放射能汚染水の海洋投棄をどう考えるか


 福島第一原発にため込まれた汚染水の海洋投棄が始まった。いくら「処理水」と言い換えても、放射性物質を含む水を汚染水と呼ぶのに何の問題があろうか。「海に流してそのまま」を投棄と言うのは間違いだろうか。どれだけ薄めても、濃度が下がるだけで、なくなるわけではない。1ccの汚染水を1L(1000cc)の真水で薄めたら0.1%、10Lの水なら0.01%になるが、決して0%にはならない。0に近づく漸近線だ。値が小さくて計測できないと言うのは、0と同じではない。あまり数学が得意でない私にも、それくらいはわかる。

 放射性物質は、どの程度までなら安全なのか、どこから先が危険なのか。許容できる被ばく線量に“しきい値”は存在しないというのが現代科学の到達点である。危険度の大きさが変わるだけで、危険があるかないかという意味ではない。2倍に薄めても、2倍摂取すれば同じことになる。トリチウムの半減期は12.32年。こちらも漸近線である。

 福島第一原発では、2011年3月の東日本大震災による事故が起きてから、原子炉の冷却に使用された134万立方メートルの汚染水が処理され、ためられてきた。1立方メートルは約1トンだから、およそ134万トンということになる。これを30年かけて海に流す。今年度は約3万1200トンが予定されているそうだ。

 事故から12年で134万トンの汚染水が生じたわけだが、これで終わりではない。廃炉が完了するまで冷却し続けなければならないし、水脈からの地下水は止まっていない。これからの12年で、いったいどれくらいの汚染水が生ずるのだろうか。それを海に流すのに、また数十年を要するということになりそうだ。30年で終わるどころか、30年後にはさらに増えているかもしれない。減らすには投棄量を増やすしかない。いくら薄めても、倍量流せば、倍の放射性物質が海に入る。

 放射性物質をプランクトンが摂取する。そのプランクトンを小魚が食べ、その小魚を大きな魚が食べる。食物連鎖によって、汚染濃度は高まっていかざるを得ない。私たちが食べても大丈夫なのか。内部被ばくを過小評価すべきではない。それ以前に、私たちはそれらを食べたいか、食べる気になるかの方が問題かもしれない。漁業関係者が心配するのは、むしろそちらだろう。

 二尾の魚が売られているとしよう。一方は福島県の沖合で獲られた魚、もう一方はそうでない海のもの。同じ値段だったら、あなたはどちらを選ぶか。福島産が半値なら買う人がいるかもしれない。そこなのだ。福島産というだけで、同じ値段にならない。大きな魚であればあるほど、より多くの放射性物質を蓄積している可能性だってある。そうした消費者の危惧を「風評被害」で片付けて良いのか。

 仮にそれは風評被害に過ぎないとしよう。それを防ぐにはどうしたら良いか。福島産の魚介類を危険だと言ってはならない、SNSなどで「私は福島産を避けています」などと発信してはならない、違反する者は処罰…。なんと恐ろしい国家だろう。産地表示を禁止してはどうか。産地がわからなければ、消費者は福島県産もその他の地域のものも同じように扱うだろう。なんと無責任な国家だろう。

 どうせ国民はすぐに慣れるさ。忘れてしまうさ。何かあったとしても、その頃には自分は首相ではないし、政治家も引退しているさ。なんと無責任な政府だろう。その頃には、もう自分も生きていないだろうし、知ったことではない。子どもや孫がどうにかしてくれるだろうさ。なんと無責任な国民だろう。全体がシラけて、中心にあるのは大きな真っ赤なウソ。ああ、「日の丸」はまさにこの国を表しているのだな。


(しみずたけと) 2023.8.27

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