讃美歌/聖歌を探す

 クリスマスの歌は讃美歌や聖歌になっているものが多くあります。讃美歌集や聖歌集をお持ちであれば、ぜひ探してみてください。ちょっと面倒なのは、教団や教派によって、独自の讃美歌・聖歌集を使っているため、番号が統一されておらず、歌詞が異なっていることも、ままあります。ここでは《カラヤン/アヴェ・マリア》にある曲を、わかる範囲で記しておきます。(略号の説明は末尾)

●きよしこの夜

讃美・109番「きよしこのよる」
讃二・244番「きよしこのよる」
讃21・264番「きよしこの夜」
聖歌・148番「きよしこのよる」
聖総・96番「きよしこのよる」
新聖・77番「きよしこの夜」
福音・93番「きよしこのよる」
新生・163番「きよしこの夜」
教会・37番「きよしこのよる」
希望・51番「きよしこの夜」
イ合・173番「きよしこのよる」
イ改・413番「きよしこのよる」
聖公・74番「きよしこの夜」
古今・27番「きよしこのよる」
カト・111番「静けき真夜中」

●天には栄え

讃美・98番「あめにはさかえ」
讃21・262番「聞け、天使の歌」
聖歌・123番「きけやうたごえ」
聖総・71番「きけやうたごえ」
新聖・79番「天には栄え」
福音・89番「栄光とわに 王なる御子に」
新生・167番「天にはさかえ」
教会・30番「平和のきみに」
希望・39番「あめには栄え」
イ合・163番「神にはさかえ」
イ改・401番「神にはさかえ」
聖公・81番「神には栄え」
古今・18番「かみにはさかえ」
カト・652番「あめにはさかえ」

●われらは3人の王

讃二・52番「われらはきたりぬ」
聖歌・135番「われらはきたりぬ」
聖総・83番「われらはきたりぬ」
新聖・96番「われらは来りぬ」
福音・95番「彼方の国から」
新生・192番「みたりの博士は」
希望・62番「われらは来たりぬ」
聖公・110番「われらは東の」
古今・36番「われらはひがしの」

●あら野の果てに

讃美・106番「あら野のはてに」
讃二・243番「あら野のはてに」
讃21・263番「あら野のはてに」
聖歌・138番「「君なるイェスは今あれましぬ」
聖総・86番「君なるイェスは今あれましぬ」
新聖・78番「荒野の果てに」
福音・87番「あら野のはてに」
新生・165番「荒野のはてに」
教会・33番「あら野のはてに」
希望・46番「あら野のはてに」
イ合・172番「あら野のはてに」
イ改・412番「あら野のはてに」
聖公・91番「荒野の果てに」
古今・35番「あらののはてに」
カト・121番「天のみつかいの」

●ともに喜びすごせ

讃二・128番「世の人忘るな」
聖歌・128番「たがいによろこび」
聖総・76番「たがいによろこび」
新聖・74番「世の人忘るな」
福音・92番「人みな喜び歌い祝え」
新生・193番「人みな喜び歌い祝え」
希望・55番「人みなよろこび」
聖公・89番「星影さやけき」
古今・30番「ほしかげさやけき」

●あめなる神には

讃美・114番「天なる神には」
讃21・265番「天なる神には」
聖歌・125番「ふけゆくのはらの」
聖総・73番「ふけゆくのはらの」
新聖・80番「天なる神には」
福音・90番「天なる神には」
新生・160番「天なる神には」
教会・27番「天なる神には」
希望・44番「天なる神には」
イ合・165番「天なる神には」
イ改・403番「天なる神には」
聖公・83番「人にはみ恵み」
古今・21番「ひとにはみめぐみ」

●高き天より

讃21・246番「天のかなたから」
福音・88番「高き御空から私は来ました」
新生・182番「天より降りて」
教会・23番「天よりくだりて」

●オー・ホーリー・ナイト

讃二・219番「さやかに星はきらめき」
聖総・817番「きよらに星すむこよい」
イ改・420番「聖なる夜星はきらめく」

<略号>

讃美=日本基督教団、『讃美歌』
讃二=日本基督教団、『讃美歌第二編』
讃21=日本基督教団、『讃美歌21』
聖歌=日本福音連盟、『聖歌』、いのちのことば社
聖総=日本教会音楽研究会、『聖歌(総合版)』、聖歌の友社
新聖=日本福音連盟、『新聖歌』、教文館
福音=福音讃美歌協会、『教会福音讃美歌』、いのちのことば社
新生=日本バプテスト連盟、『新生讃美歌』
教会=日本福音ルーテル教会、『教会讃美歌』
希望=セブンスデー・アドベンチスト教団、『希望の讃美歌』
イ合=インマヌエル讃美歌委員会 、『インマヌエル讃美歌 リバイバル聖歌 合編』
イ改=インマヌエル讃美歌委員会 、『インマヌエル讃美歌 改訂版』
聖公=日本聖公会、『聖歌集』
古今=日本聖公会、『古今聖歌集』
カト=聖歌集改訂委員会、『カトリック聖歌集』、光明社


(しみずたけと) 2021.12.17

『クリスマスのうた』へ跳ぶ

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草原の小姉妹


 前回、ブリテンの『戦争レクイエム』を紹介する中で、世界で活躍する小澤征爾の、日中関係を見る目、個人と集団のあり方について、少しばかり書いた。ここで紹介するのは、彼が音楽監督を務めるボストン交響楽団を率いておこなった、1979年4月の中国ツアーでの録音である。

 日本は、中国とは数千年にわたる関係があるにもかかわらず、たとえば日中関係が良くなると中国語を学ぶ者が増え、関係が悪化した途端に減るといった、その時々の状況に左右されやすい国民性が表出する。相手をステレオタイプでしか見ることができないのは、権力やメディアによる誘導があるにしても、自我の認識が希薄で、自分のモノサシが無い証左である。そうした特質が“お上”から“下々の民”にまで浸透している社会からは、小澤征爾のような人物はなかなか出てこない。

 この年の1月の米中国交正常化を背景にした友好行事という側面があり、両国の音楽作品を、両国の音楽家によって演奏するというところがミソなので、それぞれの国らしさを前面に出した曲が選ばれているのだろう。それを、中国に生まれ、米国で音楽活動をする日本人が取り持った、日米中の協力で実現した音楽会ということが、このレコードを日本で販売する宣伝材料なのだろうが、たまたま小澤征爾が日本人であると言うだけで、とりわけ日本が米中友好のために大きな役割を果たしたわけではないことを、聴く側の私たちは認識しておいた方が良いと思う。

 この曲は、今回紹介するCDを聴くまで知らなかったのだが、中国的なメロディと西洋音楽を融合させたような作品である。琵琶演奏の第一人者といわれる劉徳海は、1937年、上海生まれ。その美しい響きが印象的である。2020年、惜しまれつつ亡くなった。

 二曲目の『星条旗よ永遠なれ』は、マーチ王と謳われる米国のジョン・フィリップ・スーザ(1854~1932年)による作品。今さら説明など必要ないだろう。米国のオーケストラがアンコール曲として好んでとりあげる一品で、「いかにもアメリカ!」なのだが、これが米国らしさの本流なのだろうか。やや違和感も感ずるところだ。

 最後のリストのピアノ協奏曲は、米中とは別の、もうひとつの極である欧州の作品という意味合いだろうか。ピアノを弾く劉詩昆(1939年~)は、1958年の第一回チャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で第二位になった人物である。このときの優勝者はヴァン・クライバーン(1934~2013年)。モスクワ音楽院に留学し、帰国後は中央音楽院で教えていた劉詩昆だが、66年に始まった文化大革命で西洋音楽は禁止。紅衛兵に腕や指を折られ、逮捕されて八年間の刑務所暮らしを強いられた。この演奏会に招聘されたのは、同じく文化大革命で辛酸を嘗めさせられた鄧小平の肝煎りだったのではなかろうか。


::: C D :::

1)呉祖強:琵琶協奏曲『草原の小姉妹』
2)スーザ:星条旗よ永遠なれ
3)リスト:ピアノ協奏曲第1番変ホ長調

独奏:劉徳海(琵琶)
   劉詩昆(ピアノ)

指揮:小澤征爾
演奏:ボストン交響楽団

録音:1979年・北京(ライブ


(しみずたけと) 2023.10.6

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オザワの《戦争レクイエム》


 モーツァルトに始まる一連のレクイエム紹介のきっかけは、ウクライナ戦争に心を痛めたからだった。しかし、ベンジャミン・ブリテン(1913~1976年)の『戦争レクイエム』をとりあげたのは、ウクライナ戦争が始まる半年以上も前になる。もとより鈍感な人間であるから、予感の類であるはずがない。歴史に残る大作曲家たちによるいくつかのレクイエムをまとめて聴きなおす機会にはなったが、心は少しも晴れないままだ。

 無信仰者の私だが、これも何かの啓示かもしれない、『戦争レクイエム』を改めて聴きなおすことにした。

 歌詞に用いられているのは、オーソドックスなラテン語の典礼文とウィルフレッド・オーウェン(1893~1918年)による英語の詩だが、両者の比重はほぼ同じ。その接続は実に巧みにされているという。生まれつき病弱だったオーウェンが第一次大戦に従軍し、敵弾に倒れたのは休戦一週間前だった。総譜の冒頭にあるのは彼の言葉である。

 「私の主題は戦争であり、また戦争の悲哀である。そして詩は悲しみの中にある。詩人のなし得るすべてのことは、警告することなのだ」


戦争レクイエム

 曲は六つの楽章で構成されている。

第1楽章  永遠の安息を

・主よ、永遠の安息を彼らに与え給え
・家畜のように死んでゆく兵士たちに

第2楽章  怒りの日

・その日こそ怒りの日である
・夕べの大気を悲しげに
・そのとき、この世を裁く
・戦場で、ぼくたちはごく親しげに
・慈悲深いイエスよ
・汝の長く黒い腕が
・怒りの日
・罪ある人が裁かれるために
・彼を動かせ

第3楽章  奉献文

・栄光の王、主イエス・キリストよ
・かくて、アブラハムは立ちあがり

第4楽章  聖なるかな

・聖なるかな、聖なるかな
・東方から一筋のいなずまが

第5楽章  神の小羊

・かりそめにも爆撃された

第6楽章  我を解き放ちたまえ

・主よ、かの恐ろしき日に
・ぼくは戦闘から脱出して
・さあ、もう眠ろうよ


 

::: C D :::

 前回は作曲者自身の指揮による1963年の演奏だったが、今回はなるべく新しい録音のものを選んだ。小澤征爾(1935年~)とサイトウ・キネン・オーケストラによるライブである。満洲に生まれた小澤は、日本で教育を受け、欧州で認められ、米国で成功し、西洋音楽の世界で確固たる地位を得た人物である。西洋と東洋の接するところに生き、両者の優れたところとそうでないところを肌で感じとってきた人間だけが持つ、俯瞰的な視点。私はそれを感ぜずにはいられない。

 小澤征爾のつくり出す音楽は、時に淡泊、時に熱く、そして純音楽的。彼を含め、音楽家が政治について語ることはほとんどないと思われがちだが、彼が政治に無関心な人間だということにはならない。戦争末期、満洲から引き揚げ、一家で立川に暮らしていた彼は、米軍のP51戦闘機が、軍事的必要性からではない、子どもや一般市民に対する無差別な機銃掃射を目撃し、こう語っている。

「恐らくふざけてやっていた気がするな。桑畑なんて撃つ必要がないんだから」

 同級生の自宅は直撃弾によって一家三人が即死したと言う。これは朝日新聞(2013年9月19日)に載ったインタビュー記事である。記事の題名は「日中関係《大事なのは一人ひとり》」。尖閣列島の領有をめぐり、日中関係が冷え込んでいく時期だった。

「俺なんか全然冷え込んでないよ。冷え込んでいるのは、日中政府間の関係。大事なのは一人ひとりの関係で、ぼくは、中国にいる友人たちを信じている(中略)人間生きていくときにね、俺の政府と、お前の政府との仲が冷え込んでいるからって俺には何の関係もないよ。ぼくはまったく心配していない。中国にいる僕の仲間だって心配してないと思う(中略)政府がどう言ったからだとか、新聞が書いているから、とかじゃなくて。大事なのは一人ひとり。政府よりも、政府じゃない普通のひとがどう考えるかが一番大事。僕はそう思う」

 1979年、手兵のボストン交響楽団を率いて中国公演をおこない、中国のオーケストラとも合同演奏会を実現した彼の言葉には重みがある。それで思い出したのは、別のTVインタビューでのこと。聴き手がいろいろな単語をあげ、それに答えるという趣向だった。その中の一問一答。

Q.航空母艦
A.無駄なもの

 小澤征爾の音楽から政治性が排除され、純粋な音楽としての昇華こそが柱になっているのだとしたら、それは彼が政治に対して無関心なのではなく、政治の貧困、歪んだ政治の無力さゆえなのだろう。いつの時代も、音楽は政治に利用されてきた。いや、政治と結びつくことによって生きながらえてきたという側面も否定できない。

 権力が音楽を利用してきたと同様、それに抗する民衆もまた、音楽によって団結してきたのもまた事実である。なぜなら、音楽というものは、人々に生きる勇気を与えるためのものであるから。また、そうあるべきであるから。音楽にかぎらず、絵画、写真、映画など芸術全般、文学などにも言えることである。

 米国の国際政治学者サミュエル・ハンティントン(1927~2008年)は、現代の国家間の対立を「文明の衝突」と呼んだ。彼の言う文明が、何によって構成されるものなのかが今ひとつわからないのだが、おそらく文化は含まれていないのだろう。言語や宗教が違うからと言って、人は必ずしも対立したり争ったりするわけではない。利権や富の配分、その不均衡や不公正さこそが主たる原因になっている。それを容認し、むしろ推進しているのが政治である。いや、政治それ自体がそのことを目的としているからにほかならない。

 「大事なのは一人ひとり」は、彼が自我を確立した個人、市民社会に生きる人間であることを表している。それが中国大陸に生まれたことによるものなのか、欧米社会に長く身を置いたせいなのかはわからないが、多くの日本人とは異なっている特質であろう。私が「小澤征爾は日本人ではない」と思うのは、民主主義の理解度の相違、まさにこの点にある。

 その小澤征爾による、長野県松本文化会館での『戦争レクイエム』である。こうした大曲、大編成のオーケストラを操る巧みさは昔からだし、世界で活躍する演奏者が結集したサイトウ・キネン・オーケストラの機動性は折り紙付き、独唱も合唱も文句なしの出来映えなのだが、このライブはそれだけにとどまらない。咽頭ガン手術のあと、まさに命を削るかのような鬼気迫る彼のバトンは、ステージ上すべての演奏家の魂の叫びを引き出し、その温かさが聴衆の心にしみ入ってくる。

 翌年、彼の『戦争レクイエム』は、ニューヨークのカーネギー・ホールで再び演奏された。バリトンがマティアス・ゲルネに変わったほかは、ほぼ同じ顔ぶれ。音の良さで定評のある会場だが、松本文化会館も負けていない。以前、スタジオ録音とライブの違いを、ラファエル・クーベリックの『マーラー交響曲第5番』で聴きくらべてもらったことがあるが、今回の聴きくらべはホールと聴衆ということになろうか。オザワ渾身の『戦争レクイエム』を、とにかく聴いてほしい。

1)2009年 松本文化会館

独唱:クリスティン・ゴーキー(ソプラノ)
   アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール)
   ジェイムズ・ウェストマン(バリトン)
合唱:SKF松本合唱団、東京オペラシンガーズ
   栗友会合唱団、SKF松本児童合唱団

指揮:小澤征爾
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ


2)2010年 ニューヨーク カーネギー・ホール

独唱:クリスティン・ゴーキー(ソプラノ)
   アンソニー・ディーン・グリフィー(テノール)
   マティアス・ゲルネ(バリトン)
合唱:SKF松本合唱団、東京オペラシンガーズ
   栗友会合唱団、SKF松本児童合唱団


指揮:小澤征爾
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ


(しみずたけと) 2023.10.5

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眠れぬ夜は…《シェヘラザード》


 暑い日がつづくものの、一時ほどではなくなった。エアコンをつけたまま寝て風邪をひく心配をしなくてすむのはありがたいことだ。それでも眠れない夜というのはある。夜遅くまでPC画面と睨めっこしていたりすると、目の疲れなのか、神経が高ぶってしまうのか、目を閉じても光がチラチラするようでいけない。

 そんなときは本を読むにかぎる。小難しい本は疲れるだけだから、読んで楽しい、ワクワクするもの。そうだ!『千夜一夜物語』があった!

 むかしむかし、ササン朝ペルシャの時代。ある日、シャーリアール王は妻と奴隷の間の不義を知り、その二人の首をはねた。女性不信に陥った王は、大臣に命じて生娘を連れてこさせ、夜伽をさせては翌朝にはその首をはねる。そうした毎日がつづき、国から娘たちがいなくなり、困り果てた大臣だが…。

 大臣には二人の娘がいた。姉のシェヘラザードが、自ら名乗り出て王の閨に赴くことに。営みの後、妹のドニヤザードがやって来て「お姉さま、面白い物語を聴かせてくださいな」とねだる。シェヘラザードは詩人から詩を、民謡から歌詞を借り、王と妹に不思議な話を語るのだった。そのひとつひとつが、私たちが今日「アラビアン・ナイト」の名で知る物語である。話が佳境に入ったところで、「つづきはまた明日の夜に」。この先どうなるのか、物語のつづきを聴きたい王はシェヘラザードの命を奪うことができない。賢い姉妹である。

 物語を聴くこと千と一日、女性不信から立ち直ったシャーリアール王は改心し、悪習を止める。全巻を読む必要などない。お気に入りの物語を楽しんでいるうちに、いつしか眠りに落ちていることだろう。


 私が読んだのは、英語のバートン版から日本語訳されたものと、フランス語のマルドリュス版の日本語訳だが、アラビア語からの原典訳もあり、いずれ読んでみたいと思っている。ヨーロッパ世界に伝わる過程で、「アラジンと魔法のランプ」、「シンドバッドの冒険」、「アリババと四十人の盗賊」、「空飛ぶ絨毯」など、アラビア語の写本にはない話がつけ加えられ、今ではむしろこちらの方が有名になってしまった。

 ついでにBGMも流そう。「ロシア五人組」のひとりで、色彩感あふれる曲を多数残したニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908年)による交響組曲《シェヘラザード》である。


交響組曲《シェヘラザード》作品35(1888年)

 『千夜一夜物語』の各物語は、夜に始まり、朝に終わることになっている。この曲の各楽章もまた、夜から朝にかけて展開していく。各楽章に、力強いユニゾンのシャーリアール王の主題とヴァイオリン独奏のシェヘラザードの主題が現れ、この二つが絡み合いながら物語を紡いでいくとともに、曲全体を有機的に結びつけている。作品が大きくまとまった印象を受けるのは、この巧みな主題の使い方なのだろう。

第1楽章「海とシンドバッドの船」

 序奏のあとに現れるのは、威厳を感じさせる力強いシャーリアール王の主題、そしてハープによる伴奏を従えた柔和で表情豊かなシェヘラザードの主題。主部は、うねるような伴奏音型の海の主題と、その波頭を乗り越えていくかのようなシンドバッドの船の主題がつづく。12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学し、ロシア海軍の士官として外洋航海の経験もあるリムスキー=コルサコフならではの海の描写だ。

第2楽章「カランダール王子の物語」

 カランダールと言うのは王子の名前ではない。諸国を行脚する托鉢僧である。曲の始まりに現れるシェヘラザードの主題は、「むかしむかし、あるところに…」と、物語の始まりを思わせる前口上のようだ。ファゴットによる8分の3拍子のメロディがカランダール王子の主題。少しばかりコミカルな人物像が浮かぶ。中間部で咆哮するトロンボーンはシャーリアール王。思わず笑ったのだろうか、それとも「それでどうなった」と、話のつづきの督促だろうか。さまざまな主題が織りなすのは、カランダール王子が遍歴の旅で出会う事柄や苦難なのだろう。

第3楽章「若い王子と王女」

 曲は8分の6拍子の弦だけで始まる。アンダンテ・クアジ・アレグレットのゆったり歌うような主部は情景の描写のようである。中間部は歯切れの良い小太鼓のリズムに乗ったクラリネットの快活なメロディ。デュエットを踊る王子と王女だろうか。最後はシェヘラザードの主題をまじえながら、静かに終わる。

第4楽章「バグダッドの祭り、海、船は青銅の騎士のある岩で難破、終曲」

 シャーリアール王の主題と、それを笑いながら答えるかのようなシェヘラザードの主題の後、主部であるバグダッドの祭りの主題が16分の6拍子で奏でられる。徐々に盛り上がり、激しさを増していく中で、これまで現れた各主題が回想のごとく再現され、荒れ狂う波に呑まれる船の難破で頂点に。そして一転、穏やかになった海の主題が再現され、独奏ヴァイオリンによるシェヘラザードの主題が消え行くように終結する。まるで「王様、今宵も安らかにおやすみください」とささやくように…。


 

::: C D :::

 なにしろ大人気の曲であるから、録音は多いし、魅力あるものであふれかえっている。嬉しいくらいチョイスに迷ってしまう。

1)バーンスタイン盤

  レナード・バーンスタイン(1918~90年)が、哲人指揮者ディミトリ・ミトロプーロス(1896~1960年)の後を受け、名門ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任したのが1957年。まだ40歳になる前のことである。そのわずか一年後であるが、粘るようなテンポ、直截かつ明敏な音作り、精悍で起伏豊かなバーンスタインならではの世界が、このとき既に完成されていたことがわかる。

 なぜこの盤を最初に持ってきたのか。シャーリアール王を表すトロンボーンである。やや割れ気味の大音量が、オラオラ顔の、いかにも暴君といった風情に聞こえないだろうか。対するシェヘラザードは、名コンサートマスターとして知られたコリリアーノの美しいソロ。重厚と軽妙、動と静、明と暗を鮮やかに対比させつつ、若さと熱い意欲がほとばしる圧倒的な演奏となっている。

 カップリングされている『スペイン奇想曲』作品34は、リムスキー=コルサコフが前年に作曲したもの。こちらはカーネギー・ホールでのライブ録音である。

1.交響組曲『シェヘラザード』
2.スペイン奇想曲

演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック
独奏:ジョン・コリリアーノ(ヴァイオリン)
指揮:レナード・バーンスタイン

録音:1959年


2)ストコフスキー盤

 レオポルド・ストコフスキー(1882~1977年)はこの曲を六回録音しているらしい。これはたぶん最後から二番目のものだ。この演奏を聴くと、バーンスタインの指揮ぶりが真面目すぎるように思えてしまう。それくらい、あの手この手をくり出してくる。

 どんな曲でも、効果的に聴かせる、聴衆に喜んでもらう、そんなサービス精神にあふれた奇才、それがストコフスキーだった。スコアとは異なる楽器の使い方をしたり、音符を付け加え、小節をカットし…。やりたい放題と批判する人もいるが、聴いていて面白いことこの上ない。ここでもシロフォンを派手に鳴らすなど、打楽器群に手を入れ、テンポを自在に動かして効果を上げている。口さがない人は“ストコ節”などと呼ぶが、この曲は標題音楽なのだから、むしろそれで良い、その方が良いと思うのだ。ヴァイオリン・ソロは、繊細さよりも賢くて強い女性を思わせる。私はこのグリューエンバーグのスタイルがいちばん気に入っている。

 こちらもカップリングは『スペイン奇想曲』。バーンスタインと聴きくらべてみるのも一興だろう。

1.交響組曲『シェヘラザード』
2.スペイン奇想曲

演奏:ロンドン交響楽団
   ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(2)

独奏:エリック・グリューエンバーグ(ヴァイオリン)
指揮:レオポルド・ストコフスキー

録音:19
64


3)ロストロポーヴィチ盤

 ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927~2007年)は世界屈指のチェリストだったが、指揮者としての評価はそこまで高くない。しかし、劇的な起伏に富んだスケールの大きさを感じさせるこの録音は、間違いなく一級品に仕上がっている。エキゾチックでありながら、それだけに頼るようなところは微塵もない。色彩豊かなリムスキー=コルサコフの音楽は、とりわけフランスのオーケストラとは相性が良く、その美点が最良の形で現れた演奏と言って良いだろう。

 シャーリアール王のトロンボーンが表すのは、決して粗野な暴君ではなく、裏切られて傷ついた知的な権力者のようである。それを癒やし、真人間に戻そうとするかのような知性あふれるシェヘラザード。ヨルダノフのヴァイオリンが実に素晴らしい。

演奏:パリ管弦楽団
独奏:ルーベン・ヨルダノフ(ヴァイオリン)

指揮:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ

録音:1974年


4)小澤征爾盤

 小澤征爾は、シカゴ交響楽団、ボストン交響楽団、ウィーン・フィルと、この曲を三回録音している。彼のフランスものやロシアものに定評があるのは、色彩感豊かでリズミカルな音作りがマッチングの良さとして現れるからに違いない。しかし、この演奏を聴くと、他の指揮者とはやや趣を異にすることに気づかされる。

 こってりした色調の油絵のような演奏が多い中で、小澤征爾の『シェヘラザード』はスーラのような点描画、いや、ときおり墨だけで描いた中国の南画のようにも思えてくる。眼前に色鮮やかな海が広がっているかと思えば、次の瞬間には砂漠の夜がモノトーンで立ちのぼる。まるで蜃気楼を見ているようではないか。そうか、アラビアン・ナイトの世界は、実は白日夢。

 日本人指揮者だからではない。中国大陸に生まれた小澤征爾ならではの、西洋と東洋の接する境界領域を描いているかのようだ。激しい嵐で船は難破、しかし嵐がやんだ海は静けさを取りもどす。まるで何もなかったかのような、非情なまでの穏やかさと美しさ。リムスキー=コルサコフが描こうとしたのは、まさにこれだったのではあるまいか。

演奏:ボストン交響楽団
独奏:ジョゼフ・シルヴァースタイン(ヴァイオリン)

指揮:小澤征爾

録音:1977年


5)コンドラシン盤

 ロシアの名指揮者キリル・コンドラシン(1914~81年)は、1978年に西側に亡命。67歳で急逝したため、活動できたのは、わずか三年。短い期間であったが、残された録音は優れものばかりである。これもそのひとつ、オランダの名門コンセルトヘボウとの共演が生んだ、色彩感とエキゾチズムにあふれた名録音だ。

 このオーケストラの最大の美点は、おそらく管楽器群、とりわけ金管楽器のいぶし銀のような音色だろう。コンドラシンの指揮は、それらを雄弁で表情豊かに鳴らし、しかも品格を保ちながら、全体を大きなスケールで描いていく。

 カップリングは、日本の演奏会ではあまり聴く機会のないアレクサンドル・ボロディン(1833~87年)が1877年に作曲した交響曲第2番で、1980年のライブ録音である。

1.交響組曲『シェヘラザード』
2.ボロディン:交響曲第2番ロ短調

演奏:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽
独奏:ヘルマン・クレバース(ヴァイオリン)

指揮:キリル・コンドラシン

録音:1979年、1980年(ライブ)


(しみずたけと) 2023.8.31

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夜空を見あげて《惑星》


 夏休みが終わろうとしている。コロナ禍で引きこもりを強いられていた人たちが一気にくり出したのか、円安によるインバウンド旅行者も多く、行楽地はどこもかしこも大混雑だったようだ。富士山の凄まじさと言ったら…。海や山に出かけた人もいるだろうが、昨今の混み具合を思うと、私などはむしろ引きこもりの方を選びたくなってしまう。子どもの頃は、あんなに楽しみにしていた夏休みだったのに…。

 夏休みの思い出として、海や山と同じくらい記憶に残っているのは、星空を見ることだった。星座早見盤を片手に“星めぐり”。あの頃の東京は、今のような光の洪水もなく、視界をさえぎるような高層建築もなかったのである。何度もくり返し読んだ『銀河鉄道の夜』と『星と伝説』。星座とギリシャ神話にのめり込んでいったのは、おそらくこの二冊がきっかけだったに違いない。

 天の川を挟んだ、こと座のヴェガとわし座のアルタイル、そして、はくちょう座のデネブが織りなす夏の大三角形は有名だが、より印象的なのは、もっと早い時間にのぼってくる“S”の字を描いたさそり座だろう。赤く輝く主星アンタレスが南の空に映える。ギリシャの大天文学者プトレマイオスは、大著『アルマゲスト』の中で、1000ほどの星について、位置、明るさ、特徴を克明に記しており、色については、アンタレスの他、オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウスを「赤色の大星」と特記している。

 シリウスが赤い? 地球上から見える、太陽を除けば全天で最も明るい恒星、あのシリウスのことか? あれは青白い星だったと思うが…。夏の明け方近く、白み始めた東の空に赤く輝くのは、まさしくそのシリウスである。古代エジプトの民は、この星を犬神オシリスの化身として崇め、太陽と共に東の空に現れるのをナイル氾濫の予兆としていた。赤いシリウスを知る人は多くはないだろう。私も山登りをするようになってから初めて目にした。夜明け前に出発する登山者の特権である。

 そんなシリウスでさえも、はるかに近距離にある太陽系の惑星の明るさにはかなわない。明けの明星、宵の明星と呼ばれる金星、不気味な赤さの火星、そして圧倒的な明るさを誇る木星。ところで、海や川、森などにくらべ、星をテーマにした曲が少ないように感ずるのは私だけであろうか。今宵は星にちなんだ音楽でも聴くことにしよう。その名も、ずばり『惑星』。知らない人は、まずいるまい。クラシックとしては、それほど有名な、いや人気の曲と呼んで良いだろう。


ホルスト 組曲『惑星』作品32(1916年)

 火星に始まり、金星、水星、木星、土星、天王星、海王星と、7曲からなる管弦楽組曲である。作曲したのは英国のグスターヴ・ホルスト(1874~1934年)。太陽系の内側から外側へ…、という順ではない。地球から近い順(こう考えられた時期はあったかもしれないが)でもない。そもそも、太陽系諸惑星の公転軌道は同一平面上ではないから、地球に近づいたり遠ざかったりするものだ。

 冥王星がないのは、この曲が作られた当時、まだ存在が知られていなかったからで、発見されたのは1930年になってからである。2006年、国際的な大論争の末、冥王星は第9惑星の地位を失い、準惑星とされた。さらには、地球も含まれていない。ホルストの惑星は、天文学でいうところの惑星ではなく、西洋占星術の惑星(地球から見た惑星)なのである。神秘主義者だったホルストらしいではないか。

 作曲に着手したのは1914年。第一次大戦勃発の年である。第一曲が「火星、戦争をもたらすもの」なのは、戦争の予感だろうか。威圧的な五拍子のリズムがこの曲の特徴を物語っている。最も有名なのが、第四曲の「木星、よろこびをもたらすもの」。とりわけ中間部のアンダンテ・マエストーソは、この部分だけ取り出して歌われたりもする。私たち日本人の心の琴線に触れる、なにか懐かしい気持ちにさせられるのは、スコットランド民謡などで耳にすることの多いペンタトニックスケール(五音音階)だからであろう。

 管弦楽組曲であるが、ソナタ形式のアレグロで始まる「火星」、アダージョの「金星」、スケルツォ的なヴィヴァーチェの「水星」、アンダンテ・マエストーソの主題を持つ「木星」、アダージョの「土星」、アレグロの「天王星」、アンダンテの「海王星」と、緩急楽章が交互にあらわれるところなど、交響的な特徴を有している。最後が消え入るような女声合唱など、無限の宇宙空間に吸い込まれていくようだ。

第1曲 火星、戦争をもたらすもの
第2曲 金星、平和をもたらすもの
第3曲 水星、翼のある使者
第4曲 木星、よろこびをもたらすもの
第5曲 土星、老いをもたらすもの
第6曲 天王星、魔術師
第7曲 海王星、神秘主義者

 さて、あまり小難しいことなど考えずに、音楽そのもを楽しむことにしよう。


::: C D :::

 組曲『惑星』は世界的に人気があり、少し前までは演奏会でも頻繁にとりあげられていた。録音の数も多い。この曲の演奏には、大きく分けて三つの様式があるように思う。ひとつはイギリスの伝統的な民謡を彷彿とさせる、やや地味ではあるが、ゆったりとした中に壮大なスケール感を醸し出すもの。英国出身の指揮者にはこのスタイルが多く、同郷のオーケストラとのコンビでそれは最大限に発揮されるようだ。次に、濃厚なロマンチシズムと優雅さを併せもったヨーロッパ的な演奏。そして最後は、大スペクタクル映画のような煌めきと迫力に満ちた、華麗と言うよりはド派手なアメリカン・スタイル。それぞれに良さがあり、好みもあるだろうから、それら三つに合いそうなものを紹介したいと思う。

 

1)ボールト盤

 まずは正統派イギリス的演奏として、エードリアン・ボールト(1889~1983年)をあげたい。作曲したホルストの信頼篤く、この曲の初演を任された人である。ライブを除き、『惑星』を全部で五回も録音している。1978年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を振った最後のものが高い評価を得ているようだが、私はニュー・フィルハーモニア管弦楽団との1966年の演奏をとりたい。あらゆる意味でスタンダード、後のレコーディングの指標になった演奏だろう。「木星」の中に、“ため”とでも言えば良いだろうか、一呼吸おく箇所がある。ボールトの他のレコーディングにはないのだが、これが実にイギリスを思わせるのだ。

 『惑星』を複数回レコーディングしている指揮者はあまりいない。いるとすれば、それはレコード会社の要請であろう。なにしろ人気の曲だから、一定数売れるに決まっている。しかし、ボールトだけは別格だ。作曲者本人を知り、信頼し合い、初演者なのである。曲の解釈、そして曲への思い入れ、この人の右に出るものはいないと言って良いだろう。

指揮:サー・エードリアン・ボールト
演奏:ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

合唱:アンブロジアン・シンガーズ女性グループ

録音:1966年(ライブ)


2)カラヤン盤

 英国ローカルだった『惑星』が世界的に知られるきっかけになったのは、おそらくこのレコードによるものだろう。広大なレパートリーを誇るヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89年)だが、英国ものの録音は決して多くはなかった。彼がなぜこの曲をとりあげたのかはわからないが、クラシック音楽をビジネスとして見る目、録音技術への関心を思うと、『惑星』はレコード化にうってつけの題材だったのだろう。

 「火星」では、ユーフォニアムの代わりにワグナー・チューバが使われている。この頃、ウィーン・フィルはデッカーのプロデューサーを務めていたジョン・カルショー(1924~80年)のもと、ゲオルク・ショルティ(1912~97年)の指揮でワーグナーの『ニーベルンクの指輪』全曲録音を進めていたが、それが関係しているのだろうか。ユーフォニアムの澄んだ音にくらべ、やや割れ気味の音が迫力を加えている。

 慣れない曲ということもあって、「木星」ではオーケストラがついて行けずにアンサンブルが乱れるところがある。ウィンナ・ホルンは、ダブルピストン・バルブを使用した、基本的にはFシングル管の一種古楽器であるし、ピストンではなくロータリー・バルブのウィンナ・トランペットともども、速いパッセージは得意ではない。楽器が良くなり、演奏技術も進歩した今日であれば、おそらくこのようなことにはならないだろうが、なにしろ60年も前の演奏なのだ。それにしても当時のデッカの録音技術は凄い。半世紀以上前とは思えない音質に驚かされてしまう。

 カラヤンは20年後に手兵のベルリン・フィルと再録音している。演奏はさらに洗練され、デジタル録音と相まって、より華麗さを増しているのだが、私はこのウィーン・フィルとの録音の方が好きだ。エポック・メイキングという事実もさることながら、華麗さではなく“華”とでも言えば良いだろうか、チャーミングな優美さに惹かれてしまう。

指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
合唱:ウィーン国立歌劇場合唱団


録音:19
61


3)メータ盤

 インドはムンバイの裕福なパルシーの一族として生まれたズービン・メータ(1936年~)。マゼール、アバド、小澤征爾とともに、カラヤンとバーンスタインの次代を担う四天王として、若いときから将来を嘱望された俊英である。カラヤン&ウィーン・フィルによって、一般に知られるようになった『惑星』であるが、クラシックのファン以外にも広く認知され、その後の大ブレークのきっかけになったのは、おそらくこのレコードだったろう。このとき、メータはまだ35歳。

 しなやかな弦セクション、咆哮する金管楽器群。いかにもアメリカ的だ。同じ年に、バーンスタインもニューヨーク・フィルハーモニックとのコンビで録音しているが、ロサンゼルス・フィルの方が明るくて躍動感にまさっている。26歳で音楽監督に就任し、地方オーケストラに過ぎなかった同楽団を全米トップクラスに育て上げた手腕には恐れ入ってしまう。

 ニューヨーク・フィルハーモニックに転出したメータは、89年に同曲を再録しているのだが、老成というか巨匠風に過ぎると言うべきか、かつての若さあふれるエネルギッシュな指揮ぶりが好きだったがゆえに、なにかが足りなく思えてしまうのだ。

指揮:ズービン・メータ
演奏:ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団
合唱:ロサンゼルス・マスターコラール女声合唱

   (合唱指揮:ロジェ・ワーグナー)

録音:1971年


三つの盤の演奏時間を比較すると・・・

ボールトカラヤンメータ
火 星 7:217:007:10
金 星 8:518:188:05
水 星 4:053:553:49
木 星 8:027:357:50
土 星 9:138:309:52
天王星 6:285:445:38
海王星 7:097:367:03

(しみずたけと) 2023.8.28

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