コロナ禍を乗り越えるために

緊急事態宣言が徐々に解除され、日常が戻りつつある。単純に喜んで良いのだろうか。一見、感染者数が減少しているようだが、そもそも検査数が少ないのだから、報道を鵜呑みにはできない。今後の第二波、第三波が懸念される。

憲法がコロナから直接私たちを守ってくれるわけではない。憲法は国家権力を拘束することで、強い力を持つ国家権力から私たちを守るものだからである。国民の生命や財産の保障とは、人為的に、とりわけ国家権力に奪われないことを指し、災害などによる損失は憲法の守備範囲ではない。これは政治が解決すべきことなのである。

コロナ拡大防止のため、いろいろと措置がとられている。緊急事態宣言の前から、学校は休みになり、商業施設の休業や営業時間の短縮、他県への移動など、自粛が求められた。あくまでも協力依頼であり、強制ではない。罰則規定がないのはそのためである。

外出制限は、憲法22条が保障する個人の移動の自由に抵触するものだが、感染拡大を防ぐことは同条の「公共の福祉」に当たると考えられ、やむをえないだろう。厳しい外出制限措置の出されたフランスでは、導入翌日には違反した4,000人以上に罰金が課せられたくらいである。わが国が、自由を重んじる国フランスとくらべ、自粛という緩い対応だったのはなぜか。お上に対して従順な国民性、同調圧力、相互監視を期待したのであろうか。

欧州諸国では、日本より厳しい外出制限、店舗などの営業制限にもかかわらず、人々がそれを受け入れた。メルケル独首相やジョンソン英首相による国民への呼びかけ、国の真摯な取り組みの成果である。わが国には、そのどちらもなかった。二枚のマスクに始まり、一律10万円やら支援金が取りざたされるが、対象範囲も金額も、誰が考えても十分なものとはいえない。形だけの自粛だから実効性が伴わないのである。結果的に不十分な感染防止に留まっている。

欧州諸国の各種の制限は補償とセットだ。それに対し、自粛というのは個人の判断に委ねるということである。それによって生じた不利益や損失は当人に帰するという、日本人の好きな自己責任に誘導したいのであろう。要するに、補償したくないという姿勢の現れなのだ。

国民のみなさん、感染拡大の防止に協力してください。そのために外出は控えてください。みなさんの生活は国が補償します。安心して休んでください。そうあるべきである。メルケル独首相の演説は、まさにそれであった。国民に感銘を与え、彼女の支持率はV字回復している。日本では、自粛といいながら、従わないものに罰金を科したらどうかなどというトンチンカンな発言まで出る始末だ。

やってる感だけで、実は何もやっていない政治。今回、あたかも国民が緊急事態宣言を望み、それに応える形で宣言を出したかのように思わせているが、事前に必要な対策を講じなかったから緊急事態に陥ったのではないのか。中途半端な対策しかできないのも、現行憲法が足かせになっているからで、迅速な対応のためには権限の集中と国民の行動の規制が不可欠、緊急事態条項を盛り込んだ改憲が必要だと言わんばかりの自公政権である。無能無策なのではなく、むしろ国民の不安と危機意識を煽ることで、世論を改憲へと誘導する、計算づくの災害便乗政治と思った方が良さそうである。

便乗といえば、検察庁法改正案も同様である。検察官の定年が一律に延長されるわけではなく、適任者だけというわけだ。上下関係のある組織で、任命権者にたてつくことは難しい。内閣が人事権を持てば、検察は内閣や政権の不利益になる捜査はしにくくなる。たとえば、同じ不祥事や選挙違反でも、与党議員の場合は見逃して野党議員のそれは追求することになるかもしれない。実際にはなくても、可能性があるというだけで、公正な検察という信頼は失われてしまう。検察OBが危惧するのも当然だ。

さて、コロナ禍の収束は未だ見えてこない。国民生活も経済基盤も揺らいでいる。財政は大丈夫なのか。五輪は早めに中止を決定した方が良いし、200億円ともいわれるオスプレイを17機だとか、100億円超のF35戦闘機を147機など、さっさとキャンセルすべきだ。どこかの国が攻めてくる仮定のリスクよりも、現実に起きている危難を乗り越えるための対応することが求められている。

(しみずたけと)

2020.5.9 COVID-19

大型連休が終わった。例年と違い、満員の新幹線、高速道路の渋滞、混雑する空港が報じられない、静かな連休だった。これはこれで、悪いことではないのだろうが、人々が選択した結果ではなく、強いられた静けさでしかなかったし、コロナ禍が過ぎたわけでもない。

新型コロナ・ウィルスは世界中で猛威を振るい、多くの人々が苦しんでいるのだが、日本には他の先進諸国とは違った様相が見られるように思う。移動や外出の制限を、罰則のない「自粛」の要請にとどめたこと。積極的な検査態勢を敷かなかったこと。休業補償はしない、あっても極めて低レベルであること等々。

強制力を伴わない、単なる協力依頼でしかない自粛。協力するかしないかは個人の判断に委ねられた。たとえば、店を開けるかどうかは店の経営者が決めろというわけである。パチンコ店に限らず、飲食店や宿泊施設、映画館など、商業施設は営業しなければ収入がない。当たり前の話である。強制を伴わない自粛は、ある意味、補償しないための方便なのだろう。しかし、営業を続けるパチンコ店の名前を公表するとか、開いている飲食店に対する嫌がらせなど、行政や大衆の私刑にも似た攻撃など、いやおうなく休業に追い込まれる状況がある。これはもう強制と変わるところがない。

感染拡大を防止しなければならないことは十分に理解できるのだが、収入の道が閉ざされることになる事業者はどうしたらよいのだろう。霞を食って生きてゆけというのか。それとも、泥棒にでもなって糊口をしのげということなのか。そうであるなら、生活のための窃盗は緊急避難として違法性阻却の事由になると、得意の閣議決定でもしたら良いだろう。

店員や社員は休業中は労働を提供していないのだから、店や会社が賃金を払わなくて良いことにするか。国家の要請なのだから、テナント料も払わなくて良いか。それでは、労働者は生きていけないし、賃貸オーナーや大家さんも困ってしまう。いっそ、税金も払わなくて良いことにしたらどうだ。そんなことは無理に決まっている。だから補償が必要なのだ。

その補償がないから、不完全な形での自粛しかなされず、結果として感染拡大の予防がうまくいかなかったのである。政権が自ら責任を負うことなく、他者を罰する快楽に溺れた「自粛警察」による監視と密告にまかせるという、実に不健康な対策に依存している。要するに、自粛とは「日本国民よ、忖度せよ」というかけ声なのだ。

感染者と死者の数の推移から、感染増大のピークは過ぎたと判断している国が多い。それが正しいかどうかはわからないが、感染と死者の推移が、日本と欧米では異なっているという。感染者数推移の対数グラフによると、日本では収束へ向かう横ばい化への転換が、未だあらわれていないというのだ。

5月7日、東京都の新型コロナの感染者数は23人であった。2桁に落ち着いているということなのだが、そもそも検査数が111人しかない。割合で言えば、21%になるが、これをどう評価すべきか。1000人の検査を実施したら200人という数字になるのかもしれない。45人しか検査しなければ1桁に押さえることだってできよう。こういうのを数学的詐術と呼ぶ。分母を公表しなければ意味がないのだ。

こうしてみると、いかに日本のコロナ対策が不適切かつ不十分かがわかるであろう。作為的か否かはわからぬが、この国の為政者たちは国民の生命とか財産には興味がないのだろう。こんな現状の中でも、沖縄の新基地建設や自衛隊の宇宙作戦隊には熱心である。どこかの国が攻めてくることよりも、今直面しているコロナ危機を乗り切る方が大事だと思うのは私だけであろうか。前者はリスクかもしれないが、後者は現実に起きているデンジャーだ。何者かによって滅ばされる心配よりも、今は自滅しないことが肝腎だ。無能なせいか悪意のなせるわざかはわからぬが、まともな政府を手にするためには、国民がまともになるしかない。

(しみずたけと)

2020.5.3 憲法記念日に

家で過ごす憲法記念日はいつ以来だろう。朝日新聞の世論調査によれば、改憲議論について、72%が「急ぐ必要はない」と答えたという。安倍政権が目指す憲法改定は遠のいたのであろうか。

自民党の改定憲法案は時代に逆行したものである。近代民主主義の到達点である権力拘束規範の立憲主義がないがしろにされ、国民を縛り、あたかも大日本帝国憲法が姿を変えて復活しようとしているかのようだ。私はこれをゾンビ憲法と呼んでいる。そんなものが国民のためにならないことは明らかであろう。

いま、世界中が新型コロナに苦しんでいる。とりわけ、政権のトップにある人物が無能な国ほど深刻な状況だ。わが国はどうであろうか。巨費を投入した2枚のマスク、すったもんだの10万円。こんな発案しかできない人たちには消毒薬を注射した方が良いのかもしれない。

いつ終わるともしれない「自粛」。言葉を正しく読み取れば、自分で考え、自分で判断した上での行動を求めるものでしかないのだが、従わないものの名を行政が公開し、尻馬に乗った大衆がそれを叩く。これはもう強制でしかない。相互監視と密告の暗黒社会が出現しかかっている。

感染拡大に対する政府の無為無策を、自粛で乗り切ろうというのだろうか。国民の半自発的な犠牲的精神の発露と全体主義的結束に依存するのは、「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」のかけ声を背景に、竹槍でB29に立ち向かい、せっせとバケツリレーの訓練をしたあの時代と変わるところがない。学ばない国民の末路は悲惨だ。閉店、廃業、倒産、解雇、失業、退学、生活苦…、減少傾向にあった自殺がV字回復しないことを祈りたい。

この国難に際し、緊急事態宣言などという中途半端な対策しかできないのは、現行憲法が足かせになっているからだ。国民の生命と財産を守るために「緊急事態条項」が必要だ。だから憲法改定…。自分たちの無能を棚に上げた物言いではないか。こういうのを火事場泥棒と呼ぶ。「こんな人たち」に緊急事態条項などを渡したら大変だ。「こんな人たち」に憲法を変えさせてはいけない。たとえ家にいても、権力を監視し、声をあげ続けることが大切だ。

(しみずたけと)

2020.4.13 オスプレイ

ヘリモードのオスプレイ 2020.4.13. 18:01

書くか、書くまいか、ずいぶん迷ったのだが、やはり忘れないように書いておこうと思う。

 ちょうど一週間前の4月13日、今日と同じ雨降りの月曜日だった。夕方5時45分頃、外から爆音が聞こえた。車やオートバイのそれではない。飛行機やヘリコプターとも違う不快な低周波音。比較的短時間で、その音はしなくなった。少したつと、また聞こえてくる。濡れるの嫌さに窓辺から外を眺めるが、何なのかわからなかった。同じくらいの間隔で、再び。縦列隊形で同じ針路でをとる飛行機群…。もしやと思い、玄関を出る。オスプレイだった!さらにもう一機。いつも飛ぶC-130輸送機と、ほぼ同じ航路。横田基地への着陸進入路である野猿峠から平山城址公園に連なる丘陵の方向に高度を下げていく。

 それにしても、あの嫌な音は何だろう。エンジンは、元々はアリソン社が開発したT406(501-M80Cも同じ)ターボシャフトエンジンである。同社は1995年にロールスロイス社に吸収され、このエンジンの社内呼称はAE 1107C-Libertyになっているが、中身は変わっていない(推測)はずだ。だとすれば、C-130輸送機に搭載されるT56ターボプロップとは基本骨格を共有するエンジンで、違うのは排気を推進力に利用するかしないかだけ。あの爆音はエンジンに起因するものではなく、大きなプロペラか、プロペラが発する気流が干渉して発生させていることがわかる。


 音の快不快は個人差によるものだし、ミリタリー・オタクなら「音の違いがどうした」というかもしれないが、私はこの音がとても気になる。なぜなら、航空機の発する音としては至極不自然だからだ。ヘリコプターは、垂直離着陸のため、大径ローターを水平回転させている。あのバッバッバッバという音は、エンジンではなくローターによるものだ。オスプレイも、水平回転するプロペラによって垂直離着陸する。ローターでないのは、水平飛行時の速度を上げるため、普通の飛行機と同じプロペラ牽引式にしたからである。大きなローターの代わりに、相対的に小径のプロペラだから、垂直離着陸のために2基要るのだろう。とはいえ、プロペラ機のそれにくらべれば大径だ。普通のプロペラ機と違う音がするのも納得するところ。

 まとめてみよう。垂直離着陸は軍による運用のための要件。しかし大径のローターは使えない、だからプロペラ2基の双発。垂直離着陸用と水平飛行用を兼ねるため、プロペラの向きをエンジンごと90度可変させる、ティルト・ローター機と呼ばれる型式。「二兎追うものは…」のたとえではないが、コンセプトとして無理があると思う。両方のエンジンは、翼内を貫通するシャフトで連結されてプロペラを回す。片方のエンジンが停止しても、バランスを失ってすぐに墜落したりしないようにするためだ。つまり、このシステム無しでは片発停止で墜落することを自ら宣言しているのに等しい。もし片方のプロペラが破損したらどうなる。名護市沖で墜落したのは、空中給油中に送油パイプに接触したプロペラが破断したのが原因である。もし翼内の貫通シャフトにトラブルが生じたら…。構造の複雑化はトラブル発生率と相関関係にある。それだけ危なっかしい構造なのだ。オスプレイに事故が多いのは周知の事実である。

 軍の要求を満たすため、無理矢理作ってしまったのだろうか。一般のプロペラ機がここまで大きなプロペラを装着しないのは、ただ単に地上との干渉を避けるためだけではない。単価が約100億円といわれるオスプレイ。量産効果で安くなれば、滑走路建設ができない田舎町や離島への民間コミューター機になるうるだろうか。答えは、否である。設計的に無理があるものは、実際に飛んでも無理がある、というか危険である。墜落したら、巨額の補償で会社がつぶれるかもしれない。しかし国家にはそういう心配がない。どうせ税金から払うのだから。兵士は部品と同じで、ダメになった部品は交換すれば良いように、兵士の場合も補充すればすむ。軍隊とはそういう思考回路の集団だ。

 しかし墜ちたら、ダメージがあるのは搭乗員だけではない。空路の下に住んでいる人にとっては不安が募る。だから米国内では居住地域を避けて飛行することになっている。そんなオスプレイが、日本では、いつでもどこでも自由に飛ぶことができる。下に住んでいるのは黄色いサルに過ぎないとでも思っているのだろう。日本政府も、それを追認しているということだ。横田に配属されているかぎり、オスプレイはこの空を飛び続けることになるのだろう。飛ばしている主体である米軍や、ただ黙認するだけの日本政府の側から「安全のために運用をやめましょう」と言い出すわけがない。だとすれば、私たちはどうするべきか。


(しみずたけと) 2020.4.13

2020.4.14 緊急事態宣言

午前のさわやかな風の中、くすのき公園から鶯の囀りが聞こえてきます。心地よい気分に浸っていたら、突然、防災放送のアナウンス。なにごとと思ったら、八王子市長のメッセージでした。緊急事態宣言が発せられたこと、不要不急の外出を控え、手洗い云々…。市長が何を今さらと思ったのは私だけでしょうか。4月8日の午前10時のことでした。

ところで、この緊急事態宣言、なぜこの時期に?効果やいかに?新型コロナの感染拡大は予想されたことであり、接触を断つための外出制限は、緊急事態宣言なしでも、もっと早い時期に可能だったはずです。いずれにせよ、強制力も罰則もないわけですから。感染防止の目的のために、緊急事態宣言がなし崩し的に正当化されて良いのか、私は危惧しております。

憲法22条に反して人の行動を制限するわけですから、感染防止という「公共の福祉」のために、事前に国会できちんと審議しておくべきでしたし、それだけの時間的猶予はあったはずです。そうしたプロセスを踏んでおけば、問題は起きなかったと思います。それを安倍政権は、「緊急事態条項」を憲法に入れようという不純な目的のために、あえてそれをおこなわず、現行憲法が足かせとなって、この程度の中途半端な緊急事態宣言しかできないという方向に世論を誘導しようとしています。もしそうでないなら、単なる無為無策、ダイヤモンドプリンセス船内の状況を国中に広げ、人の命を危険にさらしていることになります。

また、「ぎりぎり持ちこたえている状況」といっておきながら、結局は宣言を出したのも、感染が拡大するのを待ち、メディアや国民が「遅すぎる」と非難するのを見越した上で、あたかも国民の方が緊急事態宣言を望んだかのようなストーリーを仕立てあげようとしているのではないでしょうか。

マスク二枚など、安倍政権にはまともなブレーンがついていないと思っていましたが、どうやら賢い人間が現れたようです。しかし、その賢さは、ずる賢いとか悪賢いと呼ばれるべき類いであって、決してほめられたものではありません。今こそ国民が賢くならなければいけません。

(しみずたけと)