憲法改定のための国民投票法と憲法審査会

あいかわらず改憲に執着する安倍政権である。憲法改定のための国民投票法(改憲手続法)が制定されたのが2007年。当時からいろいろ問題点が指摘されてきたが、それらは解決されたのであろうか。11月例会では、「憲法改正国民投票法と憲法審査会について」と題し、法律家の與那嶺慧理弁護士から話をうかがうことができた。それをもとに、おさらいをしてみたい。

国民投票の結果をどう定義するか。

まずは改憲が成立するための条件について考えてみる。「有効投票数の2分の1を超えた場合」に国民の承認があったものとされるというが、投票率や最低得票数に関してはなんら規定がない。仮に投票率が50%であったとしたら、25.1%の賛成で改憲が可能となる。白票等の無効票を除き、賛成票と反対票の合計が有効投票数であることを考慮すると、実質的な投票率はさらに低下し、4分の1に満たない賛成で改憲が成立するわけだが、これで国民の承認を得たといえるのであろうか。

投票にあたり、「わからない」が積極的な賛成を後押しする形になる。法政治学者の南部義典氏は絶対得票率(賛成票を有権者の総数で割った数値)の導入を提唱しており、要するに「有権者の半数を超える」国民が望むかどうか。民意に添うとは、そういうことである。

公平・公正な情報と議論

国民投票が実施されるとなれば、改憲について賛成と反対、双方が論陣を張ることになる。有権者は、そのメリットとデメリットを、論理的にくらべながら判断を下すことになるのだが、判断材料である情報の公正性と公平性はいかにして担保されるのであろうか。有料広告の規制はないことから、目や耳にするのは資金力のある者の声ばかりということにもなりかねない。また、フェイク情報については、どのようなチェックがなされるのであろうか。第三者機関の設置なくしては不可能なことである。

マスコミ等は政治的に公正でなければならないのだが、何をもって公正と判断するのか。ある条文の改定をめぐり、賛成反対の両論がある場合、等分に扱うことが必ずしも公正とはいえない。2015年に成立した平和安全法(安保法、戦争法とも)を例にして考えてみよう。この法案の合憲違憲について、当時9割の憲法学者が違憲と断じていた。そうであれば、マスコミは紙面や時間を1:9の割合で報道しなければならないはずである。パネルディスカッションなら、パネリストの人選も1:9であるべきだ。もし合憲論者と違憲論者の一人ずつを紹介したら、受け取る側は合憲性と違憲性が1:1、同程度だと勘違いすることになる。それが狙いなら、数学的詐術と呼ばれるものである。改憲という重大事が詐術の上に立脚してよいのであろうか。公正かつ公平な議論の場が整っているとはいえないのが現状だ。

シティズンシップ教育の現状

国民投票は、発議後60日が過ぎれば、いつでも実施が可能である。最長でも180日以内となっており、必要な議論をする期間としては、あまりにも短すぎやしないか。安倍政権は国民レベルでの改憲議論を展開して欲しいというが、それが本心かどうかはきわめて疑問である。投票年齢が18歳に引き下げられた。

ここではその是非や少年法との整合性を論ずるようなことはしない。しかし、国民投票を通して意思表示をするためには、十分かつ適切な判断材料が与えられることが前提であるはずだ。普通選挙制ゆえ、シティズンシップ教育は義務教育期間におこなわれるべきであるが、高校進学率98.8%を思えば、投票年齢に近い高校の方が現実的に相応しいともいえよう。

しかし、実際には中学でも高校でも、そうした教育はなされていない。文科省の検定に合格した教科書や学習指導要領に、そうした内容は入っていないからである。つまり、改憲についての知識は、正規の学校教育では得られないということだ。

国民投票法103条1項に、「教育者の『地位利用』に基づいた国民投票運動を禁止する」とある。教員が授業で改憲の問題点や影響を解説すれば、これに該当すると解釈される可能性がある。今の社会情勢では、肯定的でなく否定的な内容であれば、なおさらだ。また、地位利用の範囲も定かではない。教育者の及ぼす範囲は、生徒や学生だけではなく、保護者や地域社会などに対して広く深いものがある。教員は学内だけでなく、学外でも沈黙を強いられかねない。罰則規定はないものの、この影響は決して小さくないであろう。

「学習指導要領にない」「偏った情報の提供」などを理由に、教員免状の更新(10年毎)に支障があるかもしれない。大学でも、補助金獲得の不利益を恐れ、経営側が教員に対して締め付けをおこなう可能性がある。たとえ罰則を設けなくても、そう思わせるだけで十分な萎縮効果を発揮するに違いない。そうでなくとも、面倒なことには巻き込まれたくないと思いがちな国民性である。教育現場だけでなく、職場でも地域社会でも、改憲について人々は目と口と耳を閉ざし、資金力のある側に有利な広告だけを判断材料に、現行憲法の意味も改憲の影響もわからぬまま投票所におもむくことになる。

憲法審査会とは

こうした危惧もあって、国民投票法の制定時に、衆院および参院は、十分な措置を講じた上で投票がおこなわれることを求める付帯決議をおこなっている。しかし、実際にそうした措置が講じられたわけではなく、このまま改憲の発議がなされれば、それすらなしに国民投票が実施され得るのが現状だ。

このような問題を是正し、憲法改定の要不要を議論するためにも、憲法審査会を開くべきではないのか。正論のように聞こえるのだが、そもそも憲法審査会とは、改憲を前提に設置された機関である。自民党による改憲草案―改憲というより、むしろ新憲法と呼ぶ方が適切であろう―が提示されたのが2005年。それを受け、2007年に改憲手続法が成立した。つまり、憲法を改定すべきかどうか、改定するのならどこをどのように改定するのか、そうしたことを審査するのではなく、自民党の草案にもとづいた改憲を推進するための機関が憲法審査会だというのが実体である。

憲法審査会の開催は、まさに改憲の第一段階であり、審査会を経ることで国会発議の大義名分が成り立つ。今の国会の勢力図を思えば、それがいかに危機的な状況であるかがわかるであろう。それゆえ、憲法改定の必要がない、よって憲法審査会を開く必要がないという戦術を、改憲反対派はとっているわけである。

憲法は国家権力から国民を守るための権力拘束規範であるゆえ、99条で為政者に対して憲法尊重義務を課している。首相自らが改憲運動の先頭に立つのは同条違反ではないのか。しかし憲法裁判所を持たないわが国では、訴訟を扱うのは通常の裁判所になる。首相の99条違反によって、現実的かつ具体的に誰の法益がどう侵害されたか、原告適格を満たさないとして取りあげられない可能性が強い。そもそも司法が行政に従属し、三権分立が機能しない仕組みになっていることも問題だ。

国民投票の実施については、細々した手続きや予算、告知方法や投票時間など、 決めなければならないことは多々あるが、閣議決定をもって政策を推進する安倍政権であるから、形式的な審議だけで暴走する恐れもある。衆参両院の付帯決議の履行を求めるなど、主権者意識を持って、政権の行動を監視する必要があろう。

(しみずたけと)