悲しみの聖母


 アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904年)の『レクイエム』を紹介する中で思い出したのが『スターバト・マーテル』。「スターバト・マーテル」は、13世紀、フランシスコ会で生まれた作者不詳の聖歌の一つである。日本語では「悲しみの聖母」と訳されることが多い。ドヴォルザークの宗教曲としては、むしろこちらの方が有名かもしれない。

 「スターバト・マーテル」に曲をつけた音楽家は数え切れない。ヴィヴァルディ、ハイドン、シューベルト、リスト、グノー、ヴェルディ、コダーイ、ペンデレツキ等々、バロック時代から現代に至るまで、あらゆる時代に作られている。ここでは、それらの中でも特に有名なロッシーニとドヴォルザークの二作品を採りあげてみたい。

Stabat mater dolorosa
iuxta Crucem lacrimosa,
dum pendebat Filius.

Cuius animam gementem,
contristatam et dolentem
pertransivit gladius.

O quam tristis et afflicta
fuit illa benedicta,
mater Unigeniti!

Quae maerebat et dolebat,
pia Mater, dum videbat
nati poenas inclyti.

Quis est homo qui non fleret,
matrem Christi si videret
in tanto supplicio?

Quis non posset contristari
Christi Matrem contemplari
dolentem cum Filio?

Pro peccatis suae gentis
vidit Iesum in tormentis,
et flagellis subditum.

Vidit suum dulcem Natum
moriendo desolatum,
dum emisit spiritum.

Eia, Mater, fons amoris
me sentire vim doloris
fac, ut tecum lugeam.

Fac, ut ardeat cor meum
in amando Christum Deum
ut sibi complaceam.

Sancta Mater, istud agas,
crucifixi fige plagas
cordi meo valide.

Tui Nati vulnerati,
tam dignati pro me pati,
poenas mecum divide.

Fac me tecum pie flere,
crucifixo condolere,
donec ego vixero.

Iuxta Crucem tecum stare,
et me tibi sociare
in planctu desidero.

Virgo virginum praeclara,
mihi iam non sis amara,
fac me tecum plangere.

Fac, ut portem Christi mortem,
passionis fac consortem,
et plagas recolere.

Fac me plagis vulnerari,
fac me Cruce inebriari,
et cruore Filii.

Flammis ne urar succensus,
per te, Virgo, sim defensus
in die iudicii.

Christe, cum sit hinc exire,
da per Matrem me venire
ad palmam victoriae.

Quando corpus morietur,
fac, ut animae donetur
paradisi gloria.

Amen.

悲しみに沈める御母は立てり
涙にむせび、傍らの十字架に

御子は懸かりし

憂い悲しめる
嘆きの御魂は
鋭き刃もて貫かれ給えり

憂い悲しみはいかばかりか
祝福されし

天主の御ひとり子のその母君の

悲しみに沈み給いし
慈悲深き御母は
尊き御子の苦しみを見給えり

たれか涙を注がざる者あらん
キリストの御母の

かく悩み給えるを見て

たれ誰か悲しまざる者あらん
キリストの御母の
御子と共にかく苦しみ給うを見て

人々の罪のため
イエスが責められ鞭打たるるを

聖母は見給えり

最愛の御子が
うち捨てられ、息絶え給うを
聖母はまた眺め給えり


悲しみの泉なる御母よ
われをして御悲しみのほどを感ぜしめ
共に涙を流さしめ給え

わが心をして火と燃えしめ給え
天主たるキリストを愛する
御心にかなわんがため

あゝ聖母よ
十字架につけられし御子の傷を
わが心に深くしるし給え

傷つけられし御子が
わがために苦しみ給いたるを
われに分かち給え

御身と共に熱き涙を流し
磔の苦しみを共にするを得しめ給え
命のあらん限り


われ十字架の傍らに御身と立ちて
嘆かんことを望む
相共に

いと清き処女のなかの処女よ
願わくは、われを排け給わずして
共に嘆くを得しめ給え


われにキリストの死を負わしめ
この御苦難を共にせしめ
その御傷を深くしのばしめ給え

御子の御傷をわれにも負わせ
十字架をもて、われを酔わしめ給え
流れたる御血とともに


地獄の火に焼かれざらんため
聖なる処女よ、われを守り給え
審判の日には

あゝキリストよ、われこの世を去らんとき
御母によりて勝利の報いを
得しめ給え


肉体は死して朽つるとも
霊魂には天国の栄福を
こうむらし給え

アーメン

 ラテン語によるもとの聖歌に題名はない。Stabat mater dolorosa …(悲しみの母は立ちぬ)で始まるゆえ、そう呼ばれているだけだ。カトリックだから、母=聖母マリアなのだが、materは普遍的な意味での母親を表す言葉でもある。息子イエスを亡くして悲しみにくれているのは、彼女が聖母だからではなく、ありきたりの母親、普通の女性、どこにでもいる人間だからであることを忘れてはならない。

 毎日のニュースから聞こえてくる母たちの嘆き。ウクライナだけではない。わが子をを戦場に送ったロシア、パレスチナ、アフリカの各地、世界中のいたるところから耳に届く。彼女らを悲しみの渦に引き込んだのは誰なのか。これは神による試練などではない。神の仕業に帰するなど、言語道断である。

ロッシーニ:『スターバト・マーテル』(1842年)

 『セビリアの理髪師』や序曲が有名な『ウィリアム・テル』などの歌劇で知られるジョアキーノ・ロッシーニ(1792~1868年)の作品である。

 ナポリでジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710~36年)が1736年に作曲した『スターバト・マーテル』を聴いたロッシーニは、このような名曲がある分野には足を踏み入れまいと決心したという。しかし、1831年にスペインを旅行した際、友人からドン・ヴァレラなる富豪を紹介された。この人物、実は聖職者であったらしい。宗教改革の後とは言え、まだまだカトリックの世界には金がうなっていたと言うことか、作曲委嘱料が良かったようで、ヴァレラの依頼を受けることになった。

 ところが強度の神経痛に襲われたロッシーニ、作曲の筆は遅々として進まない。ヴァレラからは矢のような催促。六曲だけ書き上げたところで一計を案じ、友人のジョヴァンニ・タドリーニ(1789~1872年)に残りを依頼。なんとかヴァレラに渡すことができた。

 1841年にヴァレラが亡くなると、彼が集めた楽譜は出版社の手に。ロッシーニのもとにも『スターバト・マーテル』刊行の話がやって来る。さすがに“合作”を自分の名前で出すことに気が引けたのか、タドリーニに依頼した部分を自分の手で新たに作曲し直し、晴れて“完成”したというわけである。

 宗教曲としては、深く掘り下げた精神性が薄いと批判されたりもするが、伸びやかで美しい旋律、強弱や色彩の起伏に富んだオーケストレーションなど、ロッシーニの歌劇に見られる世俗的な明るさに満ちている。初演で大きなセンセーションを巻き起こし、その年のうちに欧州の29もの都市で上演され、大きな評判を呼んだ。今日でも人気の一曲である。

ドヴォルザーク:『スターバト・マーテル』作品58(1877年)

 《新世界交響曲》のせいで、交響曲作家と捉えられがちなドヴォルザークだが、彼の作品群を代表するのは、まずは室内楽、そして声楽曲であろう。声楽曲と言っても、台本に恵まれなかったこともあり、歌劇などはあまり成功していない。その代わり、合唱曲や歌曲に素晴らしいものが多い。この『スターバト・マーテル』は、彼の作品としてだけでなく、宗教音楽としても傑出している。

 ドヴォルザークがこの曲を書き始めたのは、長女を失って間もない頃だった。スケッチはできあがったものの、他の作品のために棚上げされ、その間に次女と長男を相次いで失うという不幸に見舞われた。この曲には、天に召された子どもの死を悼み、その冥福を祈る思いが込められている。

 ドヴォルザークの合唱音楽は、バロック、とりわけジョージ・フレデリック・ヘンデル(1685~1759年)の影響が大きいとされている。悲しみの克服と穏やかな平安を祈るかのように、全十曲中の四曲が長調で書かれている。また、終曲の後半を除けば、全体的に遅めのテンポに終始しているのが特
徴であろう。


C D

1)ロッシーニの『スターバト・マーテル』

  カルロ・マリア・ジュリーニ(1914~2005年)はオーケストラと独唱、合唱のバランスを取るのが実にうまい。重みのある独特のカンタービレによって、暖かみを湛えながらも、沈痛な美しさを見事に引き出している。

独唱:カーティア・リッチャレッリ(ソプラノ)
   ルチア・ヴァレンティーニ=テッラーニ(ソプラノ)
   ダルマシオ・ゴンザレス(テノール)
   ルッジェーロ・ライモンディ(バス)


指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ
演奏:フィルハーモニア管弦楽団・合唱団


録音:1981年



2)ドヴォルザークの『スターバト・マーテル』

  ラファエル・クーベリック(1914~96年)にとってドヴォルザークは“お国もの”なのだろうが、彼の高い音楽性はこの宗教音楽の傑作をさらなる高みへと押し上げている。

 カップリングの曲は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809年)の晩年の『ミサ曲第10番ハ長調』である。作曲された1796年、当時オーストリア領だった北イタリア各地に対し、ナポレオン率いるフランス軍が激しく攻撃していた。ハイドンはオーストリア国歌の作曲者であり、大成功をおさめた英国では国王に永住を勧められるほどであったが、それを固辞して帰国した愛国者だった。この曲は、彼の怒りでもあったのであろう、「怒りの日」ではティンパニ独奏が戦争の恐怖と平和への強い願いが音楽化されている。ハイドンの自筆楽譜に《戦時のミサ》という題名が掲げられているが、このことから《太鼓ミサ》の愛称がある。


収録曲

ドヴォルザーク:『スターバト・マーテル』

独唱: エディト・マティス(ソプラノ)
    アンナ・レイノルズ(アルト)
   ヴィエスワフ・オフマン(テノール)
    ジョン・シャーリー=カーク(バス)

合唱: バイエルン放送合唱団

指揮: ラファエル・クーベリック
演奏: バイエルン放送交響楽団

   エルマー・シュローター(オルガン)

録音: 1976年

ハイドン:ミサ曲第10番ハ長調《戦時のミサ》(1796年)

独唱: エルジー・モリソン(ソプラノ)
   マージョリー・トーマス(アルト)
   ペーター・ヴィッチュ(テノール)
   カール・クリスティアン・コーン(バス)

合唱:バイエルン放送合唱団

指揮: ラファエル・クーベリック
演奏: バイエルン放送交響楽団

   ベトルジーハ・ヤナーチェク(オルガン)

録音: 1963年


(しみずたけと) 2023.8.3

9j音楽ライブラリーに跳ぶ
リンク先は別所憲法9条の会ホームページ

ドヴォルザークの『レクイエム』


 ベートーヴェンとならんでポピュラーな交響曲第9番の作曲家といえば、やはり《新世界》のドヴォルザークであろう。ベートーヴェンの第9が器楽と声楽との融合を特徴とするなら、ドヴォルザークのそれは器楽による歌、ボヘミア節とでも言ったらよいだろうか、あのメロディにこそ魂が宿っているように思える。

 アントニン・ドヴォルザーク(1841~1904年)は北ボヘミア、現在のチェコに生まれた。フランス革命後の欧州で、国民国家の意識が高まっていく時代である。ロマン派に属する音楽家たちもまた、民族的なアイデンティティを主張あるいは盛り込んだ音楽を作るようになった。民族の間に語り継がれてきた物語や詩、歌い継がれてきた伝統的な旋律を採り入れた作曲家たちを総称して国民楽派と呼んでいる。これまでとりあげてきたロシアのムソルグスキーやフィンランドのシベリウス、ドヴォルザークと同郷のスメタナなどがそうだ。チャイコフスキーもその一人に含めて良いと思うのだが、ドイツ音楽の影響が強いことから、ロシア国民楽派とみなす人、みなさない人と、評価が分かれている。


 ドヴォルザークは、交響曲から室内楽、声楽と、幅広いジャンルで優れた作品を残しているが、国民楽派には歌劇や標題音楽に特色を打ち出すケースが多いことを思うと、このあたりがやや異質なところかもしれない。ここで紹介するのは、そんなドヴォルザークによるレクイエムである。

ドヴォルザーク: レクイエム
作品89(1890年)

 演奏時間が90分を超えるにもかかわらず、旋律は素朴かつ情感を漂わせた美しく、聴く者を飽きさせない、疲れさせない、親しみやすい作品に仕上がっている。深い祈りの美しさから、神への畏敬を示す荘厳な激しさへのダイナミズムは、ドヴォルザークが敬虔なカトリック信者であったことを思わせるものだ。また、バッハの《ロ短調ミサ》の第三曲からの引用によって曲が開始されるのも興味深い。

第1曲 入祭文
第2曲 昇階誦
第3曲 怒りの日

第4曲 奇しきラッパの響き
第5曲 哀れなるわれ
第6曲 思い出したまえ
第7曲 呪われたもの
第8曲 涙の日
第9曲 奉献文
第10曲 賛美の生け贄と祈り

第11曲 聖なるかな
第12曲 慈悲深きイエスよ
第13曲 神羊誦

 テクストは、レクイエムお決まりのラテン語によっているが、一部文節の切り方が、グレゴリオ聖歌から脈々と続くスタイルとは微妙に異なっているところがあったり、第3曲の「怒りの日」がドヴォルザーク自身の手によるものになっていたりする。牧歌的にも感じられる親しみやすさの秘密は、こうしたところにあるのかもしれない。


::: CD :::

1)ケルテス盤

 この曲のベストの一つと言っても、間違いではなかろう。英国バーミンガム音楽祭の委嘱により作曲され、1891年にドヴォルザーク自身の指揮によってバーミンガムで初演されたことを思うと、英国とのつながりの深さを感じる。ハンガリー生まれのイシュトヴァン・ケルテス(1929~73年)は、ロンドン交響楽団の楽団員からは絶大な信頼を受け、この時期、同楽団と精力的にドヴォルザークの作品を録音していた。正統かつ模範的な演奏だが、だからといって教科書的な退屈な堅苦しさは微塵もなく、“ドヴォルザーク愛”に満ちあふれたものとなっている。

 いつもながらインターナショナルな音が持ち味のロンドン交響楽団だが、こうした宗教曲は、地域的なアクや民族性を出し過ぎず、ほどほどに抑えた方が普遍性を醸し出し、誰にでも受け入れやすくなって良いのかもしれない。独唱陣は文句なし。合唱を受け持つアンブロジアン・シンガーズも、多彩な表現が求められ、技術的に難しいとされるこの曲を、豊かな表現力で美しい声を響かせている。まさに合唱王国イギリスの面目躍如といったところ。半世紀も前のものだが、今日聴いても不満を感ずることはないだろう。英デッカの録音技術、恐るべし。

独唱:ピラール・ローレンガー(ソプラノ)
   エルジェーベト・コムロッシー(メゾ・ソプラノ)
   ロベルト・イロシュファルヴィ(テノール)
   トム・クラウセ(バリトン)
合唱:
アンブロジアン・シンガーズ

指揮:イシュトヴァン・ケルテス
演奏:ロンドン交響楽団


録音:1969年



2)フルシャ盤

 こちらはチェコの指揮者、オーケストラ、合唱団による、ボヘミアの香り高い演奏である。ヤクブ・フルシャは1981年にブルノに生まれた、40代になったばかりの気鋭の指揮者。2010年には、プラハの春国際音楽祭オープニング・コンサートの指揮者を務めた。これは同音楽祭の最年少記録である。2010年から7年間、東京都交響楽団の首席客演指揮者の地位にあったので、知る人も多いに違いない。

 本CDには、フルシャによる『テ・デウム』とともに、イルジー・ビエロフラーヴェク(1946~2017年)がタクトをとる『聖書の歌』が収録されている。ヴァーツラフ・スメターチェク、カレル・アンチェル、ラファエル・クーベリック、ヴァーツラフ・ノイマン、ズデニェク・コシュラーといったビッグ・ネームの陰に隠れがちだが、少しも引けをとらない指揮者だった。この演奏は最晩年、亡くなった年の貴重なライブ録音である。

独唱: アイリン・ペレス(ソプラノ)
    クリスティアーネ・ストーティン(メゾ・ソプラノ)
    マイケル・スパイアーズ(テノール)
    ヤン・マルティニーク(バリトン)

合唱: プラハ・フィルハーモニー合唱団

指揮: ヤクブ・フルシャ
演奏: チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


録音: 2017年(ライブ)

歌曲集『聖書の歌』作品99(1894年)

独唱: ヤン・マルティニーク(バリトン)
指揮: イルジー・ビエロフラーヴェク
演奏: チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


録音: 2017年(ライブ)

テ・デウム 作品103(1892年)

独唱: カテリーナ・クネージコヴァ(ソプラノ)
    スヴォタプルク・セム(バリトン)
合唱: プラハ・フィルハーモニー合唱団

指揮: ヤクブ・フルシャ
演奏: チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


録音: 2018年(ライブ)


(しみずたけと) 2023.7.30

9j音楽ライブラリーに跳ぶ
リンク先は別所憲法9条の会ホームページ