の人の信仰心がそれほどにまで高かったのか、あるいはキリスト教がそれほど深く浸透していたという証なのか…。

 ところが同年、この曲を完成させることなく、モーツァルト自身が天に召されてしまう。いま私たちが聴く全15曲からなる『レクイエム』だが、モーツァルト本人が完成させたのは第1曲だけである。第2、3曲は、ほぼできていたものの、オーケストレーションは弟子のジュースマイヤーによるものだ。それ以外は、残された合唱部分や和声のスケッチをもとに、ジュースマイヤーが補筆することで完成を見ることになる。夫の夭折によって生活苦に陥った妻コンスタンツェが、未払いの作曲料を求めて補筆を依頼したらしい。

 こうした経緯から、はたしてこれはモーツァルトの作品として扱うのが相応しいのか、むしろ大部分を補筆した弟子のものなのではないのかという疑義が出されるのは、ある意味、当然のことだろう。しかし、ジュースマイヤーはモーツァルトの直接の弟子であるし、生前のモーツァルトからあれこれと指示を受けていたということである。今日、指揮者がオーケストレーションに手を加えることは珍しくない。ストコフスキーのそれは有名だが、彼だけではない。ベートーヴェンやメンデルスゾーンの作品にも手が入っていたりする。J-POPなども、オリジナルは旋律部分だけで、ゴージャスな伴奏は編曲者の手によるものであることがほとんどだ。

 補筆されているとは言え、『レクイエム』がモーツァルトの傑作のひとつとして演奏されてきたのは確かな事実である。古くはショパンの葬儀で演奏されたし、ジョン・F・ケネディ(彼の家系はカトリックの国アイルランドの出身)の追悼ミサでも演奏されている。しかしながら、この補筆がまた問題になったりもする。曰く、モーツァルト的ではないと。私が思うに、モーツァルトと見まごうようなレベルの補筆を求めるのは、それこそ無い物ねだりというものである。そこいら中にモーツァルトに比肩する天才作曲家が転がっているのならともかく、いや、もしそんなことがあれば、モーツァルト含め、それは天才でもなんでもなく、普通の人と言うことになろう。

 だが、ジュースマイヤー版に対する不信、あるいは満足できないのか、十指にあまる補作が生み出されることになった。ややこしいこと、この上ない。そうした状況ではあるが、演奏会でもレコードでも、特に断りがない限り、ジュースマイヤー版の楽譜を使って演奏されていると考えて良さそうだ。

I.   入祭唱
   永遠の安息を
II.  憐れみの賛歌

III.  続唱
   怒りの日
   奇しきラッパの響き
   恐るべき御稜威の王
   思い出したまえ
   呪われ退けられし者達が
   涙の日
IV.  奉献文
   主イエス
   賛美の生け贄
   古のアブラハムのごとく
V.  聖なるかな
VI.  祝福された者
VII.  神の小羊
VIII. 聖体拝領唱

   永遠の光


::: C D :::

 人気の名曲だから録音は数多い。それぞれに魅力があって、どれも心ひかれるのだが、まずはカルロ・マリア・ジュリーニ(1914~2005年)が英国のフィルハーモニア管弦楽団を指揮したものを。指揮者として欧州で地位を築いた人の多くは、歌劇場の下積み時代を経ている。だから人の声の扱い方がとてもうまい。ジュリーニもそのひとりだ。第二次大戦では、枢軸国側となったイタリア軍の一員とし兵役につかせられたものの、その悲惨さを目の当たりにして逃亡。現実の理不尽な死を知りつつ、ヒューマンな生き方を貫いた人柄だからこそ、この種の曲の演奏にかけては最右翼の存在と言って良いと思う。

 もう一枚は、『くるみ割り人形』組曲 や《CHRISTMAS WITH THE ACADEMY》で紹介ずみのネヴィル・マリナー(1924~2016年)とアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズのコンビである。こちらはジュースマイヤー版ではなく、補作のひとつであるバイヤーによる版。マリナーとアカデミーは、後にオーソドックスなジュースマイヤー版で再録しているのだが、比較の意味もあって、こちらを選んでみた。どちらが“より”モーツァルトの音楽を感じられるだろうか。

 ジュリーニ盤とマリナー盤、どちらの独唱陣も合唱団も申し分ない。ただ、古楽器による演奏が主流になりつつある現代において、両者ともいささか時代遅れで古めかしい演奏スタイルに感じられるかもしれない。学術論文であれば、最新の知見をもとに新機軸の解釈を打ち出してこそ高く評価されるものだが、音楽はそうではない。いや、芸術というものは脳ではなく魂を刺激するものである。感心ではなく感動。心が震えた時だけ、人は立ちあがって行動を起こそうとする。

 芸術は、人間に生きていくための勇気を与えるものであるべきだ。この音楽には、そうした何かが確かに存在する。それを感ずる人だけが聴けば良い。みなさんも、心の痛みを沈めてくれる、あるいは魂を揺り動かし、心を奮い立たせる『レクイエム』を、ご自身の手で見つけ出してほしい。

1)ジュリーニ盤

独唱: リン・ドーソン(ソプラノ)
    ヤルト・ファン・ネス(コントラルト)
    キース・ルイス(テノール)
    サイモン・エステス(バス)

指揮: カルロ・マリア・ジュリーニ
演奏と合唱: フィルハーモニア管弦楽団・合唱団

録音: 1989年



2)マリナー盤(バイヤー版)

独唱: イレアナ・コトルバス(ソプラノ)
    ヘレン・ワッツ(コントラルト)
    ロバート・ティアー(テノール)
    ジョン・シャーリー=カーク(バス)

指揮: ネヴィル・マリナー
演奏と合唱: アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

録音:1977年


(しみずたけと) 2023.1.19

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