岩波ホールが閉館だと…

『エキプ・ド・シネマの三十年』高野悦子 講談社 2004年

岩波ホール閉館のニュースが流れ、衝撃を受けた人が多いようだ。数々の映画をここで見たが、いったいどれくらいになるだろうか。直近で見た作品は、パトリシオ・グスマンの『夢のアンデス』だった。他では上映されない、ここでしか見られない、それが岩波ホールであった。

新型コロナの影響は、確かに大きいが、それだけではあるまい。DVDの普及、レンタル・ビデオ店の展開、そしてネット配信と、映画供給が多チャンネル化したこともある。しかし、岩波ホールが採り上げてきたのは、アジアやアフリカの作品や商業ベースにのらないドキュメンタリーを含む、時代が変わっても色褪せることのない“良質の映像作品”であった。

実際、岩波ホールで上映された作品を見たいと思っても、DVD化されていない、だからレンタル・ビデオ店には置いていない、ネット配信もされていないことに気付かされる。シアター・コンプレックスは増えたが、どこに行っても、ハリウッドものを中心とした、同じ娯楽作品扱っているケースが多い。そして、それらは早晩、DVD化され、レンタル・ビデオ店の棚に並ぶ。時流にマッチした、換言すれば、流行に乗ったこれらの作品は消耗品扱いであるから、消えていくのも早い。つまり、見る選択肢が狭められているのだ。多様性こそが、文化を維持、発展させるためには不可欠であることを思うと、これは由々しき事態である。

岩波ホールでの評判をもとに、他の映画館や地方で採り上げられるようになった作品、名前が知られるようになった監督も多い。映画コレクションの中にも、ここで上映された作品が何点もある。ケン・ローチ、テオ・アンゲロプーロス、アンジェイ・ワイダ、マルガレーテ・フォン・トロッタ、アンドレイ・タルコフスキーなどが思い浮かぶ。今後、こうした映画を見ることが、はたしてできるのであろうか。

他の国の事情と比較してみよう。言語が英語であれば、多くの国で受け入れられる。ということは、英語でない作品には、とりあえず英語字幕を付ければすむということでもある。しかし、日本語字幕のニーズは、日本国内にしかない。せっかく良い作品なのに、日本国内で上映されない、DVD化もされないのは、言語と字幕の問題、いわばコストという壁の存在であった。

今後、日本と諸外国の間に、映画文化の溝が生まれていくことを危惧する。コミュニケーションの場において、映画を共通話題にできないシーンも出てくるだろう。古典文学や音楽、芸術など、教養教育をないがしろにしてきた結果、世界の本当のエリートたちと渡り合うことのできない、偽エリートばかりになってしまった日本である。OECDの中で教育費が…、などと言っている場合ではない。国をあげて対策しないと、ますます世界から置いてけぼりを食らうことになるになる。

溝は世界との間だけではない。たとえば、英語を解する人は、英語版DVDを購入したり、海外のネット配信サービスを利用することで、今後も世界の潮流をつかむことができよう。しかし、そうでない者は、国内に流通する作品にしかアクセスできず、それらだけで満足する、させられることになる。映画が国民を、帰属する文化の度合いによる二極分解に手を貸すことになるわけだ。これは、映画を見る側だけでなく、作る側にとっても、映画作品自体にとっても、悲しいことだと思う。

こうした問題が起きる一因は、日本語という、世界からすれば特殊な文化的背景があるにせよ、教育の問題が大きい。義務教育の中学校で3年間、9割が進学するという高校で3年間、大学進学率が5割を越えた現在、10年にもわたって英語を学ぶ機会を有する日本人の英語能力はどうなっているだろうか。さらに小学校にまで英語教育を導入しようというのだが、文部科学省は、今、電車でコミックを読んでいる中高生、あるいはサラリーマンたちが、今後はそれらをペンギン・ブックスに持ち替えるとでも考えているのだろうか。

閑話休題。全国のミニシアターの精神的ルーツは、まさに岩波ホールにあったのではないだろうか。しかし、手間暇かけて儲けの少ない良品を発掘するより、大手資本が提供する娯楽作品を黙って受け入れていた方が簡単で楽だし、ビジネスとしても得だ。今回のコロナ禍のようなことで経営が苦しくなれば、そうなっていくことも理解できる。経済大国であったことは昔話となり、技術立国への夢も閉ざされ、平和大国も有名無実化しようという今日の日本。文明社会から取り残されていくのではないかと思うと、空恐ろしくなる。


(しみずたけと) 2022.1.12

「岩波ホールが閉館だと…」への1件のフィードバック

  1. ロシアのウクライナ侵攻で思い出した。
    ハンガリー動乱を舞台にした『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー 1956』。
    戦場となった街で、女性たちに何が起きたか。『サラエボの花』。
    後者の映画を見たのも、たしか岩波ホールだった。
    過去の上映作品リストを眺めていたら、素晴らしい作品のなんと多いことか!
    https://www.iwanami-hall.com/pastmovie

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