Joan Baez in Italy


ボブ・ディランと来たなら、ジョーン・バエズを紹介しないわけにはいかないだろう。1960年代初頭、まだ駆け出しだったボブ・ディランを自身のステージに招いたのは彼女であり、彼を偉大なミュージシャンへと押し上げる一助となったのだから。

 1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルに、当時まだ大学生だったジョーン・バエズが彗星のごとく登場、たちまち「フォークの女王」と呼ばれるようになった。その後の60年を越えるキャリアは、フォークだけでなくロック界にも大きな影響を与え、2017年には『ロックの殿堂』入りを果たしている。いろいろな意味で、ジョーン・バエズは避けて通ることのできない人だ。

 中島みゆきはどうだ。彼女のプロモーション用冊子に『魔女の辞典』というのがある。アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』に倣い、様々な言葉を皮肉やブラックユーモアをこめて定義したものだ。その中にあるジョーン・バエズという一項。「ジョーン・バエズは私ではなく、私はジョーン・バエズではない。それだけのために、私はジョーン・バエズを知っている」は、中島みゆきにとってのジョーン・バエズの存在の大きさを表しているのではなかろうか。

 ボブ・ディランと中島みゆき、愛と社会正義を真正面から歌い上げるミュージシャンに影響を与えたジョーン・バエズ。彼女については、実は一連のシベリウスの『フィンランディア』の中で、ほんの少しだけとりあげたことがある。《苦難に立ち向かう人々に勇気と希望を与える歌》で、“This is my song”を歌う彼女に気づいたであろうか。しかし、オマケ的な扱いだったので、ここであらためて焦点を当てなおすことにしよう。

 公民権運動が頂点に達した1963年のワシントン大行進で「勝利を我等に」を歌ったジョーン・バエズは、激しくなる一方のベトナム戦争を強く批判、ますますプロテスト・フォークに傾倒していった。ここで紹介するのは、そんな1967年の世相を映したアルバム“Joan Baez in Italy”。ヴァンガード・レーベルに所属していた当時、主なレコーディング曲目は、叙情歌、哀悼歌、フランシス・ジェームズ・チャイルドのバラッド、ブロードサイド・バラッド、アメリカン・バラッド、讃美歌、霊歌、子守歌などであった。しかし、この1967年5月29日、ミラノのテアトロ・リリコでのコンサートでは、公民権運動やベトナム反戦に関わるメッセージ性の強い歌が選ばれている。

 ボブ・ディランの「さよならアンジェリーナ」「風に吹かれて」「神が味方」やピート・シーガーの「花はどこへ行った」、トラッドの「おお自由よ」「クンバイヤ」「サイゴンの花嫁」、そして「勝利を我等」など、プロテスト・フォークが主軸に据えられている。翌年5月、フランス各地で学生たちが大規模な反体制デモを展開。パリでゼネストが行われ、学生と警官隊が衝突した件は、《あゝ!パリの美しき五月!》にも書いたとおりである。この「5月革命」に刺激されたイタリア、ドイツ、トルコ、日本、ブラジルでも学生による反体制運動が広がった。まさに時代を反映したプログラムだったといえよう。

 5月のパリだけではない。1月には北ベトナム人民軍が南ベトナムを支援する米軍に大規模な反撃「テト攻勢」が起こり、米国内で反戦の機運が高まる。3月のポーランドでは、ワルシャワ大学の学生・知識人たちが民主化を要求し、これを口実に、共産党政権は反ユダヤ主義運動を開始。4月、キング牧師が暗殺され、全米各地で人種暴動が発生。ニューヨークのコロンビア大学では、大学がベトナム戦争支援機関に関与していると非難する学生たちが大学を封鎖。7月には数百万人のナイジェリア人民が餓死するというビアフラ危機が報道され、国際人道支援が本格化する。8月の「プラハの春」をワルシャワ条約機構軍が蹂躙、多数の死者が出た。メキシコでは、民主化要求デモに対して警官隊が発砲、学生ら300人が死亡。その10日後のメキシコ五輪で、米国の黒人選手が表彰台で黒手袋をはめた拳を突き上げて「ブラックパワー」を誇示。1968年は、まさにピープルズ・パワーの年だった。世界は“もうひとつの世界”への変革を求め、動き始めていたのである。

 ::: CD :::

Joan Baez in Italy(収録曲)

1. Farewell, Angelina
2. Oh Freedom
3. Yesterday
4. Blowin’ In The Wind
5. There But For Fortune
6. Kumbaya
7. A City Called Heaven
8. Saigon Bride
9. It’s All Over Now, Baby Blue
10. Where Have All The Flowers Gone

11. With God On Our Side
12. We Want Our Freedom Now
13. We Shall Overcome
14. Donna Donna
15. C’era Un Ragazzo Che Come Me Amava i Beatles e i Rolling Stones

ジョーン・バエズとの出会い

 このアルバム(LP)には特別な思い入れがある。ジョーン・バエズという人物を知ることになった最初の一枚だからだ。厳密には、エフエム東京でオンエアされた最初の四曲、「さよならアンジェリーナ」「おお自由よ」「イエスタデイ」「風に吹かれて」だけなのだが…。それは、わが家に初めてカセットテープレコーダーがやって来た頃だった。

 ラジカセなんかではない、ただのモノラルのテープレコーダー。SONY製で、ずっしり重かったことを覚えている。そのテープレコーダーで録音テストをするため、オーディオ(当時はステレオと呼んでいた)のイヤホンジャックにケーブルをつなぎ、FM放送を録音した。その時のプログラムが、このミラノのライブ。まったくの偶然だったのである。

 美しく澄んだソプラノ、聴き取りやすい英語、たちまちジョーン・バエズに魅了されてしまった。とはいえ、歌詞が全部わかったわけではない。詩だから、韻を踏んでいるし、そのための倒置、めったに使われない単語が使われ、ボブ・ディランの詩に至っては、スラングがてんこ盛り、理解不能な箇所がいくつもあった。やはりレコードがほしい!

 レコード屋で見つけはしたものの、中学生にとって2,200円のレコードは、そんなに容易に買えるものではなかった。そうこうしているうちに、廃盤になってしまい、いつしかジョーン・バエズは遠い存在に…。再び出会ったのは大学時代。町の中古レコード店で見つけたときは嬉しくて小躍りしそうになったものだ。1,700円だったことを、今でも覚えている。

 レコードを手に入れたは良かったが、お目当ての歌詞カードは間違いだらけ。インターネットなど無い時代、耳で聴き言葉を文字に起こす(ワーディングとか呼んでいた)ことが普通に行われていたから仕方ない面もあるのだが…。原詩くらい手配すれば良いのに、キングレコードさん。けっきょく晶文社から出ている片桐ユズル著『ボブ・ディラン全詩集』を手に入れて、ようやく溜飲が下がった。
 
 ジョーン・バエズの最初の来日公演もまた、1967年だったはずである。CIAが通訳に圧力をかけていたことが明らかになったのはずっと後になってからだ。私が足を運んだのは、1980年の中野サンプラザ。ひとり楽屋に押しかけ、平和のこと、非暴力のことを話し、別れ際に色紙にサインをしてもらったのが、まるで昨日のことに思い出される。

 引っ張り出した直径30cmのLPは、CDとは存在感が違う。ライナーノーツも歌詞カードも大きくて読みやすい。老眼になった現在は、なおさらありがたく感じる。歌詞の誤りも、今となっては懐かしい思い出のひとつだ。2018年から19年にかけてフェアウェルツアーをおこなったジョーン・バエズ。今や立派なオバサマなのだろうが、私にとっては、1980年に会ったときと変わらない、いつまでもステキなお姉さまのままなのである。


(しみずたけと) 2022.6.9

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