戦 跡
浅川地下壕とは何か
- アジア太平洋戦争末期、中島飛行機武蔵製作所が戦闘機のエンジンを製造するために地下工場に移転した。
- 地下壕は高尾山の東側、三カ所に近接して掘られた。坑道は幅4メートル、高さ3メートルほどで碁盤の目状に形作られ、三つの内の一番広い地下壕の総延長は3.2キロメートルほど、三つ合計の計画は総延長10キロメートルを越える大規模のものであった。同じく規模の大きい松代(まつしろ)の大本営地下壕に匹敵するほど。
- 1944年9月に掘り始め、ひとつは1945年1月に完成した。工作機械が据え付けられ、7月に操業開始したものの、わずか2カ月で敗戦を迎えた。戦後の米軍の調査では、作られたエンジンは10台ほどに過ぎなかったと報告されている。
- 浅川地下壕は1944年9月に陸軍が掘り始めました。使い道は当初、大本営の移転、戦車など、陸軍の倉庫でしたが、移転計画は別候補の長野市松代が選ばれました。11月24日に中島飛行機武蔵製作所が空襲を受けたことにより、工場疎開が急がれ、「戦闘機がなければ戦争に負ける」と主張し、1945年初頭に同製作所の地下工場としての利用へ変更されました。
- 地下壕はイ地区、ロ地区、ハ地区の三か所が掘り進められ、最大のイ地区は1945年1月に完成し、工作機械が運び込まれ、7月から敗戦まで約2カ月間操業しました。ロ地区とハ地区は未完成でした。三つの壕を合わせた総延長は10キロメートル超と言われています。
- 掘削作業は、イ地区とロ地区は富山県の佐藤工業、ハ地区は大倉土木(現 大成建設)が請け負い、朝鮮人労働者、陸軍工兵隊員、海軍工作学校の生徒ら、数千人が従事しました。
- 朝鮮人労働者数は確定されておらず、齊藤勉氏の著書『秘密地下工場 中島飛行機浅川工場』には「佐藤工業500人(家族を入れて1,500人)、大倉土木100人、青木組500人の合計2,100人」とあります。『日本土木建築統制組合』の1945年4月から6月の朝鮮人労務者割当表には「大倉土木200名」と記されており、この頃には佐藤工業のイ地区の掘削は終わっているため、佐藤工業の名が挙がっていないのかもしれません。労働者には娯楽もなく、苛烈な労働条件だったようです。
- 朝鮮人飯場近くの浅川小学校の卒業生名簿には朝鮮風の名前が数人見られたということです。また、掘削が終って帰る労働者には家族を含めて旅費と一時金が支払われたとあります。
- 工作機械はトラックと丸太をコロにして搬入され、その作業には早稲田実業の高校生が当たりました。丸太の上から工作機械が傾いたりして危険な作業だったことが推測されます。
- 「米軍戦略爆撃調査団」の報告書によると、中島飛行機武蔵製作所はここに1200台の工作機械を設置して戦闘機「隼」や「零銭」のエンジンを月に300台作ることを計画していましたが、実際に据え付けが終わった工作機械は330台にすぎず、製造されたエンジンはわずか10個だったとのことです。また、工作機械の8割は「シンシナティ」などのアメリカの有名企業の製品でした。敗戦後、工作機械は米軍により賠償物資として運び出されました。
- 坑内ではエンジン部品が作られ、エンジンの組立ては外の建物にて行なわれたといいます。
- 坑内は湿度が高く、工作機械や部品はすぐに錆び、また、長時間坑内で働く工員の健康を損ない、操業は非効率なものだったようです。
- 中島飛行機は戦後、占領軍より全工場が変換されたのち、富士産業と名称変更しましたが、占領軍の財閥解体により12社に分割されました。戦後8年経って5社によって富士重工が設立され、かつての航空機技術者は自動車の開発に従事しました(富士重工はのちに航空機産業にも参入)。そして、現在のSUBARUに至っています。
浅川地下壕見学会
2024年12月の日曜日、「浅川地下壕の保存をすすめる会」が月に一度開催している浅川地下壕見学会に参加しました。参加者は14名でした。快晴。日が照っているので、寒くはない。
1. ズリ
この積み重なっている石は「ズリ」と呼ばれています。山は岩でできています。坑道を掘り進めるためにダイナマイトで爆破して砕いた石が運び出されました。その砕いた石がズリです。
ズリはすぐ近くの初沢川や付近の土地に捨てられましたが、戦後80年経とうという時、未だにこのように無造作に積まれたままのものが見られます。この場所は坑道の入口近くの空地です。
2. 地下壕にはいるための身支度
見学会の集合場所は高尾駅南口です。(高尾駅はJR中央線と京王線の双方にあり、隣接しています。)坑口まで1.4キロほどの道のりを、途中、数回立ち止まって遠景の地下壕が掘られた山の位置や引込み線やそのほかの地下壕に関連する場所の説明を受けます。その内の一回はベンチに座って20分ほどの講義を聞くこととなります。
写真は坑口付近に到着し、参加者がヘルメットをお借りし、各自長靴に履き替えたり、ライトを用意したり、身支度を整えているところです。近所の高乗寺のトイレを借りることができます。高乗寺は地下壕イ地区の地権者でもあります。撮影者の背後に民家があり、その家の裏にある坑口からはいります。
3. 最初に目にした坑道
坑口からはいるとすぐに、ごく浅く水が溜まっている箇所があります。細い板が置かれたりしていますが、案内人は、それらは踏むと不安定なので、水の中を歩くように勧めます。問題なく通り抜けました。
水たまりを過ぎるとすぐに最初の十字路に行き着きます。坑道マップの上では十字路になっていますが、この坑道は行き止まりだったかもしれません。記憶が曖昧です。
4. 坑道内の表面
さらに40メートルほど進むとふたつ目の十字路に来ます。十字路を右に進みます。
参加者の照らすライトで周囲は明るく見えますが、ライトがなければ真っ暗闇です。横壁も天井も岩盤を砕いた岩の荒々しい表面を見せています。
坑道は幅4メートルほど、高さ3メートルほどです。
5. 坑道の奥へ
奥へ進みます。ここからは一本道で、坑道マップによれば160メートルほど先に次の十字路があるようですが、100メートルほど進むと、坑道は格子状の鉄柵によってさえぎられており、先には進めません。1995年始め頃までは鉄柵の一ヵ所をくぐって通り抜けることができたとのことです。
坑道マップを見る
鉄柵より奥はイ地区のメインと言える場所で、縦横それぞれ8本ほどの坑道が碁盤の目に掘られています。一時期、マッシュルーム業者が栽培場所にしていたという経緯があり、鉄柵が強化されて通行できなくなる以前には栽培棚や木箱の残骸が見られたようです。
また、1974年、大信工業という会社がイ地区を買取り、観光施設「幻の大本営」として一般公開したところ、2カ月間に13.000名ほどの観光客が押し寄せ、危険だとのことで八王子市に禁じられたという逸話もあるそうです。そのメインの工場跡は今は見られないのが残念です。
6. 白カビ
途中、天井に白カビが見られました。白カビがある箇所はごく一部です。坑道内の気温は一年中15℃~16℃とのことで、この冬の日は外より暖かく感じました。天井から水がポタポタと滴り落ちてくる箇所もあり、湿度はかなりのものと思われます。
中島飛行機のエンジン製造の際、工作機械や部品のサビが著しく、毎日サビ落としから始めなければならなかったと言い伝えられています。湿気により長時間労働の工員の健康も損なわれたということです。
7. 来た坑道を振り返る
来た道を振り返ってみました。坑道全体の雰囲気が読み取れます。遠くに光っているのは、案内人が先ほどの十字路に置いてきたライトです。坑道がどれほどの距離かがよくわかります。また、暗闇で道に迷わずに済みます。
ここを大勢の掘削作業者やのちには工場労働者が行き来していたと思うと、ことの重大さにめまいがします。
8. ダイナマイトを仕掛けた方法
ここに写っている棒は長さ140センチほどの竹棒で、岩盤に開けられた細長い穴の奥まで入れられています。穴の奥行きを知るためです。
岩盤をくずすためには穿孔機で細長い穴を開け、ダイナマイトを詰めて爆破します。写真の周辺だけでも数個の穴が見られます。全体ではどれだけの穴が開けられたのか想像もつきません。
9. 砕石が残されています
このあたりでは坑道脇に砕いた石(ズリ)が散乱しているのが見られます。または、のちの落石のあとかもしれません。ズリはトロッコを使って外へ運び出されました。そのために、坑口に向かってごくわずかな傾斜が付けられています。また、今でもトロッコの枕木が置かれていた跡が見られます。
10. ダイナマイトが隠されていた木箱の残骸
1999年に番組企画で訪れたテレビタレントがダイナマイトの木箱がのぞいているのを発見し、自衛隊により撤去されたという逸話があります。木箱は141箱あり、ダイナマイトは3トンもあったとのことです。敗戦間際にダイナマイトを隠すように命令されたという証言があります。
11. 坑道の床面
床面は一部を除き、大部分は平坦で、小石が多くあるものの、歩きやすい状態に整備されています。大半は湿っており、わずかに水が溜まっている箇所もあります。湿度はかなりのものと思われます。
12. 坑道はこちらへも続く
坑道マップでわかるように、あちらこちらで十字路に出合います。ほとんどの坑道が別の坑道につながっていますが、正確にはわかりません。
写真はありませんが、坑道の一角に東京大学地震研究所の地震計が設置されています。山の中は周辺の振動を拾いにくいためにこのような場所に置かれるのだそうです。ただし、月例の見学会では多くの人が歩く振動があるため、見学日程は地権者の高乗寺から地震研究所に連絡がなされているとのことです。
一時間ほどの坑内見学でした。明るい外に出られてホッとしたという感想を持つ方もあるようですが、洞窟が苦手なわたしでも特に問題なく見学を終えることができました。ヘルメットをお返しし、その場で解散しました。
附録:参加者14名の内、案内人を含め4名ほどの人が非常に強力な懐中電灯やヘッドライトをお持ちになり、坑内はたいへん明るく照らされたことが目に留まりました。
地下壕配置マップ
イ地区(高尾山東側)、ロ地区(金毘羅山)、ハ地区(初沢山)の三か所あります。イ地区が最も広く、1945年6月から敗戦まで約2カ月操業しました。ロ地区とハ地区は未完成でした。
[配置図はネットより借用]
[配置図はネットより借用]
1989年、ロ地区で団地開発がなされ、その水道工事の際に陥没が起きたことから、ロ地区の地下壕の存在が確認されました。一部は埋めもどされた模様です。同時にロ地区で私立高校の移転が計画されていた土地にも地下壕が存在することがわかり、移転計画は1993年に廃案になりました。2014年にはロ地区のある金毘羅山が八王子市の所有地となり、地下壕保存への第一歩となりました。
1997年に『浅川地下壕の保存をすすめる会』が発足し、八王子市の指定史跡とすること、平和資料館を建設することを目指しています。会はその目標実現のためにも多くの人が関心を持ち、地下壕を訪れることを期待しているとうかがいました。
坑道マップ(イ地区)
1993年、3月から9月にかけて7カ月間、都立館高校フィールドワーククラブと協力してイ地区の実測調査を実施しました。この坑道マップはその際に作成されたものです。(都立館高校は2004年に廃校になり、同じ場所に都立翔陽高校が新たに開校されました。)
マップ内の数字の単位はセンチメートル
浅川地下壕関連リンク(外部サイトへ)
全国の戦跡地下壕
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