軍事費・コロナ・人権

  1. 持続可能な社会を構築するためには、軍事費を減らす必要がある。このことは明白です。じっさい21年度の各国の国家予算をみると、軍事費を減らして国民生活を守ろうとする国がおおいのです。

    他方、そんななかで軍事費を増やそうとしている国(案を含む)もあります。日本、アメリカ、ブラジル、中国です。いかにもできすぎのリストですが、ほんとうのことです。

    ご存じでしょう、日本のばあい、軍事費は毎年増加しています。20年度当初予算では過去最高の5兆3133億円となりました。21年度予算はきっとそれを更新するでしょう。対GDP比で1%ぎりぎりですが、経済の落ち込み方しだいでは、1%をこえるかもしれません。こういった財政の軍事化は「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする (憲法13条)」人権保障に必要となる財源を、確実に奪っているのです。

    国民から強制的に税金をあつめ、それを財源にして国民の生活をまもることが、国家を創設することの目的のはずです。新型コロナウイルスがまんえんすることに対処するためには、必要な医療検査をおこなうこと。病床を確保すること。医療労働者の労働条件を改善すること。移動を制限することで生じる経済的損失を補填すること。いま必要なことははっきりしています。もし政府がそのような責務をはたそうとしないなら、そのような政府を即刻かえなければなりません。

  2. 国民の生活より軍事を優先することのひとつのあらわれが、自民党政府の追求する「敵基地攻撃」能力です。自民党は「敵基地攻撃」というと響きがブッソウなので「相手領域内攻撃」という言葉に言い換えています。でもかんがえてみると、「相手領域内攻撃」は敵国と想定した相手国内なら、市民が暮らす場所も攻撃対象に含めるということですから、敵基地攻撃よりももっと攻撃的な概念です。市民の居住地を攻撃することを禁じた国際法にも違反するものです。

    この敵基地攻撃論は、人権を否定するものです。換言すれば、人権保障のためにも敵基地攻撃論は許されない。このことをあらためてうったえる必要がありますね。

    第一に、敵基地攻撃は 攻撃対象となった国・場所に暮らすひとびとの「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利 」(憲法前文)、すなわち平和的生存権を侵害するものです。

    第二に、敵基地攻撃は、報復対象となる基地の周辺で暮らすひとびとを、相手国からの攻撃にまきこむことになります。だからおなじように日本国内で暮らすひとびとの平和的生存権を侵害するおそれも強いのです。このような報復を回避しようとすれば、相手国の国土を壊滅するほどの敵基地攻撃を選択しなければならない。そしてそのことは……。敵基地攻撃にふみだすことによって、わたしたちはこのような負のスパイラルにとらわれてしまいます。

  3. いまわたしたちが政治に求めているのは、敵基地攻撃能力をもつことではありません。また挫折した「安倍改憲」を生き返らせるための、憲法改正国民投票法や憲法改定でもありません。わたしたちが求めるのは、新自由主義政治がもたらした貧困や、新型コロナウイルス感染の拡大から、人々の生活と命を守る政治なのです。

    永山茂樹

差別する心を払拭したい

私たちはみな、自由で平等、そして平和な社会を求めている。しかし、それは実現していない。大きな妨げになっているもののひとつが「差別」ではなかろうか。ここでは、差別について考えてみたい。

世界には様々な差別が存在する。たとえば、民族、性、学歴、職業、信仰、思想信条、言語、出身地、貧富による差別、障がい者や性的嗜好に対する差別、他にもあるだろう。こうしたものが、人と人の間に溝をうみ、衝突の原因になっていることを、誰も否定できまい。

ナチスによるユダヤ人迫害や米国における黒人や先住民に対する差別については、われわれ日本人も知っていることだ。そして、それを良くないことだとする共通認識もある。ところがアジアの人たち、とりわけ韓国、朝鮮、中国の人たちに対しては、あからさまでないにしても、差別感情を持っている人は少なくない。何世代にもわたって日本に住む在日を含め、外国人に対する偏見は、今日でも根強くある。

こうした差別や偏見は、論理的なものでも合理性があるものでもない。ほとんどが感情である。それらを「子どもじみている」と断じて良いだろう。なぜか。子どもは純粋で正直である。だから見たまま、感じたままを言葉にする。「だってあの子の肌は黒いんだよ」「○○くんは耳が聞こえないんだから」「ボクらと違うんだ」等々。決して間違ったことを言っているわけではない。しかし大人は、違う面があっても人間の価値としては同じであることを、感情ではなく論理として理解している。それは家庭や学校での教育を通して、成長過程で育まれるものだ。大人と子どもの分かれ目と言っても良いだろう。

人は自分が差別主義者だとは思われたくないものだ。しかし、差別している者は、自分が差別しているという意識がなかったりする。また、「あの差別はいけないが、この差別は良い」というような理論は成り立たない。差別は、それを支持するか反対するかのどちらかしかないのである。わかりやすく説明しよう。私は日本人で男性だから、「白人至上主義には反対するが、女性差別はあっても良い」とか「アジア人差別は許せないが、LGBTは認めない」と言ったらどう思われるだろう。差別されるのが嫌なだけで、差別する側ならかまわない、つまり差別主義者だということになる。無意識の差別主義者はトランプ大統領だけではないのだ。

戦争、宗教対立、民族浄化、格差社会、DV、非正規労働、教育機会の不平等、イジメ、原発、性暴力…。ひとりひとりから差別意識がなくなれば、きっと多くの問題が解決に向かうに違いない。そのためには、私たちは何をすべきなのか、今いちど考えてみたらどうだろうか。
(しみずたけと)

コロナ禍を乗り越えるために

緊急事態宣言が徐々に解除され、日常が戻りつつある。単純に喜んで良いのだろうか。一見、感染者数が減少しているようだが、そもそも検査数が少ないのだから、報道を鵜呑みにはできない。今後の第二波、第三波が懸念される。

憲法がコロナから直接私たちを守ってくれるわけではない。憲法は国家権力を拘束することで、強い力を持つ国家権力から私たちを守るものだからである。国民の生命や財産の保障とは、人為的に、とりわけ国家権力に奪われないことを指し、災害などによる損失は憲法の守備範囲ではない。これは政治が解決すべきことなのである。

コロナ拡大防止のため、いろいろと措置がとられている。緊急事態宣言の前から、学校は休みになり、商業施設の休業や営業時間の短縮、他県への移動など、自粛が求められた。あくまでも協力依頼であり、強制ではない。罰則規定がないのはそのためである。

外出制限は、憲法22条が保障する個人の移動の自由に抵触するものだが、感染拡大を防ぐことは同条の「公共の福祉」に当たると考えられ、やむをえないだろう。厳しい外出制限措置の出されたフランスでは、導入翌日には違反した4,000人以上に罰金が課せられたくらいである。わが国が、自由を重んじる国フランスとくらべ、自粛という緩い対応だったのはなぜか。お上に対して従順な国民性、同調圧力、相互監視を期待したのであろうか。

欧州諸国では、日本より厳しい外出制限、店舗などの営業制限にもかかわらず、人々がそれを受け入れた。メルケル独首相やジョンソン英首相による国民への呼びかけ、国の真摯な取り組みの成果である。わが国には、そのどちらもなかった。二枚のマスクに始まり、一律10万円やら支援金が取りざたされるが、対象範囲も金額も、誰が考えても十分なものとはいえない。形だけの自粛だから実効性が伴わないのである。結果的に不十分な感染防止に留まっている。

欧州諸国の各種の制限は補償とセットだ。それに対し、自粛というのは個人の判断に委ねるということである。それによって生じた不利益や損失は当人に帰するという、日本人の好きな自己責任に誘導したいのであろう。要するに、補償したくないという姿勢の現れなのだ。

国民のみなさん、感染拡大の防止に協力してください。そのために外出は控えてください。みなさんの生活は国が補償します。安心して休んでください。そうあるべきである。メルケル独首相の演説は、まさにそれであった。国民に感銘を与え、彼女の支持率はV字回復している。日本では、自粛といいながら、従わないものに罰金を科したらどうかなどというトンチンカンな発言まで出る始末だ。

やってる感だけで、実は何もやっていない政治。今回、あたかも国民が緊急事態宣言を望み、それに応える形で宣言を出したかのように思わせているが、事前に必要な対策を講じなかったから緊急事態に陥ったのではないのか。中途半端な対策しかできないのも、現行憲法が足かせになっているからで、迅速な対応のためには権限の集中と国民の行動の規制が不可欠、緊急事態条項を盛り込んだ改憲が必要だと言わんばかりの自公政権である。無能無策なのではなく、むしろ国民の不安と危機意識を煽ることで、世論を改憲へと誘導する、計算づくの災害便乗政治と思った方が良さそうである。

便乗といえば、検察庁法改正案も同様である。検察官の定年が一律に延長されるわけではなく、適任者だけというわけだ。上下関係のある組織で、任命権者にたてつくことは難しい。内閣が人事権を持てば、検察は内閣や政権の不利益になる捜査はしにくくなる。たとえば、同じ不祥事や選挙違反でも、与党議員の場合は見逃して野党議員のそれは追求することになるかもしれない。実際にはなくても、可能性があるというだけで、公正な検察という信頼は失われてしまう。検察OBが危惧するのも当然だ。

さて、コロナ禍の収束は未だ見えてこない。国民生活も経済基盤も揺らいでいる。財政は大丈夫なのか。五輪は早めに中止を決定した方が良いし、200億円ともいわれるオスプレイを17機だとか、100億円超のF35戦闘機を147機など、さっさとキャンセルすべきだ。どこかの国が攻めてくる仮定のリスクよりも、現実に起きている危難を乗り越えるための対応することが求められている。

(しみずたけと)

憲法改定のための国民投票法と憲法審査会

あいかわらず改憲に執着する安倍政権である。憲法改定のための国民投票法(改憲手続法)が制定されたのが2007年。当時からいろいろ問題点が指摘されてきたが、それらは解決されたのであろうか。11月例会では、「憲法改正国民投票法と憲法審査会について」と題し、法律家の與那嶺慧理弁護士から話をうかがうことができた。それをもとに、おさらいをしてみたい。

国民投票の結果をどう定義するか。

まずは改憲が成立するための条件について考えてみる。「有効投票数の2分の1を超えた場合」に国民の承認があったものとされるというが、投票率や最低得票数に関してはなんら規定がない。仮に投票率が50%であったとしたら、25.1%の賛成で改憲が可能となる。白票等の無効票を除き、賛成票と反対票の合計が有効投票数であることを考慮すると、実質的な投票率はさらに低下し、4分の1に満たない賛成で改憲が成立するわけだが、これで国民の承認を得たといえるのであろうか。

投票にあたり、「わからない」が積極的な賛成を後押しする形になる。法政治学者の南部義典氏は絶対得票率(賛成票を有権者の総数で割った数値)の導入を提唱しており、要するに「有権者の半数を超える」国民が望むかどうか。民意に添うとは、そういうことである。

公平・公正な情報と議論

国民投票が実施されるとなれば、改憲について賛成と反対、双方が論陣を張ることになる。有権者は、そのメリットとデメリットを、論理的にくらべながら判断を下すことになるのだが、判断材料である情報の公正性と公平性はいかにして担保されるのであろうか。有料広告の規制はないことから、目や耳にするのは資金力のある者の声ばかりということにもなりかねない。また、フェイク情報については、どのようなチェックがなされるのであろうか。第三者機関の設置なくしては不可能なことである。

マスコミ等は政治的に公正でなければならないのだが、何をもって公正と判断するのか。ある条文の改定をめぐり、賛成反対の両論がある場合、等分に扱うことが必ずしも公正とはいえない。2015年に成立した平和安全法(安保法、戦争法とも)を例にして考えてみよう。この法案の合憲違憲について、当時9割の憲法学者が違憲と断じていた。そうであれば、マスコミは紙面や時間を1:9の割合で報道しなければならないはずである。パネルディスカッションなら、パネリストの人選も1:9であるべきだ。もし合憲論者と違憲論者の一人ずつを紹介したら、受け取る側は合憲性と違憲性が1:1、同程度だと勘違いすることになる。それが狙いなら、数学的詐術と呼ばれるものである。改憲という重大事が詐術の上に立脚してよいのであろうか。公正かつ公平な議論の場が整っているとはいえないのが現状だ。

シティズンシップ教育の現状

国民投票は、発議後60日が過ぎれば、いつでも実施が可能である。最長でも180日以内となっており、必要な議論をする期間としては、あまりにも短すぎやしないか。安倍政権は国民レベルでの改憲議論を展開して欲しいというが、それが本心かどうかはきわめて疑問である。投票年齢が18歳に引き下げられた。

ここではその是非や少年法との整合性を論ずるようなことはしない。しかし、国民投票を通して意思表示をするためには、十分かつ適切な判断材料が与えられることが前提であるはずだ。普通選挙制ゆえ、シティズンシップ教育は義務教育期間におこなわれるべきであるが、高校進学率98.8%を思えば、投票年齢に近い高校の方が現実的に相応しいともいえよう。

しかし、実際には中学でも高校でも、そうした教育はなされていない。文科省の検定に合格した教科書や学習指導要領に、そうした内容は入っていないからである。つまり、改憲についての知識は、正規の学校教育では得られないということだ。

国民投票法103条1項に、「教育者の『地位利用』に基づいた国民投票運動を禁止する」とある。教員が授業で改憲の問題点や影響を解説すれば、これに該当すると解釈される可能性がある。今の社会情勢では、肯定的でなく否定的な内容であれば、なおさらだ。また、地位利用の範囲も定かではない。教育者の及ぼす範囲は、生徒や学生だけではなく、保護者や地域社会などに対して広く深いものがある。教員は学内だけでなく、学外でも沈黙を強いられかねない。罰則規定はないものの、この影響は決して小さくないであろう。

「学習指導要領にない」「偏った情報の提供」などを理由に、教員免状の更新(10年毎)に支障があるかもしれない。大学でも、補助金獲得の不利益を恐れ、経営側が教員に対して締め付けをおこなう可能性がある。たとえ罰則を設けなくても、そう思わせるだけで十分な萎縮効果を発揮するに違いない。そうでなくとも、面倒なことには巻き込まれたくないと思いがちな国民性である。教育現場だけでなく、職場でも地域社会でも、改憲について人々は目と口と耳を閉ざし、資金力のある側に有利な広告だけを判断材料に、現行憲法の意味も改憲の影響もわからぬまま投票所におもむくことになる。

憲法審査会とは

こうした危惧もあって、国民投票法の制定時に、衆院および参院は、十分な措置を講じた上で投票がおこなわれることを求める付帯決議をおこなっている。しかし、実際にそうした措置が講じられたわけではなく、このまま改憲の発議がなされれば、それすらなしに国民投票が実施され得るのが現状だ。

このような問題を是正し、憲法改定の要不要を議論するためにも、憲法審査会を開くべきではないのか。正論のように聞こえるのだが、そもそも憲法審査会とは、改憲を前提に設置された機関である。自民党による改憲草案―改憲というより、むしろ新憲法と呼ぶ方が適切であろう―が提示されたのが2005年。それを受け、2007年に改憲手続法が成立した。つまり、憲法を改定すべきかどうか、改定するのならどこをどのように改定するのか、そうしたことを審査するのではなく、自民党の草案にもとづいた改憲を推進するための機関が憲法審査会だというのが実体である。

憲法審査会の開催は、まさに改憲の第一段階であり、審査会を経ることで国会発議の大義名分が成り立つ。今の国会の勢力図を思えば、それがいかに危機的な状況であるかがわかるであろう。それゆえ、憲法改定の必要がない、よって憲法審査会を開く必要がないという戦術を、改憲反対派はとっているわけである。

憲法は国家権力から国民を守るための権力拘束規範であるゆえ、99条で為政者に対して憲法尊重義務を課している。首相自らが改憲運動の先頭に立つのは同条違反ではないのか。しかし憲法裁判所を持たないわが国では、訴訟を扱うのは通常の裁判所になる。首相の99条違反によって、現実的かつ具体的に誰の法益がどう侵害されたか、原告適格を満たさないとして取りあげられない可能性が強い。そもそも司法が行政に従属し、三権分立が機能しない仕組みになっていることも問題だ。

国民投票の実施については、細々した手続きや予算、告知方法や投票時間など、 決めなければならないことは多々あるが、閣議決定をもって政策を推進する安倍政権であるから、形式的な審議だけで暴走する恐れもある。衆参両院の付帯決議の履行を求めるなど、主権者意識を持って、政権の行動を監視する必要があろう。

(しみずたけと)

世界に展開する日本「軍」 永山茂樹

日本はいま、海外における軍事活動に積極的に関与しています。昨年にかぎっても、

  1. アフリカ東岸ソマリア沖に、「海賊対処」の名目で、護衛艦や哨戒機を派遣しています。この活動は丸10年をむかえました。同海域の海賊発生数は11年をピークに、18年には3件に激減しました。が奇妙なことに、自衛隊を撤退させるという話は耳にしません。「派遣のための派遣」化しています。
  2. シナイ半島に展開するMFO司令部に、自衛隊員を派遣しました。国連PKOとはちがう、「国連が統括しない」軍事活動への初の参加です。同地域は安定しているという前提で派遣しました。が、最近はISの勢力が拡大したという報道もあります。
  3. 護衛艦いずもを空母に改造する計画をすすめています。21年度予算の概算要求には、改修費用31億円を計上しました。完成すれば、自衛隊の航空機は「地球の裏側」で容易に活動できるでしょう。
  4. 太平洋・インド洋では他国軍との共同演習等がさかんにおこなわれています。5月にはインド洋で日米仏豪の共同訓練がありました。これは南シナ海への中国の進出を牽制する意味があるといわれます。10月には米主導の「有志連合」の事前演習ともいうべき海事演習IMXが、ペルシャ湾近辺でありました。これには自衛隊の掃海艇が参加しました。
  5. 外国との兵器開発・貿易をすすめています。よく知られるように、武器爆買いは私たちの生活を脅かしています。1機116億円もする戦闘機147機の代金も払わなければなりません。また9月にはイスラエルと武器技術秘密保護覚え書きをむすびました。日本の軍事技術が、パレスチナ民衆を弾圧するために使われないでしょうか。

11月には幕張で世界最大規模の武器見本市がありました。

自衛隊は、世界に展開する強大な軍隊と化しました。それは上記事実から歴然としています。この延長上に、20年のオマーン湾などへの派遣があります。

政府は国会閉会中の12月27日、オマーン湾などへ自衛隊を派遣することを決めました。これは防衛省設置法4条18号「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究を行うこと」を根拠とします。しかし同法では、活動の態様・期間・撤退条件・集めた情報の使途はおろか、国会の関与手続すら白紙です。ですからアフガン戦争やイラク戦争の「特措法」による派遣と比べ、法的縛りがほとんどないという特徴があります。国会と法律の統制が及ばないつくりで自衛隊を派遣することなど、容認はできません。

政府は「有志連合への参加ではない」といいます。しかし④のように、自衛隊は有志連合の事前演習に参加しました。また集めた情報は、他国軍に提供される予定です。これは有志連合への実質的参加なのです。では今後、自衛隊が戦闘に巻き込まれる危険はないでしょうか。

自衛艦が攻撃されたら、自己防衛のため武器が使用できます。また日本関係船舶(この線引きもあいまいですが)が攻撃されたら、政府は海上警備行動を発令し、その保護にあたる予定です。このとき自衛隊は、警察活動として武器を使用できます。

近隣で活動する有志連合の艦船が襲われたらどうでしょう。自衛隊は何もできません。法的には。しかし現場の判断で、他国軍の護衛に駆けつけることはないでしょうか。ここで「軍は暴走する」という歴史的教訓が想起されるべきです。

他国軍と一体化して戦闘に加わる(加わらざるをえない)おそれがあっても、自衛隊を派遣する。首相は「自衛隊員は違憲扱いされて不憫だから、改憲して自衛隊を明記する」といいました。 でも自衛官の人命を軽く扱っているのは、ほかならぬ政府だということがわかります。