ショスタコーヴィチ『死者の歌』


ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
交響曲第14番『死者の歌』

 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)の作品を紹介してきたが、いつの間にか交響曲第4番、5番、7番、8番、9番、10番、13番と、交響曲だけで7曲にもなってしまった。そういえば、ムソルグスキーの歌曲『死の歌と踊り』も、管弦楽編曲版はショスタコーヴィチによるもの。いったい、なぜ?

 クラシックの作曲家も、為政者や権力、社会に対するなんらかのメッセージを織り込んでいたりするものだが、時代が下るにつれてメッセージ性が強くなっていくというか、人々にとって身近なものとなり、私たちもより良く、より深くメッセージを理解できるようになる。ショスタコーヴィチの作品は、まさにその典型であり、紹介すべきものであるということだ。とはいえ、ここで紹介する交響曲第14番で、ショスタコーヴィチの作品紹介もひと区切りつくことになりそうだ。

声楽から器楽、さらに両者の融合へ

 さて、西洋古典音楽は、キリスト教の教会音楽にそのルーツがあるのは間違いない。神に捧げる祈りは言葉だから、もともとは声楽が中心であった。グレゴリオ聖歌などを思い浮かべてもらえば良いだろう。初めはユニゾン、やがて合唱となり、それにオルガンや器楽による伴奏が加わっていく。しかし、楽器の役割は、あくまでも伴奏という位置づけであった。 ところが、楽器の改良により、その音域は広がり、演奏も容易になったことで難しいパッセージも奏でられるようになっていく。演奏技術はますます進化し、複雑かつ微妙な音作りも可能になった。すると、それらを生かした新しい音楽作りに挑戦する作曲家が現れるのは当然であろう。器楽は声楽の伴奏役から徐々に独立し、やがて声楽と器楽の地位は逆転する。

 古典派を代表する作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809年)が、交響曲という新しいジャンルを切り拓いた背景には、こうした展開があったからにほかならない。交響曲だけではない、協奏曲、弦楽器や管楽器、打楽器による合奏曲、ピアノ曲やヴァイオリン・ソナタ、さらには吹奏楽と、器楽曲は声楽曲を完全に圧倒している。キリスト教が社会の中心でなくなった近代以降、ミサ曲や鎮魂曲(レクイエム)などの宗教音楽もまた、少数派になった。

 その一方で、声楽をともなう交響曲が、ベートーヴェン(1770~1827年)の交響曲第9番によって生み出される。これは先祖返りではなく、進化の一形態と言えよう。このスタイルは、エクトル・ベルリオーズ(1803~69年)の劇的交響曲『ロメオとジュリエット』やフランツ・リスト(1811~86年)の『ファウスト交響曲』を経て、グスタフ・マーラー(1860~1911年)の第2番、3番、4番、8番、『大地の歌』の一連の作品で、一応の完成を見ることになる。

 ショスタコーヴィチの場合、15ある交響曲のうち、第2番、3番、13番、14番の四曲が声楽入りである。マーラーの歌を含む番号付き交響曲と同数なのは、マーラーの後継者という自負によるものだろうか。1969年に作られた第14番は、最後の声楽付き交響曲と言うことになる。最後から二番目の交響曲であること、二つの声楽パートを有することも、なにかマーラーの『大地の歌』を思わせるではないか。しかし、オーケストレーションは、マーラーのそれに比べてずっとコンパクトなものになっている。初演はルドルフ・バルシャイ(1927~2010年)指揮のモスクワ室内管弦楽団であった。

死は人間絵巻の最大かつ最後の山場

 「生は昏く、死もまた昏い」と言ったマーラーは、東洋的な無常観、厭世観、諦観を念頭に置いた交響曲『大地の歌』を書いた。この作品だけではない。マーラーの作品は、どれも“生の中の死”あるいは“死の中の生”に貫かれているが、その生と死は、あくまでも個人にとっての生と死である。しかしながら、ショスタコーヴィチは、『大地の歌』を意識しながらも、誰もが決して逃れることのできない普遍的な意味での人の死を、交響曲第14番の主題に据えた。

 帝国主義、専制政治、革命、独裁、粛正、民族差別などによる恐怖を、自身の体験と知識によって知るショスタコーヴィチは、ロシアを中心とした歴史絵巻を音楽に焼き付けたのである。換言すれば、歴史の記録としての交響曲、それが第13番までだったと言えよう。この第14番では、そうした非情な歴史の中に生きる人間が、避けることのできない死という運命を甘受、超越しようとする過程を人間絵巻として描こうとしたのではあるまいか。その意味で、第13番と14番の間には大きな転換点があったと思うのである。

 全曲は、第1から第3楽章、第4から第6楽章、第7から第9楽章、第10と第11楽章の、おおむね四部構成となっている。一連の「死」をテーマにした歌詞は、スペインの詩人ガルシア・ロルカ(1896~1936年)、フランスの詩人ギヨーム・アポリネール (1880~1918年)、ロシアの詩人ヴィルヘルム・キュッヘルベケル(1797~1846年)、ドイツの詩人ライナー・マリア・リルケ(1875~1926年)の作品からとられたもの。原詩がロシア語のキュッヘルベケル以外は、ロシア語に翻訳されたものが使われている。


第1楽章】 深いところから(ロルカ)
冒頭は最後の審判を歌うラテン語の典礼文「ディエス・イレ(怒りの日)」であろう。重々しく深刻に始まると思いきや、バスが「百人の恋狂いたちが永遠の眠りについた…」と、滑稽とも受けとれる歌詞を歌い出す。

第2楽章】 マラゲニャ(ロルカ)
「死は居酒屋に出たり入ったり…いっこうにおさらばしない…」と、第1楽章が静と暗なら、こちらはソプラノによる動と明、対照的な作風である。後半のヴァイオリン独奏が悪魔を思わせる。

第3楽章】 ローレライ(アポリネール)
ソプラノとバスによる対話形式の二重唱で始まり、後半はソプラノの詠唱でラインの魔女ローレライを歌う

第4楽章】 自殺(アポリネール)
チェロ独奏がブリッジになっており、前楽章から途切れることなく始まる。ソプラノによる、叙情的だが悲しみにみちた、あるいは怒りともとれる「三本の百合、三本の百合、十字架のない私の墓の上の三本の百合…」が印象的である。

第5楽章】 心して(アポリネール)
行進曲を思わせる十二音技法による冒頭の美しい旋律、それに続く滑稽なカリカチュア風の旋律。なにやらストラヴィンスキーの『兵士の物語』が脳裏をよぎる。ソプラノが歌う「バラがしおれるように、今日、彼は死んでゆく。私の小さな兵士、私の愛する人、私の兄弟…」が近親相姦を暗示する。

第6楽章】 マダム、ごらんなさい(アポリネール)
バスの「マダム、御覧なさい。何かをなくしましたよ」という問いかけに応える形で、ソプラノが死によって失った精神的な愛、肉体的な愛を歌う。

第7楽章】 ラ・サンテ監獄にて(アポリネール)
ルーヴル美術館で盗難事件が起き、アポリネールは共犯の容疑でラ・サンテ監獄に収監された。バスが歌うのは、獄中で書いたとされる詩集『アルコール』 からとられた作品である。

第8楽章】 コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コザックの返事(アポリネール)
画家イリヤ・レーピン(1844~1930年)が描いた『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージュ・コサックたち』を題材にした詩をバスが歌う。

第9楽章】 おお、デルウィーク、デルウィーク(キュッヘルベケル)
詩人アントン・デルウィーク(1798~1831年)は、アレクサンドル・プーシキン(1799~1837年)とともにキュッヘルベケルの親友であったが、専制政治の打破と農奴解放を掲げた1812年のデカブリストの乱に加わり、シベリアへ流刑となった。バスによる「おお、デルウィーク、デルウィーク、何をもって報われる…」の詠唱は、第3楽章の《ローレライ》と対をなし、愛を求める第6楽章の《マダム、ごらんなさい》に対する形で、こちらは社会正義を求めるものとなっている。

第10楽章】 詩人の死(リルケ)
『新詩集』からとられた「詩人は死んでいた。その顔は蒼白のまま、何かを拒んでいた…」が、第1楽章の回想として、ソプラノで歌われる。

第11楽章】 むすび(リルケ)
こちらは『形象詩集』からのもので、死は常に生とともにあり、生を支配するものとして歌われる。ここまで独唱または交唱形式で歌われてきたソプラノとバスが、ここで初めて重唱となる。「死は全能 人生の最高の瞬間 私たちの中で悶え 私たちを待ち焦がれ 私たちの中で涙する」という、死に対する一種の讃美。この詩を選んだのは、作曲者自身の死への憧れか、それとも近づく死の予感だったのか。


ブリテンへの伝言

 興味深いのは、この交響曲第14番が、あの『戦争レクイエム』の作曲家、英国のベンジャミン・ブリテン(1913~76年)に献呈されていることである。戦争の不条理を告発し、恒久の世界平和を願いを込めた『戦争レクイエム』を、ショスタコーヴィチは「人間精神の崇高さを示す偉大な作品」と賞賛しながらも、浄化されるがごとく美しく終わることへの違和感を拭いきれなかったようだ。死は誰にでも分け隔てなく等しく訪れる普遍的なもの、それゆえ感傷的にならない描き方がなされるべきだという。革命、戦争、恐怖政治、反ユダヤ主義などを間近に見聞きし、それらによる悲劇を身をもって体験してきた彼は、いかなる形であれ、死を美化する思想に与したくなかったのであろう。交響曲第14番は、『戦争レクイエム』への応答であり、ブリテンへのメッセージ、音楽家同士の音楽による対話だったと言えそうである。

  

 ::: CD :::

交響曲第14番『死者の歌』

指揮:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
独唱:ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(ソプラノ)
   マルク・レシェーチン(バス)
演奏:モスクワ・アカデミー交響楽団々員
録音:1973年(ライブ)

 この曲を紹介するにあたり、大いに迷った。あまりにも有名な、決定版とも言える三つの録音があるからである。初演者ルドルフ・バルシャイ、キリル・コンドラシン、そしてムスティスラフ・ロストロポーヴィチ。三人ともショスタコーヴィチに近い存在であり、そのせいか、これでもかというくらい濃厚な表現がなされる。そして三人は後に西側に亡命。偶然ではなく、ある意味、必然だったのだろう。ここでは、ガリーナ・ヴィシネフスカヤの抜きん出た歌唱力をとって、ロストロポーヴィチ盤を選ぶことにしよう。

 ロストロポーヴィチは、亡命後、ワシントン・ナショナル交響楽団やロンドン交響楽団とショスタコーヴィチ交響曲全集を完成するのだが、第14番だけは、このモスクワ・アカデミー交響楽団との演奏以上のものはできないと、再録することなく、この録音をもって全集に加えた。それほどの自信あふれる出来映えなのである。


(しみずたけと) 2022.8.25

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抵抗するショスタコーヴィチ


ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
交響曲第4番
交響曲第13番『バビ・ヤール』

 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)。交響曲第1番で「現代のモーツァルト」と注目され、国家の要請に沿ったかのような第2番と第3番により、アレクサンドル・グラズノフ(1865~1936年)やセルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953年)らの次代を担うソ連クラシック界の有望株と見なされるようになった。しかし、33年の歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』―映画コレクションにあります―が、共産党機関紙プラウダで「音楽の代わりに荒唐無稽」と痛烈な批判を浴び、要注意人物のひとりに。この作品に対する批判が妥当であるかどうかは、各自が実際に作品を鑑賞して判断すれば良いことであるが、ここに独裁者スターリン(1878~1953年)及び国家権力による作曲家ショスタコーヴィチへの監視と圧力、それに抗うショスタコーヴィチの、長きにわたる闘いの火ぶたが切って落とされる。

 交響曲作品では、第5番や第7番『レニングラード』が高く評価されたものの、第9番はスターリンを激怒させ、第8番も実質的に演奏禁止の憂き目に遭う。スターリンの死後でさえ、ソ連は専制国家であることから脱却できなかったと言えよう。ここからわかることは、独裁政治とは、ひとりの独裁者によって行われるものではない、ひとりだけの責任でもない、そうした厳然たる事実であろう。

交響曲第4番

 ショスタコーヴィチが、ペテルブルク音楽院の卒業制作として交響曲第1番を作曲したのが1925年であるから、この交響曲第4番は、約10年後の作品となる。第1番が管弦楽による協奏曲的な性格を有すること、第2番『十月革命に捧げる』と第3番『メーデー』は混声四部合唱を伴い、さらに表題にあるような政治的メッセージを含むことを考えれば、この第4番は、彼にとって初めての、純粋な交響曲らしい交響曲作品と言えるかもしれない。

 第4番には、他の交響曲とは異なるいくつかの特色が見られる。演奏に要する時間、つまり長さは第7番に及ばないものの、最も大規模なオーケストラ編成を必要とすること、3楽章構成であること、レントラー風スケルツォの第2楽章を挟み、第1・第3楽章は次々に現れる自由な形式で書かれた主題の連続であること、それらがマーラーを思わせるものの、咆哮のクライマックスではなく、すべての楽章が弱音で終わるなど、新機軸を打ち出したものと言えそうである。

 しかし、この斬新さは理解されなかった。いや、当局の求める社会主義リアリズムに合致しなかったと言った方が正しいだろう。芸術としてではなく、政治社会との軋轢である。プラウダで批判された歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』につづき、第4番もまた、その新しさゆえ、当局が批判的に見ている。作曲家自身がそう感じとったのか、あるいは忠告する者があったのかはわからないが、ショスタコーヴィチ自身が、リハーサルの指揮台からスコアを引きあげてしまったのである。

 リアリズムを追求していくと、聴衆にわかりやすい音楽、聞き覚えのあるメロティの流用、たとえば民謡等が使い回されるなどして、音楽としては停滞せざるを得なくなる。けっきょく、この曲はスターリンの死後なお八年間も封印されつづけ、ようやく1961年、キリル・コンドラシンが指揮するモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団によって初演がなされたのである。

 この曲は、聴けば聴くほどに味わい深さを感じさせる。聴くたびに、何かしらの新しい発見があるのだ。演奏する者にとっては、なおさらであろう。ああも考えられる、こうも受けとれる、多様な解釈ができるということは、単純でなく複雑、それだけ芸術性が高いことを示唆している。演奏する側や聴き手の解釈を限定する標題音楽との違いは、まさにそこにある。

 あえて芸術に足枷をはめようとする社会主義リアリズムなど、人類の成長や文明にとって敵でしかない。15ある交響曲の中の最高傑作と、後にショスタコーヴィチ自身が語ったと伝えられている。彼の他の交響曲より優れているかどうかはともかく、もっともっと演奏の機会が増えて良い曲だと思う。

交響曲第13番『バビ・ヤール』

 独裁者スターリン(1878~1953年)の死を知るやいなや、驚くべき速さで作曲されたのが交響曲第10番であった。その後、1957年に第11番『1905年』、1961年に第12番『1917年』が発表される。きわめてソビエト的な題材、すなわち革命をテーマに据えた標題音楽なのだが、ショスタコーヴィチは体制迎合に回帰したのであろうか。

 1905年1月9日(当時のロシアはグレゴリオ暦ではなくユリウス暦であった)の首都ペテルブルクでは、妻や子どもを連れた労働者たちが、皇帝への請願のために冬宮殿に向かっていた。その平和的な行進に対し、皇帝の軍隊が一斉射撃をくわえ、数千人が死傷。「血の日曜日事件」である。これをきっかけに、ロシア各地の労働者らが立ちあがり、エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』でも知られる水兵の反乱も勃発、ロシア第一革命となる。1917年は、もちろんロマノフ王朝が倒されたロシア革命の年である。

 交響曲第11番、第12番を作曲したショスタコーヴィチの真意はどこにあったのかについては、様々な解釈が可能であろう。意識しておく必要があるのは、彼は同時代を生きた人間であると言うことである。《ショスタコーヴィチの証言》には次のような記述がある。

 「わが家では、1905年の革命のことが絶えず議論されていた。私が生まれたのは1906年で、あの革命の後だったが、その話は私の想像力に深刻な影響を与えた。私が思うに、あの革命が転換点だった。あれ以来、民衆は皇帝を信じるのをやめたのだ。ロシアの国民は常に信じ、信じ抜いて、その果てに、不意に終わりがやって来るもののようである。そして民衆に信じられなくなった者は痛い目にあうのである。しかし、そのために、おびただしい量の血が流されねばならなかった…」

 ショスタコーヴィチは、生まれる前の「血の日曜日事件」に、自身が目撃した1917年の革命を重ねて記憶し、ロシアの歴史を音楽として記録しようとしたのである。幾度もくり返される権力者の悪行を、音に焼き付けることによって、未来への警鐘とした。その流れが、交響曲第13番へと引き継がれるのは、至極当然なことと言えよう。

 交響曲第13番は、第4番が初演された翌年の1962年の作品である。この作品もまた、物議を醸すことになった。第1楽章の主題〈バビ・ヤール〉が、そのまま曲全体の副題となっている。バビ・ヤールはウクライナの首都キエフ(最近は現地発音のキーウと呼称される)の郊外、市の中心から北西に約6kmほどのところにある渓谷の名である。1941年9月、ナチス・ドイツはウクライナ警察やナチス迎合者等の協力を得て、キエフとその周辺に住むユダヤ市民をここに連行し、機関銃掃射によって3万人以上を殺害した。その後、ナチスに敵対する者やロマを虐殺している。

 しかし、ユダヤ人迫害はナチスだけではなかった。歴史的に見れば、ユダヤ民族は中世以来、欧州中でずっと迫害の対象だったし、とりわけ19世紀以降のロシアにおけるポグロムは激しかったと言えよう。この時代、ロシアやウクライナから逃れたユダヤ人たちが目指したのが米国であり、パレスチナであった。ユダヤ人問題の最終的解決として、法整備をしたうえで組織的に実行に移したのがナチスである。世界をユダヤから救うための特別軍事行動ラインハルト作戦…、何やら最近耳にしたことがあるような響きではないか。

 合唱が「バビ・ヤールに碑はない 切り立った崖が粗末な墓標」と歌い、バス独唱が「私の立つここは 友愛を信じさせる泉」と応える。ナチス・ドイツは打ち倒されたのに、ユダヤ人犠牲者の碑はなく、忘却の彼方へと葬られつつある。エフゲニー・エフトゥシェンコ(1933~2017年)は、今なお残る反ユダヤ主義の告発と無関心な社会への怒りを込め、詩を書いた。ショスタコーヴィチは、この若き詩人の詩に感銘を受けたのである。
 
 第2楽章〈ユーモア〉で、「どんな支配者も ユーモアだけは支配できなかった 命令しても、買収しても、死刑にしても ユーモアだけは支配できなかった」と権力を皮肉り、第3楽章〈商店で〉では、厳しい生活に堪える女性たちのたくましさを讃え、第4楽章の〈恐怖〉は、スターリン時代の恐怖を思い起こしながら、偽善やウソがはびこる新たな恐怖が生まれていることへの恐怖を、第5楽章〈出世〉」は、地動説で宗教界から狂人扱いされたガリレオを引き合いに、真の出世とは何であるかを語り、「罵った者が忘れ去られ 罵られた者が記憶される 私は出世しないことを 自らの出世としよう」へと結ぶ。楽章の主題は、一見バラバラのように見えるが、俗物根性という言葉で括ることができるという指摘がある。〈恐怖〉はエフトゥシェンコがこの交響曲のために新たに書き起こして提供したものだが、他は既存の詩から選ばれている。

 ソ連は建前上「人種・民族問題は存在しない」ことになっており、皮肉や諷刺に満ちた歌詞が反体制的と見なされ、初めから当局による執拗ないやがらせが続いた。初演の指揮を依頼されたエフゲニー・ムラヴィンスキー(1903~88年)は辞退し、予定した独唱者が次々に交代、リハーサルには共産党役人が立ち会い、さらに初演当日になって指揮者のキリル・コンドラシン(1914~81年)にキャンセルするよう圧力がかけられた。警官隊が包囲する物々しい雰囲気の中で初演がなされるとは、当時のソ連はなんと恐ろしい国であったことか。

 ::: CD :::

交響曲第4番

指揮:エリアフ・インバル
演奏:東京都交響楽団
録音:2012年(ライブ)

 スコアを見ても、演奏を聴いても、この曲が難曲であることがわかる。近年、この曲が注目され、優れた演奏がいくつも現れるようになったのは、演奏技術が格段に上がったからであるのは間違いないだろう。インバルのタクトは、けっして力むところがないが、変幻自在に現れる主題に意味を与え、オーケストラがそれに見事に応える。彼岸にたどり着くかのようなクライマックスは、別の意味でマーラー的だ。


交響曲第13番『バビ・ヤール』

指揮:キリル・コンドラシン
独唱:ジョン・シャーリー=カーク(バス)
演奏:バイエルン放送交響楽団、男声合唱団
録音:1980年(ライブ)

 コンドラシンは、1978年12月にオランダに亡命、81年3月に急逝した。わずか二年と数ヶ月。コンサートもレコーディングも多かったとは言えないが、残されたライブ盤もスタジオ録音も素晴らしいものばかりである。

 交響曲第13番は、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団との初演の二日後に、同オーケストラで録音しており、そちらも名盤なのだが、指揮者の卓越した統率力のもと、合奏力で上回るミュンヘンのオーケストラとコーラスが見事な演奏を聴かせる。コンドラシンのストイックな表現を背景に歌うシャーリー=カークの独唱によって、恐怖と静かな怒りが伝わってくるようだ。悲壮感さえ感じるのは、ライブゆえの緊張感の高まりのせいだろうか。


(しみずたけと) 2022.8.17

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ショスタコーヴィチの戦争交響曲


ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
交響曲第7番『レニングラード』
交響曲第8番

 「ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)の交響曲第7番、第8番、第9番は大祖国戦争を背景に作られた。それゆえ、この3曲を一括りにして「戦争交響曲」と呼んだりする。前回、第9番を紹介する中で、第7番と第8番にも少しだけ触れたのだが、このサイトの《みました!》に映画『戦争と女の顔』が出たので、ここで書いておくことにした。そう、交響曲第7番はレニングラード包囲戦の下でつくられ、その戦闘によって荒廃した街を舞台にしているのが、この『戦争と女の顔』だからである。

交響曲第7番『レニングラード』

 交響曲第5番の成功で、プラウダ批判で受けたダメージを一気に回復したショスタコーヴィチであったが、つづく第6番の評価はパッとしなかった。まあ、当時のソ連では、音楽作品としての出来不出来より、政治的な動機、つまり国家をヨイショするものであるか否かで左右される傾向が強かったので、本当の音楽好きとしては、そうした政治的背景が影を落とす評価など気にすることもあるまい。

 ナチス・ドイツとソ連邦は、1939年8月23日、「独ソ不可侵条約」を結んだ。署名した両国外相の名をとり、モロトフ=リッベントロップ協定とも呼ばれる。39年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、ポーランドの同盟国だった英仏が宣戦布告したことで第一次大戦が勃発した。すかさずソ連も17日にポーランド領内に侵攻。ドイツとソ連は、独ソによるポーランド分割、ソ連のバルト三国併合とフィンランド侵攻を、秘密協定で相互に承認していたのである。

 41年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦でソ連に侵入し、ここに独ソ戦の火ぶたが切られた。9月、ロシア革命の父レーニンに因んで改名された古都ペテルブルクがドイツ軍に包囲される。ヒトラーがレニングラード攻略を思い立ったのは、「イデオロギー戦」が理由だったのか、あるいは文化の中心を掌握することで、ロシア国民の戦意を挫こうとしたのか。ショスタコーヴィチは人民義勇軍に入ることを望んだが、偉大な作曲家を失っては一大事と、友人らが手を回し、戦闘に直接関わらないですむ民間消防団の一員として、音楽院の屋上で防空監視する役目に就く。街をめぐる攻防戦は、約900日にもわたるのだが、それを目の当たりにし、この第7番は極めて短い時間で書き上げられた(ことになっている)。

 ショスタコーヴィチは、曲の発表にあたって、「これは闘いの詩であり、根強い民族精神への賛歌である」と述べたと言う。第1楽章は戦争、第2楽章は回想、第3楽章は祖国の広野、第4楽章は勝利とされ、演奏時間は約75分にも及ぶ長大な曲であるが、戦争の主題や侵略の主題、人間の主題が次々にあらわれ、むしろ標題音楽とも呼べそうな性格である。ソ連政府は、あらゆる芸術を大祖国戦争に動員したわけであるから、この曲もまたソ連のプロパガンダと無縁だとは言い切れない。

 当時、中央政府はモスクワからクイビシェフに退避しており、ここでなされた初演は、まるで政治報道かのようにラジオ放送でソ連中に伝えられ、これを聴いた国民は熱狂した。さらに戦火の中にあるレニングラードでも演奏され、市民を勇気づけることになる。しかし…。

 しかし、ソロモン・ヴォルコフによる《ショスタコーヴィチの証言》の中で、ショスタコーヴィチはこの曲を、「第7交響曲は戦争の始まる前に構想されていたので、したがって、ヒトラーの攻撃に対する反応として見るのはまったく不可能である。『侵略の主題』は実際の侵略とはまったく関係がない。この主題を作曲したとき、私は人間性に対する別の敵のことを考えていた」と述べている。第7交響曲は、戦火のレニングラードで作られたのではなかったのか?人間性に対する別の敵とは、いったい?

 ショスタコーヴィチが語ったとされる「当然、ファシズムは私に嫌悪を催させるが、ドイツ・ファシズムのみならず、いかなる形態のファシズムも不愉快である。今日、人々は戦前の時期をのどかな時代として思い出すのを好み、ヒトラーがわが国に攻めてくるまでは、すべてが良かったと語っている。ヒトラーが犯罪者であることははっきりしているが、しかし、スターリンだって犯罪者なのだ」という箇所から、スターリンもまたファシストであり、人間性に対する敵と見なしていることがわかる。

 スターリンを、ヒトラーと同等、いやそれ以上の悪と捉えているかのような証言が続く。「ヒトラーによって殺された人々に対して、私は果てしない心の痛みを覚えるが、スターリンの命令で非業の死をとげた人々に対しては、それにもまして心の痛みを覚えずにはいられない。拷問にかけられたり、銃殺されたり、餓死したすべての人々を思うと、私は胸がかきむしらられる。ヒトラーとの戦争が始まる前に、わが国にはそのような人がすでに何百万といたのである」からは、かつて自分にもそのような危機が迫り、幸運にも生き延びることができたという、苦しい記憶があるのだろう。

 《ショスタコーヴィチの証言》を偽書とする説もある。しかし、作曲家ショスタコーヴィチに向けられた様々な圧力、それに起因する彼の苦悩、そして国外に亡命した多くの芸術家のことを思うと、言葉の一字一句まで正しいとは言えないにしても、「第7番が《レニングラード交響曲》と呼ばれるのに私は反対しないが、それは包囲下のレニングラードではなく、スターリンが破壊し、ヒトラーがとどめの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしていたのである。私の交響曲の大多数は墓碑である」という作曲家の言葉を、私は虚偽であるとは言い切ることができない。

交響曲第8番

 独ソ戦は二年が過ぎ、ドイツ軍はカスピ海とコーカサスの油田を狙ってソ連で第二次大攻勢を展開。パウルス将軍率いる第6軍は、世紀の大激戦地となるスターリングラードを目指した。ヒトラーは、ソ連の指導者の名を冠するこの街を、何が何でもたたきつぶしたかったのだろう。交響曲第7番の二年後、この第8番は作られた。

 この曲が発表されたとき、ショスタコーヴィチは次のように述べている。「交響曲の内容を正確に叙述することは至難である。第8交響曲の内容の根本にある思想をごく短い言葉で言いあらわすのならば、『人生は楽し』である。暗い陰うつなものはすべて崩れ去り、美しい人生が今や開かれつつある…」と。

 反撃に出たソ連軍により、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した。翌年1月にはレニングラードの包囲も解かれる。防戦一方だった戦争にも、明るい兆しが見え始めたのである。スターリングラードは、独ソ戦の一大転換点だった。ドイツ軍を敗走させ、ソ連軍が攻勢に転じた時期に作曲された第8番は、一時期、《スターリングラード交響曲》とも呼ばれたりした。

 第8番は、第7番とはうって変わり、標題音楽ではない。しかし、作曲家の言葉と裏腹に、第1楽章の重苦しいアダージョだけで、全曲の約半分にもならんとする。第1楽章が第1部で、それ以後の楽章が第2部を構成しているようで、ある意味、バランスが良いとは言えない。おどけるような第2・第3楽章の後に展開される第4楽章のラルゴもまた重く、そして暗い。「人生は楽し」と感じさせるような楽観的な要素は、いったいどこにあるというのだろう。

 スターリングラードの街は瓦礫の山と化し、軍民多くの犠牲を出した。現実は楽しいどころではなかったはずである。希望があったとすれば、侵略を阻止し、目の前の苦しさから不死鳥のごとく立ちあがろうとする人々の「生の追求」だったのか。ショスタコーヴィチの言葉は、「芸術は楽観主義的・人生肯定的なものでなければならない」という当局の要請である社会主義リアリズムに沿って、やむなく語られたものだったように思える。

 ショスタコーヴィチは、スターリングラード攻防戦を叙事的に描いたのではなく、戦争の時代に生きた、生きざるをえなかった人々を主題に、戦争の悲惨さ、鎮魂、人間のあり方や生き様を問いかけたのである。その意味では、歴史的外観を描いた第7と人間の心を描いた第8の二つの交響曲は、背中合わせの関係とも言えよう。

 この曲が発表されたとき、反革命的で反ソビエト的だと公然と宣告されたそうである。《ショスタコーヴィチの証言》によれば、「戦争の初期には楽天的な交響曲を書いていたのに、いま、悲劇的なものをかいているのはなぜか。開戦当初、我々は退却しつつあったが、今や攻勢に転じ、ファシストを壊滅しつつある。ショスタコーヴィチがいま悲劇的なものを書き始めているのは、彼がファシストの味方であることを意味する…」と。ほとんど言いがかりでしかない。しかし、それこそが全体主義が生み出す空気なのであろう。これが言いがかりにすぎないことを看破できるのは、私たちがその集団の外にいるからである。中に入ってしまうと気づかない、見えない、わかっても声を出せない…。あの時代のソ連だけではない。それは、私たちのすぐ隣にある恐ろしい事実なのだ。

  

 ::: CD :::

交響曲第7番『レニングラード』

指揮:ヴァシリー・ペトレンコ
演奏:ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2012年

 1976年、レニングラード(現サンクトペテルブルク)に生まれたヴァシリー・ペトレンコ。作曲者と同郷の彼がロイヤル・リヴァプール・フィルを振った演奏。ペトレンコの手によって、この楽団は一気に世界の檜舞台の躍り出たと言って良いだろう。2008年から5年をかけて制作されたショスタコーヴィチ交響曲全集の中でも、この第7番は特に素晴らしい。長大な曲であるにもかかわらず、滑らかに流れ、シャープな響きと相まって、緊張と集中が途切れることがないまま、スケールの大きなクライマックスに至り、圧倒される。

 ペトレンコは、ロシアのウクライナ侵攻を理由に、2021年に就任したロシア国立交響楽団を辞任している。「ロシアとウクライナの人々の間には歴史的および文化的なつながりがあり、ロシアの侵略を正当化する理由はどこにもなく、今起こっている悲劇は、今世紀最大の道徳的失敗と人道的災害の一つです。これらの恐ろしい出来事に応え、私は平和が回復するまでロシアでの仕事を中断することに決めました」と、芸術家としてプーチン体制に与しない立ち位置を明確にしたと言えよう。

I. Allegretto
II. Moderato
III. Adagio
IV. Allegro non troppo


  

交響曲第8番

 この曲は、高く評価はされているものの、第5番や第7番ほど録音されていない。まず思い浮かぶのは、1982年のムラヴィンスキーとレニングラード・フィルのライブ盤だ。初演者だけあって、息苦しさをおぼえるほどの緊張感に終始し、オーケストラのアンサンブルも完璧。ソ連時代、実質的に演奏が禁じられていたことも影響しているのだろうか。

 ムラヴィンスキーの音楽は見事なのだが、あの時代、彼はショスタコーヴィチに圧力をかけた権力、その中枢から遠からぬところにいた人物である。ここでは、そうした全体主義を外から俯瞰できる、そういう立ち位置にある者による演奏をとりあげたい。

指揮: アンドレ・プレヴィン
演奏: ロンドン交響楽団
録音: 1992年

 残忍で冷徹な体制に対して、人は人としての矜持と尊厳を失うことなく対峙できるか。まさにこの問いかけこそが、ショスタコーヴィチの交響曲を貫く思想である。第8番は、全体主義の至るところに仕掛けられた罠をすり抜けるための迷路の中で、自分を生かす、生き延びるための道を見出そうとするように始まる。それが困難な社会であるからこそ、第1楽章はあれほど長いのだ。

 おどけのような第2、第3楽章は、軽薄短小なピエロを演じることで権力の目を欺き、逃れようとする作曲者自身であろうか。しかし、それもまた虚しいことだ。第4楽章は、そんな諦観か、あるいは悟りを思わせる。そして最終楽章。平和への願望は、はかなさを感じさせながら終わっていく。

 プレヴィンの知的で暖かみのある人間的な音楽は、ショスタコーヴィチの矜持と悲観を共有するところから生まれている。それは作曲家への慰め、励まし、そして最後には人間の内心が勝利することへの確信であろう。この演奏の最大の魅力は、血が通ったものであるところにある。

I. Adagio
II. Allegretto
III. Allegro non troppo
IV. Largo
V. Allegretto

  


(しみずたけと) 2022.8.12

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ショスタコーヴィチ 交響曲第9番


 「第9」である。「第9」といえば、ベートーヴェンの交響曲第9番。以前、紹介したこともある。年末の風物詩である「第9」なら、まだだいぶ先のことだから、季節はずれに思われるだろう。ここで紹介するのは、ショスタコーヴィチの交響曲第9番、前回の第5番の続きである。

第9の呪い?

 こんな言葉を聞いたことがあるだろうか。曰く、交響曲第9番を作曲すると死ぬというものである。たしかに交響曲の最後の作品が第9番という作曲家の例がないわけではない。ベートーヴェンの他に、ブルックナー、ドヴォルザーク、ヴォーン・ウィリアムズなどが知られている。

 それを恐れてか、マーラーは第8番の次に作曲した交響曲『大地の歌』に番号を与えなかった。そして第9番を作曲、第10番は第1楽章だけの未完成に終わっている。しかし、モーツァルトの有名な《ジュピター》は交響曲第41番だし、ハイドンの交響曲は100以上もある。「第9の呪い」は根も葉もない噂にすぎないのか…。

 ブルックナーは、習作として番号のない交響曲を作曲しており、現在では0番とか00番の番号で呼ばれている。『ザ・グレート』の名で知られるシューベルトの交響曲は、番号表記が二転三転し、第9番とされていた時期もあるが、今は第8番とされている。ドヴォルザークの『新世界』も、以前は第5番とされていた。生前には発表されなかった初期の四曲を、作曲年に従って組み込んだため、後になって第9番とされたのである。

 むしろ9曲もつくらなかった作曲家の方が圧倒的に多い。ブラームスは第4番までだし、チャイコフスキーは第6番、シベリウスは第7番が最後である。交響曲をつくるというのは、それだけ大変な、エネルギーを要することなのだろう。第9番を作曲するのは、人生の終わりの時期に近づいた頃、それだけのことなのではなかろうか。

 それゆえ、交響曲第9番はどれもが優れ、その作曲家の代表曲になっている。みなさんの好きな第9は誰によるものだろうか。それはさておき、ショスタコーヴィチの第9。この曲は、別の意味で呪われた、別の意味で画期的な作品かもしれない。

ショスタコーヴィチ、「第9」まで

 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)が15の交響曲を残したこと、第5番は人気が高く、演奏会の曲目としてとりあげられることが多いことは第10番と第5番を紹介する中で書いた通りである。また、最も大きなオーケストラ編成を必要とする第4番は、後にショスタコーヴィチ自身が最高の出来映えと言い、近年になって評価が高まっている。その他、ソ連時代は長らく演奏禁止とされた第8番、帝政ロシア時代のユダヤ民族迫害が、社会主義になっても続いている状況の告発を含む第13番、死というテーマを前面に出した第14番も、いろいろな意味で重要視されるようになった。これらとくらべて、第9番は注目度も話題性も高くない。演奏会のプログラムやレコーディング対象としては、ややマイナーな存在と言えよう。

 1939年、第二次大戦が始まった。交響曲第7番は、1942年、ドイツ軍に包囲された戦火のレニングラードで作曲された作品である。「レニングラード」の副題を持ち、対ファシズム戦争として市民を鼓舞したこの曲は、国内外で絶賛された。第5番とならぶ人気曲で、今日でも演奏される機会が多い。これを音楽によるプロパガンダとみなすかどうかは議論されて良いだろう。

 ところが1943年、スターリングラード攻防戦の犠牲者追悼のために作られた交響曲第8番が再び批判される羽目に。政権としては、ドイツ軍を敗走せしめた勝のイメージを期待していたのだろうが、戦争の悲惨さと人々の苦悩、そして犠牲者の追悼を表に出したことが気に入らなかったのだろう。批判の急先鋒は、フィンランド侵攻とレニングラード防衛戦の指揮を執った文化相のアンドレイ・ジダーノフ(1896~1948年)。地位さえあれば、芸術という専門外の分野にまで口を出してくるところが、まさに全体主義である。こうしたところから「社会主義は怖い」というイメージが生まれたのだとすれば、実に残念なことだ。スターリン時代のソ連は、社会主義でも共産主義でもなく、軍事独裁政権の恐怖政治が国を支配する、正真正銘の全体主義でしかなかったのだから。

指向性が異なる「第9」…

 それでもショスタコーヴィチは、ソ連における当代随一の交響曲作曲家である。戦争が終わると、大祖国戦争の勝利を祝い、勝利に導いた偉大な指導者スターリンを称える作品が委嘱された。ちょうどそれが第9番になるというのも好都合だったに違いない。独唱と合唱をまじえた壮大で輝かしいものが期待されたわけだが、できあがった作品は、独唱も合唱もない、シンフォニエッタ(小交響曲)あるいはディヴェルティメント(嬉遊曲)とでも呼べそうな小規模なものだった。独裁者スターリンと、それに媚びへつらう者たちの要求を無視し、むしろ笑い飛ばそうとするかのような、反骨精神の音楽家の面目躍如である。

 全五楽章で構成されているにもかかわらず、楽器編成は基本的に二管編成であり、演奏時間は約25分と短い。数ある「第九」の中にあって、実にコンパクトである。というか、力が入っていない感じがする。軽やかで力みがないといえば聞こえが良いが、肥大化した後期ロマン派の交響曲作品とくらべると、なんだかショボい感じさえするのだ。フル・ボリュームで鳴り響く絢爛豪華なクライマックスでも、反対に静寂の中に消え入るような終わり方でもなく、「第九」への期待を裏切られた気分にもなる。どうやら、あえてそれを狙ってつくられたという背景事情があるようなのだ。

 戦争に関連することから、ショスタコーヴィチの交響曲第7番から第9番をひとくくりに「戦争交響曲」と呼んだりするが、聴けば、第9番は前二作とはだいぶ趣が異なることに気付かされるだろう。戦争より、むしろ権力批判を軸にした、一種のパロディのような気がしてならない。勝手な解釈をさせてもらうと…。いや、それは後日あらためて開陳することにしよう。

  

 ::: CD :::

 ショスタコーヴィチの交響曲第9番は、決して多いとはいえなくとも、それなりにレコーディングはされている。全15曲を録音した全集のセットもある。どれを紹介すべきか、しばし考えてみた。

 まずは、この曲の初演者であるムラヴィンスキー。ところが…、CDが見つからないのだ。LPがあったかどうかまでは調べていないが、録音されなかった可能性がある。第8番はともかく、第4番、第13番、第14番とあわせて、政権との軋轢があった第9番の録音を避けたのかもしれない。この曲の初演の後、彼は不愉快そうだったという。レニングラードで初演の指揮をすることになっていた第13番は、不可解な理由から指揮を断っている。政権による圧力があったのだろうか。

 ムラヴィンスキーが理解し、共感したのは、実は作曲家ショスタコーヴィチではなく、体制との間に波風を立てない作品だったのではあるまいか。第5番で触れたヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』が正しければ、そう言うことになるのだろう。彼は思想家ではなく音楽家なのだから、音楽としての純粋さを追求することが間違っているとは言わない。もしや権力側に忖度する人間だったのか?そうだとすれば、少し残念な気もする。音楽を含め、芸術とは人間に生きていくための勇気を与えるものだと考えるからである。

 ムラヴィンスキー盤がないなら、同じく第5番で紹介したレナード・バーンスタイン(1918~90年)はどうだろう。たとえばウィーン・フィルとの演奏は、音色がとても美しく、迫力もある。純音楽的には見事だと思うが、もう一押し何かが必要なのではないかと思ってしまう。ショスタコーヴィチとバーンスタイン、二人を取り巻く政治や社会が、あまりにも違いすぎるためだろうか。

 それでは、交響曲第10番でとりあげたマリス・ヤンソンス(1943~2019年)はどうだ。レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者で、ショスタコーヴィチとも親しい間柄だったアルヴィド・ヤンソンス(1914~84年)の息子として、作曲家のすぐ近くで育った人である。体制の表裏はもちろん、体制と反体制の両方を見てきたに違いない。とはいえ、ヤンソンス親子はスターリンや政府に目をつけられたり弾圧されたりせずにすんだ。それは喜ぶべきことではあるが、ショスタコーヴィチほどの苦悩や独裁者に対する反骨精神が希薄なのは、ある意味当然なのかもしれない。

1)ロストロポーヴィチ盤

指揮:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
演奏:ナショナル交響楽団
録音:1993年

 ここは同時代を生き、体制の弾圧を受けた人物の登場といきたい。アゼルバイジャン出身のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927~2007年)。20世紀を代表するチェロ奏者として有名だが、モスクワ音楽院でショスタコーヴィチに作曲を学び、指揮者としても素晴らしい演奏を数多く残している。

 1970年、ソ連の強制収容所を描いた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』で、アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918~2008年)がノーベル文学賞を受賞した。社会主義体制批判とみなされた彼を擁護したことで、ロストロポーヴィチもまた「反体制」のレッテルを貼られ、国内での演奏ができなくなってしまう。74年に出国すると、エドワード・ケネディ米上院議員の助力もあり、そのまま西側に亡命。77年に渡米し、首都ワシントンD.C.のナショナル交響楽団の音楽監督に就任した。

 オーケストラ・ビルダーと謳われたハンガリー出身のアンタル・ドラティ(1906~88年)が鍛え上げたこの楽団は、ロストロポーヴィチによってさらに輝きを増すことになる。彼の人脈によって、一流の演奏者が集まり、コンサートには、彼を含め、世界有数のソリストが登場し、実力と人気が急上昇。90年には、ゴルバチョフ体制下のソ連に演奏旅行。78年に剥奪されたソ連国籍を回復することになった。ロストロポーヴィチの波瀾万丈の人生、体制批判の精神は、まさにショスタコーヴィチの作品を演奏するのに相応しいといえるのではなかろうか。

 政権への遠慮とは無縁のコンビによる、作品の本質を思いっきり突いた迫真の演奏。カップリングされているのが交響曲第1番というのもうれしい。なぜなら、この曲こそ、ショスタコーヴィチが権力への忖度も批判も意識することなく、純粋に音楽を追求してつくりあげた、それが許された時代の作品だからである。


第1楽章  I. Allegro
第2楽章  II. Moderato
第3楽章  III. Presto
第4楽章  IV. Largo
第5楽章  V. Allegretto

  


  

2)ゲルギエフ盤

指揮: ワレリー・ゲルギエフ
演奏: キーロフ劇場管弦楽団
録音: 2002年

 サンクトペテルブルクにある、バレエで有名なマリインスキー劇場。その劇場専属のキーロフ管弦楽団を、ワレリー・ゲルギエフ(1953年~)が指揮した演奏である。ソ連時代、キーロフ劇場へと名称変更されたが、ソ連邦崩壊の1991年、元のマリインスキー劇場の名に戻された。オーケストラは、その後もキーロフ管弦楽団を名乗っていたが、今はマリインスキー劇場管弦楽団となっている。

 このディスクを買う人は、交響曲第5番がお目当てのはずだ。音楽評論家の宇野功芳は、第1楽章を「真摯なジョーク」、第2楽章を「誠実に作曲者の内面の苦しみを追い」、第3楽章を「狂的な音楽を緻密に音化」、そして第4楽章を「ぼくはこの部分の音楽もゲルギエフの指揮も大好きだ」と絶賛している。戦争の時代に作られたということで、ゲルギエフは第4番から第9番を「戦争交響曲」と考えており、その意味でも、第5番と第9番のカップリングは的を射ている。スターリン体制下の戦争と音楽の関係を的確につかんだ演奏と言えそうだ。

 2002年の録音だから、ゲルギエフはまだ50歳にもなっていない。約10年後の再録は、より精緻でスピード感あふれる、あのムラヴィンスキーを彷彿とさせる演奏だが、なにか人工的な美しさが支配的で、こちらの旧盤の方が人間的で好ましく感じられるのだが…。ポピュラーな第5番には名盤が多いが、この第9番は、実は第5番以上と言っても良さそうな秀演。お買い得盤だとするなら、むしろこの第9番のおかげだと、個人的にはそう思っている。

  

3)ネルソンス盤

指揮: アンドリース・ネルソンス
演奏: ボストン交響楽団
録音: 2016年

 2014年からボストン交響楽団を率いるラトビア出身のアンドリース・ネルソンス(1978年~)によるライブ録音。強靱な弦セクションによる力強さに華麗さを重ねる明るい音色の金管と木管のセクションが織りなす、重厚だが新しい響きのショスタコーヴィチがここにある。

 第5、第8、第9の3つの交響曲ががカップリングされた2枚組。第8はスターリングラード攻防戦、第9は戦争終結をテーマにしたもので、レニングラード包囲戦をテーマにした第7とあわせ、戦争交響曲と呼ばれたりする。いっそのこと、第5の代わりに第7を組み合わせれば良かったのにとも思う。だが、その組み合わせでは2枚のCDには収まりきらない。だから第5なのか?

 音色は明るいのに、音楽の表情は重くて暗い。ジャケットに記された「スターリンの影のもと」は、あの時代の影が今なお息づいていることを表しているような気がする。スターリンになりたがる人間がおり、媚びへつらう者が取り巻き、思考停止した大衆が唯々諾々と従う…。ゲルギエフの演奏はスターリン独裁時代を批判的に見据えた演奏だったが、ネルソンスは無意識下に根付いた全体主義を意識している。

 ゲルギエフとネルソンスは25歳違い。曲の解釈の差は、世代によるものではなく、両者の出自あるいは背景の違いによるものではなかろうか。前者は親ロシアのオセチアに、後者は大ロシア主義の辛酸をなめさせられたバルト三国という、対照的なルーツを持つ。プーチン大統領と親しい関係にある者と、チェチェン、オセチア、クリミア半島を武力で吸収するロシアに、かつての全体主義国家ソ連の再来を感じ取る者の違いだろうか。

 ジャケットの“スターリンの影”とは、スターリン個人ではなく、スターリン亡き現代においてさえ、スターリン的な強い指導者、スターリンの幻影を求める大衆が存在するというニュアンスが含まれているように感じられてならない。

I. Allegro (Live)
II. Moderato (Live)
III. Presto (Live)
IV. Largo (Live)
V. Allegretto (Live)

  

ワレリー・ゲルギエフ盤とアンドリース・ネルソンス盤には交響曲第5番も含まれているので、前に紹介したムラヴィンスキー盤およびバーンスタイン盤と聴きくらべるのも面白いと思う。


(しみずたけと) 2022.7.17

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ショスタコーヴィチ 交響曲第10番


 この前はムソルグスキーの歌曲「司令官」をとりあげた、その中で、この歌が含まれている歌曲集『死の歌と踊り』を、ショスタコーヴィチが管弦楽用に編曲したことに触れたのだが、そのショスタコーヴィチの交響曲を紹介したい。

 ショスタコーヴィチ(1906~75年)は、生涯で15の交響曲を作曲した。音楽評論家の諸井誠によれば、第1と第15は純粋の絶対音楽、第2・第3・第13・第14は声楽入り、中央の第7・第8・第9は第二次大戦と関連するなど、前後で対象形をなしている。第2・第3・第11・第12は革命と関係があり、第5・第6は〈生〉を、第13・第14は〈死〉をテーマにしている。また、第5・第6がベートーヴェン的、第11・第12はリヒャルト・シュトラウス的、第4・第8・第10・第13はマーラー的だという。なるほどと納得するところもあるし、そうかなと疑問を抱くところもあるのだが、まあ、それはどちらでも良い。聴く人におまかせしよう。

 グスタフ・マーラーは、生を通して死を、死を通して生を俯瞰する人物だった。ここで紹介する交響曲第10番が、マーラー的な死生観、あるいはマーラー的なオーケストレーション技法を用いているかどうかはさておき、作曲された時代背景を考えてみたい。独裁者ヨシフ・スターリン(1878~1953年)が死んだ。3月5日のことである。ショスタコーヴィチ自身が語るところによれば、この年の夏から秋にかけて作曲されたものである。なんという速筆!ちょっと待て、15ある交響曲の作曲年を確かめてみよう。

第1番(1925年)
第2番(1927年)
第3番(1929年)
第4番(1936年)
第5番(1937年)
第6番(1939年)
第7番(1941年)
第8番(1943年)

第9番(1945年)
第10番(1953年)
第11番(1957年)
第12番(1961年)
第13番(1962年)
第14番(1969年)
第15番(1971年)

 前作からの年数が、第4番と第14番は7年、第10番は8年となっている以外、ほぼ2年毎という一定の間隔で作曲している。年数を要したのは、作曲上の理由かもしれないし、ショスタコーヴィチの場合、政治的な事情で発表を控えたということも考えられる。公の場で、「次は歌劇にとりかかる」と言明していたショスタコーヴィチだが、スターリンの訃報に接するや、急にこの交響曲に取りかかったようにも思われる。とすれば、作曲者のなんらかのメッセージが潜んでいるのではなかろうか。

 重苦しく始まる第1楽章。ソナタ形式ではあるが、ガッチリした構成のドイツ音楽とは違い、あくまでも叙情性に重きを置くロシア的なスタイルである。第2楽章は、速いパッセージの弦セクション、それに応える木管楽器群による自由な、ある意味、暴力性をも感じさせるスケルツォ。『ショスタコーヴィチの証言』には“音楽によるスターリンの肖像画”と記されている。うって変わって軽妙なワルツのような第3楽章。やや暗く悲しい感じのアンダンテで始まる第4楽章は、後半で明るいアレグロになり、一気呵成に突っ走るかのように、華々しい終曲に至る。

 第2楽章までなかったDSCHのフレーズが、第3楽章以降に現れる。“DSCH”はショスタコーヴィチのイニシャルだ。スターリン時代は抑えつけられていた自身が、ようやく解放され、ワルツを踊り、自由を謳歌する姿なのであろうか。マーラー的だとすれば、第3楽章なのだろう。ホルンの歌わせ方が『大地の歌』を思わせる。だが、マーラーの「生は暗く、死もまた暗い」を克服しようとするかのような、このフィナーレはどうだ。マーラーの交響曲第2番『復活』へのオマージュなのか。いや、人類の歴史の勝利を信じようとするショスタコーヴィチ自身の鼓舞、そのようにも感じられる。

 ::: CD :::

1)カラヤン盤

 ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89年)は、この曲を二度録音している。初めは1966年、次が1981年。どちらもレーベルは独グラモフォンだ。ところが、他のショスタコーヴィチ交響曲の録音はない。この第10番だけなのである。EMIレーベルに対して、第5番や第8番も録音したいという申し入れはしていたという。他の演奏家とのバッティングでもあったのであろうか、結果的に実現しなかった。ショスタコーヴィチを避けていたわけではないようだが、演奏会の曲目としてとりあげた様子もなく、ちょっと不思議ではある。

 さすがにカラヤンとベルリン・フィルである。悲痛な響きの中にあっても、感傷的になりすぎず、第1楽章を重厚に奏でる。名人揃いだけあって、スリリングな緊張感あふれる第2楽章を、切実な迫真性をもって描くのには、聴いている方も舌を巻いてしまう。この曲の名盤には違いない。不満があるとすれば、ショスタコーヴィチの第10番が、とりわけ“音楽によるスターリンの肖像画”が、これほど美しくて良いのだろうかという、なんとも言いようのない矛盾した思いに駆られることだ。

指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1981年

下に続く動画はカラヤン盤CD
I. Moderato II. Allegro III. Allegretto IV. Andante – Allegro

I. Moderato
II. Allegro
III. Allegretto
IV. Andante – Allegro


  

2)ヤンソンス盤

 ラトビア生まれのマリス・ヤンソンス(1943~2019年)。父は、エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903~88年)とともにレニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)を牽引した名指揮者アルヴィド・ヤンソンス(1914~84年)である。ショスタコーヴィチは、幼い頃から近い存在だったはず。それだけに、この曲のカギであるスターリンの影を見たのだろう。ムソルグスキーの『死の歌と踊り』、しかもショスタコーヴィチ編曲版と組み合わせているところからも、それが見てとれる。このCDは、まさに《死神スターリン、ビフォー&アフター》、いまこそ聴くべき一枚だ。

指揮:マリス・ヤンソンス
独唱:ロバート・ロイド(バス)

演奏:フィラデルフィア管弦楽団
録音:1994年

下に続く動画はヤンソンス盤CD
I. Moderato II. Allegro III. Allegretto IV. Andante V. Allegro
同CD収録のムソルグスキー『死の歌と踊り』

I. Moderato
II. Allegro
III. Allegretto
IV. Andante
V. Allegro
ムソルグスキー『死の歌と踊り』


(しみずたけと) 2022.4.16

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