聖オラーフ教会とディケンズ


Church Bells of Englandというタイトルの12月のブログ記事からちょっと引用してみる。”聖オラーフ・ハート・ストリート教会は文豪チャールズ・ディケンズの作品に登場、稀代の日記作家サミュエル・ピープスの墓所があるのもここ”。

チャールズ・ディケンズ!? ん、ん、ピピッ! わたしのアンテナが反応する。ディケンズがロンドンの聖オラーフ・ハート・ストリート教会についてどのように触れているのだろうか。行ったことはおろか、名前すら聞いたことのなかった教会にもかかわらず、なぜか気になる。

特にディケンズの愛読者ということでもないが、彼のいくつかの小説から1800年代半ばのイギリスの世相をほの知った。労働者階級の少年主人公が苦難の道を歩む物語だったりする。ハッピーエンドなのがうれしいところだ。好きなのは「大いなる遺産」と言っておこうか。

話しの本筋にもどろう。聖オラーフ教会(=聖オラーフ・ハート・ストリート教会)が描写されている本の題名は The Uncommercial Traveller とのこと。Uncommercial とは面白い響きのことばだ。Commercial Traveller といえば、普通には「巡回行商人」とでもいうのだろうか。(富山の薬売りだ!)Uncommercialが「商売目的ではない」「商売に関係がない」という形容詞なら、ビジネス目的でなく(または、単に目的なく)旅をする人のことなのだろうか。ディケンズは晩年は自身の著書の朗読会のために国内ばかりでなく外国にも頻繁に旅行したという。わたしはこれは商用でもありそうだなあとは思うのだが。

ディケンズ(1812-1870)は小説を書き始める前は新聞記者や雑誌を発行するジャーナリストだった。さまざまな社会のできごとに敏感だったのだろう。The Uncommercial Traveller は自身で発行していた雑誌に1860年から65年に掛けて散発的に掲載していたエッセイを集めた本の題名である。短編37編が収められている。実際に取材した事件、イギリス国内で見聞きしたさまざまな場所や職業の人々、フランスやイタリア、果てはアメリカへの旅先での見聞が事実と脚色とで綾模様を成している。(『ドクトルまんぼう航海記』を彷彿させる。)The Uncommercial Traveller というタイトルを思いついたのは、1859年に当時名誉会長を務めていた the Commercial Travellers’ School in Londonにおいて行なった講演かららしい。ちょっとしたシャレだろうか。


さてさて、再び、聖オラーフ教会の話しにもどろうか。この教会がどのエッセイの中で触れられているのか不明だったため、37篇の内、それらしい題名を当たってみた。ひとつめと二つめ『シティ・オブ・ロンドンの教会』『夜の散策』はハズレだった。三つめが当たり。『不在者の街』というタイトルのエッセイだ。

不眠症に悩まされていた作者は身体を疲れさせることが目的で夜な夜なロンドンを巡る。ある雷雨の夜、タクシー(辻馬車)を駆ってこの教会の前に来る。そして、教会敷地への入り口ゲートの上部を飾る三つの髑髏を見やる。

https://www.britainexpress.com/London/st-olave-hart-street.htm

ディケンズは、この教会のみならず、複数の他の教会の描写にも実際の教会名は記していない。けれども、読者が実在の教会を推察するのは容易らしい。ディケンズは聖オラーフ教会を「聖・ぞっとする薄気味わる~」、彼のことばでは St.Ghastly Grimと名付けている。この髑髏と骨のレリーフゆえだろう。と言っても、ディケンズはこの髑髏を嫌悪していたのではなく、大のお気に入りだった模様。愛称のつもりだろう。彼は髑髏たちがその空洞の眼で門をくぐる人々をじっと見ていると感じていた。

シージング小路にあるこの門は1658建立

日記作家として名高く、海軍幹部でもあったサミュエル・ピープス(1633-1703)はこの教会に通い、死後ここに埋葬された。1665年から1666年に掛けて20万人のロンドン市民が死亡したと推定されている腺ペストが流行した。ピープスはその流行期にロンドンに住んでいた人である。(国王含め他の多くの金持ち同様、疎開した可能性はある。)彼の日記は1666年9月にあったロンドン大火などを知る際の貴重な資料ともされている。腺ペストはこの教会近辺から始まり、1665年に300人ほどがここに埋葬されたという。埋葬者名簿にはペスト死者は「p」と記されている。(pestのpでなく、plagueのpとのこと。)名簿の中にはこの疫病をこの国に最初に持ち込んだといわれるメアリー・ラムゼイも含まれている。

https://www.thehistoryoflondon.co.uk/st-olave-hart-street/2/

聖オラーフ教会はロンドン大火では焼失を免れたものの、第二次世界大戦中、ドイツ軍による4回の直撃を受け損壊した。それでも、構造は残っていたため、戦後には15世紀の姿にまで修復された。

ところで、「♪ロンドン橋落ちた、落ちた、落ちたー」という子どもの遊び歌をご存じだろうか。聖オーラフ教会と因縁があるという。

さて、このエッセイ集 The Uncommercial Traveller には奇妙な人たちが続々と登場する。「奇妙な」ということばは当たらないかもしれない。「異様な」だろうか。作者本人も夜な夜な街をうろつくことを思えば、異様であるかもしれないのだが...。例えば、聖オラーフ教会を描写したものではないのだけれど、礼拝に訪れた人を描いている箇所がある。老人と幼い女の子の二人連れ。女の子はひとことも発せず、礼拝席のベンチの上に立ち(座るのでなく)、老人はその子に飲み物を支え持ってやりながら、立ったまま、説教壇に背を向けて礼拝堂の出入り口を凝視している。何のために凝視しているのかは不明である。これはほんの一例で、不思議な行動をする人たちだらけである。わたしが現代人の感覚でそう思っているだけということでなく、同時代の作者自身、 訳が分からないと言っている。


『逍遥の旅人』という訳書についても触れておきたい。訳者のあとがきのそのまた最後の部分に、訳書のタイトルを付けるにあたって、原題がUncommercial =「商用でない」から「逍遥」の旅人と洒落てみたと書いてある。それってアリかぁ。

とにかく、この本には難儀した。ことばの用い方がやっかいなのだ。たとえば、「漸う」という古風な言葉遣い、このことばは珍しいほどではないとしても、古臭いのは確かだ。ほかには、単に「わからない」というところを「小生には解せぬ」という。全編に渡ってこのような古風な(=古臭い)言葉遣いがなされているからうんざりしてしまう。1850年頃の英国の知識階級の男性はもし日本語だったら、このような話し方をすべきであるという訳者の意向なのだろうか。わたしとしては首をひねるけれど、わたしがディケンズやイギリス近代文学の何を知っているわけでもない、ここはディケイジアンに敬意を払っておくべきか。

さらに(わたしにとって)不都合なことに、読めない漢字だらけだった。意味はおおよそわかるため、漢字の読みは推測して進むしかない。いちいち調べていたら、日が暮れる。わずか2、3ページに以下のことばが...あーあ。

嬲る《なぶる》
叫ぶ《おらぶ》
悴んだ《かじかんだ》
労しそうに《いたわしそうに》
嫋やかな《たおやかな》
色取り取りの形《なり》なるバター
神さびた《かみさびた》
饐えた《すえた》上からボロボロに崩れた焼き菓子
捩くりこむ《よじくりこむ》
毳っぽさ《けばっぽさ》
獄もどき《ひとやもどき》
蓋し《けだし》

言葉遣いが難儀、漢字が難儀で、全37篇の内、たったの5編しか読み終えることができなかった。1編は10ページほどでしかないというのに...。タイム・リミット。読むのが辛いとは言え、内容にはなかなか興味をそそられただけに残念なことだった。あとは英語版をぼちぼち読んでいくとするか。

ただ、イギリスに育った人なら多くの人が知っているであろう知識を欠いているために英語版には理解できないことばが多い。昔のロンドン市長の名前だとか、歴史的事件や有名人の警句(または、そのもじり)、童謡の歌詞だったり。訳書にはそれらの注釈が巻末にかなりのページを割いて列挙されていてたいそう参考になった。

※英語版はパブリック・ドメインのため、あちらこちらのサイトから無料でダウンロード可能。田辺洋子訳「逍遥の旅人」はいくつかの図書館が所蔵している。


Ak.  2023.3.3

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