抵抗するショスタコーヴィチ


ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
交響曲第4番
交響曲第13番『バビ・ヤール』

 ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)。交響曲第1番で「現代のモーツァルト」と注目され、国家の要請に沿ったかのような第2番と第3番により、アレクサンドル・グラズノフ(1865~1936年)やセルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953年)らの次代を担うソ連クラシック界の有望株と見なされるようになった。しかし、33年の歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』―映画コレクションにあります―が、共産党機関紙プラウダで「音楽の代わりに荒唐無稽」と痛烈な批判を浴び、要注意人物のひとりに。この作品に対する批判が妥当であるかどうかは、各自が実際に作品を鑑賞して判断すれば良いことであるが、ここに独裁者スターリン(1878~1953年)及び国家権力による作曲家ショスタコーヴィチへの監視と圧力、それに抗うショスタコーヴィチの、長きにわたる闘いの火ぶたが切って落とされる。

 交響曲作品では、第5番や第7番『レニングラード』が高く評価されたものの、第9番はスターリンを激怒させ、第8番も実質的に演奏禁止の憂き目に遭う。スターリンの死後でさえ、ソ連は専制国家であることから脱却できなかったと言えよう。ここからわかることは、独裁政治とは、ひとりの独裁者によって行われるものではない、ひとりだけの責任でもない、そうした厳然たる事実であろう。

交響曲第4番

 ショスタコーヴィチが、ペテルブルク音楽院の卒業制作として交響曲第1番を作曲したのが1925年であるから、この交響曲第4番は、約10年後の作品となる。第1番が管弦楽による協奏曲的な性格を有すること、第2番『十月革命に捧げる』と第3番『メーデー』は混声四部合唱を伴い、さらに表題にあるような政治的メッセージを含むことを考えれば、この第4番は、彼にとって初めての、純粋な交響曲らしい交響曲作品と言えるかもしれない。

 第4番には、他の交響曲とは異なるいくつかの特色が見られる。演奏に要する時間、つまり長さは第7番に及ばないものの、最も大規模なオーケストラ編成を必要とすること、3楽章構成であること、レントラー風スケルツォの第2楽章を挟み、第1・第3楽章は次々に現れる自由な形式で書かれた主題の連続であること、それらがマーラーを思わせるものの、咆哮のクライマックスではなく、すべての楽章が弱音で終わるなど、新機軸を打ち出したものと言えそうである。

 しかし、この斬新さは理解されなかった。いや、当局の求める社会主義リアリズムに合致しなかったと言った方が正しいだろう。芸術としてではなく、政治社会との軋轢である。プラウダで批判された歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』につづき、第4番もまた、その新しさゆえ、当局が批判的に見ている。作曲家自身がそう感じとったのか、あるいは忠告する者があったのかはわからないが、ショスタコーヴィチ自身が、リハーサルの指揮台からスコアを引きあげてしまったのである。

 リアリズムを追求していくと、聴衆にわかりやすい音楽、聞き覚えのあるメロティの流用、たとえば民謡等が使い回されるなどして、音楽としては停滞せざるを得なくなる。けっきょく、この曲はスターリンの死後なお八年間も封印されつづけ、ようやく1961年、キリル・コンドラシンが指揮するモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団によって初演がなされたのである。

 この曲は、聴けば聴くほどに味わい深さを感じさせる。聴くたびに、何かしらの新しい発見があるのだ。演奏する者にとっては、なおさらであろう。ああも考えられる、こうも受けとれる、多様な解釈ができるということは、単純でなく複雑、それだけ芸術性が高いことを示唆している。演奏する側や聴き手の解釈を限定する標題音楽との違いは、まさにそこにある。

 あえて芸術に足枷をはめようとする社会主義リアリズムなど、人類の成長や文明にとって敵でしかない。15ある交響曲の中の最高傑作と、後にショスタコーヴィチ自身が語ったと伝えられている。彼の他の交響曲より優れているかどうかはともかく、もっともっと演奏の機会が増えて良い曲だと思う。

交響曲第13番『バビ・ヤール』

 独裁者スターリン(1878~1953年)の死を知るやいなや、驚くべき速さで作曲されたのが交響曲第10番であった。その後、1957年に第11番『1905年』、1961年に第12番『1917年』が発表される。きわめてソビエト的な題材、すなわち革命をテーマに据えた標題音楽なのだが、ショスタコーヴィチは体制迎合に回帰したのであろうか。

 1905年1月9日(当時のロシアはグレゴリオ暦ではなくユリウス暦であった)の首都ペテルブルクでは、妻や子どもを連れた労働者たちが、皇帝への請願のために冬宮殿に向かっていた。その平和的な行進に対し、皇帝の軍隊が一斉射撃をくわえ、数千人が死傷。「血の日曜日事件」である。これをきっかけに、ロシア各地の労働者らが立ちあがり、エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』でも知られる水兵の反乱も勃発、ロシア第一革命となる。1917年は、もちろんロマノフ王朝が倒されたロシア革命の年である。

 交響曲第11番、第12番を作曲したショスタコーヴィチの真意はどこにあったのかについては、様々な解釈が可能であろう。意識しておく必要があるのは、彼は同時代を生きた人間であると言うことである。《ショスタコーヴィチの証言》には次のような記述がある。

 「わが家では、1905年の革命のことが絶えず議論されていた。私が生まれたのは1906年で、あの革命の後だったが、その話は私の想像力に深刻な影響を与えた。私が思うに、あの革命が転換点だった。あれ以来、民衆は皇帝を信じるのをやめたのだ。ロシアの国民は常に信じ、信じ抜いて、その果てに、不意に終わりがやって来るもののようである。そして民衆に信じられなくなった者は痛い目にあうのである。しかし、そのために、おびただしい量の血が流されねばならなかった…」

 ショスタコーヴィチは、生まれる前の「血の日曜日事件」に、自身が目撃した1917年の革命を重ねて記憶し、ロシアの歴史を音楽として記録しようとしたのである。幾度もくり返される権力者の悪行を、音に焼き付けることによって、未来への警鐘とした。その流れが、交響曲第13番へと引き継がれるのは、至極当然なことと言えよう。

 交響曲第13番は、第4番が初演された翌年の1962年の作品である。この作品もまた、物議を醸すことになった。第1楽章の主題〈バビ・ヤール〉が、そのまま曲全体の副題となっている。バビ・ヤールはウクライナの首都キエフ(最近は現地発音のキーウと呼称される)の郊外、市の中心から北西に約6kmほどのところにある渓谷の名である。1941年9月、ナチス・ドイツはウクライナ警察やナチス迎合者等の協力を得て、キエフとその周辺に住むユダヤ市民をここに連行し、機関銃掃射によって3万人以上を殺害した。その後、ナチスに敵対する者やロマを虐殺している。

 しかし、ユダヤ人迫害はナチスだけではなかった。歴史的に見れば、ユダヤ民族は中世以来、欧州中でずっと迫害の対象だったし、とりわけ19世紀以降のロシアにおけるポグロムは激しかったと言えよう。この時代、ロシアやウクライナから逃れたユダヤ人たちが目指したのが米国であり、パレスチナであった。ユダヤ人問題の最終的解決として、法整備をしたうえで組織的に実行に移したのがナチスである。世界をユダヤから救うための特別軍事行動ラインハルト作戦…、何やら最近耳にしたことがあるような響きではないか。

 合唱が「バビ・ヤールに碑はない 切り立った崖が粗末な墓標」と歌い、バス独唱が「私の立つここは 友愛を信じさせる泉」と応える。ナチス・ドイツは打ち倒されたのに、ユダヤ人犠牲者の碑はなく、忘却の彼方へと葬られつつある。エフゲニー・エフトゥシェンコ(1933~2017年)は、今なお残る反ユダヤ主義の告発と無関心な社会への怒りを込め、詩を書いた。ショスタコーヴィチは、この若き詩人の詩に感銘を受けたのである。
 
 第2楽章〈ユーモア〉で、「どんな支配者も ユーモアだけは支配できなかった 命令しても、買収しても、死刑にしても ユーモアだけは支配できなかった」と権力を皮肉り、第3楽章〈商店で〉では、厳しい生活に堪える女性たちのたくましさを讃え、第4楽章の〈恐怖〉は、スターリン時代の恐怖を思い起こしながら、偽善やウソがはびこる新たな恐怖が生まれていることへの恐怖を、第5楽章〈出世〉」は、地動説で宗教界から狂人扱いされたガリレオを引き合いに、真の出世とは何であるかを語り、「罵った者が忘れ去られ 罵られた者が記憶される 私は出世しないことを 自らの出世としよう」へと結ぶ。楽章の主題は、一見バラバラのように見えるが、俗物根性という言葉で括ることができるという指摘がある。〈恐怖〉はエフトゥシェンコがこの交響曲のために新たに書き起こして提供したものだが、他は既存の詩から選ばれている。

 ソ連は建前上「人種・民族問題は存在しない」ことになっており、皮肉や諷刺に満ちた歌詞が反体制的と見なされ、初めから当局による執拗ないやがらせが続いた。初演の指揮を依頼されたエフゲニー・ムラヴィンスキー(1903~88年)は辞退し、予定した独唱者が次々に交代、リハーサルには共産党役人が立ち会い、さらに初演当日になって指揮者のキリル・コンドラシン(1914~81年)にキャンセルするよう圧力がかけられた。警官隊が包囲する物々しい雰囲気の中で初演がなされるとは、当時のソ連はなんと恐ろしい国であったことか。

 ::: CD :::

交響曲第4番

指揮:エリアフ・インバル
演奏:東京都交響楽団
録音:2012年(ライブ)

 スコアを見ても、演奏を聴いても、この曲が難曲であることがわかる。近年、この曲が注目され、優れた演奏がいくつも現れるようになったのは、演奏技術が格段に上がったからであるのは間違いないだろう。インバルのタクトは、けっして力むところがないが、変幻自在に現れる主題に意味を与え、オーケストラがそれに見事に応える。彼岸にたどり着くかのようなクライマックスは、別の意味でマーラー的だ。


交響曲第13番『バビ・ヤール』

指揮:キリル・コンドラシン
独唱:ジョン・シャーリー=カーク(バス)
演奏:バイエルン放送交響楽団、男声合唱団
録音:1980年(ライブ)

 コンドラシンは、1978年12月にオランダに亡命、81年3月に急逝した。わずか二年と数ヶ月。コンサートもレコーディングも多かったとは言えないが、残されたライブ盤もスタジオ録音も素晴らしいものばかりである。

 交響曲第13番は、モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団との初演の二日後に、同オーケストラで録音しており、そちらも名盤なのだが、指揮者の卓越した統率力のもと、合奏力で上回るミュンヘンのオーケストラとコーラスが見事な演奏を聴かせる。コンドラシンのストイックな表現を背景に歌うシャーリー=カークの独唱によって、恐怖と静かな怒りが伝わってくるようだ。悲壮感さえ感じるのは、ライブゆえの緊張感の高まりのせいだろうか。


(しみずたけと) 2022.8.17

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