サン=サーンス ピアノ協奏曲第5番《エジプト風》


 昨年はLGBTという言葉が一般に知られるようになった年だったと思う。LGBTとは何であるかなど、このサイトを閲覧する方々には説明の必要などあるまい。世界的に見れば「なにを今さら…」と、遅きに失した感もあるが、それでも一歩前進には違いないから、まあ喜ばしいことではある。

 ところが、無知や性的マイノリティへの無理解からLGBTへの攻撃を繰り返す議員がいたり、頓珍漢な批判をする者も現れる始末だ。曰く、性自認を悪用して女性用の浴場やトイレに入ろうとする男性がいたらどうするか等々。LGBTの権利を認めている国で、そういう事件が頻発しているのか?もしそうした問題が起こるとしたら、それは性自認の問題とかLGBTのせいではなく、わが国の民度が低いということにほかならない。LGBTは生産性がないという愚にもつかない妄言にいたっては、人間の価値を生産性だけでしか測れない蒙昧さの発露に過ぎず、ナンセンスを通り越して哀れみさえ感じてしまう。

 ひとりひとり個性があるように、趣味や得意なことが違うように、性もまた多様である。LGBTをふつうのこと、当たり前のこととして描く文学作品や映画もあるではないか。歴史的にも、少数者は弱者であり、多数派と同じ権利を獲得するには闘うしかない。強い立場にある側が進んで譲歩することなどないからである。しかしLGBTたちの闘いはいつも静かだ。そこで思い出したのがリオネル・バイエーのドキュメンタリー『パレード』。

 映像の終わりの方で、葛藤を抱える主人公(監督自身である)がパレードへの参加を決意し、保守的な人の多い街に出る。そこで流れる音楽が実に良くマッチしている。そう、サン=サーンスのピアノ協奏曲第5番『エジプト風』の終楽章なのだ。つくづく映像作家はアーティストなのだなと思わされる。

ピアノ協奏曲第5番ヘ長調《エジプト風》作品103

 シャルル・カミーユ・サン=サーンス(1835~1921年)については、一連のレクイエム作品のひとつとしてとりあげたことがある。彼が11歳でピアニストとしてパリの楽壇に登場したのが1846年。このピアノ協奏曲第5番ヘ長調『エジプト風』は、1896年、プレイエル音楽堂でおこなわれることになった、自身の楽壇生活50周年記念演奏会のためにつくられた新曲である。彼の最後のピアノ協奏曲だ。

 生来旅行が好きだったこともあり、晩年の彼は各地を演奏旅行したらしい。その経験を反映しているのか、あるいは功成り名遂げた老音楽家のゆとりのせいだろうか、この協奏曲は楽曲構成の形式的規制にとらわれることなく、主題の循環法さえ無視している。第1楽章こそいちおうソナタ形式を備えているが、第2楽章はエキゾチズムにあふれたラプソディ、第3楽章はピアノによるトッカータとでも言うべきだろうか。管弦楽をバックに、その隙間を飛び跳ねるかのように進行し、自由奔放な名人芸が姿を表す。古典音楽の外枠を取り払ったからこそ可能になった伸びやかで生き生きしたリズムと色彩の洪水である。

 ああ、そうなのか。男とか女、外観を含めた形式に縛られず、枠を打ち破ることで、音楽同様、人間はもっともっと自由になれるのだ。リオネル・バイエーが『パレード』の終盤にこの曲を持ってきたのは、そうしたメッセージを含めてのことだろう。そうではなく、あれが偶然の産物であるなら、この曲の本質を本能的に嗅ぎ分けていたことになる。うーん、やはりアーティストってすごいものだ。これはピアノによる自由の謳歌、自由の讃歌にほかならない。


::: C D :::

 人気の曲でもあるから、それなりに録音は豊富だ。これまで聴いた中でハズレはなかったから、お好きなものを選んでもらってかまわない。ここでは二つ紹介しておこうと思う。

 パスカル・ロジェ(1951年〜)はフランス物を得意とするシャルル・デュトワとの共演。ジャン=フィリップ・コラール(1948年〜)はピアニストでもあるアンドレ・プレヴィンのサポートを受けた演奏。

 私の感じるところでは、ロジェはハイドンやブラームスなどのドイツ物も得意としているが、やはりサン=サーンス以後、フォーレ、サティ、ドビュッシー、ラヴェル、プーランクと言った、フランス近代から現代のピアノ曲がすばらしい。コラールもまた、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルら近代フランス音楽を得意とするピアニストだが、ムソルグスキーやラフマニノフなどの演奏が世界的に評価されていることは、わが国でまあまり知られていないようだ。ロジェとコラール、二人のフランス人に共通するところと異なるところを聴き比べるのが楽しい。

 共演はどちらも同じロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団であるが、デュトワ(1936年〜)は色彩豊かな音作り、プレヴィン(1929年〜2019年)は陰影の濃い表現を聴かせてくれる。こちらも聴き比べを楽しんでほしいところだが、カップリングの曲で選ぶのも良いだろう。

1)ロジェ盤

収録曲
1.ピアノ協奏曲第4番ハ短調 作品44

2.ピアノ協奏曲第5番ヘ長調『エジプト風』作品103

独奏:パスカル・ロジェ(ピアノ)
指揮:シャルル・デュトワ

演奏:ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1978年


2)コラール盤

収録曲
1.ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品29

2.ピアノ協奏曲第5番ヘ長調『エジプト風』作品103
3.ウェディング・ケーキ(カプリス・ワルツ) 作品76
4.アフリカ幻想曲 作品89

独奏:ジャン=フィリップ・コラール(ピアノ)
指揮:アンドレ・プレヴィン
演奏:ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1986年(1-2)、1987年(3-4)


(しみずたけと) 2024.1.7

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