ショスタコーヴィチ 交響曲第9番


 「第9」である。「第9」といえば、ベートーヴェンの交響曲第9番。以前、紹介したこともある。年末の風物詩である「第9」なら、まだだいぶ先のことだから、季節はずれに思われるだろう。ここで紹介するのは、ショスタコーヴィチの交響曲第9番、前回の第5番の続きである。

第9の呪い?

 こんな言葉を聞いたことがあるだろうか。曰く、交響曲第9番を作曲すると死ぬというものである。たしかに交響曲の最後の作品が第9番という作曲家の例がないわけではない。ベートーヴェンの他に、ブルックナー、ドヴォルザーク、ヴォーン・ウィリアムズなどが知られている。

 それを恐れてか、マーラーは第8番の次に作曲した交響曲『大地の歌』に番号を与えなかった。そして第9番を作曲、第10番は第1楽章だけの未完成に終わっている。しかし、モーツァルトの有名な《ジュピター》は交響曲第41番だし、ハイドンの交響曲は100以上もある。「第9の呪い」は根も葉もない噂にすぎないのか…。

 ブルックナーは、習作として番号のない交響曲を作曲しており、現在では0番とか00番の番号で呼ばれている。『ザ・グレート』の名で知られるシューベルトの交響曲は、番号表記が二転三転し、第9番とされていた時期もあるが、今は第8番とされている。ドヴォルザークの『新世界』も、以前は第5番とされていた。生前には発表されなかった初期の四曲を、作曲年に従って組み込んだため、後になって第9番とされたのである。

 むしろ9曲もつくらなかった作曲家の方が圧倒的に多い。ブラームスは第4番までだし、チャイコフスキーは第6番、シベリウスは第7番が最後である。交響曲をつくるというのは、それだけ大変な、エネルギーを要することなのだろう。第9番を作曲するのは、人生の終わりの時期に近づいた頃、それだけのことなのではなかろうか。

 それゆえ、交響曲第9番はどれもが優れ、その作曲家の代表曲になっている。みなさんの好きな第9は誰によるものだろうか。それはさておき、ショスタコーヴィチの第9。この曲は、別の意味で呪われた、別の意味で画期的な作品かもしれない。

ショスタコーヴィチ、「第9」まで

 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)が15の交響曲を残したこと、第5番は人気が高く、演奏会の曲目としてとりあげられることが多いことは第10番と第5番を紹介する中で書いた通りである。また、最も大きなオーケストラ編成を必要とする第4番は、後にショスタコーヴィチ自身が最高の出来映えと言い、近年になって評価が高まっている。その他、ソ連時代は長らく演奏禁止とされた第8番、帝政ロシア時代のユダヤ民族迫害が、社会主義になっても続いている状況の告発を含む第13番、死というテーマを前面に出した第14番も、いろいろな意味で重要視されるようになった。これらとくらべて、第9番は注目度も話題性も高くない。演奏会のプログラムやレコーディング対象としては、ややマイナーな存在と言えよう。

 1939年、第二次大戦が始まった。交響曲第7番は、1942年、ドイツ軍に包囲された戦火のレニングラードで作曲された作品である。「レニングラード」の副題を持ち、対ファシズム戦争として市民を鼓舞したこの曲は、国内外で絶賛された。第5番とならぶ人気曲で、今日でも演奏される機会が多い。これを音楽によるプロパガンダとみなすかどうかは議論されて良いだろう。

 ところが1943年、スターリングラード攻防戦の犠牲者追悼のために作られた交響曲第8番が再び批判される羽目に。政権としては、ドイツ軍を敗走せしめた勝のイメージを期待していたのだろうが、戦争の悲惨さと人々の苦悩、そして犠牲者の追悼を表に出したことが気に入らなかったのだろう。批判の急先鋒は、フィンランド侵攻とレニングラード防衛戦の指揮を執った文化相のアンドレイ・ジダーノフ(1896~1948年)。地位さえあれば、芸術という専門外の分野にまで口を出してくるところが、まさに全体主義である。こうしたところから「社会主義は怖い」というイメージが生まれたのだとすれば、実に残念なことだ。スターリン時代のソ連は、社会主義でも共産主義でもなく、軍事独裁政権の恐怖政治が国を支配する、正真正銘の全体主義でしかなかったのだから。

指向性が異なる「第9」…

 それでもショスタコーヴィチは、ソ連における当代随一の交響曲作曲家である。戦争が終わると、大祖国戦争の勝利を祝い、勝利に導いた偉大な指導者スターリンを称える作品が委嘱された。ちょうどそれが第9番になるというのも好都合だったに違いない。独唱と合唱をまじえた壮大で輝かしいものが期待されたわけだが、できあがった作品は、独唱も合唱もない、シンフォニエッタ(小交響曲)あるいはディヴェルティメント(嬉遊曲)とでも呼べそうな小規模なものだった。独裁者スターリンと、それに媚びへつらう者たちの要求を無視し、むしろ笑い飛ばそうとするかのような、反骨精神の音楽家の面目躍如である。

 全五楽章で構成されているにもかかわらず、楽器編成は基本的に二管編成であり、演奏時間は約25分と短い。数ある「第九」の中にあって、実にコンパクトである。というか、力が入っていない感じがする。軽やかで力みがないといえば聞こえが良いが、肥大化した後期ロマン派の交響曲作品とくらべると、なんだかショボい感じさえするのだ。フル・ボリュームで鳴り響く絢爛豪華なクライマックスでも、反対に静寂の中に消え入るような終わり方でもなく、「第九」への期待を裏切られた気分にもなる。どうやら、あえてそれを狙ってつくられたという背景事情があるようなのだ。

 戦争に関連することから、ショスタコーヴィチの交響曲第7番から第9番をひとくくりに「戦争交響曲」と呼んだりするが、聴けば、第9番は前二作とはだいぶ趣が異なることに気付かされるだろう。戦争より、むしろ権力批判を軸にした、一種のパロディのような気がしてならない。勝手な解釈をさせてもらうと…。いや、それは後日あらためて開陳することにしよう。

  

 ::: CD :::

 ショスタコーヴィチの交響曲第9番は、決して多いとはいえなくとも、それなりにレコーディングはされている。全15曲を録音した全集のセットもある。どれを紹介すべきか、しばし考えてみた。

 まずは、この曲の初演者であるムラヴィンスキー。ところが…、CDが見つからないのだ。LPがあったかどうかまでは調べていないが、録音されなかった可能性がある。第8番はともかく、第4番、第13番、第14番とあわせて、政権との軋轢があった第9番の録音を避けたのかもしれない。この曲の初演の後、彼は不愉快そうだったという。レニングラードで初演の指揮をすることになっていた第13番は、不可解な理由から指揮を断っている。政権による圧力があったのだろうか。

 ムラヴィンスキーが理解し、共感したのは、実は作曲家ショスタコーヴィチではなく、体制との間に波風を立てない作品だったのではあるまいか。第5番で触れたヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』が正しければ、そう言うことになるのだろう。彼は思想家ではなく音楽家なのだから、音楽としての純粋さを追求することが間違っているとは言わない。もしや権力側に忖度する人間だったのか?そうだとすれば、少し残念な気もする。音楽を含め、芸術とは人間に生きていくための勇気を与えるものだと考えるからである。

 ムラヴィンスキー盤がないなら、同じく第5番で紹介したレナード・バーンスタイン(1918~90年)はどうだろう。たとえばウィーン・フィルとの演奏は、音色がとても美しく、迫力もある。純音楽的には見事だと思うが、もう一押し何かが必要なのではないかと思ってしまう。ショスタコーヴィチとバーンスタイン、二人を取り巻く政治や社会が、あまりにも違いすぎるためだろうか。

 それでは、交響曲第10番でとりあげたマリス・ヤンソンス(1943~2019年)はどうだ。レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者で、ショスタコーヴィチとも親しい間柄だったアルヴィド・ヤンソンス(1914~84年)の息子として、作曲家のすぐ近くで育った人である。体制の表裏はもちろん、体制と反体制の両方を見てきたに違いない。とはいえ、ヤンソンス親子はスターリンや政府に目をつけられたり弾圧されたりせずにすんだ。それは喜ぶべきことではあるが、ショスタコーヴィチほどの苦悩や独裁者に対する反骨精神が希薄なのは、ある意味当然なのかもしれない。

1)ロストロポーヴィチ盤

指揮:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
演奏:ナショナル交響楽団
録音:1993年

 ここは同時代を生き、体制の弾圧を受けた人物の登場といきたい。アゼルバイジャン出身のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927~2007年)。20世紀を代表するチェロ奏者として有名だが、モスクワ音楽院でショスタコーヴィチに作曲を学び、指揮者としても素晴らしい演奏を数多く残している。

 1970年、ソ連の強制収容所を描いた『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』で、アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918~2008年)がノーベル文学賞を受賞した。社会主義体制批判とみなされた彼を擁護したことで、ロストロポーヴィチもまた「反体制」のレッテルを貼られ、国内での演奏ができなくなってしまう。74年に出国すると、エドワード・ケネディ米上院議員の助力もあり、そのまま西側に亡命。77年に渡米し、首都ワシントンD.C.のナショナル交響楽団の音楽監督に就任した。

 オーケストラ・ビルダーと謳われたハンガリー出身のアンタル・ドラティ(1906~88年)が鍛え上げたこの楽団は、ロストロポーヴィチによってさらに輝きを増すことになる。彼の人脈によって、一流の演奏者が集まり、コンサートには、彼を含め、世界有数のソリストが登場し、実力と人気が急上昇。90年には、ゴルバチョフ体制下のソ連に演奏旅行。78年に剥奪されたソ連国籍を回復することになった。ロストロポーヴィチの波瀾万丈の人生、体制批判の精神は、まさにショスタコーヴィチの作品を演奏するのに相応しいといえるのではなかろうか。

 政権への遠慮とは無縁のコンビによる、作品の本質を思いっきり突いた迫真の演奏。カップリングされているのが交響曲第1番というのもうれしい。なぜなら、この曲こそ、ショスタコーヴィチが権力への忖度も批判も意識することなく、純粋に音楽を追求してつくりあげた、それが許された時代の作品だからである。


第1楽章  I. Allegro
第2楽章  II. Moderato
第3楽章  III. Presto
第4楽章  IV. Largo
第5楽章  V. Allegretto

  


  

2)ゲルギエフ盤

指揮: ワレリー・ゲルギエフ
演奏: キーロフ劇場管弦楽団
録音: 2002年

 サンクトペテルブルクにある、バレエで有名なマリインスキー劇場。その劇場専属のキーロフ管弦楽団を、ワレリー・ゲルギエフ(1953年~)が指揮した演奏である。ソ連時代、キーロフ劇場へと名称変更されたが、ソ連邦崩壊の1991年、元のマリインスキー劇場の名に戻された。オーケストラは、その後もキーロフ管弦楽団を名乗っていたが、今はマリインスキー劇場管弦楽団となっている。

 このディスクを買う人は、交響曲第5番がお目当てのはずだ。音楽評論家の宇野功芳は、第1楽章を「真摯なジョーク」、第2楽章を「誠実に作曲者の内面の苦しみを追い」、第3楽章を「狂的な音楽を緻密に音化」、そして第4楽章を「ぼくはこの部分の音楽もゲルギエフの指揮も大好きだ」と絶賛している。戦争の時代に作られたということで、ゲルギエフは第4番から第9番を「戦争交響曲」と考えており、その意味でも、第5番と第9番のカップリングは的を射ている。スターリン体制下の戦争と音楽の関係を的確につかんだ演奏と言えそうだ。

 2002年の録音だから、ゲルギエフはまだ50歳にもなっていない。約10年後の再録は、より精緻でスピード感あふれる、あのムラヴィンスキーを彷彿とさせる演奏だが、なにか人工的な美しさが支配的で、こちらの旧盤の方が人間的で好ましく感じられるのだが…。ポピュラーな第5番には名盤が多いが、この第9番は、実は第5番以上と言っても良さそうな秀演。お買い得盤だとするなら、むしろこの第9番のおかげだと、個人的にはそう思っている。

  

3)ネルソンス盤

指揮: アンドリース・ネルソンス
演奏: ボストン交響楽団
録音: 2016年

 2014年からボストン交響楽団を率いるラトビア出身のアンドリース・ネルソンス(1978年~)によるライブ録音。強靱な弦セクションによる力強さに華麗さを重ねる明るい音色の金管と木管のセクションが織りなす、重厚だが新しい響きのショスタコーヴィチがここにある。

 第5、第8、第9の3つの交響曲ががカップリングされた2枚組。第8はスターリングラード攻防戦、第9は戦争終結をテーマにしたもので、レニングラード包囲戦をテーマにした第7とあわせ、戦争交響曲と呼ばれたりする。いっそのこと、第5の代わりに第7を組み合わせれば良かったのにとも思う。だが、その組み合わせでは2枚のCDには収まりきらない。だから第5なのか?

 音色は明るいのに、音楽の表情は重くて暗い。ジャケットに記された「スターリンの影のもと」は、あの時代の影が今なお息づいていることを表しているような気がする。スターリンになりたがる人間がおり、媚びへつらう者が取り巻き、思考停止した大衆が唯々諾々と従う…。ゲルギエフの演奏はスターリン独裁時代を批判的に見据えた演奏だったが、ネルソンスは無意識下に根付いた全体主義を意識している。

 ゲルギエフとネルソンスは25歳違い。曲の解釈の差は、世代によるものではなく、両者の出自あるいは背景の違いによるものではなかろうか。前者は親ロシアのオセチアに、後者は大ロシア主義の辛酸をなめさせられたバルト三国という、対照的なルーツを持つ。プーチン大統領と親しい関係にある者と、チェチェン、オセチア、クリミア半島を武力で吸収するロシアに、かつての全体主義国家ソ連の再来を感じ取る者の違いだろうか。

 ジャケットの“スターリンの影”とは、スターリン個人ではなく、スターリン亡き現代においてさえ、スターリン的な強い指導者、スターリンの幻影を求める大衆が存在するというニュアンスが含まれているように感じられてならない。

I. Allegro (Live)
II. Moderato (Live)
III. Presto (Live)
IV. Largo (Live)
V. Allegretto (Live)

  

ワレリー・ゲルギエフ盤とアンドリース・ネルソンス盤には交響曲第5番も含まれているので、前に紹介したムラヴィンスキー盤およびバーンスタイン盤と聴きくらべるのも面白いと思う。


(しみずたけと) 2022.7.17

ショスタコーヴィチ : 交響曲第10番 記事へ
ショスタコーヴィチ : 交響曲第5番 記事へ
ショスタコーヴィチ : 交響曲第9番 この記事
ショスタコーヴィチ の「戦争交響曲」 7番 8番 記事へ
抵抗するショスタコーヴィチ 4番 13番 記事へ
ショスタコーヴィチ : 交響曲第14番『死者の歌』 記事へ

9j音楽ライブラリーに跳ぶ
リンク先は別所憲法9条の会ホームページ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA