2020.5.9 COVID-19

大型連休が終わった。例年と違い、満員の新幹線、高速道路の渋滞、混雑する空港が報じられない、静かな連休だった。これはこれで、悪いことではないのだろうが、人々が選択した結果ではなく、強いられた静けさでしかなかったし、コロナ禍が過ぎたわけでもない。

新型コロナ・ウィルスは世界中で猛威を振るい、多くの人々が苦しんでいるのだが、日本には他の先進諸国とは違った様相が見られるように思う。移動や外出の制限を、罰則のない「自粛」の要請にとどめたこと。積極的な検査態勢を敷かなかったこと。休業補償はしない、あっても極めて低レベルであること等々。

強制力を伴わない、単なる協力依頼でしかない自粛。協力するかしないかは個人の判断に委ねられた。たとえば、店を開けるかどうかは店の経営者が決めろというわけである。パチンコ店に限らず、飲食店や宿泊施設、映画館など、商業施設は営業しなければ収入がない。当たり前の話である。強制を伴わない自粛は、ある意味、補償しないための方便なのだろう。しかし、営業を続けるパチンコ店の名前を公表するとか、開いている飲食店に対する嫌がらせなど、行政や大衆の私刑にも似た攻撃など、いやおうなく休業に追い込まれる状況がある。これはもう強制と変わるところがない。

感染拡大を防止しなければならないことは十分に理解できるのだが、収入の道が閉ざされることになる事業者はどうしたらよいのだろう。霞を食って生きてゆけというのか。それとも、泥棒にでもなって糊口をしのげということなのか。そうであるなら、生活のための窃盗は緊急避難として違法性阻却の事由になると、得意の閣議決定でもしたら良いだろう。

店員や社員は休業中は労働を提供していないのだから、店や会社が賃金を払わなくて良いことにするか。国家の要請なのだから、テナント料も払わなくて良いか。それでは、労働者は生きていけないし、賃貸オーナーや大家さんも困ってしまう。いっそ、税金も払わなくて良いことにしたらどうだ。そんなことは無理に決まっている。だから補償が必要なのだ。

その補償がないから、不完全な形での自粛しかなされず、結果として感染拡大の予防がうまくいかなかったのである。政権が自ら責任を負うことなく、他者を罰する快楽に溺れた「自粛警察」による監視と密告にまかせるという、実に不健康な対策に依存している。要するに、自粛とは「日本国民よ、忖度せよ」というかけ声なのだ。

感染者と死者の数の推移から、感染増大のピークは過ぎたと判断している国が多い。それが正しいかどうかはわからないが、感染と死者の推移が、日本と欧米では異なっているという。感染者数推移の対数グラフによると、日本では収束へ向かう横ばい化への転換が、未だあらわれていないというのだ。

5月7日、東京都の新型コロナの感染者数は23人であった。2桁に落ち着いているということなのだが、そもそも検査数が111人しかない。割合で言えば、21%になるが、これをどう評価すべきか。1000人の検査を実施したら200人という数字になるのかもしれない。45人しか検査しなければ1桁に押さえることだってできよう。こういうのを数学的詐術と呼ぶ。分母を公表しなければ意味がないのだ。

こうしてみると、いかに日本のコロナ対策が不適切かつ不十分かがわかるであろう。作為的か否かはわからぬが、この国の為政者たちは国民の生命とか財産には興味がないのだろう。こんな現状の中でも、沖縄の新基地建設や自衛隊の宇宙作戦隊には熱心である。どこかの国が攻めてくることよりも、今直面しているコロナ危機を乗り切る方が大事だと思うのは私だけであろうか。前者はリスクかもしれないが、後者は現実に起きているデンジャーだ。何者かによって滅ばされる心配よりも、今は自滅しないことが肝腎だ。無能なせいか悪意のなせるわざかはわからぬが、まともな政府を手にするためには、国民がまともになるしかない。

(しみずたけと)